いつもこちらではお世話になっています。 定年退職まであと少しのアラ還おじさんです。 最近急に老いを感じるようになりました。生老病死の老に苦しんでいます。ここに来てもうこんなに年をとった、と後悔ではありませんが愕然とします。 体力、気力の低下だけではなく、アラ還と言う焦燥感、職場での若手の活躍と焦り劣等感、世の中の動きについていけない、等書き切れません。 実際に定年退職したあとは再雇用制度を選択する予定ですが更に疎外感が強まりそうです。 今のところ家族ともお陰さまで健康面で大きな問題はなく、経済的にも問題ありません。 自灯明法灯明を模索し何を目標にすれば良いのか、生き甲斐にすれば良いのか、まさに迷走中です。 アドバイスをいただけると深甚に存じます。
大切な人を昔亡くしました。そのあと私は死に対して経験しています。幸せとはなにか?わからずに生きてきました。 結婚することか?子供を産むことか?生きていることか? 私自身が人生を終わりにしたいと思っているため、結婚しませんでした。自分が子供を産むことも望むことも許されません。許せません。寂しいと思いながらいつでも終われるように家族を作らずにいます。 人を大切にすることで生きる価値を見いだしていたのだと思います。今でもそうです。 大切にしたいと思いながら結局は、人は裏切り裏切られ、傷つけ傷つけられる人生なのでしょう。それでも一緒になりたいという人と一緒になるべきか、独りで生きていくか? 恵まれた環境のなか、自分の価値がわかりません。一緒に居たいと思う人はもういない。 でもずっと独りで生きていけるか? 誰でもいいのか? このような考えで生きている私にどうかアドバイスを下さい。
今朝、目覚めてすぐに、 「私は今まで何をして生きてきたのだろう」 と頭を過り焦燥感に襲われました。 こちらに最初に相談させて頂いた時に、今年心折れる事が続きどうすればいいのかとネット内を彷徨う内に、斉藤一人さんや小林正観さん、ホ・オポノポノ等々を知り、そこから派生して、心理カウンセリングやスピリチュアル系の記事を読むようになった事をお伝えしました。 それらに何度も頼りたくなったのですが、完全には信用出来ず、入り込まずに無料メルマガを読むに留まっています。 それらは総じて、「潜在意識が自分の世界を創っている」というもので、その潜在意識を書き換えれば、自分の望む人生を創っていくことが出来るというのです。 ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」という著書が一番の大元なのでしょうか、分かりませんが… 今の自分について言うと、家があり主人が居てお互いに仕事を持ちお金も多少はあり、生きていくには充分に足りている生活をしています。 ただ子供が居ないことについては、長い間、寂しさを消す事が出来ませんでしたが、やっとここ数年で諦めが付いた処です。 子供が居ない分、両親に対して時間やお金を使って喜んでもらえる事が自分の喜びでした。 特に、仲の良かった父とは一緒に居られるだけで楽しく幸せでした。 その父は他界し、母だけとなった今、それまでと同様、母に喜んでもらえる事を考えたり行動したりすることに幸せを感じています。 しかし、そのような幸せとは別に、物質的環境的には事足りているのに、何故か心が満たされません。 特に、スピリチュアル系ジプシーになってからは強く感じるようになってしまい、本末転倒です。 2回ほど、こちらで相談させて頂いた事により、苦悩からは解放されつつあります。 お蔭様で、姑の件は心を落ち着かせることが出来、感謝に堪えません。 以前から薄々感じてはいたのですが、人生を振り返ったとき、自分自身何を残してきたのか何をしてきたのか、という事が見えず愕然となります。 仏教では、「相対の幸福」に対する「絶対の幸福」が「真の幸福」である、というのだそうですが、「絶対の幸福」とは何か、またそれをを得るにはどうすればいいのかご指南頂けますでしょうか。 心の持ちようであり、自分は感謝と幸福に包まれている、というのは頭では理解出来るのですが、正体のない何かが拭えず困惑しています。
おはようございます。今あるお経は 昔誰かが作ったものですか? 今お経って作ることは可能でしょうか 今の仏教って 昔の方がきづきあげたもので間違えてないですか? 今現在の方は 本当に頭がよく 暮らしにしても より良く暮らせる 時代になってます そんな 素晴らしい方が沢山いる 現代なら 昔より 素晴らしいお経が出来上がるのではと 思うからです。 後、霊が存在するかと同じくらい 気になる事があるんですが 今は、少し落ち着いてますが 目眩や 難聴で 苦しんでいて 病院に行こうが薬を飲もうが 改善かされなくて そこで 気功って 霊と同じくらい 不思議で 目に見えるものではありませんが認められているんですよね? 効くかもしれないと思って、、、行ってみようか 悩んでるんですが 気功は信じてみていいと思いますか
私は若白髪がたくさん生えているのですが、彼が気になって仕方が無いのか、全部抜く!と言って聞きません。 ついこの間も髪を染めてみたのですが、白髪の部分だけ金髪になってしまい、それを抜くと言ってブチブチと抜かれてしまいました。 とても痛いのです。 どうしたら、彼は私の白髪を抜かなくなるでしょうか?
