今年1月に主人を亡くしました。 我が家に子供はおらず主人はひとりっ子で、主人のお骨は主人の両親が代々お世話になっているお寺に納骨しています。 主人の位牌は私の家と両親の家の2つあります。 主人の両親の死後は、主人と同じ場所に納骨し主人の位牌もまとめるそうです。 そこに私も死後は入るか?と聞かれているのですが… 主人の両親との折り合いが悪い訳ではないのですが、私の気持ちとしては結婚生活も短かったので、死後は主人と2人だけでどこかに入りたいのです。 ですが主人はひとりっ子ですし、主人も両親を好きでしたし一緒がいいだろうとは思ってます。 それでご相談なのですが、私の死後は私の手元にある位牌と、可能ならば分骨もして2人でどこかに別のお寺に入るというのはできるのでしょうか。 主人の両親は位牌や骨を分けると魂が分かれる、成仏できないんゃないかと思ってるようで反対されます。 分けると問題があるのか、分ける事が無理ならば2人で静かに死後過ごせる術がないかお知恵をお貸しください。
私の勝手なイメージですが、どうにも納得いかないことがあります。 定期的に勉強会があるのは理解できるのですが、その後に必ず親睦会という名の飲み会があり、しかも泊まりです。 親睦会には必ずコンパニオンを入れます。 お坊さん達の飲み会にコンパニオンを入れるのは普通なのでしょうか? 理由はお杓子合うのが面倒くさいから、らしいけれど、単に女好きにしか思えないしちょっと気持ち悪いです。 こちらからすれば、せっかくの親睦会なら自分たちでお酌したら?と思います。 やはり、お坊さんとは言え女の子が好きなのでしょうか?
些細な仏教に関する疑問ですので、どうかお手すきの時にお答えいただけると幸いです。 中高生のころ日本史を学んだ際に、日蓮は立正安国論という浄土宗をはじめとしたほかの宗派を厳しく批判する書を記し、晩年までそれを重んじたと習った記憶があります。 今の時代のお坊さんや日蓮宗は多宗派や立正安国論をどのように思っているのですか?なんとなくこの授業のイメージから日蓮宗は多宗派、宗教に厳しい目を向けている少し怖い宗派、という印象があるのですが実際はどうなんでしょうか? この質問を見た方が偏見に満ちていると感じ、不快になったら申し訳ありません。単純な疑問ですのでお許しください。
疑問に思っていることがあり教えていただきたいと思います。 我が家では祖父の葬儀はお寺で行い、法事もしました。お盆には毎年迎え盆、送り盆を家族でしています。仏壇もあります。 自分の家の宗派も認識していますが、かと言ってそれ以外に仏壇にお線香を上げる等以外は日常で仏教的な事をしている訳ではありませんし、クリスマスを祝えば、神社にお参りする事もあります。典型的な日本人だと思います。 「私は仏教徒です」と言えるのはどういう場合なのでしょうか?逆に無宗教とはどういう状態でしょうか?身内が亡くなった際はどうしているのでしょうか。 仏教の本を読んだり仏像を拝観するのは好きですが、私の場合は無宗教なのか?と思ったりします。
初めて質問させていただきます‼︎ 私はもともと、お坊さんがお経を唱える?読み上げる?時の声が好きで、お坊さんに興味がありました。 3年前くらいに、親戚の家で法事があり、いつものように60〜70歳くらいの住職さんが来られるのかなと思っていたら、若いお坊さん(20代後半〜30代前半)の方も来られて、その方の読経が素晴らしくタイプでした‼︎ 一度、お話してみたいな〜って思ったのですが、檀家でもなければ宗派も違うので、お寺に行ってもいいのだろうか…?と思いながら三年も経ってしまい…でもやっぱり一度だけでもいいからお話とかご挨拶したいなーって思う気持ちがあり…これは行かねば後悔するかも!と思ってます! ○檀家でもない、宗派も違う人間がど田舎のお寺に顔を出すと不審に思われますか…?!(一応アポはとるつもりです)(ど田舎なんです~汗) ○お坊さん的に、読経の声が好きとか言われたら引きますか…?! ○この方に限らず、お坊さんとお喋りしてみたい、お友達になってほしい!と思うのですが、こういう気持ちで行くのは失礼ですか…?! 他の方の質問とかぶってたらすみません!ご回答お待ちしております…!(>_<)
