お世話になっております。 祖母が亡くなってからこれまで自宅に仏壇の購入を検討しておりましたが、実家に仏壇があるのと金銭的なところで断念いたしました。しかし、自宅で供養をしたい気持ちは無くなるわけがないので、今は西の方に向いて座り、頭の中に仏様を描いて朝晩に仏前勤行次第を唱えております。 できればご本尊の仏像を置きたかったのですが、子供が小さくて危なっかしいので掛軸にすることにしました。そこでご本尊と脇侍の掛軸ではなく、十三仏の掛軸を見た時に、それぞれの仏様がご先祖様に見えて即決で購入しました。 十三仏の掛軸を常に床の間に掛けて、その掛軸を我が家のご本尊としてそれにお経を上げても大丈夫でしょうか? それぞれの仏様がそれぞれ何回忌かの意味を成していることは調べて理解しました。 法要の際だけ掛けるのではなく、常に掛けて毎日拝みたいのですが大丈夫でしょうか? それぞれの仏様を自分のご先祖様に見えるからといってそう見立てて拝むのは罰当たりでしょうか? 拙い文章で申し訳ございません。 ご回答頂けましたら幸いです。 よろしくお願いいたします。
輪廻転生が真実であるとすれば誕生の考え方が大きく変わります。 まず結論から言いますと、「心は自分自身であり、親から貰ったものではない」と言うことです。 即ち自分の生老病死は自己責任であるということです。 ことわざからはじめますと、 「身体髪膚これみな父母より賜う。あえて損傷せざるは孝の始めなり」 これは身体だけであり、心は別ということになります。 「子は授かりもの」 もし心も親譲りであれば我が子であって、授かるとは言わないでしょう。 「とんびが鷹を産む」 親子の気質は別物であるという事でしょう。 「愚兄賢弟」 もし親譲りであれば、兄弟でも性格が違うとは、遺伝子的には考えられません。 原則的には類を以って集まるはずですから、性格が似ていることは多々あります。 臨死体験者(新堂のぶ子氏)の言葉(講演会にて) 「親が子を生むのではなく、子が親を選択する。」 ある宗教学者はネットで「龍樹と輪廻転生」と題し 「ブッダは、『大縁経』で、意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。」と述べています。 「意識」は心と同一と考えてよいと思います。 以上が結論の根拠です。
いつもお世話になっております。今回もご相談させてください。 ここ一年くらい前から、本を読んで仏教や御真言の勉強をしています。勉強をしていくうちにいろいろな疑問があるのですが、特に気になることがあります。 歓喜天様と荼枳尼天様についてなのですが、いくつかの本に「気難しい」「正しい信仰しないと祟られる」「真言をちょっとでも間違えると駄目だ」というような記述がありました。 他にも弁財天様は嫉妬深いからカップルでお参りするとよくないとか書いている物もあります。 私はお寺や神社を巡るのを趣味としているのですが、こういう話を聞いてしまうと、歓喜天様や荼枳尼天様にお会いしたときに、手を合わせるのが怖くなります。 また、お経についても勉強していて、参拝させていただいたときに唱えるようにしているのですが、間違って唱えてしまうことがあり、その後、大きな過ちを犯してしまったような気分になることがあるのです。 歓喜天様や荼枳尼天様・弁財天様の仏像にいろいろな所でお会いしたことがあるのですが、どのお方もお優しい顔をされていて、とてもそんな存在に見えません。なので、私自身は仏様が祟りを起こすようなことはないと思っています。 しかし、心のどこかで恐怖が拭えないのです。 そこで質問ですが、なぜ天部の仏様の中にはこういう風に言われてしまう仏様がいるのでしょうか? 専門家であるお坊さま方ならばよい答えを聞かせていただけると思い相談させていただきました。 ご回答宜しくお願い致します。