過去の罪は消えません。 自分で蒔いた種は、自分で刈らなければいけないことも分かっています。 毎日お経を唱えると共に、過去の罪を懺悔しています。 今、自分にできる事を一生懸命することで、良い種を蒔く事で、運命を変える事ができるというのは本当でしょうか。 最近よく読んでいる、仏教に関した本のいくつかに、そう書いてありました。 また努力をしている姿を、仏さまは見ていて下さいますか。 そして、自分が救われたいと思いながら努力する事は、いけない事でしょうか。 まとまりの無い質問ですみません。 どうぞよろしくお願いいたします。
はじめまして。猫かぐらと申します。 さっそくご質問させていただきます。 お釈迦様は輪廻転生から解脱されたとのことですが、前世を覚えている子供たちが世界中にいて、実際に前世としてその個人が存在していたという確証までとれるケースがあると聞きます。 仏教の概念では、生まれ変わりという意味での輪廻転生はあるという姿勢なのでしょうか。 もしあるのだという姿勢なのであれば、輪廻転生から解脱されたというのはどのような意味があるのでしょうか。 また、生まれ変わりとは、未熟な者が成長するために人生を一からやりなおすということなのでしょうか。 そうだとすると、この世は学校や道場のようなものなのでしょうか。
見つけてくださいまして、ありがとうございます。 私は昔から第六感が少しだけ強いらしいです。それゆえなのか、普通の人には見えない人や動物を見たり、声を聴いたりします。 今、うちに普通の人には見えない方々がかなりいます。 幼い子供も、大人も、ずっと昔の人もいます。なかには、話しかけちゃいけないような人もいます。彼らはただいるだけで、悪さはしません。(かわいいイタズラをする人もいます。)私自身、彼らがいることについてはなんとも思いません。いたいならいればいい、いたくないならでればいい。そんな感じです。 彼らは、心の中になにかしらの問題があり、苦しんでいます。彼らは本当は優しくて楽しい人のようにおもうのですが、今、彼らは心の中の何かがチクチクして、怖い人になっています。 お坊さんでもお寺関係者でもない素人がお経をあげてもよいのでしょうか。お経をあげたお坊さん独特のお経を読むときの声であげたほうがよいのでしょうか。 今、新生活で疲れがたまってしまい、なかなか彼らとお話できる体力がありません。前までは、ちょいちょいお話ししたりお茶を飲んだりしていました。 私ができることならば、無理がない範囲でやらせていただきたいです。
大きな悪行でなくても良くないこともやってきました。そんな人間でも仏様の前に行き全ての今までの悪い行いを話し悔い改め仏様の前で祈ることは許されるでしょうか? このくらいはいいだろうと思うような悪い行いも今思えばどんなに小さなことだろうと良くないと思うようになりました。仏様の前に行くことは許されるでしょうか?
自分が持ったエネルギーをどこに使えばいいですか?