数ヶ月前に父が亡くなり、納骨も無事済みました。 私はお仏壇のある実家ではなく遠方に住んでいるため、自宅に父の写真を置いて、お花を飾り毎朝お水とお線香をあげています。 このお線香をあげて手を合わせる時、心の中で何と言うのが正しいのでしょうか? 家族を見守っていてほしい気持ちもありますが、父がもうどこも痛くも辛くもなく、ただただ安らかに穏やかにいてほしいというのが一番の願いです。 何をするのが、亡くなった人にとって一番嬉しいのでしょうか? また今回のお葬式で、恥ずかしながら初めて自身の家の宗派を知り、住まいの近くに同じ宗派のお寺があったため、月に一度父をよろしくお願いしますとご挨拶をしに行っています。 この行為は失礼にはあたりませんか? 何か意味があるのかは自分では分からないまま、どうしても参拝に行きたくなってしまいます。 教えていただけますと幸いです。
真言宗の掛け軸 私以外の家族は信仰心が薄く、神棚と、棚の上に家族の宗派の仏壇がありますが、 私は真言宗が好きで、念珠も持ってお経も毎日読んでます。 ただ仏様を見て読みたいので 真言宗の掛け軸を自分の部屋に置きたいと思っていますが、ダメでしょうか 棚の上に仏壇なしになりますが…… 本尊様はどの仏様でも良いですか?(個人的にお不動さんが大好きです) また魂入れをやれないのですが、掛け軸に悪いものが入ってしまうのは嫌なので、できないなら、買わない方が良いでしょうか……? やはり開眼供養は必要ですよね……
4年ほど前に付き合っていた女性が自死しました.それをきっかけに僕は精神を病んで入院することになったのですが,それを憐れんで彼女のお母様が彼女の生い立ち,亡くなった時の様子などを教えて下さいました. 昔の詩のフレーズ「死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。」に感銘を受けてできるだけ忘れないようにしてあげようと思ってたのですが,命日だけは自分が辛いからという身勝手な理由で意図的に忘却していました. 幸い命日を調べることが出来たのですが,これからは命日だけでなく月命日も何かしらの供養をしたいと思っています.お母様とはもう没交渉なので宗派,戒名,お墓の場所は分かりません. 希望としては仏像のようなものを作ってクローゼットの中に安置し(彼女はクローゼットで亡くなりました)彼女が好きだった般若心経を唱えたいなと思っているのですが,御坊様方のアドバイスがほしいです. P.S.彼女は境界性パーソナリティ障害による耐え難い苦しみの中で自死を選んだのですが,逆縁を犯したので賽の河原に居るのでしょうか?お教えください.
生後8ヶ月の息子を亡くした母親です。 仏壇に花を備えています。 バラやゆりなどの花も備えています。 幼くして亡くなった息子。 堅苦しくはなく、子どもだからこそかわいく 色んなものを見せてあげたかったから 菊などの仏花にだけこだわらなく バラなども備えています。 話したところ義母に注意され今度見に来るとまで言われました。 お墓などに備えるのは仏花にはします。 だけど仏壇など家にあるものにも昔ながらのルールや風習を取り入れないといけないですか? 自分の故人に対する思いで供える花を変えることはそんなにいけないことですか?
