「人を信じる」事は生きていく中で必要だとは思います。だけど、いろいろな経験を重ねるうちに気がつけば、自分さえも信じられなくなっていました。 情けないことです。 「信じる心」の取り戻し方が分からないんです。 どうしたら良いのでしょうか?わたし。
初めて投稿致します。3月頃から自分が死んだらどうなるか、という考えが突然現れました。心療内科での投薬(漢方)や、様々な考えを本やネットで調べることでどうにか恐怖感は薄らいできましたが、今度は、今自分がしていることは死んだら全て意味のないものだ、という考えが頭を占めています。 今勉強していることも、家族と過ごすことも、遊ぶことも、アルバイトも、将来就職して結婚し、自らが家族を作ることも、何もかもが死ぬことで消えてしまう、分かち合えなくなると考えてしまい、非常に虚しい気持ちになります。 「今」を一所懸命に生きることが大事なのに、上の考えが頭をもたげ、とても重苦しいです。 今の状況は試練なのでしょうか?それとも甘えなのでしょうか?どうか、「今」を一所懸命辛いことも楽しいことも合わせて生きていく考え方を教えてください。長文及び乱文になったことをお許し下さい。
いつも、ありがとうございます。 今回は悩みではなく、いつも思ってることを質問させて いただきます。 よく、人はそれぞれに使命を持って生まれてきてる。 自分の生き方がその使命に沿うとスムーズに生きていける。と聞いたことがあります。 では、私の使命とは何だろう?と知りたいのですが… 自分の今まで生きてきたなかで何が使命なのか、どんな事を使命と言うのか? 色々考えても、分かりません。 自分の使命が何かを知る事で、これからの生き方がもっと生き甲斐のあるものになりそうな気がするのですが… 使命について教えていただいたいです。 どうぞよろしくお願いします。
今、コロナの感染が心配です。 不安障害を持っていて、主治医とも相談していますが、やはり、お坊さんに回答をして頂きたくて、相談をさせて頂きます。 普通の予防はしています。 多分、不安障害を持っているので、人より過剰に考えると思います。 テレビなので、なくなった人の情報を見ると自分がなったら、どうしよう、家族がなったら、不安ばかりです。 どうか、今より不安が少なくなるように、お導きください。
お坊さんの回答をみてたら相談者が連続して、「今の苦しみは仏様が与える修行だ」という認識に、お坊さんの皆さんは全く否定されておられません。 「苦難は神が与えた試練だ」はキリスト教の考えではありませんか? 四聖諦を初めとする仏教の思想では現世の苦しみは修行とかいうのは否定されてませんか? 私は、相談者に修行だから我慢しろと言ってるように見えます。救いになってないのではないでしょうか? 苦しみはあるが、それを解決する方法があるとブッダは説いたのではないでしょうか? 生かじりの知識なので解釈を間違っているかもしれません。分かりやすく解説していただけないでしょうか?
