国家試験になかなか受からなくて、悩んでいます。 会社の仕事の関係上、色々な資格を受けなくてはなりません。 もう、勉強なんてって、正直思いますが仕事も覚える為にも勉強しなくてはいけません。 分かってはいるのですが、自分の勉強の仕方が悪いと思いますが、中々本当に合格しません。 人並み⁈には努力はしているとは思うのですが(周りや皆さんから見たら努力が全然足りないないと思われるかもしれませんが) 勉強量としましては、試験当日前から約2ヶ月前程からやらなくては、自分が頭が悪く、覚えが悪いので・・・ 去年は後、1問足りなくて・・・ ってことか、2回も続きかなりショックでした。 職場の先輩から後、一歩だったなって、優しいお言葉を頂きましたか、正直、合格しなくては意味がないんです。 会社から受験料(受験前の勉強会、教育料)も支払って頂いていると思うと・・・ 正直自分自身、プレッシャーに弱いです。 試験当日になったりしますと、ど緊張してしまいます。 今度こそは合格しなくては! と言う暗示を自分自身に言い聞かせて! それがいけないのかは、分かりません。 不合格の度に、また会社に迷惑かけてしまった、職場のメンバーに迷惑かけてしまったと思うばかりです。 お坊さまに国家試験を受からないことをお聞きする自体、失礼又は愚痴をお聞きして頂くなんて、どうかと思ったのですが、もし宜しければご返答を宜しくお願い致します。 また、お坊さまも、なにかしらお寺に入るときなど、試験などあったりしますのでしょうか?継がれるときとかでも⁈ 長いお経も暗記したりするんでしょうか? とても、難しいそうなお言葉が一般並んでいます。 長いお経をお読みになられて聞いていますと、良く読めるまたは暗記なさってるな!と感心してしまいます。 失礼なお言葉、質問でしたら、申し訳ありません。
先日、82歳で父が他界しました。 慌ただしく葬儀の詳細を決める際、葬儀場に紹介されたお坊さんに決めてしまったことを後悔しています。 父には遠方の田舎に檀家として先祖代々お世話になっていた菩提寺がありますが、生前本人は今の住まいから通いやすいお寺(葬儀場で紹介されたお寺とは別です)での永代供養を希望していました。母はこの場合、誰にお経を読んでもらったらいいのか…とさんざん悩んだ挙げ句、葬儀場に紹介されたお坊さんに決めました。事後報告になってはいけないから菩提寺に電話するよう葬儀の担当者から勧められ、母はその場で本当に申し訳なさそうに父の死と読経を別のお寺にお願いすることを伝えました。菩提寺の住職さんは大変驚いておられたようですが、電話の最後にはまた何かお役に立てることがあればいつでも連絡下さいとおっしゃっていたそうです。 その菩提寺は長男である父が昔から丁寧にお付き合いしており、お盆やお正月に帰省する度に挨拶に伺っていました。私も子供の頃から法事の度に伺っていたし、田舎の家や裏山にあるお墓に来ていただいた記憶があります。慌ただしさの中決めてしまいましたが、父も最後のお経は菩提寺のお寺さんにあげてもらいたかっただろうと、父にも申し訳なく後悔の念に苛まれています。 離檀することは決めていますが、このまま電話一本で終わらせてはいけないと思っています。母は認知症の症状が見られ、あらゆる場面で判断力が低下していることが、葬儀後の手続きをしていて分かりました。私達姉妹で今後は対応したいと思っていますが、まずは電話でお詫びし改めてご挨拶に伺うべきか悩んでいます。