こんにちは。 以前Googleで自分の悩みを検索したところ検索結果にこのサイトが出てきたことがあり、それ以来hasunohaを毎晩のように拝見しています。お気に入りのお坊さんをブックマークしているほどです。 生まれた時から仏教徒で、お盆やお参りなど特に考えずそのマナーに従って生きてきましたが、一方で神や仏、また心霊などの類は一切信じないたちです。 しかしながら倫理哲学の勉強は非常に好きで、現在もっとも興味があります。 きっかけは数年前心身共にとても傷つく出来事があり、以来リラクゼーションやアロマ、音楽など、私生活で自己を労る環境を整えていきました。しかしそれらは頭の中、つまり思想の面では自分を疲労から救ってはくれず、そのとき仏教が自分にとって非常に重要なものではないかと気づきました。(軽率な発言続いており誠に恐れ入ります。。) hasunohaをみているうち、信じるか信じないか、お祈りが届くか届かないか、極楽浄土に行けるか行けないか以前に、自分で自分を生きやすい方向に調整していく、大変学びの多い学問でもあることを理解しました。 長くなりましたが質問したかったことは、仏教を学ぶ上でビギナーの私におすすめできる学習方法を教えていただけませんでしょうか。 下記何でも構いませんので、回答いただけると嬉しいです。 ・おすすめの著書(専門用語が多すぎない、噛み砕いてある、原版の理解にふさわしい) ・近所のお寺に通うことも考えたが、用もないのに門を叩いて説法してもらうことなどはできるのか? ・合宿のような形式で学ぶ方法はあるか。どうすれば受けられるか。ある場合、実家は曹洞宗だが宗派を超えても学習はさせてもらえるか ・↑に似ているが、短期的に修行を受けることはできるか。どのお寺でもできるのか?できるお寺はどうやって探すのか ・その他いい方法があれば 可能ならば僧の方に直に毎日少しずつお話を受ける形式が望ましいですが、自分の周りでそう言った人は見かけないし難しいのでしょうか... よろしくお願い致します。
最近、お坊さんとお話させてもらったり、お話を聞く機会が増えて、SNSでも交流が増えたからなのか、職場の人と会話中、「娑婆」等、お坊さんが使ってそうな言葉を無意識に使ってした。 娑婆とか言うなと言われます。 お坊さんのどこが、そんなに良いの?と言われますが、好きなのは、どうしようもないです。 どうして、お坊さんを好きになったらダメ。と言う人が多いんでしょう?
私が拝んでいる御本尊様は千手観音様(開眼供養済み)で、最近手に入れた釈迦如来様の仏像も秋頃に予定している開眼供養が済んだら崇拝対象にするつもりです。 私の信仰は ・自力でできる功徳(例えば曹洞宗で教えられている「日常生活全てに禅を見出すこと」など)はしっかり積む(それは修行にして生き様であり、見返りは求めないとする) ・自力でできないこと(例えば収入を増やすことはできないが、少ないお金で満足できる無欲さがほしい、怒りっぽい性格を治したい、ここぞという大切な時に運が欲しいなど)は釈迦如来様と千手観音様の他力本願にお頼りする ・釈迦如来様と千手観音様に向かってお題目や十句観音経を唱えるなど という、曹洞宗と浄土真宗と日蓮宗を混ぜたような信仰です。 なぜ曹洞宗かといえば、昔に人が空想で作った実在しない仏様がいっぱい居るという私の予想に対し、確かに実在された仏様である釈迦如来様が御本尊様であること なぜ浄土真宗かといえば、人間の力には限界があり、その限界を超えるには人間を超えた存在の力をお借りする「他力本願」が必要なこと なぜ日蓮宗かといえば、「人はみな等しく仏になれる」という法華経は願いを叶える力があると信じているからです(その体験談を多く知っている) 私の願いは、仏になることすなわち解脱で、穏やかなあの世にスローライフ永住をしながら人々や自然を守りたいです。こんな、あらゆる宗派のいいところを混ぜた信仰の仕方でも大丈夫でしょうか? 簡単に言えば、「曹洞宗」の御本尊様に「日蓮宗」のようにひたすら祈り「浄土真宗」のように他力本願も混ぜる、といったところです。自分だけの仏教ですが、よくよく見てみると天台宗に近いかもしれませんね。天台宗に入信するべきでしょうか? 祈りの内容は主に世界平和に関する自利利他が基準のルールにしようと思います。これでいい、こうした方がいいなどご回答よろしくお願いいたします。ありがとうございました。 (ちなみに現在はほぼ無宗教(というよりオリジナル宗派)ですが、お墓を買うお金が無くて檀家になれないのでお墓は父方の浄土真宗に入ることになります。また、私のオリジナル信仰にかなり近いならば天台宗の信徒になると思います)
