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hasunoha 問答検索結果 : 「先生 生きる 」
検索結果: 2199件

十善戒の教えは、守りやすい順番に並んでいるのですか?

はじめまして、お忙しい中恐縮ですが、気になることを質問をさせていただきます。 私は読書ブログで本を紹介させていただいたり、本の内容を暮らしの中で活用したお話を書いています。 仏教の本は、暮らしの中で自分も相手も気持ちよく暮らせる取り組みが多く、よく紹介させていただいております。 先日取り上げた本には、十善戒について書かれた内容があり、暮らしの中でできているかを当てはめてみました(心に思っただけのことも入れて自信を持ってできる!といえるコトは1つだけですが…) 本では十善戒を、①殺生しない、②盗まない、③性において淫らな行為をしない、④嘘をつかない、⑤意味のない流行り言葉を使わない、⑥悪口をいわない、⑦二枚舌を使わない、⑧貪らない、⑨愚痴らない、怨みや妬み羨み怒りの心を持たない、⑩愚かな考えをおこさない、と紹介されていました。 実際に暮らしに当てはめてみると、「暮らしに合わせて3つに分けられるのでは?」と思えてきました。 ①〜④までの教えは、最低限、「生きていく」のに守らなければならない決まり。 ⑤〜⑦は、家族と仲良く暮らしたり、地域や会社でトラブルを減らす「社会で暮らす」のに欠かせないこと。 ⑧〜⑩は、自分の心の中の出来事でもあるので「幸せを感じる」のに必要なこと。 ちょうど順番通りになっていたので、もしかしたら元になったお経でも「こうなっているのかな?」、まとめていてふと思えてきました。 十善戒の中で「生きていく」ための決まりは守りやすく、後半の「幸せを感じる」のに必要なことはとても難しいと感じます。 教えの元になったお経では、順番によって守りやすさはあるのでしょうか? 解説書などでは、何かしらの分け方があるのでしょうか? 専門家のお坊さまに、お時間のあるときで構いませんので教えていただきたく思います。 緊迫する悩み事ではありませんので、本当にお時間のあるときで構いません。

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ふと思いました。宗教とは、仏教とはなんだろう。

 いつもお世話になっております。最近になって考えている事 なんですが、宗教とは、仏教とは一体何なんでしょうか?  釈尊曰く、  「行や祈りで障害や疾病が治癒すること、また事態が好転すること はない。精進努力、また常に学び続ける姿勢が肝要」 だそうです。  ですが昨今、経文の曲解等により霊感商法や洗脳ともとれる 行動や言動に出る者が数多く存在することもわかりました。  信徒では憑き物信仰と思い込み、護摩の最中に暴れたり奇声を 上げたりしてお坊さんからお咎めを受ける人がいたり、  蹴落とす目的か他の信徒さんを誹謗中傷、または異性の信徒に 境内で付きまとい行為をしたりなど、無法な輩もしばしば 見かけることがあります。  私たちはどうあるべき?また、仏教とは何なんでしょうか?    私は、とにかく暇だと余計なことを考えてしまって気分が悪く なるので様々な資格の勉強に手を出しています。  また、刑法や仏教とも縁が深いであろう人権がらみの法律を 勉強しています。(法燈明の教えによる)    基本、自分の体質の事は医師や行政のサポーターにのみ話し、 相談する事にしました。余計なトラブルを避けるためです。  死後のことは仏様に一任し、現世の修行としては常に学びの 姿勢を忘れず過ごすようにしています。  ご意見お待ちしております。よろしくお願いいたします。

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「死にたくない」と思わないのは、おかしいことですか

こんにちは。 今年、「私はこのために生まれてきた」と思えるような大きな仕事を、文句のつけようがないほど良い形で果たすことができました。自己満足だけでなく、社会にも大いに役立つ仕事です。この社会に生を受けた責任も、果たし終えたといえると思います。 だから30代半ばにして、私にとってはこの先は「余生」という感覚で、もういつ死んでもいいと思うようになりました。 生きていることが、絶対的に幸せだとは私は思いません。生きていれば、「知らなければ幸せだったこと」を知ってしまい、絶望に苦しまなければならないこともあります。生きるためにはお金が必要ですが、そのためにあくせく働いて「何のために生きているのかわからない」と思ってしまうのでは、目的と手段が入れ替わっているようにも思えます。 それに、今の私は人生の目的を最良の形で果たし終え、幸せの絶頂にいます。もし今、人生の最後の時が来たら「私の人生は最高だった!」と笑って死ぬことができるでしょう。それはある意味、理想の死の形ではないかとも思います。 親はいますが、伴侶や子どもはいませんので、「この子の行く末を見守るまでは死ねない!」というモチベーションもありません。フリーランサーなので、組織に対する責任もないです。親や友人は私にもしものことがあれば嘆き悲しむでしょうが、志半ばではなく充分に人生を謳歌し、社会にも確かな礎を遺して生き切った私を、誇りに思ってくれるのではないかとも思います。 でも、そんな縁起でもないことを考えてはいけない…という風潮もありますし、「長生きしたいと思わない」なんて生物としておかしいのではないか、そんな考えを口に出すことは人としてタブーなのではないか…と我ながら思ってしまうこともあります。 一方で、死生観は人それぞれ、一般論に振り回されても意味がないのではないか…と思う自分もいます。「逆縁なんて親不孝」「生きたくても生きられない人もいるのに」なんて定型文もありますが、そんなのはケースバイケースだと思います。 もちろん、私は「自殺したい」と考えているわけではありません。ただ漠然と「今お迎えが来てもいいな、そうなっても全然『死にたくない』とは思わないな」…などと思っているぐらいです。 私の考えは誤っているのでしょうか。誤っているとしたら、なぜなのでしょうか。 こんな私に、有り難いご教示をいただけたら幸いです。

