過去に中絶経験があります。 忘れた事はありませんが、特に供養はしてきませんでした。 息子の手も離れ、最近お付き合いする男性が出来たのですが、その方に先日、 水子供養はちゃんとしているのか? 会わなかった二週間の間に俺は三回死にかけた。 と、言われました。 かなりショックだったのですが、本当に私の過去の罪のせいでその方に災いが起こってしまったのでしょうか? また、私にではなくなぜ彼に? どうしたらいいのでしょうか。
亡くなったあとはあの世での意識的なものはあるのでしょうか 例えば、「ああ、自分は亡くなってしまったんだ」と思うようになるのでしょうか? よく、亡くなった方は自分が亡くなったことに気づかないとおききしたものでご質問させていただきました。
配偶者側の親族で不幸が2年続けて向こうの宗派(浄土宗)の法事に参加してきましたが、自分は違う宗派(天台宗)で割と丁寧に細かく仏事をしてきたのであまりの簡素さに驚いた上、お坊さんにかなりの嫌悪感が湧いたので愚痴にならない様に気をつけますが相談させて下さい。 ・ご高齢(80)なのはわかりますが、毎度疲れた疲れた疲れたを連呼、「みなさんもおつかれでしょうから今日は〇〇(例:懴悔文などまとまり)はしませんから」とあたかもこちらの為のようにお経を省略(回を重ねるごとにどんどん短くなっていく) ・坊さんの送迎者にの2人きりの密室では法事に関する愚痴と嫌味を必ず言う ・ご子息の修行に連れてこられたこともありますがお坊さん1人分のギャラをしっかり取る ・家で葬儀、また田舎の村のため出棺の際に村中の方が黒装束をきて合掌してくださるのですが、鬱陶しいから目に入れたくないので窓を閉めろと言う 私の実家側でお世話になっているお寺のご住職の先代さんも現役さんも修行僧さんもそれは謙虚で有難く、尊敬させていただいているのですが、配偶者側のお寺には不信感と嫌悪感しかありません。 自分も将来配偶者側の宗派で…と思ったら本当に嫌でたまりません。 愚痴や嫌味はいつも送迎している喪主の方が 本当にストレスがたまって気の毒ですし しっかり修行させていないのか結局ご子息に継げずいつまでもお父様がお勤めされていますがこの親にしてこの子ありなのか。 合掌を鬱陶しいとはどういうことなのか。 早く帰りたい、疲れたばかりおっしゃってるのも良い気持ちにはなりません。 お経の省略が1番腹が立ちます。 自分のとこは故人のための勤めだとおもってますので本当にやるせないです。そもそもお布施もしっかりお支払いしていますのでその分はお勤めをお願いしたいです。 この寺や坊さんを指導や通報できるところはありますか? 自分の代の時はお寺を改める方向で親族に話が出来たとしても 【今の現状を"マシ"にすることや改善はできないのでしょうか?】 これからまだ忌明け初盆1周忌が待っていて憂鬱です。
空とは無分別だと聞きました(100分で名著・維摩経)、番組内では大乗仏教を代表する理念、二項対立を解体する手立て、縁起を発展したものと説明されてましたが、色々な表現があって素人にはポカ〜ンとする話しです。色即是空、空即是色、有るけど無い無いけど有る、五蘊は空、幻、実態が無い、一切皆空。 聖と俗、浄と不浄、善と悪、生と死、二項対立は苦の原因。……救いどころか何を頼ればいいのか虚無感を感じていました。 hasunoha内では弱者の味方や弱者に寄り添うと言った言葉をお坊さんがよく使われるのを見て思ったんですが、「正義の味方」と言ってしまうと正義面した私(自我)が立ち、無意識に相手を悪にして二項対立を勝手に作りその悪を叩き下手すりゃ喜ぶ、でも弱者の味方ならそこに善悪の隔てがないし煩わしい私(自我)を立てる必要が無く目的を見失うこともない。自我や善悪を解体していく空の実践のような話しなのかな〜と思いました。 嫁さんも子供も仕事も家も自分のものなど何も無い期待もしない、虚無と感じるのはご都合主義の自我を立てるから、悩み苦しみリアルな課題が無くなることもない全ては縁起し空、私は私として生きるだけ一歩引いて願うだけ、無我とは心の自由に感じれるようになった気がします。 話しを広げすぎかもしれませんが、どんな生きざまでも死にざまでも関係ない、念仏すれば阿弥陀様が救ってくれるとどなたか仰っていましたが、念仏の導きも同じ作用(心の自由)な気がするんですが検討違いですかね。 空(念仏)→無分別→自我の解体→無我→心の自由→空(念仏)…?