初めてこちらで質問させていただきます。よろしくお願いします。 私は現在、大学院で社会学を専攻しているのですが、同時に仏教に対しても強い関心を持っております。今後の人生は仏道を中心に据えて歩んでいきたいと思っております。 現代の日本の政情を私なりに研究した結果、日本の将来には期待できるものがほとんどないという結論に至りました。日本の政治・経済・文化における凋落は民主主義・資本主義体制が崩壊するまで続くだろうと予測しております。 この現状を踏まえて、私が歩むべき道は仏道以外に見出せないと思いました。しかし、日本仏教を信仰するにはいくつかの問題点があるとも感じております。 まず、第一に宗派があまりにも多くどの宗派を信仰して良いか分かりません。様々な宗派の本を読んでは見ましたが、どの教えにも深く納得することができず、悩み続けている状況です。(最近では、禅とテーラワーダ仏教の教えに惹かれております。) 第二に、日本仏教はもはやその求心力を失ってしまっているのではないかという問題です。鎌倉時代など、社会状況が大きく変化した時代には仏教は多大な求心力を持っていましたが、現代では賞味期限が切れた宗派もいくつか存在していると思うのです。(例えば、私の家の宗旨は浄土真宗ですが、個人的には信仰することに困難を覚えます。もちろん、歎異抄などの著作には深い感動を覚えます。)それが、さまざまな新興宗教を生み出す原因になっていると思うのです。 これらの点を踏まえて、私は禅かテーラワーダの教えを学んでいきたいと考えているのですが、同時に躊躇もあります。その教えに賭けて救われなかった時のことが怖いのです。ここに非常な葛藤があります。 結局、私がお尋ねしたいのは「私はどう生きるべきか?どの宗派を信仰すればよいか?」ということです。何かアドバイスがありましたら、どうかご回答下さい。よろしくお願いします。
在宅出家を含む、御説法の聴講生活をしたいと思っています。 私は49歳の会社経営者です。 感謝に堪えませんが、人にも運にも縁にも恵まれ、さしたる苦しみもなく、経済的にも立場的にも自身の能力を超えた日々を頂いております。 しかし、足るを知る生き方も昨今は少しずれてきている事自認しております。 また、恵まれ過ぎた人生だったため、生きる事のままならなさへの受け入れは全く出来ていない自分を自覚しています。 斯様な中、55歳を目途に様々な考え方に触れる人生を送り、自分なりに上記に対する答えを求めて生きてみたいと、漠然と考えています。 (在宅出家と言う言葉がちらつきはじめたのは、もうかれこれ10年近くになろうかと思います) これから着々と準備をしていきたいのですが、 ・どのようなサイトや会で情報を調べた方が良いよ ・一度相談に来れば話は聞いてあげるよ ・何処々々に相談に行って見ればいいよ 等のアドバイスを頂けましたら幸いに存じます。
インターネットで仏教布教や衆生救済にご尽力されているお寺様も多くなってきている昨今、祈祷寺院は世間の目に触れやすくなっているかと思います。 インターネットでの僧侶の露出が増えた結果、従来の檀家制度では考えにくかった、「どのお坊様・お寺様と懇意にするか選択する」ことが可能となっています。 メリットがある一方で「自称・僧侶」という僧籍を持たない、本山に属さない等偽物の僧侶に騙される危険性も否定できません。 (中には、自ら「破戒僧」と主張する方もいらっしゃいますが。) また、友人等から「お寺に行こう」と誘われたら新興宗教団体だったという話もききます。 お寺様・僧侶様が、本物かどうかを確認する方法というのはあるのでしょうか? 神社であれば、神社庁に属しているかどうかである程度の判別はつくと思うのですが(単立は別として)、お寺にはそういった統括組織等はありますか? よろしくお願いいたします。
家の宗派に捉われず、自分個人の考えに合う仏教宗派を求めてグルグルと何周も思考の旅だったり実際にあちこちに足を運ぶ物理的な旅だったりを繰り返してきました。 基本的には僕は称名念仏の徒ですが、それだけで本当にいいのだろうかという疑いのような気持ちがあって、でも禅や密教などできる気もしなくて、それらのスピリットを念仏の中に包含した総合仏教みたいなオールインワン念仏を説く宗派はないかなと思っていました。その候補として浄土宗西山派、時宗、天台真盛宗など考えました。 ただ、ふと思ったのです。仏教宗派はよく登山道に例えられますが、それを一人で網羅する必要はないんじゃないか。オールインワン念仏でなくても、自分の道が称名念仏であるなら他の道を通る時の景色は絶対に見なきゃいけないということはないんじゃないか。 