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許されるならば

私には、知り合って17年くらい、お付き合いが始まって14,15年のパートナーがいます。 私の田舎で知り合いもともと東京だった彼のもとに上京して10年経ちます。 彼には、奥様、お子様がおりました。いろいろありました。悩みました。彼がいつ離婚されたのか私は知りません。ですが、この人に一生寄り添って暮らして生くことを決め、上京しました。 彼は常々息子達が一番だからと昔から言っていたこともあり、私は子供が欲しいなんて口が避けても口に出しても思ってもいけない、そんなの許されるはずがない。お子様達の父親を奪ったんだから、してはいけないことをした、罰があるなら子どもを授かりたいなんて許されない。結婚もしない。と思ってきました。 いつか彼は、子どもができたらその時考えようとは、言ってくれてました。中絶なんてありえないからと。 でも、結局今までできなくて、ここ1,2年はセックスレスで…ただ、歳をとるにつれやっぱり子どもが欲しいと思う気持ちがおさえきれなくなっていて。 2,3年前にある区が主催する産婦人科の先生の何でも相談会があり、不安や複雑な気持ちの中、妊娠、不妊の事等聞きたくて行ってみたら、「あなた、本当に子供が欲しいようにはみえないんだけど。」と一言。すごく悲しかったしすごく傷ついた。まだまだ気持ちが足りない、やっぱりそんな事思っちゃダメだったんだと思ったりも。 最近では、妊婦さんや家族連れを見かけるだけでも心がチクチクざわついて辛い。 今でも、十分幸福で、だだ望みすぎ、無い物ねだり、見たものこじきみたいなものなのか… 彼とも話し合いをしなくてはと思っていても、何から何をどう話せばよいのか、うまく言葉も出せず。 不妊検査を受けてまず今の自分の状態を知って、少しでも前に進もうと思っても、 あの時あの先生に言われた一言が頭の中をぐるぐる、突き刺さって抜けないトゲのようにあらわれてなかなかその一歩がおじけずいてうずくまって動けない。苦しい。 どうしたら、いいのでしょうか? おすくいください。 長々と、まとまらない文ですみません。 最後まで読んで頂きありがとうございます。

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私の死生観は間違っているのでしょうか?

カテゴリ間違いだったら申し訳有りません。 私が高校生の頃、生徒教師共に学年全体から疎まれていた教師が突然死しました。 その教師はセクハラ発言、時間があれば自分語り、自分ルールが横行しており、校長が何度注意しても直らない と言った問題行動を連発していました。 その教師が亡くなる数日前まで学年の一人の教師が、被害届を纏め、教育委員会に提出するべく書類を作成していた程でした。 学年集会で亡くなった事が告げられると、「早く●んで笑」とまで散々悪口を言っていた生徒達が泣いていました。 私はこの事に対し「今まで散々悪口を言っていたのに手のひら返したように泣ける感受性と協調性の豊かさが羨ましい」と友人の前で呟いていました。 この発言に対し、友人から「泣いている人を批判しているのは間違ってる」と指摘されました 私は人間も食パンも変わらないと思っています。 「食パンを食べたら無くなった=胃に収容されたから 」であって「食パンは食べられるために生まれてきた 」訳です。 私は人間はこの世に生まれる理由は、死ぬ為に生まれて来ている と思っています。 いつかは死ぬのだから、人間は必死に生きなくてはならない、やりたいこともやりたい時にやらないといつかは死んでしまう と。 人間も「人が亡くなった=死ぬ為に生まれてきたから」であって、死は誰にでも平等に与えられているものですし、当然の事だと思っています。 その人に関わってきた時間や感情、思い出が加味されて、改めて 「(人が亡くなって)悲しい」という感情が生まれるのではないかと考えています。 私はこのような考え方なので、明日道端ですれ違った人が明後日亡くなっても、悲しいとは思いませんし、泣けません。 だから、セクハラ教師が亡くなったところで、何も感情は湧きませんでした。 間違っていますか?とても歪んだ考え方をしているとしたら恥ずかしいので治したいのです。

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悟りを開いても倫理観を持てるのは何故でしょうか?