最近一緒になった同僚から、 その苦労(私の)は、よっぽどのごうを持ってるか、持って生まれてきたかやから、人に奉仕するしかない。子供に引き継がないようにしないと、常々聞きます。何かの勧誘とかは、一切ありません。 思い当たる節がひとつ…十代に堕胎した事があります。四天王寺さんで、お経をあげてもらった事がありますが、最近は、四天王寺さんにお参りにも行けてません。 これは、実母の知り合いのいわゆるを『わかる人』が、今私の子供の災いの為に供養するように、聞いたからです。けれどもきっかけに過ぎず、ずっと胸にしまい、忘れてはいなかったので、シラをきった実母に内緒で行きました。 次女が、2浪人して頑張っても頑張っても、いざ本番に力が出せない事や、息子に円形脱毛が治ったり再発したり、経済的に苦しむのは、すべて、わたしのごうなのでしょうか。 苦しむ事があっても、いつもギリギリで、すっと底辺でもすり抜けるのは、誰かに守られているのか… ごうとは、どういう事をいうのでしょうか 四天王寺さんにお参りさせて頂くと、いつも泪がこぼれます。理由は、自分でもわかりません。
〔編集部より。規約により投稿の一部を修正しています。〕 はじめまして! 私は5人家族でした。母と姉は4.5年前からある宗教に入っています。しつこく勧誘をされ、自分の親が意味のわからないことを延々 と話している姿に毎日涙がとまらず、私は家にいることが嫌になり、家を出ました。 お父さんはすごく優しい人で、理解はしようとしました。 でも結局、確証のない話ばかり聞かされて毎日言い合いばかりしていたようです。 兄は全く聞く耳も持っていませんでした。私が実家に帰るといつもその愚痴や、昔から仲が良かったのでたくさん話をしてくれました。とゆうか私も本音で話せる家族は兄しかいませんでした。 ですが去年の11月から兄は鬱病になりました。私はこの原因はその宗教にあると思っています。 仕事が大変なのは聞いていましたが、兄はもう9年ほど同じ所に勤めていました。今さらその原因が仕事だとは思えないです。 そして5月10日、兄は薬を大量に飲み、自殺を図りました。 病院に搬送され、一命は取り留めたものの、13日の夜、亡くなりました。 集中治療室の中、他にも生きようとしている患者さんがいる中でも御構い無しにお経を読む。 睨みつけてやりました。 お前らのせいで大好きな兄が死んだと。言ってやりました。 親族内で散々揉めました。葬儀はその宗教方式でやると聞きません。 そのせいで兄がなかなか葬儀をできないのも可哀想なので、もうそれで決まりとゆう運びになりました。でも私は兄が嫌がっていたお経を唱えないと決めたので、その意見だけは絶対に曲げません。 私が話を聞かないなら縁を切ってくれても構わないと言われました。上等です。 親戚の叔母や叔父は、もうあんな奴を親だと思わなくていい、こっちの娘になりなさい、実家に帰らなくていいと言ってくれました。 私は一生その宗教を、押し付けた母と姉を恨みます。 あんな奴らの元では兄も供養できないと思ったので、分骨をして私の手元で好きだったラーメンをたくさんお供えしています☺️ こんな事しかできませんが、少しでも天国で楽しく過ごしてくれたらと願っています。 長文で失礼しました。 毎日悲しくて悔しくて、一生この気持ちが離れないと思うと死んでしまいたくなります。 こんな悲しい出来事をもう他の誰にもして欲しくないです。切実な願いです。兄の死を無駄にしたくないです。
