hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「自分 悟り 」
検索結果: 1816件

人は何故怒るのですか

先日相談をし、解決の糸口が定まらなかったもので、質問を変えて投稿させていただきます。 私は、人とは基本的に利己的な存在であると思います。 他人や勿論私自身も、おそらく自分1位の考え方が本質的にあるのだろうと思います。 例えば些細なことでは、他人の失敗を寛容に許せない人間や、自分を信じて疑わず、断固全てが他人のせいだと憤怒する人間、自分の保身のみ考える人間など、多種多様です。 その多種多様な人間の中で最も私が理解出来ないのは、「簡単に人に怒りを向けられる人間」なのですが、人は何故怒るのですか。 利己的な本質というものが背景にあり、自身の不平不満や、不安を解消するための手段というのは承知しております。ですが、怒ること(恨み辛みの感情を持つこと)は相手は勿論自分にさえマイナスなものしか与えません。憎い相手にそれほどの労力を使うのですから、解消のため怒りをぶつけることはデメリットの方が大きいはずです。 また、人には長所がどこかしら存在するはずです。その相手の長所を思えば、怒りを向けることを踏み留まったり出来るはずではないでしょうか。目先の解消を優先してしまうのは何故ですか。 大人でさえもそれに気付かずに、理不尽と思われるような怒りをデメリットを背負ってぶつけます。 合理的に考えていけばそんなことにはならず、誰も傷付かないのに。 加えて、そういった方々の殆どは、責任の所在が100%相手にあるという錯覚をしているような気がします。選択の余地がある以上、その選択をした自分にも何割かの非があるはずだ……私はそう考えるのですが、他の方は違うのですか。 非常に生きづらいです。

有り難し有り難し 45
回答数回答 3

過去の罪とどう向き合うか

数年前に犯した罪について、どのような気持ちをもって向き合っていけばよいか悩み続けています。 私の犯した罪はともすれば刑事事件となってもおかしくなかったような事で、私はたまたま法的な裁きを受けることなく済みました。しかし、自分の罪責から逃れるために、卑怯な立ち回りをしたことも事実です。 私のしたことで、人に怪我を負わせたり、金品を奪ったというようなことはありません。しかし、相手方に大きな精神的苦痛を与えたことは間違いありません。 この数年間、私は、自分のせいで人を大いに傷つけたこと、その責から逃れるために卑怯な立ち回りをしたこと、自分がなんの代償も払っていないこと、苦痛を与えた相手に対してもはや具体的な償いができないこと、自分がまだ相手から恨まれ続けているのではないかということ、に悩み、苦しみ続けています。 先日読んだある本の中に、「許すか許さないかは、自分ではなく相手の責任である」と書かれているのを見つけました。当初は救われたような気持ちがしましたが、しかし、自分は自分のしたことについて責任を負っていない、だから罪は厳として自分の側にあり、そもそも許すか許さないかを相手に委ねる段階にさえ達していない、という思いが募るようになりました。 あれから、自分は脛に傷持つ人間なのだから、そのことを自覚して、謙虚に、親切に生きなければならない、と決心して生きてきましたが、罪の意識は消えません。また矛盾しているようですが、すっかり罪悪感が消え去ってしまうのも、自分が性根の悪い自己中心的な人間であることを突きつけられるようで、恐ろしく、逃げ場のない気持ちになります。そうなれば反省したことも忘れて、また同じようなことをするのではないかという怖れもあります。 そもそも、このような場で質問させていただくのですから、当時の私がしたことの具体的な経緯や状況を明らかにすべきなのですが、私にはどうしても書くことができませんでした。そのこともまた、自分の卑怯さを思い知らされるようで、耐え難い気持ちになります。 大変曖昧な文章になってしまいまして失礼なのですが、これから私は自分の罪についてどう向き合っていけばよいのか、どのような心持ちで生きていけばよいのか、ご助言をいただければと思います。

有り難し有り難し 500
回答数回答 3

仏教に依存するのは、よくないことですか?