悩みのループに入ったときに、今まで頂戴した回答を読み直しています。 ありがとうございます。 さて、今回大げさなタイトルになりましたが、仏様と向き合う心持ちがわからなくなりご指導を賜りたく投稿いたしました。 仏教の最終目的が成仏・涅槃に入ること、また望ましいありかたとして菩提心を起こして日々を送ることだとしたら、私はそれを望んでいない、なのに写経や読経をするのは方向が違うのか考えてしまいます。 普段、自宅のお仏壇にお経をあげたり、近隣のお寺の写経会に参加しております。 そのお寺での住職様でない方の法話で「仏教的な幸せは涅槃に入ること。表現が難しいけれどお星さまになることかな。寂しく思うかもしれないけれど、それが一番の幸せ」というようなお話でした。 私は仏様になったことがないので、そこまで高尚なことはピンときません。来世があるとしたら人間に生まれ変わって、今叶わなかったことが満たされていたいです。輪廻から出られないことがそれほど不幸なのか?と思います。 菩提心につきまして。こちらの僧侶の方々や写経に伺っているご住職様は菩提心があるなあと驚きます。相手の苦痛を減らそうというお心がひしひしと感じ取れます。ゆるがぬ信仰心と強固な信念に基づいているので、悩んでいる方に寄り添えるのだなあと思います。 翻って私は人並みの親切心はあると思いますが、共感しすぎて痛い目にあうことが多く、拠り所(僧侶の方にとっての信仰心)とするものがありません。最近はやりのバウンダリーをはっきりさせて、余計なことに首をつっこむのをやめよう、自分がしっかりしていないので、他人のことはもう放っておこうと決心したばかりです。 ただ、お寺通いやお経をあげることは止めたくありません。記憶のある時からなぜか神社仏閣が好きです。 仏教的に見て望ましい行い・最終目標から逸れた心を持ちながら、どのように仏様と向き合ったら良いか、是非ご指導くださいませ。
以前より何度も質問させて頂き、大変お世話になります。 この10月で母の三回忌を迎えます。 以前よりお寺様のことで何度か質問させて頂いておりますが、お墓が他県にあるため、葬儀社からの紹介のお寺様に一周忌、初盆、二年目のお盆(今年)とお経を頂きました。 それまではお寺様から、ハガキでご連絡頂き、その日に合わせて用意してお迎えしておりました。 今回のお盆は二回目なので、一周忌、初盆より若干金額を下げてお布施をしました。それとは別にお車代も。毎回、法話もなく二回目のお盆にも世間話的な会話ですぐに帰られました。 もうすぐ三回忌、毎回頂いていたハガキもありません。 お盆のお布施が悪かったのかとも思ったり… 三回忌にもなると、こちらからお願いするのが常識なのでしょうか? 十数年前に父親が亡くなったときに葬儀社からの紹介で来て頂いた同じお寺様で、当時色々あり、お断りしたこともあり、そのことも以前ご相談させて頂きましたが、結局、お寺様にお経も頂かないのもどうかと思い、同じお寺様に来て頂きました。お寺様からいつ伺いますとハガキが来たのもあったことや、こちらのサイトで質問させて頂いて、ご回答の内容からもそうしました。 長くなりましたが、これを期に事あるごとに考えないといけないお付き合いより、以前より、供養とは気持ちであると何度もご回答を頂き、家族で(といっても私1人ですが。兄がおりますが、人間は死ねば終わりという考えで、線香の一本もあげには来ません。)供養していくのも、またひとつの供養の形ではないかとおもうのですが、いかがなものでしょうか?ちなみに真言宗です。
私は神の実在を信じています。でも、各宗教の説く信仰の世界になじめず、ひとりでさまよっています。 私の煩悩は「自殺したい」とか「神よ私を速やかに殺してください」と願うことです。 自殺すると仏教で言う「無間地獄」に堕ちると信じるので、具体的にはあの世で自殺霊・地縛霊になり、救われることはないと信じるため、怖くて実行できません。 そんな人生否定の感情や死後の恐怖から生きるとしたら、なんと消極的で暗い、マイナスの人生観・生活観でしょうか? 私は人生の初期に親から新興宗教の経典を読まされ、神棚の前に正座して「人生は苦悩なり」という経文を唱えさせられていたことが、そもそもの間違いの始まりだったのではないか?と思います。 小学生のころから「人生は苦悩なり」と権威をもって教え込まれるのではなく、夢や希望や「わくわくすること」を追いかけてがんばり、その夢をつかむよう教えられるべきだったのでは?と思います。 小中学校時代、その新興宗教の夏季合宿に必ず参加させられていました。 