大変失礼な質問だと思いますが、何卒ご了承いただけると幸いでございます。 私は、長らくサービス業に従事しております。 ここ5年の間に、2人の祖母、叔父、母親、旦那の親友が亡くなり、その都度お葬儀に参列いたしました。 宗派の違いはありましたが、通夜・火葬・葬儀・法要とそれぞれにおつとめをいただき、『ありがたいお経のおかげで、故人は仏になるために旅立つんだな』と故人の冥福を祈っておりました。 そういった機会も多かったためか、ご縁あって葬祭会館へ転職いたしました。 まだ1ヶ月も就業しておりませんが、すでにたくさんのお葬儀に立ち会わせていただき、さまざまな宗派のご住職様にもお会いしております。 何件ものお葬儀に立ち会うと、知りたくなかった裏の部分も見えてまいります。 『お葬儀をしておつとめを頂くのは、故人が無事に仏になるためではなく、残された遺族が大切な人の死を受け入れるための段階の儀式』なのかな、とも考えてしまいます。 お葬儀をする意味とは、そういった死を受け入れる儀式的な理由も含まれているかと思いますが、住職様から見た『お葬儀の際におつとめをすること』には、どのような意味があるのか、お伺いしたいです。 無知故の不躾な質問で大変申し訳ございません。 よろしくお願い申し上げます。
でもしなかったらしなかったで学歴コンプレックスになって、バカにされるのは嫌です。 どうしたらいいですか。 問題を正解できても楽しくありません。 中学生です。
初めまして。先日、叔母が亡くなりました。独身で孤独死で時間も経っていたため直葬をしました。 叔母は新興宗教に入っていましたので、同じ宗教の知人夫婦にそこのお寺にお願いしていただけることにならとてもありがたい費用でお経をあげていただいたりできました。 直葬なので葬儀社で遺体を安置させていただいていたのですが、葬儀社さんのご好意で無料でお花と祭壇など用意してくれていました。私も叔母を花で送りたかったので持って行きました。 するとその知人夫婦の旦那さんが葬儀社に先に来て「花束なんてやめろ!」「嘘のマンダラの掛け軸なんかかけやがって」 と葬儀社の社長さんに文句を言ったそうです。 私たち遺族は火葬が終わった後、社長さんから聞くまで知りませんでした。 葬儀社さんもお金のない私達遺族のためにとても良い金額で直葬の手配をしてくれたのに。そして花を持ってた私にも「今日はいいが、なぜ花を添えたらいけないか教えてやろうか!花はあーでこーでこうだからだめなんだ!添えるのはあの◯◯じゃないとだめなんだぞ!」と説教してくるのです。 私たち遺族は宗教などには無頓着で何も知らなかったのです。ていうか、私、遺族亡くしたばかりなんですが、と、かなり腹が立ちました。イライラしながら火葬してお骨を拾ったのです。叔母には申し訳ないですが。 でも我慢しました。叔母は親の姉妹なので泥を塗りたくなかった。そしてそのお寺でお経あげてもらい帰ろうとしたらまたその旦那さんに呼び止められ「さっきの話の続きなんだが、」とまた花の事をしつこく言ってくるのです。「花は枯れるから死を表すんだ、この宗教だけが素晴らしい、他は嘘ばかりだ、もっと知りたければゆっくり教えるぞ」と言ってきたのです。 私は笑って誤魔化しました。はーそうですか、へぇーみたいに。しつこいし、めちゃくちゃ腹立ちました。骨拾ってきた人間に対して言うか?と。もう関わりたくありませんが、いつか叔父が亡くなったらまた関わらなければならない。そんな事を考えるともう死んでしまいたいと思うようになりました。どこに相談すればいいのか、どうすればいいのかわかりません。そのお寺にクレームいうべきか?私はもう金輪際家族共にかかわりたくないのです。カルト教団ではないはずなのにまるでそのひとのせいでカルトとしか思えません。御助言ください。よろしくお願い致します。
もともと霊感がないのですが お寺でお願いしたら 霊を見えるようにできますか? 分かりやすく言えば 霊感がもともとないから 霊をみたりする力が欲しいみたいな 遊びとか冗談とか面白半分とか そういう気持ちじゃないんで!