初めまして。 供養の仕方について教えて頂きたいです。 昨年末に猫を1匹亡くしリビングに遺骨と写真、お水、お花をあげ毎朝お線香とロウソクを灯し般若心経を唱えています。 しかし、一昨日にお義父を亡くしお義父さんの身につけていたメガネと時計を一時自宅に持って帰ってきたので、同じようにお供えしたいのです。 ここで質問なのですが、 1、同じスペース(サイドテーブル上になります)に置いてお祀りして一緒に供養して良いものか? 2、別々のお水お花を用意して般若心経を唱えるのが良いのか? 宗教は全く異なりますが、自分の出来る範囲で供養出来ればと思っています。 どうかアドバイスをお願いします。
お世話になっております。煩悩即菩提は、よく懺愧の心から起こると聞きますが、親鸞聖人もおっしゃっているように、僕は無懺無愧の人間です。誠に自分勝手ですが、悪い心を持ってしても、全く恥ずかしいと思いません。何しろ、仏様の目から見れば善悪というのは相対的なものであり、人間(世間)が勝手に善悪と判断しているに過ぎません。仏様から見れば善も悪もないはずなのです。だからわざわざ懺愧する意味が分かりません。そもそも、極悪人や罪という言葉をよく仏教では使いますが、それも相対的なものであるはずです。何がどう罪深いのか分かりません。こういう僕には煩悩即菩提の境地は一生理解できそうにありません。
先日相談をし、解決の糸口が定まらなかったもので、質問を変えて投稿させていただきます。 私は、人とは基本的に利己的な存在であると思います。 他人や勿論私自身も、おそらく自分1位の考え方が本質的にあるのだろうと思います。 例えば些細なことでは、他人の失敗を寛容に許せない人間や、自分を信じて疑わず、断固全てが他人のせいだと憤怒する人間、自分の保身のみ考える人間など、多種多様です。 その多種多様な人間の中で最も私が理解出来ないのは、「簡単に人に怒りを向けられる人間」なのですが、人は何故怒るのですか。 利己的な本質というものが背景にあり、自身の不平不満や、不安を解消するための手段というのは承知しております。ですが、怒ること(恨み辛みの感情を持つこと)は相手は勿論自分にさえマイナスなものしか与えません。憎い相手にそれほどの労力を使うのですから、解消のため怒りをぶつけることはデメリットの方が大きいはずです。 また、人には長所がどこかしら存在するはずです。その相手の長所を思えば、怒りを向けることを踏み留まったり出来るはずではないでしょうか。目先の解消を優先してしまうのは何故ですか。 大人でさえもそれに気付かずに、理不尽と思われるような怒りをデメリットを背負ってぶつけます。 合理的に考えていけばそんなことにはならず、誰も傷付かないのに。 加えて、そういった方々の殆どは、責任の所在が100%相手にあるという錯覚をしているような気がします。選択の余地がある以上、その選択をした自分にも何割かの非があるはずだ……私はそう考えるのですが、他の方は違うのですか。 非常に生きづらいです。
数年前に犯した罪について、どのような気持ちをもって向き合っていけばよいか悩み続けています。 私の犯した罪はともすれば刑事事件となってもおかしくなかったような事で、私はたまたま法的な裁きを受けることなく済みました。しかし、自分の罪責から逃れるために、卑怯な立ち回りをしたことも事実です。 私のしたことで、人に怪我を負わせたり、金品を奪ったというようなことはありません。しかし、相手方に大きな精神的苦痛を与えたことは間違いありません。 この数年間、私は、自分のせいで人を大いに傷つけたこと、その責から逃れるために卑怯な立ち回りをしたこと、自分がなんの代償も払っていないこと、苦痛を与えた相手に対してもはや具体的な償いができないこと、自分がまだ相手から恨まれ続けているのではないかということ、に悩み、苦しみ続けています。 先日読んだある本の中に、「許すか許さないかは、自分ではなく相手の責任である」と書かれているのを見つけました。当初は救われたような気持ちがしましたが、しかし、自分は自分のしたことについて責任を負っていない、だから罪は厳として自分の側にあり、そもそも許すか許さないかを相手に委ねる段階にさえ達していない、という思いが募るようになりました。 あれから、自分は脛に傷持つ人間なのだから、そのことを自覚して、謙虚に、親切に生きなければならない、と決心して生きてきましたが、罪の意識は消えません。