中学に進学したとき無意識に友達の前で「あ~死にたい!」と口にして嫌われました。そのころそんなことを言う子は一人もいませんでした。 高校時代は「自分は不幸だ」と友達に告げて「じゃあ、なぜ自殺しないのか?」と問われました。 大学時代、変な宗教に強引に勧誘され「早く過ぎ去れ、青春よ~!」という歌を歌わされました。 大学卒業後は自殺未遂をして精神科に入院することになり、絶望のどん底でした。 3年後、父の死をきっかけに退院して新聞配達や肖像画制作をしてがんばり、登山までするようになったのですが、15年ほどで体力が衰え、失職してひきこもりになり、医師の診断通り「統合失調症」ということを受け入れざるを得なくなりました。幻覚も妄想もない統合失調症患者もいるということですが、私もそのひとりなのだと思います。 症状は「疲れやすさ」「意欲の低下」「睡眠障害」の3つです。 神への信仰、医療に頼っていますが、仏教文化も私には必要で、多くの影響を色濃く受けています。「般若心経」「観音経」「白隠禅師和讃」を仏前であげることもあります。CD集『ひろさちやの感動するお経』全8巻も繰り返し聴いています。 障害年金で暮らし、身近に相談相手もいない私は母亡き後果たして生きて行けるのか心配と不安で夜も眠れないほど悩んでいます。
〔編集部より。規約により投稿の一部を修正しています。〕 はじめまして! 私は5人家族でした。母と姉は4.5年前からある宗教に入っています。しつこく勧誘をされ、自分の親が意味のわからないことを延々 と話している姿に毎日涙がとまらず、私は家にいることが嫌になり、家を出ました。 お父さんはすごく優しい人で、理解はしようとしました。 でも結局、確証のない話ばかり聞かされて毎日言い合いばかりしていたようです。 兄は全く聞く耳も持っていませんでした。私が実家に帰るといつもその愚痴や、昔から仲が良かったのでたくさん話をしてくれました。とゆうか私も本音で話せる家族は兄しかいませんでした。 ですが去年の11月から兄は鬱病になりました。私はこの原因はその宗教にあると思っています。 仕事が大変なのは聞いていましたが、兄はもう9年ほど同じ所に勤めていました。今さらその原因が仕事だとは思えないです。 そして5月10日、兄は薬を大量に飲み、自殺を図りました。 病院に搬送され、一命は取り留めたものの、13日の夜、亡くなりました。 集中治療室の中、他にも生きようとしている患者さんがいる中でも御構い無しにお経を読む。 睨みつけてやりました。 お前らのせいで大好きな兄が死んだと。言ってやりました。 親族内で散々揉めました。葬儀はその宗教方式でやると聞きません。 そのせいで兄がなかなか葬儀をできないのも可哀想なので、もうそれで決まりとゆう運びになりました。でも私は兄が嫌がっていたお経を唱えないと決めたので、その意見だけは絶対に曲げません。 私が話を聞かないなら縁を切ってくれても構わないと言われました。上等です。 親戚の叔母や叔父は、もうあんな奴を親だと思わなくていい、こっちの娘になりなさい、実家に帰らなくていいと言ってくれました。 私は一生その宗教を、押し付けた母と姉を恨みます。 あんな奴らの元では兄も供養できないと思ったので、分骨をして私の手元で好きだったラーメンをたくさんお供えしています☺️ こんな事しかできませんが、少しでも天国で楽しく過ごしてくれたらと願っています。 長文で失礼しました。 毎日悲しくて悔しくて、一生この気持ちが離れないと思うと死んでしまいたくなります。 こんな悲しい出来事をもう他の誰にもして欲しくないです。切実な願いです。兄の死を無駄にしたくないです。