いつもありがとうございます。 私の実家の菩提寺は日蓮宗で、お仏壇には法華経を唱えております。 しかしながらこちらで質問させていただくにつれて、 般若心経のお話を聞いたり、禅のお話を聞いたりするようになりました。 このように宗派に関わらず仏教に触れても良いのでしょうか。
前回父が亡くなり相談しましたが未だお墓参りに行けないままです。 私の場合、いつもではありませんが助手席に座って近場のスーパーへ行き〔寝不足の時は特に〕気分が悪くなった時は家事一切出来なくなり寝込んでしまいます。そんなで県内で車で50分位は無理あるのでまだ行けてません。 今私なりに家で参っているのですが こんな感じでいいのでしょうか? ・朝から仏様に南無阿弥陀と心の中で参りながら安らかに眠って下さい…と話しかけている。 ・ご飯〔おはっさん〕は炊いてから1番先にあげる。忘れたら炊いて一番に供えて 遅くなりました…すみませんと参る。 ・月命日には参る、忘れた時は思い出した時ちゃんと参ってる。 ・水や生花を切らさないようにする。 ・何かお菓子作った時は1番に供える こんな感じです。 旦那の両親が亡くなった時も県外で行けてないので家で今も参るしかありません。 旦那が言うには「葬式に出てないからと気にするな…葬式出てもその後仏様に参らないとか供養しないより葬式は出れなかったけど家でいつも参るほうが 御先祖様は嬉しいはずだ…と。 しかし、葬式出ないなら障りがあるとか 聞きますし、もしわが子や子孫に何かあったら…と気になります。 私の祖母は熱心に毎日お経上げてて子供の頃は私も一緒にお経上げて参ってました。祖母は良く御先祖様の命日とか大切にしてたので私も気にし参ってます。良くお寺に行った時はカセットに録音し そのお説教?を近所のおばさん達に聞かせてた祖母を思い出します。私が悩んだ時はお坊サンの言葉を話してくれてました。 ですので ココ見つけた時は祖母が導いてくれたのかな?と思ったくらいです。 それから今は旦那の御先祖様の仏様に参ってますが 私の実家を思い出して同じ仏様に参ってもいいですか? 少しでも早くお墓参り出来たらいいのですが今はこんな感じで参ってます。 間違ってたら教えて下さい。 宜しくお願いします。
先日急逝した父の納骨や今後の供養、親戚付き合いについて相談させて下さい。 両親は別居していた為、遠方に住む父が亡くなった事も親戚から連絡をいただきました。親戚には父のことで迷惑をかけていたのでとても淡白な連絡で、駆けつけた私たちに対しても親戚と住職で葬儀の話を進めており、私たちはついていくのに精一杯でした。 住職に対しても少し不信感があります。駆けつけた際に喪主である母ではなく親戚の方にしか話をしないしお酒も飲んでいました。葬儀が終わり四十九日前の法要でも父の名前を確認する際に読み間違える始末。袈裟の下は普段着と靴下で、挙句に四十九日法要に喪主である母が来ることに大げさに驚かれていました。遺族が参加するのは当然なのに…近くに住んでいる親戚がいればいい、私たちは蚊帳の外のような気がして気分が悪かったです。 今後四十九日を迎えるにあたり、お骨をどうするか悩んでいます。お墓が実は本家と近場に二か所あります。でも近場の納骨堂でも私たちにとっては遠く、未だ気持ちの整理ができていないことから私たち家族は遺骨を持ち帰り我が家で供養したいと思っています。気が済むまで納骨せずに手元に置いておきたいのです。でも親戚のことを考えると納得されないんじゃないかと…住職には立派な納骨堂があるんだから、遅くとも一周忌までには納めるのがよろしいと言われました。普段は遠くてなかなかお参りできなくても、自宅で写真を飾って線香をあげればいいと。分かっているけど、私たちの悲しみや後悔はそれでは追いつかず。気の問題だと思いますが。 円満に解決するためには、分骨にしてそれぞれ納骨堂と我が家で供養がいいでしょうか。