また矛盾しているようですが、すっかり罪悪感が消え去ってしまうのも、自分が性根の悪い自己中心的な人間であることを突きつけられるようで、恐ろしく、逃げ場のない気持ちになります。そうなれば反省したことも忘れて、また同じようなことをするのではないかという怖れもあります。 そもそも、このような場で質問させていただくのですから、当時の私がしたことの具体的な経緯や状況を明らかにすべきなのですが、私にはどうしても書くことができませんでした。そのこともまた、自分の卑怯さを思い知らされるようで、耐え難い気持ちになります。 大変曖昧な文章になってしまいまして失礼なのですが、これから私は自分の罪についてどう向き合っていけばよいのか、どのような心持ちで生きていけばよいのか、ご助言をいただければと思います。
出釈迦寺の弘法大師(真魚)のことについて調べています。 以下伝説の内容です ------------------------- 弘法大師が真魚(まお)呼ばれていた7歳の時、我拝師山に登り 「将来仏門に入って、仏の教えを広め多くの人々を迷いから救いたい。この願いが叶うかどうか、お釈迦様の証をお示しください。もしもそれが叶わないなら、この身を諸仏に供養としてささげます。」 と願い、断崖絶壁から飛び降りました。 すると、紫色の雲が湧き、羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめました。 天女が真魚を飛び降りた場所に戻すのと同時に紫色の雲が湧き、釈迦如来が現れ「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就されました。 -------------------------------------------------------- この 「釈迦如来が現れ「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就されました。」 という意味がわかりません。 生きながらにして仏になったということですか? 空海さんは即身仏になる前から仏だったということでしょうか? 誰かわかりやすく教えて頂きたいです。 よろしくお願いいたします。
お寺で参拝するときは現世の利益を願う事を避けて、自分の命を仏様に感謝する事にとどめなさい、というような事を聞いたことがあります。 しかしそれとは全く反対の事をおっしゃる僧侶にお会いした事があります。(お寺では結婚や出世など、なるべく具体的な願い事をお願いすべきだと、、) どのような心構えでお寺に参拝するのが良いのでしょうか?
またまた質問よろしくお願いします。 死について漠然とした不安があります。 最初は小学生のころでした。特に何かあったわけではありません。 ただふっとした時に「死にたくない~」と思い泣いていたのを記憶しています。 ヲタクなので、漫画やらアニメやらドラマやらメディアでは死について想像したり見たりします。 ですが、身近な親戚や、友人知人の死に直面したことはありません。 同級生がひとり自殺されたという話は聞いたのですが、同級生との関わりが縁遠くなってしまっているので、実感がありません。 両親の祖父母は健在ですし、自分の家で生活できています。 東北在住なのですが、近くにいる親しい人が震災で被害にあったということもありませんでした。 自身もですが、親戚、家族、友人知人が大病を患い入院しているということもありませんでした。それ自体はとても幸運なことだとは理解しています。 外にいて空の高さや雲の重なりなんかを見て地球や宇宙を感じるとき。 妊婦さんを見かけたりした時。自分が生きてたり生命があるという事を感じます。 今でもふとした時にとてつもなく死に恐怖を感じます。 これからさきどうなるんだろう?まだ20代なのですが、30代に差し掛かるし、求職中で独身です。 死より将来に漠然とした不安を感じているのかもしれません。 これから先も地球や日本は続いていくけど、私は死んだらどうなるんだろう?死んだら終わりだし真っ暗で何も感じられないんだろうと考えると怖くて怖くて堪りません。自分の人生がいつか終わるのが不安で恐怖に感じています。 別の質問で書きましたが、危ない運転をしてしまったことがあります。 それでも生きているけど、いつ死ぬかわからないよね。 と感じたことがあります。そして身近な人の死に耐えられるかわかりません。 自分でも身近な人でも死が怖くて堪りません。 死の恐怖とはどのように向き合っていったらいいのでしょうか? 20代後半でこんなことを考えているのは可笑しいでしょうか?ご教授よろしくお願いします。