私は、結婚前からお寺巡りを趣味にし、法話会や特別拝観などを楽しみにしている年齢の割に合わない趣味をしていました。 京都、奈良は年一回、普段でも休みの日は鎌倉等に出かけていました。 私は、見た目を若く見られる傾向がいまでもあるか、年齢のわりに幼い所を見過ごされるのかはわかりませんが、お寺に行って拝観料、拝山料を収める時や写経して納経帳をお願いする時に(拝観時間や常識のある時間にに行ってます)お坊さんやお寺の人に私からすれば面倒くさそうな顔をされたり、あんたに何がわかるの?的な顔をされたりされた事がたたあります。 仏教に興味があり、座禅会に行ってたお寺でまだまだわからない事もありあってお坊さんにもっと知りたいのでオススメの書籍はありますか?と相談したら、煙たがられ座禅会を辞めた事もあります。 写経して行っても、あんたが本当に書いたの?と疑われたり、写経会で一番に書き上げたらビックリした表情されたりと、時々不愉快になる事がありました。 お寺は誰が行ってもいいんですよね? 得に忙しい時期に行ったわけでも、法要等のある日に行ったわけでもありません。 なのに煙たがられました。若いから行ったら行けないんですか?年寄りなら歳相応でいいのでしょうか? 受け入れてくれる所には何度も足を運び、法話会にも毎月行ってました。 そりゃあ、来る人の中では若いので多額のお布施はできませんが、見た目で判断されても嫌です。(ハデハデしい今どきファションでお参りに行った事もありません。) カバンから数珠やお線香を出してお参りしている時でも、檀家さんでもないから?か嫌な顔されたり、イヤイヤ納経帳を書いているように見られます。 ハッキリ言って一度くらいそのような態度をとった人に理由を聞いてみれば良かったと本当に思います。
曹洞宗僧侶です。 真言宗、特に高野山真言宗の先生にお伺いしたいことがございます。 先月、10年以上、日々托鉢と托鉢行で縁のあった方のご法務のみで、如法に生活されていた高野山真言宗の僧侶が遷化されました。(この話でどなたかお分かりの方もおられるかもしれませんが、詮索はされないようお願い致します) 私も現在、お寺に身を置き法務を主軸に生活はしているものの、暇があっては托鉢は極力欠かさぬよう行っておりますが、今日そのように行乞に歩めるのは、その真言宗の先生が、托鉢の先達として現代社会での(道場ではなく個人での)托鉢の在り方を、言葉や姿勢で示して下さったからこそにあると思っております。 件の先生とは、私が托鉢を始めてから間もなくご縁があり、以来、宗派こそ違えど同じ托鉢を行う比丘として垣根なく接して下さりました。 その先生なくしては、私は今日まで托鉢を継続することは出来なかったことでしょう。 その報恩感謝を示したく、遷化より四十九日に当たる日に件の先生が托鉢されていた地にて、ささやかながら亡僧諷経をお勤めさせていただこうと予定してております。 そこでなのですが、当日はその先生のお位牌をご用意し、お経をお勤め致したく考えておるのですが、真言宗の亡僧位牌の書き方が分からず、真言宗の先生方にそのご教示を頂きたいのです。 曹洞宗の場合ですと上から「【〇〇第〇世比丘(住持職の場合)】【道号】【法名】【僧階】」となりますが、今回は【道号】に当たる部分は分からず【僧階】についても、以前僧籍簿の写しは拝見したことがあるのですが、正確な僧階が分からない為(一応、住持職に付ける最低限の僧階とは仰ていました)、遷化された真言宗の先生に対する適宜な尊称にて代えさせて頂ければと思うのですが、どのような尊称が相応しいと思われますでしょうか。 周囲の高野山真言宗の先生方にもお伺いしようと考えておりますが、これは同じ宗派でも地域や法流によって様々であるかと思われますので、ひとつでも多く参考になるご教示があれば幸甚でございます。 何卒宜しくお願い申し上げます。 合掌九拜。