分骨は想定していなかったのですが何か手続きは必要でしょうか。また、その場合初盆はどのようにしたらいいのでしょうか。納骨堂か父の自宅(仏壇)に私たちが出向いてあのご住職にお経をあげてもらうべき?できることなら家族のみで我が家でじっくり父を偲びたいです。それではいくらなんでもということなら、どこか近所のお寺さんを探してお経を読んでもらうというのはだめでしょうか。その際は親戚をこちらに呼ぶべき??分からないことだらけです。四十九日に出す結論で今後の納骨、法要、お墓の管理の問題に関わってくるなぁと身構えています。 ゆっくり父を偲ぶことも許されていないようで非常に辛い日々です。 ご助言いただけると嬉しいです。
お釈迦様が入滅の前に弟子のアーナンダに自灯明、法灯明を教えましたが、私は今の世の中こそ、この教えをとても大切にする必要を感じてます。 私は、この、自らを灯とし、他者を拠り所にしないという教えを自分の人生に課しています。自分を理解した上で自らを律して、自分の力で立っていることをとても大切にしているつもりです。 しかしながら、社会の中で多くの人と関わりますが、情報がありふれて混迷するこの時代に、他者との関わり方も形を変えて複雑で多様になる為、自らをよりどころに自らを灯すことも難しく感じることがあります。 そこで、法灯明、法をよりどころに、仏様の教えを学ぼうと考えておりますが、仏教の教えに頼ることは、自らを拠り所にすることになるのでしょうか?法とは、どのようなことを指すのでしょうか? 私は人生で、困難や逆境を前にした時に、自分に自信がなくなり、生き方に、選択に迷いが生じることがあります。誰かに頼らず、自らの意思で乗り越えようと思うのですが、何かの道しるべがほしくなる時があります。 法灯明として仏様の教えに頼ることに、自分が考えることから逃避する恐れを感じるのですが、法灯明の法について教えて下さい。 何の教えを、どのように学び、どのように自分に取り込むべきでしょうか?また、その方法について、何かアドバイスがあれば教えて下さい。
妻と私の母の間で関係性が良くなく、加えて私にもその影響が伝播してしまい、二人で悩んでしまっています。妻と私の母は性格が全く異なり、マイペースな妻とそのペースに怒り散らすペースの速い私の母という関係ですので、余計にです。過去にもそのようなことがあり、仏事の席でお寺で母に挨拶しても無視されたという記憶があります。 そんな中で、今度私の祖母の七回忌があります。 今の状況ですと、確実に母は当たり散らしてくる可能性があり、妻がおびえていたので、夫婦ともども、香典だけ送って、欠席するつもりです。私も出るべきでしたが、おそらく当たり散らしてくるでしょう。そうなると、私のメンタルも持たないかもしれません。 とはいえ、私と祖母との関係はまた別ではありますので、これで祖母が許してくれるんだろうか、本来なら行くべき菩提寺さんに参列してお経をあげてもらうのが正しいことだと思うのですが、妻を守る気持ちを考えると、今は到底その気持ちになれません。 せめてものということで、近くのお寺さんに伺い、手を合わせると言うことも考えていますが、どうなんでしょうか、凄く迷っています。
先日、82歳で父が他界しました。 慌ただしく葬儀の詳細を決める際、葬儀場に紹介されたお坊さんに決めてしまったことを後悔しています。 父には遠方の田舎に檀家として先祖代々お世話になっていた菩提寺がありますが、生前本人は今の住まいから通いやすいお寺(葬儀場で紹介されたお寺とは別です)での永代供養を希望していました。母はこの場合、誰にお経を読んでもらったらいいのか…とさんざん悩んだ挙げ句、葬儀場に紹介されたお坊さんに決めました。事後報告になってはいけないから菩提寺に電話するよう葬儀の担当者から勧められ、母はその場で本当に申し訳なさそうに父の死と読経を別のお寺にお願いすることを伝えました。