はじめましてセイタと申します。30代男性です。よろしくお願いいたします。 在家としてできる限り丁寧な供養をしたいと思っています。天台宗で在家得度したい場合、どのような方法が考えられるでしょうか。 <現状と希望> ○現在お世話になっているお寺さんはありません。 ○親は無宗教で仏事とは縁が切れています。 ○天台宗を選んだのは本や勤行次第を読んで一番自分にしっくり来ると感じたからです。 ○ここ半年ほど勤行次第(台宗課誦の二式でした)と日替わりで普門品や地蔵菩薩本願経等を読んでいます。 ○声明が好きなので将来的には法華懺法や例時作法を上げられるようになれればと思っています。 <質問> ○お師僧さんにお願いしなくてはいけない内容だと思います。近々引っ越す予定ですがそちらには天台宗のお寺さんが都道府県レベルで少ないようです。どんなお寺さんでも在家得度や例時懺法の伝授はして頂けるものでしょうか。それともいっそ比叡山(本山)に問い合わせてどなたか紹介して頂き年に数度飛行機で伺ってじっくり教えて頂くのがいいでしょうか。 ○受戒・護身法伝授・例時懺法等をあわせて(幅はあるとは思いますが)どれくらいの志納になるものでしょうか。 ご回答、よろしければお願いいたします。
いつもこちらではお世話になっております。 沢山の教えの中に日々気づきを頂いております。 ありがとうございます。 今日相談させていただきたいのは、檀家というお寺との関わりに関してです。 以前にも相談したことがあるのですが、私には歳の近い親戚が突然死したこともあり、不安症なところがあり、発作的に「家族の死」を考えて落ち込みます。 ですが、従姉妹の死が「その時が来たら、自分が見送られる側じゃなくて、見送る側だったことを見つめるんだよ」「あなたがこっちにきたら私も、祖父母も、みんないるから、会えるから寂しくないからね」と、教えてくれているようで、時間を要しながらも、今目の前にいる家族を大事にしよう。と、顔を上げることが出来ています。 そして、いつも思うのが、 わたしには今恋人も、自分の家族もいないので、いつか一人になった時に、誰にもこの悲しみを言えずに悲しみから抜け出せずに潰れていくのではないかということにも不安の要素があるのだと気付きました。 そこで思ったのが、 自分が日頃から関わっているお寺があれば、日頃からもっと仏教に触れることはもちろんですし、葬儀でお経をあげていただくことになっても、知っているお寺の方でしたら気持ちが落ち着きますし、法名の相談もできるかもしれません。 何より一人で辛い時には説法を聞きに行けたりして、孤独ではない、自分が生きているのは今であるということを感じる時間を持つことができるのではないかと思いました。 ですが、我が家は既に地域の納骨堂を用意しており、お墓のことを含めて檀家にというのは難しく思います。 更にお寺によるかと思いますが、お金もだいぶ掛かると聞きます(収入はそんなに高くないので) この場合、檀家になったり、馴染みのお寺を見つけることは難しいことなのでしょうか。 もちろん一番大事なのは場所ではなく、気持ちだというのはわかっているのですが、未熟者ゆえ、このように考えてしまいます。
私は一人っ子で、両親が亡くなり実家にお仏壇を置いたまま月参りに来ていただいていたのですが、実家を処分することになり、永代供養することになりました。(実家は姫路で、大阪在住です) 父は、平成25年に、母は平成20年に亡くなりました。 宗派は真言宗です。 お寺さんから、100万と言われたので、両親の遺産でお支払いしようと思っていたのですが、お位牌を渡した後も、毎月27日に護摩焚きをしたりするので、お盆と2回のお彼岸で年間3万納めてくださいと言われました。 月参りのお布施(5千円)はお経をあげていただいているのでお支払いしてると思っていたら、お寺の維持費も含まれると言われました。 