こんにちは。 迷った時にいつでもこのサイトに訪れています。 私は少し前に般若心経の現代語訳に触れ、そこから仏教が大好きになりました。 今までも嫌いだった訳ではなかったのですが、宗教自体が自分とはあまり関係の無いものだと思っていました。 さて、そんな私もいろいろ調べていくうちに、他の今苦しんでいる誰かにも、仏教の事を話してみたくなったのです。 ですが実際話してみると、そんな事が出来てたら苦労しないよ、とか、そんな事で納得出来るほど私は素直になれないわ!とか、受け入れてもらえない意見もちらほらありました。 (もちろん、仏教の素晴らしさを理解してもらえた方も多かったのですが。) 全ての人を納得させたかった訳ではありませんが、やはり私が話すからには私的見解が入る為か、思っていたより上手く伝わらないのだと知りました。 そこで質問です! お坊さん方は、普段説法や法話をされる時に、より沢山の方に理解してもらう為に、どんな事を心掛けておられますか? 厳しいアドバイス、面白い実体験など、回答いただけると嬉しいです。 お忙しい事とは思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。
初めてご相談します。納骨を前に、悩んでいることがあります。この度、父を亡くし、父の強い希望で、我が家の家族のために、墓の敷地をある浄土真宗のお寺から購入していました。父は急逝だったため、お坊さんや墓の今後の引継ぎなど、簡単な経緯しかしらないまま、亡くなりました。 昨日、父の一周忌がありました。母はまだ気持ちの整理がつかないため、父の遺骨は家に置いておきたいと言います。ただ、震災などが起こった際には、遺骨をかかえて避難することは年齢的にも無理だと言っていた中で、ある出来事がありました。 一周忌の法要で、お墓のあるお寺さんで、お経をあげて頂きました。 同日、何組か1時間おきに、法要の予約が入っているのがわかりました。 そのためか、父の生前の名前を間違えていました。もう一方の部屋で待たれていた家族のご苗字でした。父のための大切な法要が間違えられたことに、非常に悲しみを覚えてなりません。このようなお寺にお世話になるべきか悩んでいます。どうしたらよいでしょうか。宜しくお願い致します。
悩み相談は色々あるんですが、 この相談に決めました!(^◇^;) お坊さんと出会いのきっかけになる事でもあればなと思うのですが、 何か方法はありますか? 私は田舎が四国にあり、仏教で親の影響からか寺巡りも好きですし、お線香の匂いなんかもたまりません。 以前からお坊さんってお経唱えるお姿だったりお声だったり素敵だなーと思っていたんですが、 以前、法要があった時に来てくださったお坊さんが良くして下さったりお務め姿が凄く良く、 お話するタイミングもあり、 年齢や既婚者かなど聞きたかったですが、お坊さんにそんな事を聞いていいのか?とか考えてしまい、結局緊張したのもありますが、何も話せずでした。 恋愛話をしてみたり、自分から連絡先を渡してみたりしていいものなんでしょうか? その時の想いもあり、お坊さんと出会いたいなぁとゆう気持ちが強くなったんですが、 一体どうすれば?と思って検索していた所、このサイトを見つました(^_^;) こんな相談で申し訳ないですが、 まずは何か出会えるきっかけや方法があれば教えてほしいです。
こんにちは。 私はお坊さんの説法が凄く好きなんです。 薬師寺のお坊さんの修学旅行の時の説法が 面白いのは有名な話ですが、 それだけではなく法事の時、お経を唱え終えた お坊さんが話してくれる話が好きで いつも「もっと聞いていたいなぁ」と思ってしまいます。 面白いと言っても、笑ったりとか滑稽な話などではなくて、人生を考えてしまうような、悩んでたことから心が解放されるような、フワッと心が軽くなるような、そんな気持ちになって、その感覚が気持ちよくて凄く好きなんです。 いつも優しさに溢れる言葉が、自分を包み込んでくれるようで、私もこんな優しさを分け与えられる人になりたいなぁと思ってしまいます。 けどお坊さんに直接お礼の言葉を伝える機会ってなかなか無いので、この場をお借りして。 いつも為になる、慈愛に満ちた面白いお話しを、ありがとうございます。本当に好きです。 私もお坊さんのみなさんの様に、優しさに溢れた言葉をかけてあげられる人になれるようにこれからも精進します。 ところで…何故お坊さんの説法ってあんなに面白いのでしょうか?