先日は客観的かつ優しさに溢れたご回答を、ありがとうございました。 辛さがぶり返した時に読んで励みにしています。 泣いてばかりの時もありましたが、今はとにかく前に進もうと、転居の準備を進めています。 hasunohaで、自分と似た悩みを抱えた方へのご回答を拝見するうちに、仏教のことがもっと知りたくなりました。 そして、生き方など普遍的な悩みを持つ方へのご回答や、人生を穏やかに過ごすヒントになるようなご回答を探して、読むようになりました。 いくつかは画面を保存させていただいて、時々読み返しています。読むたび、少しほっとします。 読書が好きなので、お坊様の書かれた本や、手塚治虫先生の「ブッダ」を読んだりもしました。とても感動し、腑に落ちる内容でした。 ありがたい教えに触れているうちに、私の今までの人生は、執着と寂しさにまみれていたと気づくことができました。 手に入れたいものが多くて、ガツガツ努力して、認められても不安で、環境を恨み続けて…という生き方に、疲れている自分を見つけました。 お坊様のお話に触れているうちは、一人でも生きてていいんだよ、無理しなくても大丈夫だよ、と言ってもらえている気がするのです。 凝り固まった考え方が、少しずつ変わりつつあるのを実感していますが、同時に、私は仏教や、お坊様の教えに依存しているのではないか?と不安が出てきました。 日常でも、人と接する時、フッと辛さが出てきた時、仏教の事を考えます。皆様のお言葉を思い出して心を鎮めています。 他にも書店で関連の本を探したり、近くのお寺を探したり、ネットで用語を調べたり、日常の中で仏教のことを考える時間がかなり増えました。 仏教を知ることで、自分が救われる気がしてならないのです。 周りからの評価や、恋人の存在に依存していたのが、仏教に依存先が変わっただけなのではと思ってしまって、お坊様のありがたいお話を読んでいても、苦しくなってしまうんです。 仏教の考え方に依存するのは、いけないことでしょうか。執着にあたるのでしょうか。 長くなってしまい恐縮ですが、ご教示いただけますと幸いです。

有り難し有り難し 57
回答数回答 3

死について漠然とした不安があります

 またまた質問よろしくお願いします。 死について漠然とした不安があります。 最初は小学生のころでした。特に何かあったわけではありません。 ただふっとした時に「死にたくない~」と思い泣いていたのを記憶しています。 ヲタクなので、漫画やらアニメやらドラマやらメディアでは死について想像したり見たりします。 ですが、身近な親戚や、友人知人の死に直面したことはありません。 同級生がひとり自殺されたという話は聞いたのですが、同級生との関わりが縁遠くなってしまっているので、実感がありません。 両親の祖父母は健在ですし、自分の家で生活できています。 東北在住なのですが、近くにいる親しい人が震災で被害にあったということもありませんでした。 自身もですが、親戚、家族、友人知人が大病を患い入院しているということもありませんでした。それ自体はとても幸運なことだとは理解しています。 外にいて空の高さや雲の重なりなんかを見て地球や宇宙を感じるとき。 妊婦さんを見かけたりした時。自分が生きてたり生命があるという事を感じます。 今でもふとした時にとてつもなく死に恐怖を感じます。 これからさきどうなるんだろう?まだ20代なのですが、30代に差し掛かるし、求職中で独身です。 死より将来に漠然とした不安を感じているのかもしれません。 これから先も地球や日本は続いていくけど、私は死んだらどうなるんだろう?死んだら終わりだし真っ暗で何も感じられないんだろうと考えると怖くて怖くて堪りません。自分の人生がいつか終わるのが不安で恐怖に感じています。 別の質問で書きましたが、危ない運転をしてしまったことがあります。 それでも生きているけど、いつ死ぬかわからないよね。 と感じたことがあります。そして身近な人の死に耐えられるかわかりません。 自分でも身近な人でも死が怖くて堪りません。 死の恐怖とはどのように向き合っていったらいいのでしょうか? 20代後半でこんなことを考えているのは可笑しいでしょうか?ご教授よろしくお願いします。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2

自閉症でも自由に蓮の花を咲かせることができますか?