私は、高校生ですが、普通一般のきゃぴきゃぴしたかわいい「健常者」の高校生では、ありません(残念ながら)。 知的障がい者で今は、就職するための知的障がい者専用の高等特別支援学校に通っています。(卒業してすぐ障がい者枠で就職、中卒の高校です。) 私は、いろんな人に助けられたし、しかられたり、教えてもらったり、元気をもらったりします。 だから、仏様(-ι-З)にほんと心を救われたので私もお坊さんや尼さんのように人の心を少しでも癒してあげたいな(* ´ ▽ ` *)と思いました。でも、自分は、いままで人間関係で自分の行動や言葉が足りなくて相手ともめたり困らせてしまったこともありました。 あるとき、ふと考えました。「もし、私が尼さんだったら……(○´∀`○)」 でも、現実を見ると…………… 「いや~_(^^;)ゞ私が尼さんかーないない」と思って夢を諦めました。(お坊さんや尼さんの修行の辛さもわかりませんからなんとも言えません) でも、このままで今の自分では、家族に迷惑をかけるだけだし、「今の自分」から抜け出して家族から自立して「温かくやさしい穏やかな人」になりたいなと思っています。 文章らしくなくてごめんなさいm(_ _)m 言葉が伝わればいいのですが、伝わったらそれですね……
先日は客観的かつ優しさに溢れたご回答を、ありがとうございました。 辛さがぶり返した時に読んで励みにしています。 泣いてばかりの時もありましたが、今はとにかく前に進もうと、転居の準備を進めています。 hasunohaで、自分と似た悩みを抱えた方へのご回答を拝見するうちに、仏教のことがもっと知りたくなりました。 そして、生き方など普遍的な悩みを持つ方へのご回答や、人生を穏やかに過ごすヒントになるようなご回答を探して、読むようになりました。 いくつかは画面を保存させていただいて、時々読み返しています。読むたび、少しほっとします。 読書が好きなので、お坊様の書かれた本や、手塚治虫先生の「ブッダ」を読んだりもしました。とても感動し、腑に落ちる内容でした。 ありがたい教えに触れているうちに、私の今までの人生は、執着と寂しさにまみれていたと気づくことができました。 手に入れたいものが多くて、ガツガツ努力して、認められても不安で、環境を恨み続けて…という生き方に、疲れている自分を見つけました。 お坊様のお話に触れているうちは、一人でも生きてていいんだよ、無理しなくても大丈夫だよ、と言ってもらえている気がするのです。 凝り固まった考え方が、少しずつ変わりつつあるのを実感していますが、同時に、私は仏教や、お坊様の教えに依存しているのではないか?と不安が出てきました。 日常でも、人と接する時、フッと辛さが出てきた時、仏教の事を考えます。皆様のお言葉を思い出して心を鎮めています。 他にも書店で関連の本を探したり、近くのお寺を探したり、ネットで用語を調べたり、日常の中で仏教のことを考える時間がかなり増えました。 仏教を知ることで、自分が救われる気がしてならないのです。 周りからの評価や、恋人の存在に依存していたのが、仏教に依存先が変わっただけなのではと思ってしまって、お坊様のありがたいお話を読んでいても、苦しくなってしまうんです。 仏教の考え方に依存するのは、いけないことでしょうか。執着にあたるのでしょうか。 長くなってしまい恐縮ですが、ご教示いただけますと幸いです。
つらいです、くるしいです はやく会いたいです やっぱりだめみたいです こんなこと言ってたら きっと彼も悲しむのに 会いたいです はやく彼のところへ行きたいです ひとりでいるのがつらいです
こんにちは! 突然ですが、仏教では「子作り」はどういう捉え方をされているのでしょうか? 仏教には「生物の幸せを願おう」「傷つけることはやめよう」という考え方がありますよね。それならば、僕は「子作りは産まれてくる子供を傷つけるということなのではないか?」と思いました。 なぜならば、人生は楽しいこともあるけど嫌なこともあるからです。また、赤ちゃんは泣いて産まれてきますよね。産まれた瞬間から「快」ではないのは確かです。 「明るい家庭を作りたい」と夢見たこともありましたが、「人(子供)が傷つくのか...」と思う自分がいます。考えすぎでしょうか。 そもそも彼女ができたことがないし童貞の自分がこんなことを考えても仕方がないのかもしれませんが(^_^;)、皆さまのご意見をお聞かせ頂けましたら幸いです!