伝教大師が好きなのですが、例え天台宗に入っても法華や禅や密教を自分でやるとは思えず、やっぱり天台宗内の念仏行者にしかならないと思います。じゃあ浄土宗(鎮西義・知恩院)でいいんじゃないのか。 ただ、浄土宗は生きている間の生き方への教えが弱いかなと思うのです。 「現世を過ぐべきようは、念仏の申されん方によりて過ぐべし」ぐらいしか無いように思いますが、平安鎌倉の時代は良くても現代人にはこれだけでは生き方指南としては弱過ぎはしないか。 この点が浄土宗の弱点だとずっと思っていましたが、そこで好意を持っている伝教大師の教えを援用するということを思い付きました。そう、あの有名な「一隅を照らす」。 仏道修行としては浄土宗の念仏しかしませんが、人間としての生き方としては「一隅を照らす」を座右の銘とする。浄土・天台の併修と言えるほど本格的なものではありませんが、この両宗派を菩提宗とした僕の尊敬する徳川家康公のお心にも叶うかと思うのです。 僕が見つけたこの仏道、お坊様方から見てどうでしょうか? なにぶん素人の横好きからの考えですので、未徹在な点があればご指摘ください。
私は特に何かの宗教、宗派に属している訳ではありませんが、初詣などは神社に行くし身内のお墓はお寺にあるし、クリスマスは何となく特別な感じがしてケーキを買ってきます。 こういう状態は海外の人には驚かれるみたいですが、お坊さんから見ても変なことだとかけしらかん!と思うのですか? 私は正直あまり宗教は詳しくないですがそれぞれの考えを聞くとなるほど、と思うこともあってどれか一つに絞って信じるのは出来そうにありません。これっておかしい、いけないことですか?
母を急に亡くしました。急病死でした。まだ60歳手前でした。亡くなる2日前に電話で元気な声をきき、それが最期になってしまいました。 母の優しさなのか亡くなっていたのは自宅のベッドの上でした。 家族は私、妹の2人娘で父は離別していておらず、 私は結婚して、妹は仕事の関係でだいぶ遠方なので母は1人で暮しておりました。 そのため、亡くなったことに気づいてあげるのに1日程かかってしまい、そして何より1人で逝かせてしまった。怖い思い、寂しい思いをさせてしまった、助けてあげられなかった。死に目にもあえず1人で死なせてしまったことをすごく悔やんでいます。 母は悲しんでいるでしょうか? 毎日ごめんねと母を思っています。死を受け入れているつもりでもまだ母から電話やメールがくるのではないかと毎日思ってしまいます。来ることはないと分かってはいるのに。 また、母は離婚しているため無宗派、無縁仏です。 葬儀もお経などあげてもらわずに見送りという形だけで終えました。 そのことも胸につかえ気になっています。 お経をあげてもらわず母の供養になっているのでしょうか。無宗派なのでどうしようもないですが、母はちゃんと成仏できるのでしょうか。 まとまりない文章で申し訳ございません。
突然の質問失礼致します。 お仏壇に亡くなった人の写真を飾っていいのですか? いろいろ自分なりに調べたのですが、意見がいろいろあり、分からなくなってしまいました。 あと、亡くなった人が好きだったタバコに火を付けて、線香立ての中に供えてもよろしいのですか? カテゴリー間違っていたらごめんなさい。
私はどこの宗派に属しているわけでもありませんが、色々な書物を読むことが好きで、高校大学がカトリック系列であったため、聖書やキリスト教関係のものも少し読みました。祖父母は浄土真宗なので、般若心経も小さい頃から暗記するくらい読んで唱えて、大学院では国文学としての密教も少し学びました。どの教えも尊く、かつ興味深いのですが、中でもキリスト教の教えに「思うだけでも罪である」というのがありました。ここでの「思う」は、悪いこと、憎しみを思うことを指します。 確かに、「思う」だけで心におさめられることもありますが、「思」へば、それを実行してやろう(例えば、機会があったら悪口を言ってやろうとか。)という気にもなります。仏教(宗派は忘れてしまいました)にも似たような教えがあって、「良いことも悪いことも、思えばエネルギーがそちらに動いて、そのとおりに物事が進むようになる」とも。 ですので、何かマイナスの考えが浮かぶと「あー、ダメダメ。そういうこと思うのやめよ」と、なるべく自分に言い聞かせますが、なかなか思考はコントロールできないですよね。やはり、悪く思ってしまうこともあります。お坊様方は、自身の心の在り方を、どのように受け止めていらっしゃるのか、修行などによって、我々凡人よりも少し克服できるものなのか、伺ってみたいと思いました。