こんにちは。 いつも話を聞いてくださりありがとうございます。 昨年父を亡くしましたが、父が跡継ぎではなかったので残った家族は仏事にうとくて知らなかったり迷ったりの1年でした。 お盆もいまいち他人事でしたので、少し教えていただきたく思います。 (我が家は浄土真宗です。) 父の遺骨は合祀でお寺に預かっていただきました。 お仏壇は実家で母がみています。 初盆ですのでご住職に実家でお経をあげてもらうことにしましたが、それとは別にお墓参りのタイミングはいつが適しているのでしょうか? 合祀ですので、他家も集中してお花もすごい量になると聞きましたし、駐車場も少なくどうしたものか?と悩んでいます🌀 迎え火送り火までは考えてなく簡略化してはいますが、はたしてお盆中の父の魂?はどこにいるのでしょうか? どうお盆の供養をしたら父に届きますか? アドバイスをよろしくお願いします。
こんにちは。 いつもお世話になってます。 今月に入ってから、風呂場から変な音が 聞こえたり、家鳴りとは違うような音が部屋中でするので、ネットで視える方に 相談しました(もちろん有料) 風呂場に悪霊がいると言われ、(かなりグロテスクな表現をされていました)塩撒いて換気して下さいと言われました。 念の為、皿に塩を盛りまくって風呂場に 置いといたら翌日、誰も触れてないのに 塩が散乱していました。 これは、かなりヤバいと思い同じ方に もう一度視てもらったら、凄い数の霊が集まってましたとのこと。 除霊してもらい、アドバイスなども 受けましたが恐ろしくて落ち着けません。 気にしないのが一番と思ってるのに、ネットで色々調べて、除霊には真言宗のお経が 効くとか…盛り塩や水晶など流したり買ったりしました。 かなり敏感になっていて、ちょっと音がしたら悪霊が暴れてるのかも!などと心配になってしまいます。 夫婦揃って怯えながら過ごしてて、早く前のような普通の生活に戻りたいです。
16日に母の49日法要を行います。 父の時は実家だったのですが今回母が亡くなった事で実家が亡くなり、お寺で法要をさせて頂く事になり、持ち物等はお寺での最終確認で聞けたのですが、それとは別に手土産を持って行こうと思うのですが、手土産とお布施を渡すタイミングがわからずこちらで相談させて頂きました。 今まで実家でしていた時はお経が終わった後お茶出しの際にお盆の上に一緒にお布施を置き、手土産は盆の横に添えてお渡ししてたんですが、お寺で法要する際はどのタイミングでお渡しするのが良いのでしょうか? お布施は手渡しだとマナー違反なので必ずお盆に乗せてとどこかで聞いた記憶があり、今回お寺にお伺いする形なのでお盆の代わりに手土産の上に添えてお渡ししたらよいのか、また渡すタイミングはいつが正解なのかわからず戸惑っています。 こんな事もわからないのかと思われるかもしれませんがお手隙の際にどなたかご教授頂けると幸いです。 宜しくお願いします。
いつもお世話になっております、愛する夫を亡くしてから、なんとか毎日生きています。亡くなってからリビングと寝室の壁一面に思い出の写真を飾りどこを向いても主人の顔が見られるようにしています、2人で暮らしていたのでそうすることでいつも主人と一緒にいる気持ちでいました、先日そうやって暮らしている私に父親が、そんなことは未練でしかない誰もそんなことまでする人はいない夫はもういないとちゃんと自覚して前を向いて歩くようきつく言われました、もういないんだとはっきり言われたのは初めてで頭ではわかっているのですが急に身体が重たくなり何もできません。もういないわかっていますが、できるだけ家の中は2人で過ごしたままの状態にしていますこれも未練でしかないのでしょうか?これでは主人は成仏できないのでしょうか?いくら私が寂しくてもどうかどうか主人は安らかであってほしいと朝晩は仏壇の前でお経をあげています。 どう想ってどう生きるのがいいのかわかりません、教えて下さい。
初めまして、私の家には古くから伝わる「日蓮宗」の巻物がいくつか伝わっており、毎年年2回ご開帳させて頂きお祀りしています。 今年家の増改築に伴い、ご開帳を菩提寺の本堂でさせて頂けることになりました。その際に普段のご開帳では開けることの無い(古すぎてボロボロなので…)巻物をご住職と開ける事にし、お経を上げました。 中には、七面大明神が書かれた掛け軸でした。 それから七面大明神や毘沙門天に興味が湧き、仏像を、新しくした家に迎えたいと考えるようになりました。 普段から毎日、方便品・寿量品・陀羅尼品を仏壇で上げているのですが、毘沙門様をお迎え出来たとして、調べると「毘沙門天の真言」というものがあると読みました。 日蓮宗でも毘沙門様のご真言を唱えてもいいものなのでしょうか? それから、毘沙門様のお祀りの仕方などあるのでしょうか?