十年来の悩みを解決するためにあちこちの寺社を巡り、現世利益を説かない浄土真宗(現生十種の利益というのがあるのは知っていますがそういうのじゃなくてもっと即効性のある即物的な現世利益が欲しい)を辞めてまで理想の宗派を探している者です。 ただ、割と現世での救いに力を入れて説いていらっしゃるイメージがある日蓮宗のお坊さんに聞いても「現世利益とは久遠本仏を悟り安らかさを得ること」という答えだったので、ちょっと仏教における現世利益を根本から考え直さなければいけないのではないかと思ってしまった次第です。 歴史的に浄土系は来世にしか救いがないと批難してきたはずなのに日蓮系自慢の現世での救いも心の安らかさを得るだけなら浄土系と五十歩百歩ではないのか(阿弥陀念仏だって心の安らかさは得られますから)。 結局のところ仏教における現世利益ってどこの宗派も「直接的に奇跡が起きて悩みが解決するわけではないが、心の持ちようで悩みが軽く感じられるようになる」程度のものなのかと思えてきました。このあたりのお坊様方の現世利益の捉え方(具体性の程度)をお伺いしたいです。 仏教に願いを叶える現世利益は無いとまでは言い切れないでしょうが、自分の努力で一進一退を重ねても最後の決め手に欠けるという時にずっと傍観していた神仏が最後の一手だけ手を貸してくれるというようなものだと思った方がいいでしょうか?
よろしければ皆様の意見をお聞かせください。 仏教は向上心を否定するか。 向上心とは現状に満足せず、さらに高い目標を目指す心の有り様を表す言葉です。 向上心は現代社会で広く受け入れられ、むしろ向上心が無いことは悪い事という風潮すらあります。 私は向上心の動機として、欲と執着は不可欠だと感じます。 小欲知足を基本とする仏教において、向上心は否定されるでしょうか。 否定される、と言うのが私の考えです。 現代社会は、キリスト教等の禁欲思想を否定し、 欲望を肯定し、それを達成する事で発展してきたように感じます。 ゆえに、欲望を受け入れ自らを切磋琢磨する向上心は、社会の発展に有意義なために広く受け入れられていると考えます。 人の無限の欲望をエネルギー源としている現代社会は、仏教思想と相容れない部分があると思います。 よって、仏教は向上心を否定すると考えます。 皆様はどのようにお考えでしょうか。また、お弟子さんやお子さん等、身の回りの方に向上心が見られない場合、どのように指導する(あるいは指導しない)か教えていただけると助かります。
最近死について考えてしまいます。僕は死後の世界があると信じています。でも死んだらどうなるか誰にもわかりません。 だから僕は死後の世界があると確信できず、死んだら無になり家族や友達と一生会えないのかと思いとても辛くなります。 だけど僕は死後も家族や友達に会いたいです。僕の気持ちを少しでも軽くして頂ける解答をお願いいたします。
本を読んでお経に興味を持ったのですがお経とは何のために存在しているのでしょうか?
徳の高いお坊様方に質問です! 地涌の菩薩 についてできるだけ詳しく、解りやすく説法して下さい。 自分で調べたのですが、メチャ解りにくかったです…… ですので、仏教に余り詳しくない衆生の私に教えて下さい!!! 地涌の菩薩様はお釈迦様や阿弥陀様みたいに元人間だったのでしょうか? 観音様は元人間で生まれ変わるたびに善行を積み、清められて菩薩になった… と、何かで聞きましたし、阿弥陀様も元人間で法蔵菩薩と名のり生まれ変わるたびに修行し、功徳を積んで如来になり極楽浄土を築いた… と、書籍で読みました… この流れから行くと、地涌の菩薩様も元人間だったのでしょうか? 物凄く、興味がありますので、教えて下さい!!!