現在、実家から離れて一人暮らしをしている大学生です。最近就職や結婚について色々考え始めました。私は、将来は関東又は関西で就職したいと考えています。しかし、私は、本家の一人っ子で、私が地元を離れたら家はどうなるか不安です。親は、地元に就職しなくてもいいけど家は継いでほしいといっています。家とか土地とか家を継ぐとかよく分からなく不安です。また、親の介護の心配もあります。 今考えていることは、若いうちは都会で就職して、退職した時に実家に帰るということです。これは、家を継いだことになりますか?また、自分の子どもが家を継いでいくかも分かりません。家を継ぐとはどういうことですか?将来は婿養子をとるつもりですが、その土地に住んでいないと家を継いだことになりませんか? 乱雑になって申し訳ありません。真剣に悩んでいます。ご回答いただけると助かります。
毎回、お答えしていただいてありがとうございます。 今回も、お答えいただけると嬉しいです。 今回は、正直自分でも気分はいいものではないですが・・、 お答えいただけると嬉しいです。 悪いことをしたら、地獄へ、いいことをしたら天国へ行くという認識が 世の中にはありますが、実際は良い事しようと悪いことをしようと、 行く場所は天国、極楽浄土とでもいいますが、実際そこに行けるわけではなく みんな地獄へ行くんですね。 仏教において~(ネットの記事等なので見た感じです)なんて言葉も調べたら出てきました。 生まれながらに、私たちは色んな罪を犯しています。 だから、良いことをたくさんしても、まるで意味がないように感じます。 とても気分は悪いです。抱えて生きていかなきゃいけない訳ですから・・。 辛いです。救いようがないです。 とても不安しかありません。どう生きていけばいいんですか。 教えてほしいです。お坊さんの皆さまよろしくお願いします。
高校生の頃いじめを受けて、勉学に支障をきたすようになり高校を中退しました。その後社会に出て働きお金を貯め、勉強をして専門学校に合格しました。 その専門学校も、家庭の事情で住まいと交通手段が確保できなくなり休学していましたがこの度、退校することになりました。 今後も通えるようになる見込みがないからです。 私が学びたかったことは専門性が高く、実技も含まれるため独学に向きません。 私は、学びたいことを学ぼうとすると何かしら邪魔が入る星の下にでも生まれたのでしょうか?もうウンザリです。 生きてることすら辛い。早く死んでしまいたい。 そこで質問です。 死後の世界は一体どんな世界なのでしょうか。今ある肉体から解放されて、自分を生かし続けるという苦しみから逃れられるのでしょうか?
最近死ぬことがとても怖いです。今私は20代でまだまだ先の人生があると周りに言われます。死ぬ時よりも死んだ後無になるのだと思うと怖くてたまらなくなり涙が出てきます。今は祖父母も両親も夫も健在で幸せな生活を送ることができています。だからこそこの幸せがいつか無になることが怖いです。また、時間には逆らえないので祖父母、両親が先に亡くなるのだと思いますが、自分が死んでから会えますか?お母さんは必ず迎えにくると約束してくれました。夫も死ぬからといって離れ離れにはならないし、ずっと一緒だと言ってくれています。ただ、死んだら怖いとか迎えにきてくれるとか、そのようなことも思うことすらできなくなくなるのでしょうか。意識が無くなり、思いや感情や記憶も全て無くなってしまうのでしょうか。怖くて仕方ありません。自分が数十年前はこの世に存在しなかったというのも不思議でなりません。死んでも幸せな時間が続くという保証があればきっと怖くなくなるのだと思いますが、そんなことは誰にも分からないし、だからこそ怖いという思いが無くなりません。これまで亡くなってこられた方々も生前にこのような気持ちを持ちながら生活し、気づかないうちに亡くなっていたのでしょうか。文章がまとまらずすみません。辛く、怖いです。