お盆にはお施餓鬼代として5千円も渡しています。 私は、永代供養が終わったら、年に2回父と母の命日にお寺に行って拝んでいただいてお布施をすればいいと思っていたので、ずっとお金がかかり続けるとは思っていませんでした。 そのための、100万だと思っていたのです。 もちろん、7回忌以降の法要はちゃんとしようと思っています。 法要は5万円です。 両親の遺産もいつまでもあるわけではないので、心配です。 1代祀りなので、子どもは関係ないとはおっしゃってくださってるのですが‥ 両親のことなので、ちゃんとしてやりたいとは思うのですが、どこのお寺さんでもそうなんでしょうか? 私が生まれる前からのお付き合いなので、もめたりはしたくないのですが、今後どのようにお寺さんとお付き合いを続けていけばいいのかも教えていただきたく思います。 よろしくお願いします。
いつもお世話になっております。先日お説教会にお参りした のですが、お導師様の「他の仏様は父性を持つが、阿弥陀様は 母性を持つ」と言う発言が気にかかりました。 他の仏様が父性を持つと言われているのは、厳しいからだ そうです。まるで、他の仏様は私たちを捨てる、というような 言い方だな、と感じました。 私が阿弥陀様のほかにお不動様も信仰していることを告げると 「でも、あなたが死に際に体が動かなくなる瞬間までそばにいて 導いてくださるのは阿弥陀様だけ」と言われました。 もちろん阿弥陀様の王本願は絶対だと信じております。 ですが、お不動様の功徳や利益についてまだ理解できていない のもあるため、「結局は仏界も父親なんてその程度なのかな」 と考えてしまっております。 一方では、「不動明王の体が黒いのは、私たちの住む穢土に 自らも身を沈め、救済任務にあたっているため」と説かれ、 聖無動尊秘密陀羅尼経の偈頌には、 「…念念歩歩所起罪 真言威力皆消滅 命終決定生極楽」とあり、 そんな冷たい仏様には見えません。 さすがにお不動様は来迎しないと思いますが… 他にも布教師さんの中に、他の宗派のことを 「きっと遊女が近づいてきたら『汚らわしい!』と追い返す」 とまで言い張る方もいます。でも愛染明王は遊女からの信仰が 厚かったとも聞きますし… どうなんでしょうか?ご意見お待ちしております。 よろしくお願いいたします。 余談ですが、本日仕事納めを迎えることができました! 三宝の御加護に感謝いたします!!
前回からの続きです。 以前、仲良くなりたいお坊さんがいると相談しましたが、 偶然にも共通の知り合いがおり、連絡先を交換することができました。 仲良くなったのは良いのですが、会話の中で同期の仲間とよく風俗に行っていることが発覚しました。 知り合って間もないものの、彼は誠実で真面目な人だと思っていたのに、女性をお金で買うようなこと(私はこの世で一番悲しいことだと思います…)を平然としていることに、ショックが隠せません。 御祈願など彼に執り行ってほしい、お経を上げて頂きたいと思っていたのに、このような人間に私の悩みや胸の内を話しても理解されないのではないかと思ってしまいます。 彼氏に話したら、笑っていましたが『そういう場所を利用するのは良いけど、客の自分達にはバレないように配慮すべきだね』と言っていました。 上記の理由でいきなり交遊を断つのも失礼なのはわかりますが、気分的に我慢できません。 護摩、供養を上記の理由で断っても構わないでしょうか? 彼より上の立場の方に聞かれた時には別の理由話すつもりです。 彼氏はこのまま彼に御祈願を任せても良いと言っていますが、気持ちの持っていきようがありません。 仏道に邁進すべきはずの人がなぜこのような事を? それとも、お坊さんには良くあることなのでしょうか? 彼との縁を継続するにせよ、辞めるにせよ、悩むばかりでお諭しを下されば幸いです。