菩提寺の住職さんは大変驚いておられたようですが、電話の最後にはまた何かお役に立てることがあればいつでも連絡下さいとおっしゃっていたそうです。 その菩提寺は長男である父が昔から丁寧にお付き合いしており、お盆やお正月に帰省する度に挨拶に伺っていました。私も子供の頃から法事の度に伺っていたし、田舎の家や裏山にあるお墓に来ていただいた記憶があります。慌ただしさの中決めてしまいましたが、父も最後のお経は菩提寺のお寺さんにあげてもらいたかっただろうと、父にも申し訳なく後悔の念に苛まれています。 離檀することは決めていますが、このまま電話一本で終わらせてはいけないと思っています。母は認知症の症状が見られ、あらゆる場面で判断力が低下していることが、葬儀後の手続きをしていて分かりました。私達姉妹で今後は対応したいと思っていますが、まずは電話でお詫びし改めてご挨拶に伺うべきか悩んでいます。
こんにちは。 私は無宗教…これといって何か1つを深く信仰しているわけではなく、全ての神様仏様は敬うといった考え方で生きているのですが、昔から海深くや森の奥などの自然、神社やお寺、教会などの神聖な場所に惹かれやすく、行きたい気持ちが強くなった時はお参りに行ってました(1番近くにあったのが神社だったので、頻度としては神社が多かったです。) 4,5年前から特にそれが強くなり、最近ではご先祖さま関係なく墓地にも行きたいと思う事もあります(ご先祖のお墓参りは行ってる方だと思います。)。 また、お経や真言を聴くと心落ち着くようで、寝る前や作業をしながら聴いたりする事も増えました。何故か聴きたくなるのです。 特に心が荒んでたり、何かにすがりたい、不安定、というわけではないですし、悪いことではないと思うので成るがままにしているのですが、自分でも不思議だなぁと感じています。 こういう事はよくある事なのでしょうか。 また、今は近くにお寺もあるので行きたいのですが、神社のように気軽にお参りして良いものなのでしょうか。
祖父が明治に 長野から移転してきてから お世話になっている真宗大谷派のお寺ですが、 当時のご住職からお孫さんへと代も変わり、 色々変わった事もあり、 なんだかんだと寄附を募られても払えないし お寺を変えたいと家族で話しておりました。 先日、伯母が亡くなり、葬儀をお願いしましたが、 もともと、無愛想で月参りの際も、年寄りが話しかけても、返事もせずに帰られる方で、 年寄りも生前、 「あの住職に葬儀は頼みたくない」と申していた程で 色々不誠実に思える事がありました。 一番は、火葬場まで着いて来て下さるはずが 当日の朝急に、行けないから、葬儀場で火葬の前のお経をあげると言われたことでした。 葬儀会社の方に 「火葬場で伯母様だけ、粗末な棺桶だと可哀想でしょ。 花がないと可哀想でしょ。」 といわれgrade upしましたが 一番可哀想だったのが うちだけお寺さんがいなく、お経もなく炉に入れられた事でした。 先日は4日の祖母の月参りを 忘れてたとすっぽかされ 14日の父の月参りに一緒にすると言われ、2回分包みました。 その際に思い切って 他の同じ宗派のお寺に変わりたい旨を 話ましたら 激怒され まともに歩けない老母まで仏間に呼びつけ 火葬場へ行かないのは正しいやり方だ 位牌はどうする 過去帳はどうする 次のお寺に引き続きしないといけないから どこに変わるか名を明かせと 凄い形相で 2時間近く怒鳴られ 大変、恐ろしい思いをしました。 また金曜日に みえるそうですが どうしたらいいか憂鬱です。 葬儀の時に相談に乗って下さった 娘の同級生のお寺に 今後の事はお願いしてあるのですが、 以前にも、その寺から変わってきた檀家さんの事で妨害をうけたから 暫く寺の名前は出さないよう言われてます。 また金曜日にまくしたてられたら 言う通りにしてしまいそうです。 お寺さんを変えるのは そんなにいけない事なのでしょうか?