学生の頃から、「人は何故生きるのか、人生とは何か」を考えるようになり、自分なりの答えとして、「世界、社会に何かを遺すこと」という結論に達しました。 自分の行い、作ったものが、他の人の役に立ち、笑顔にできるなら、自分が生きた意味があるだろうと考えるようになりました。 30代後半で、他の人にはできないような大きな仕事を達成して、燃え尽き症候群といいますか、他の人の人生の手伝いをしようと思うようになりました。 40代半ばになり、欲が減衰し、自分のしたいことがなくなり、食事すら面倒に思うようになりました。 未だ独身ですので、女性一人幸せにしていないと考えることもできますが、過ぎたる欲は不幸を招くとも言いますし、特に意中の女性が居るわけでもありません。 平均寿命で考えると、まだ人生の折り返し地点ですが、満足感と無欲で、この先40年どうすればいいのか、悩んでいます。 この手の疑問は、様々な経典・古典に通じていらっしゃるお坊さんが答えを持っているのではないかと思い、相談させて頂きたいと思いました。 お忙しいところ恐れ入りますが、道標、お導きの程お願いいたします。
自分が嫌いです もう31歳、そこそこ人生歩いてきて 経験から人間性ができている気がして 全て顔に、体に、態度に、出ている気がして 鏡を見たくありません 自分を好きになれない自分が嫌いです 『ありのままの自分を認める』 の意味が、つかめずにいます 幼少期から、『お姉さんなんだから』と言われ続け 甘えたこともなく 気がつけば、自分がここにいるのに理由がないと、手が震えます 人のためになっていなければ、ここにいてはいけない気がします 自分を愛してくれる人もいるのでしょう でも、私にはそれを感じとる力がありません 人間不信、疑心暗鬼 こんな言葉を最近知りましたが、 人を信じるということがわかりません 寂しいと思う自分もいますが それを伝える人がいません こんな自分が、子育てをしていることが この先不安だし 子供を私のように不孝にするのではないかと思っています 自分自身もこのまま生きてこのまま死ぬことに不満があるのに、どういう心持ちにしたら良いのか、わかりかねています わかりにくく、申し訳ありませんが、御指南いただけませんでしょうか。
タイトルの通り、自分がいつか死ぬことを考えると恐ろしくて、パニック状態になってしまいます。朝起きた瞬間から寝るときまで、常に「死」の恐ろしさ、得体の知れなさが頭から離れず、最近は趣味も楽しいと思えません。 いつか死ぬからこそ今を一生懸命生きることが大切だとか、いまのわたしにはきれいごとにしか思えないのです。 べつに、近しい人の死がトラウマになってるとか、そういう事実もありません。ただ、死が途方もなく恐ろしいことに思えて仕方ないのです。 これほどまでに重度の死の恐怖を克服すること、あるいは克服せずとも上手く折り合いをつけて生きていくことは可能なのですか? また、仏教に帰依することは、死の恐怖を克服する手助けになりますか? お忙しいところ恐縮ですが、ほんとうに、どなたか助けてください。このままでは発狂しそうです。
飲食 厨房スタッフ 3年目です。 二回目の投稿です。 一ヶ月前に昇進してすぐに大きなミスをしてから、心と頭が空っぽのままです。 ここ二週間くらい前から、人に心を読まれてしまうのです。 例えば誰かがミスをした時に、心の中で(ばかだなあ)と思ってしまい、 それがまるで厨房内全員に聞こえたかと思うくらい、雰囲気が悪くなり、 周りの人が物を乱暴に扱ってガシャンと音をたてたり、急に静かになったりと、 きまずくなります。 以前は、スタッフを中傷するような想いは一切する事がありませんでした。 なのに、最近事あるごとに、悪い想念が浮かび、それがある度に周りが同じようになります。 心の内を聞かれることってあるのでしょうか。 私は特にコミュニケーションがあまり上手ではないので、 言葉は普通より苦手です。
こんにちは。 しあわせって椅子取りゲームな気がします。 なんとなく違うよっていうのはわかります。 でも、 そうはどうしても思えません。 例えば、コンテストで優勝したい。 と出場者みんなものすごーーく、 思っていても 優勝できるイスは1人だけ。 なんだってそうです。 好きな人と付き合えるイスは1つだけ。 ライバルがたくさん。 でも、 一つしかない。 みんなでしあわせになろうとか、 言葉がふわふわした言葉 嫌いじゃないけど、 ありえないと、思ってしまいます。 だから いつも 焦ってしまいます。 みんな敵に見えてしまいます。 頑張らないとイスには座れません。 私は しあわせになりたいです。