初めて投稿させて頂きます。 お悩み相談、ではないのですが、在家の信者として見聞を広げたくお尋ね致します。 先日、スーパーで買い物をしていましたら、作務衣に折五条を掛けて買い物をしているお坊様をお見掛け致しました。 私共信者は、お寺から頂きました半袈裟を掛け、拙いお経を唱えさせて頂いておりますが、半袈裟を掛けたまま外出する事はないかと思います(お遍路さんは別だと思いますが)。 折五条はお坊様が御身分を示すために黒衣(改良服?直裰?)の上に掛けられるものだと思っていましたので、スーパーで作務衣の上に折五条を掛けられておられるお姿にちょっとした意外性と、反面親しみを感じたあまり思わず合掌して御挨拶をしてしまいました。お坊様は満面に笑みをたたえ、やはり合掌をもって挨拶を返されました。 ここで質問なのですが、お坊様はどの様な時に折五条を掛けるのでしょうか。また、作務衣の上に折五条を掛けて買い物をなどをする事も珍しくないでしょうか? つまらない質問ですが、御教示頂ければ幸いです(長文済みません)。
いつもお世話になっております、先月四十九日の法要が終わりとてもほっとした自分がいました、四十九日の法要がいかに大切かということがわかり素晴らしい1日になったと思っています。その後から仕事に復帰しました朝晩読んだことのなかったお経をあげることで1日がはじまり1日が終わります、朝お仏壇に行ってきますと言い帰ってきたらただいまという毎日、ふと思うんです最愛の主人はいつもどこにいるんだろうと、毎日うちで可愛がっていたペットたちと留守番をしてくれているのか、仕事中もずっと私のそばにいてくれるのか?今どこにいるのと毎日何度も思います、仕事の帰りは運転しながら毎日号泣してしまうのですが、そんなとき私の前を走っている車が主人と同じ車だったり信号待ちをしてるとびっくりするくらい大きくてきれいな雲をみたり飛行機雲がみえたりします、そんな時は主人が合図してくれてるんだと思うのですが、夕べは主人が生きててよかったって主人に抱きついている夢をみて目覚めるとやっぱりいないんです、たまらないです、すぐにお仏壇の前に座り私からは行くことはできないから、あなたが迎えに来て私の手を引っ張って連れて行ってと泣いてました、いま主人はどこにいますか?私の姿は主人から見えているんでしょうか?教えて下さい。
こんにちは。幸いなことに好きなトピックを好きなだけ、いつも楽しく拝読しています。回答僧の皆様、たくさんのありがたくて興味深くて面白いご回答ありがとうございます。 今年7月、もう今月ですが、大好きだった祖父母の十三回忌となります。 亡くなった時期もあり、法事は大体お盆にまとめてというのが定番だったのですが、今年は新型コロナの影響で、お寺さんの方から法事自体断られました。 お盆も、家にお経をあげには来ないそうです。 私も家族も親戚もみんな、それには納得しています。怒るようなご先祖様じゃないだろうし、とこちらの都合で考えてしまっていますが、特に問題はありません。それより、ご高齢のご住職様の体調が悪くならないようになさってほしいと思っています。 とはいえ…失礼な言い方かもしれませんが、本来祖父母にとってはたった一度のイベント(?)のはずが、何もしないのもどうなのかな、とも思います。 お盆にはお迎えに行って、お墓を綺麗にして、今年はじいちゃんが大好きだったお酒の一つもコップに入れて…そんないつも通りのお盆(新しい生活様式バージョン)を普通に行って、来年以降も通常通りで大丈夫なんでしょうか? もしよろしければ、教えていただければ嬉しいです。