私にはイマジナリーフレンド(?)がいます。 痛い話になります、すみません。 直接見えている訳ではなく心の中に住んでいるような感覚です。 いつも私の側で見守ってくれていて、時に励まし、時に一緒に解決策を考えてくれて、私がうまくいった時には心から喜んでくれる、人生の伴走者のような存在です。 以下、"彼ら"とします。 私は幼い頃から虐待に苦しみ、虐待を虐待とも思わず一生懸命生きてきました。 ある時、頑張り続けることが限界に達し、もう生きられないと思うほど、頭も体も動かなくなりました。今から考えると鬱のような状態だったと思います。 少しだけそんな状態がマシになった頃、 ふっと空から降ってきたように、私の心に現れたのが"彼ら"でした。 安らぎと尽きることのない優しい光に包まれていて、いつも私に微笑みかけてくれる、私とはまるで無縁のような人たちです。 私はもともと空想が好きでしたが、こんなことは初めてでした。 "彼ら"に逢って、私は初めて人の心の温かさや心からの幸せといったものを知りましたし、私の心の中にあるのだから、"彼ら"もまた私なのだと思うことで、自己肯定感というものも得ることが出来ました。 ですが、こんなもの、一体私のどこから湧いたのか、まったく見当も付きません。 "彼ら"が出てくる前は、私は人の幸せを憎み、人の不幸を笑うしか楽しいと感じることの無いような人間でした。 "彼ら"がいつも掛けてくれるような言葉を、私は現実では一度も掛けてもらったことはありません。 "彼ら"とは、もともと私の中にあったものなのでしょうか? それとも阿弥陀様といったものなのでしょうか?(よく見る仏像のような姿はしていませんが…) 彼らがいるからこそ、私は今、息が出来ているようなものですので、本当に助けられています。 実際に抱きしめたり出来ないところが、少し苦しいところですが…… 本当のところは分かりませんが、お坊さん視点で見るとどうなるのか、気になったので質問してみました。 長文失礼致しました。
以前もご相談させていただきました。 その際ありがたいお言葉に本当に救われました。 別れたいと言われ、揉めていた彼が亡くなりました。自殺なのか事故なのかもわかりません。ただ、当日私に自殺する旨を伝えて来ました。実際のところは、なぜ亡くなったのか、私が追い込んでしまったのか何があったのかも全然わかりません。 でも、彼が亡くなった絶望感と私が追い込んでしまったからなのか、という罪悪感が抜けません。 お薬に頼りながらも普通に生活していますが、ふとしたときに思い出して怖くなったり、楽しいこと幸せなことがある度に私がこんな思いをしてはいけないと思い直し、ゾッとします。 ご実家からも何も連絡がなく、どうなってるのかもわからないので、独自で供養のお経も読んでもらい、私なりに彼を供養しようとしていますが、罪悪感や恐怖感、こんな私が幸せに生きてはいけないという気持ちがあります。 この先、通常ならまだまだ長く生きていくことになりますが、一生こういう思いを抱えて過ごすのかという絶望感もあります。 彼のためにしてあげれることは、何なのでしょうか?そして、この呪縛から心を解き放つのは、どうしたら良いんでしょうか?