初めて投稿させていただきます。 これまで身内の葬式や法事でお寺には何度もお世話になっておりますが、父方・母方どちらの菩提寺とも、お坊さんは無言で出てきてお経を読んで終わりで法話などは今まで一切聞いたことがありません。そういうものだと思っておりました。なので数年前、他県の親戚の葬儀で法話を聞いた時は驚き羨ましく思いました。 さらにこちらのサイトを読んでいて相談に乗ってくださるお寺もあると知り、感激しております。 菩提寺は私の意思で変えることは不可能ですが、話を聞きたい、また悩みを聞いて頂きたい、という思いがあります。 檀家でなくても話を聞いてくださるお寺はありますでしょうか。普段関わりがないお寺にも、突然電話をして相談の問い合わせなどをしても失礼にはあたらないでしょうか? 実際お寺に相談した経験がある者が身近に居ないので自分にはかなりハードルが高く緊張する行動なのですが、直接相談される方は結構いらっしゃるのでしょうか? 初歩的な質問でしたらすみません。よろしくお願いいたします。
ある僧侶と知り合いになり、人生相談や毎月家にお経をあげて頂いていました。 その僧侶は自称、在家で得度した髪の毛のある僧侶で、日蓮宗の総本山である身延山で修行してるというのですが、私たちの家系は先祖供養が足りないから、いましなければあとは不幸になるといわれました。 ここ1、2年は「水子の霊を成仏させないと、恨まれて幸せになれない」といわれ、求められる金額も多くなりこの一年のうちに供養料、お曼荼羅の軸購入のため1000万以上渡してしまいました。また、このままでは短命とお告げがきているなどというので不信感を抱くようになりました。 私のために修行に行き、お塔婆を30万円分あげてきたと言われると申し訳なく思ってしまい自分からお金をお渡ししてしまうこともありました。 お寺のことや生き方のヒントなどたくさん教えて下さいました。先祖供養の大切さを知り、これからも供養したいと思っています。しかし、騙されているのではと不信感でいっぱいです。 日蓮宗では、このようなことを行なっているのでしょうか?依頼していないお塔婆をあげたり、お曼荼羅が300万するのでしょうか? 水子が恨んでいるのでしょうか? これは信仰宗教なのでしょうか? 乱文で申し訳ありません。よろしくお願い申し上げます。
今まで両親とは比較的良好な関係を保っていましたが、結婚して義両親のあたたかさや子供の人格を尊重するような姿勢に触れ、今までのわたしの両親への不満や不信感が噴き出てきて実の両親と付き合うのが耐えられなくなり、数ヶ月前に連絡を断ちました。顔も合わせていません。 先日、私の誕生日だったのですが、その際にプレゼントと手紙を渡しに来ました。 そのこと自体はありがたく、愛を感じましたが、それでもこれまでの経験や彼らの態度を思うと今すぐに関係修復は無理だなと思います。実際、この数ヶ月悩みに悩みましたが、夫との交流で私が求めていた形の愛を知ることができ、連絡を絶って良かっと思ってしまっています。 祖父母の命日が来月あるので、その時に嫌でも顔を合わせることになるのですが気が重いです。両親とは会いたくないけど祖父母のことは大好きなのでお参りしたいです。 別日に、とも考えましたがお寺さんが来てお経をあげてくださるのでその日に私も同席したいです。でも親と顔は合わせたくありません。 どうすればいいですか?