はじめまして。私は働いては人間関係に疲れて辞めてまた新しいところに行っての繰り返しです。 なのに主人は一生懸命に働いてくれています。それに対しての申し訳ない気持ちと私の稼ぎが無いせいで不憫な思いをさせている子供にも主人にも申し訳ない気持ちととても情けない気持ちでいっぱいです。 稼ぎが少ないため私も仕事しますがなかなかで。最近行き始めた所は社長と社長の愛人であろう事務員が原因で一緒に入った新人もみんな泣いて辞めていきます。コソコソ喋っては大笑いして人を馬鹿にしたり、 分からない事を聞いたりするだけでアホだの馬鹿なの?と社長と2人で大笑いされる始末。愛人であろう事務員のミスを私の責任にされて怒られる始末。気にしないとおもってグッとこらえていますが新人は結局皆辞めて私1人。 毎日バカバカしい気持ちでとても悔しいです。辞めると負けになるという気持ちと葛藤しています。ここで続ける自身も無くなってきて私は一体何を優先したらいいのでしょうか… とても悔しい気持ちです。 どうかアドバイスお願い致します。 仕事が決まる前に初めて高野山に行き奥の院にて安心感とわけも分からない状態で大号泣しました。 無意識に泣いていて弘法大師様と言いながら泣いていたのだと思います。 普段実家の月命日のお寺さんのお経を聞いただけでも大号泣してしまうんです。これはいったいなんなのでしょうか? よろしくお願いいたします。
ご質問させていただきます。 仏説阿弥陀経の中盤に「東方亦有〜」、「南方世界〜」、「西方世界〜」、「北方世界〜」とありました。 順番として「東南西北」となり日本の「東西南北」とは異なります。 なぜこの「東南西北」順番になるのでしょうか?お釈迦様のお話で「四門出遊」でも東の門、南の門、西の門、北の門と順番に出家される前のお釈迦様がお出かけされています。 この「東南西北」の順番に仏教的な意味はあるのでしょうか? ご教授頂ければ幸いです。 自分なりに考えてみたのですが、中国が「東南西北」の順番で数えていて、そこに仏教が伝わったのでこの順番になった(麻雀でも東南西北の順番でローテーションするので、中国はこの数え方が主流なのかと)。 「東西南北」の数え方は日本的なもので、神道と関係がある。お彼岸はもともと神道の行事であったとききます。おそらく稲作をする上で太陽の動きは大切なものであったので、太陽がのぼる東を一番に数え、太陽が沈む西を二番に数えるという対角線上に数えたのかと思いました。 もしご存知の方、何かお考えがおありの方がいらっしゃいましたら、ご教授くださいませ。よろしくお願いします。
こんばんは。 日蓮宗のお坊さんとお付き合いをしているあひるといいます。 外国に住んでいる両親の友人が去年亡くなり、もうすぐ一周忌なんですが、 亡くなった日本人で仏教徒である奥様のためにきちんと供養をしたいと ドイツ人の旦那様がどうすればいいのか?と両親に質問をしてきまして、 彼に色々と聞いていたら、結局戒名、お位牌、そしてお経を彼のお寺にお願いする事になりました。 費用を聞くと、ご住職のお父さまが、戒名、お位牌合わせて家族割で6万でいいよと言ってくださったのですが、ネットでみたところ、通常戒名は30万程度からと書いてあり、それはいくらなんでも安過ぎるのでは?と悩んでいます。 まだ家族になってもおらず、しかも私の両親の友人の戒名なので、そんな破格の割引を頂いていいのか?と。 恐らく金額を聞いてもそれでいいと言ってくださるのだと思いますし、母は別の友達から「それは100万ぐらい払った方がいいんじゃないの?」と言われたそうで、ますます混乱しています。 このような場合、ご住職がおっしゃる金額のお支払いでいいのでしょうか。お布施は「気持ち」というのは分かっています。 ここで、それ以上をお支払いすると逆に失礼にあたるのでしょうか。 皆さんのご意見を聞かせて頂ければ幸いです。こんな下世話な質問で申し訳ありません。 よろしくお願いします。