私は、高校生ですが、普通一般のきゃぴきゃぴしたかわいい「健常者」の高校生では、ありません(残念ながら)。 知的障がい者で今は、就職するための知的障がい者専用の高等特別支援学校に通っています。(卒業してすぐ障がい者枠で就職、中卒の高校です。) 私は、いろんな人に助けられたし、しかられたり、教えてもらったり、元気をもらったりします。 だから、仏様(-ι-З)にほんと心を救われたので私もお坊さんや尼さんのように人の心を少しでも癒してあげたいな(* ´ ▽ ` *)と思いました。でも、自分は、いままで人間関係で自分の行動や言葉が足りなくて相手ともめたり困らせてしまったこともありました。 あるとき、ふと考えました。「もし、私が尼さんだったら……(○´∀`○)」 でも、現実を見ると…………… 「いや~_(^^;)ゞ私が尼さんかーないない」と思って夢を諦めました。(お坊さんや尼さんの修行の辛さもわかりませんからなんとも言えません) でも、このままで今の自分では、家族に迷惑をかけるだけだし、「今の自分」から抜け出して家族から自立して「温かくやさしい穏やかな人」になりたいなと思っています。 文章らしくなくてごめんなさいm(_ _)m 言葉が伝わればいいのですが、伝わったらそれですね……

有り難し有り難し 51
回答数回答 3

心と実際の間で。

最近、とても気持ちが不安定です。 心の持ち方を変えなくては…と出来ることを始めようと、お坊さんの書いた本や、ブッタの本、自己啓発の本、写真集や偉人の言葉などを読み漁っています。 例えば、怒りの気持ちを10秒我慢してみましょうとか、普段の生活を見直しましょうとか、あらゆる色々なアドバイスを読んでは実行しようと頑張っています。 でも、そうやって1つ1つの動作に緊張感を持ってるせいか、今まで以上にストレスがかかり、それがあちこち体に出てしまいます。 心が乱れると、食生活も乱れ、家族には手の込んだものを作っていても、自分は菓子パンとか、ごはんだけとか、お菓子で済ませることもあります。 1番治したいところは、すぐにイライラしてしまう事です。接客業なので、仕事中は感情を露にはしませんが、その分些細な事で子どもに必要以上に怒鳴ってしまったり、理由もなくイライラしては甘い物を過食してしまったり… 最後に笑ったのはいつなのか分かりません。 多分、こうして切羽詰まって相談させていただいていますが、その御返事の御言葉も心の奥底では分かっているのだと思います。周囲はそんな私に、更年期だから…と言いますが、そういうせいにはしたくないのです。精神科に行って薬に頼るのも嫌なのです。 心穏やかに、周囲に感謝し、妬み恨みを抱かず、優しく静かに暮らしたいです。もちろんそうならないのは、自分自身のせいだと熟知しています。だから苦しんでいます。 抽象的で矛盾したご相談かもしれませんが、どうか教えていただきますたいです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 15
回答数回答 2