初めて質問させていただきます‼︎ 私はもともと、お坊さんがお経を唱える?読み上げる?時の声が好きで、お坊さんに興味がありました。 3年前くらいに、親戚の家で法事があり、いつものように60〜70歳くらいの住職さんが来られるのかなと思っていたら、若いお坊さん(20代後半〜30代前半)の方も来られて、その方の読経が素晴らしくタイプでした‼︎ 一度、お話してみたいな〜って思ったのですが、檀家でもなければ宗派も違うので、お寺に行ってもいいのだろうか…?と思いながら三年も経ってしまい…でもやっぱり一度だけでもいいからお話とかご挨拶したいなーって思う気持ちがあり…これは行かねば後悔するかも!と思ってます! ○檀家でもない、宗派も違う人間がど田舎のお寺に顔を出すと不審に思われますか…?!(一応アポはとるつもりです)(ど田舎なんです~汗) ○お坊さん的に、読経の声が好きとか言われたら引きますか…?! ○この方に限らず、お坊さんとお喋りしてみたい、お友達になってほしい!と思うのですが、こういう気持ちで行くのは失礼ですか…?! 他の方の質問とかぶってたらすみません!ご回答お待ちしております…!(>_<)
今から2週間前のお彼岸の頃、父が突然倒れ、意識不明になりました。 私は、実家へ戻り、父が眠り続ける病室へ見舞いに行きました。話しかけ続けると、うでを動かしたり顔をしかめたり、喉や口を動かして、反応をしてくれます。 でも、お医者さんに言わせれば脳波は既になく、人工呼吸器も経管栄養も本人を苦しめるだけとの事でした。近々、療養型の病院に転院します。 言い方が悪いですが、そこで「死」を待つ事になりそうです。長くて6ヶ月との事でした。 父と最後の会話をしたのは3ヶ月前に帰省した時で、「関東から車に乗せて、秋田の田舎まで連れて行ってやるよ」と言った事を覚えています。 土地勘が実際にはあまりなく、いい加減な事を言ってしまったな…と、思いました。でも、こんな事になるなら、多少無理をしてでも、連れていけば良かったです。 父はおじさんと、お彼岸にお墓参りに行く約束をしていたそうです。もしかしたら、先に亡くなった祖先の方たちに呼ばれたのかもしれません。 父も、もう80歳で、平均寿命です。 でも、出来たらまた一緒にお酒を飲んで、バカな話をして笑いたかった。 父が飲み残したウイスキーを飲みながら、涙が出てきます。 可能であれば、仏様のご加護がありますように、一緒に祈ってくれると嬉しいです。
私の地域のお坊様が、ある罪を犯してしまいました。 身バレが怖いし、お坊様にも迷惑がかかるので詳しくは言えませんが、人を殴っただの殺しただのという甚だしいものではありません。 お坊様は、私が一番病に苦しんでいた時、急なお願いにも関わらず、時間を取ってお経を上げてくださいました。 それに、罪を犯した後から更に一生懸命にお寺を盛り立て、お勉強なさいました。 罪はそこまでで、そこからずっと長い間真面目に、お盆は走り回ってらっしゃいます。 ド田舎の嫌な所なのですが、意地の悪いジジババどもが、陰でお坊様をいつまでも嘲笑っています…。 ですが、私が「お坊様もこれだけしてくれているじゃないの」などと言おうものなら、「あそこの家のあの女、でしゃばりが!」と、これまた奴らが死に絶えるまで言うでしょう。 私はやりきれない思いです。 私は恩返しをするどころか、地域で浮くのを恐れ、フォローを入れることもできません。 それどころか、「どうしてあんな事を…」と、面と向かって口走ってしまいそうで、お盆などでも極力顔を見せないようにする始末です。 せめてお盆やお彼岸などの節目節目に、心からお坊様にお礼を言い、目を見てお話できるようになりたいです。 お坊様に恩を感じるがために、穏やかで優しい面を知るがために、余計にやりきれない、複雑なのだろうと思うのですが…長い間、誰にも相談できなかったくらいなのです。 私はどんな心構えで、お坊様の前に立てば良いのでしょうか?