死後の世界について

最近死ぬことがとても怖いです。今私は20代でまだまだ先の人生があると周りに言われます。死ぬ時よりも死んだ後無になるのだと思うと怖くてたまらなくなり涙が出てきます。今は祖父母も両親も夫も健在で幸せな生活を送ることができています。だからこそこの幸せがいつか無になることが怖いです。また、時間には逆らえないので祖父母、両親が先に亡くなるのだと思いますが、自分が死んでから会えますか?お母さんは必ず迎えにくると約束してくれました。夫も死ぬからといって離れ離れにはならないし、ずっと一緒だと言ってくれています。ただ、死んだら怖いとか迎えにきてくれるとか、そのようなことも思うことすらできなくなくなるのでしょうか。意識が無くなり、思いや感情や記憶も全て無くなってしまうのでしょうか。怖くて仕方ありません。自分が数十年前はこの世に存在しなかったというのも不思議でなりません。死んでも幸せな時間が続くという保証があればきっと怖くなくなるのだと思いますが、そんなことは誰にも分からないし、だからこそ怖いという思いが無くなりません。これまで亡くなってこられた方々も生前にこのような気持ちを持ちながら生活し、気づかないうちに亡くなっていたのでしょうか。文章がまとまらずすみません。辛く、怖いです。

有り難し有り難し 19
回答数回答 2

自身の人生

初めてこちらで相談をさせて頂きます。26歳でアルバイトをしながら転職活動をしているものです 自分自身、これからの人生をどのように進んでいけば良いのか分からずどん底の状態にあり、書かせて致しました。 (今までの流れ)ーーーーーーー 大学時から、子供の貧困や高齢者の方々の支援を行いたい また、色んな人がハンデなどを抱えていても安心して暮らせる社会を実現したいという夢のため市役所職員を目指すも 夢叶わず、卒業後一般企業へ(2016年のことです) 約一年後、もう一度夢を叶えたいと思い会社を退職(2017のことです) 2017年~一年は勉強にあて 2018年と2019年に再び試験を受けるも合格できず。(現在のアルバイトは2018年から行っています) 11月に全てがダメだと分かり、昨年度の12月から再度民間の会社に入る為に転職活動を開始 (以上になります) ーーーーーーーーーーーーー 私自身、今まで市役所職員として成し遂げたい目標の為に、一心に目指していたこともあり、この先の人生をどのように進めば良いのか、何をなすべきなのか(再度就職したあとも、働きながらでも夢は目指したいと思っているのですが) また、夢を実現できない私は何の為に生かされているのか 分からず このようなどん底が続くなら人生終わらせてくれればいいのにや この辛い時期はいつか晴れるのかと日々考えている所です。

有り難し有り難し 14
回答数回答 2

寂しさについて

とても素朴な質問なんですが、寂しさとは何でしょうか? どこから来るのでしょうか? お坊さんとしては、そのことについてどう考えているのでしょうか? 以前も投稿させて頂いたのですが、SNSの利用の仕方について悩んでいます。 これは、SNSに問題があるのではなく、寂しい気持ちをうまくコントロール出来ずに、後で自己嫌悪になるような投稿をしてしまう私に問題があるのだと思います。 自己嫌悪になるような投稿とは、かまって欲しいために、自分の生活のあまり知られたくない部分を書いてしまったり、甘えてみたり、自虐的になったり、変にふざけておもしろくしてしまおうとすることです。 SNSで寂しいことと言えば、反応がないことだと思います。無視されているようで、寂しさが増幅されます。 たとえ、反応があったとしても、なんだか、自分の生活を売り物にしている芸人のような気分、この人たちは、私がおもしろくなかったら、「いいね」さえしてくれないのだな、という気持ちになります。 大げさかもしれませんが、自分を傷つけて相手の気を引こうとしているような感じです。 先日、ついにフェイスブックに手を出してしまいました。 その時、私は酔っ払っていて、とても寂しい気持ちでした。 それで何人か疎遠になっている知人に友達申請したのですが、しばらく経って気がついたのは、やはり、本名でも匿名でも、私は私であって、急に中身があっておもしろい話が出来るようになって、人の気を引くことはできないということでした。 私の理想としては、誰かに承認されたり、依存したりすることなく、一人でも楽しく過ごせる心があればいいな、と思います。 どうすればそんな心になれるでしょうか? そんな、心になるのが無理だとしても、寂しさをコントロールするには、どうすればいいでしょうか? お言葉をいただければ嬉しいです。

有り難し有り難し 91
回答数回答 3