今まで全く宗教とは無縁だった訳ではなくごく普通のかと思いますがいつも法事などでお寺に行ってもお坊さんの説法を短時間聞くのみでいろんな宗教的な悩みなど聞いてもらえる場所がなかったです。 普段は特別故意にしているお寺がある訳でもなくただお参りして帰ってくるのみで、何かの節目があれば特別にお祓いなどしてもらうだけです。 もっと気軽にお坊さんと宗教の話ができる機会ができる場所はないのでしょうか? ただ新興宗教のような信仰の亡者にはなりたくなく、普段仏壇にお参りするだけではなくもっと生活の中に溶け込んだ宗教が欲しいです。 それともっといろんな宗派がありますがその教えを一方的に説法などで聞くだけではなく質問や詳しい話を聞きたい場所を提供して欲しいといつも思っていますがなかなかそのような機会や場所はないです。 実際の所、先祖や親がやっていたので自分も同じ宗派と言われてもどうして良いか全くわからずじまいです。 例えばお経一つとっても何を言っているのかさっぱりわかりません、他宗派のは意味はわからなくても言葉はわかるのもあります。 あなたの修行が足りないと言われても修行の仕方すら誰も教えてもらえないです。 般若心経は解説等たくさんありますがそのほか話目にすることはありません。 もう少し誰にでも平易にわかりやすく教えてもらいたいといつも思っていますが。 日本の仏教界はこんなものなのでしょうか? お坊さん忙しいのでそんな暇はないのでしょうか?
私は浄土宗の檀家です。 お仏壇も阿弥陀様を主役におまつりし、毎日「阿弥陀経」を読誦し、発願文を読み、お念仏を100回唱えております。 しかしお不動様と大黒様も大好きで、阿弥陀様とは別に個人的な持念仏として、毎日勤行しております。 浄土宗のお寺にもお不動様をお祀りしている寺院もあること、個人的に尊敬している祐天上人がお不動さんと縁のある方であったこと。 またお不動さんを開眼してくださった密教系のお寺でも「阿弥陀様と共に信仰しても構わない」とアドバイスをいただいたことから、問題無いと考えていたのですが・・・ しかし法然上人のご著書を読んだところ、専修念仏では雑修(お念仏以外の仏道修行)は行わない方が良いと書かれていました。 阿弥陀様以外の仏様に浮気をする雑修は、往生の妨げになると。 (真宗では特に厳しく、阿弥陀様以外の仏様は、原則祀らないと聞いております) しかし家の菩提寺の浄土宗のお寺では、お地蔵様や聖観音様、馬頭明王様も祀られています。 (菩提寺とは遠方に住んでおり、ご住職とはほとんどお話しできません) 浄土宗は、本当のところ、雑修をどう考えておられるのでしょうか? ご意見をいただけましたら、幸いです。
私の実家と、嫁ぎ先の宗派が違い、どうにも馴染めず苦しいです。どうしたらいいでしょうか。 小さいから仏教に親しみのある家庭で育ちました。 毎日お題目をあげるわけでないですが、お正月や期末試験の前(!)はいい点がとれますようにと仏壇に手を合わせるような家庭でした。 法事も多かったため、気づいたらお経もなんとなく覚えています。 結婚するまでは、自分の宗派に一才拘りはなく、なんちゃって仏教徒だなぁとしか認識していませんでした。 しかし結婚し、嫁ぎ先の仏壇に手を合わせるようになると、罰当たりなことをしているような気持ちになってしまうのです。 嫁ぎ先も熱心な仏教徒というわけではなく、帰省した際に仏壇にただいまを言う程度ですが、そこで唱えるお題目が違い、自分の宗派を裏切っているような気持ちになってしまいます。 もう私は主人の宗派に変わったのだ、と割り切れればいいのですが、小さい頃から沢山守ってくださってきた自分のお題目も大事にしたい思いが強いです。 同じ仏様を信じているのに、どうにも割り切れません。 結婚して10年以上が経ちますが、未だに夜道で怖い時、心の中で唱えるのは生家のお題目です。 違う宗派に鞍替えすることは、悪いことではないのですか? 菩提寺が変わっても、心の中で違うお題目を唱えているのは非常識でしょうか。