中論では「四不生」として物事のあらゆる原因が否定されています。 この部分を読んでいつも不安に思うのは、一歩読み違えるとトンでもない意味になるかもしれないという事です。 人が他人に優しくしたり善行を積もうとするのは、自分が既に他人によって恩をを受けているとして感謝し、その恩を返そうとする恩義の心によって成り立っているからだと思います。 まず自分という肉体は両親によって与えられ、知識や教養は先生によって叩き込まれます。当たり前の事ですが、自分という存在は他者によって成り立つものですよね。 しかし中論では 「もろもろの「存在」は、どこにおいても、どのようなものでも、自身から、また他者から、また〔自身と他者との〕両者から、また無因から、生じたものとして存在することは、決してない。」 とします。 要するに他人から恩を受けたとしても、「これは貴方が原因で生じた訳ではない」とか、 自分が他人を殺したとしても、「その人の死は私が原因によって生じた訳ではない」と詭弁を弄する事も可能ではないのでしょうか? (私はそうは思いません) 自分が明らかに中論のこの説を読み違えている事は分かっているのですが、どこを読み間違えているのかが未だに分かりません・・・。 何卒よろしく御願い致します。

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起業したいと考えているのですが、決心がつきません

これからも会社員として働くとしても、ふと気づけば、会社員人生もあと10年程となった今、幸いにもようやく出来た自分の子どもの育児を通じて、人に何かを教えて学んでもらう事がとても楽しいと感じています 自分は、元々高校の教職免許を持っていた事もあり、いつかは教える仕事をしたいと思っていました。 そこで、去年、学生に対してスピーチを教えたり、知人経由で保育園の先生にプレゼンを教えたり、という仕事を無償で始めたところ、とても好評でした(ボランティアだったので、無報酬です) その後、何度考えても、自分がやりたいことは人に何かを教える仕事、新しいスキルや知識を身につけてもらう仕事、あるいはそういう場を創り提供することだと思い至りました。 一方、自分の子どもの将来のためには、今の仕事を可能な限り続けて、家族の収入を維持するべき、という考え方もあります。 幸い、妻は正社員の仕事をずっとしてきているので、私の起業には理解を示してくれていますが、今までお金に苦労させた事もないので、起業がどんなにリスキーな事かはあまりよく分かっていないと思います。 私が勤める会社にはベンチャーなので退職金制度はなく、定年も定められてはいますが、実質的には役に立たなくなったら追い出されるだけです。 これから年齢を重ねるごとにリスクは大きくなるので、なおの事やるなら今か、あるいは起業などはやめて今の仕事と人生を過ごしていった方がいいのか、決心がつきません。

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自分の過去を許せず消えてしまいたい。

家庭不和、家庭内で分け隔てられ育ちました。 いじめに8年。気がついたら歪んだ日々を生きてました。 色々ありました。でも言い訳はしません。 私は2度も中絶をしました。生みたかったのです。光を見せてあげることができませんでした。 妻子ある人3人と付き合いをした過去があります。相手は体目当てだけとわかっていたのに。 汚くて、最低で、真っ黒な人として救いようのない過去を作ったのは、この自分。 自分が許せない。この過去で苦しいです。苦しんで当たり前。 死ぬまで苦しむべき。それが当たり前と思います。 ですが、今子供がいます。こんな最低な真っ黒な母親で申し訳なくて、私がこの子の母である事が申し訳なくて辛いです。よそのお母さんの所に生まれた方が絶対に幸せなはずなのに。どうして、こんな私の元へ生まれてきたのかかわいそうで申し訳なくてたまりません。 いつか子供の耳に中絶した私の過去を人づてに聞いてしまう事が起きるかもしれません。苦しくて相談した相手が、かなりの人に広めてしまったので。自分の母親がこんな最低な人だと言う事実で苦しめてしまうかもしれません。 そんな過去から病気になってしまい精神科に通い入院もしましたが、なおるわけもなく止めました。通っても過去はなくならない変えられないので。 過去と色んな悩みが混じりあいお巡りさんと救急車が自宅にきました。失敗しました。死ねると思ったのに。失敗しました。 苦しむ事は罪を犯したので当然の事ですが、今いる子供が、健常でないため、サポートが必要で、どうしても、今の私の状態だと、子供にも悪影響に違いないです。サポートしてくれる先生二人に精神科をずっと進められています。何の意味もないのに。死ぬまで苦しむべき、それが当たり前。でも、今いる子供にいいはずがなく。どうしたらよいか苦しいです。 向こうの世界に無理やり帰してしまった二人の子供は、苦しい世界にいるのでしょうか?私が死んだ時に、その二人をなんとか、地獄に行く前に、苦しみのない場所につれていき、幸せに暮らせるか、見届けてから、地獄に行くようにしてもらえるのでしょうか?幸せにしてあげられなかったので、なんとしても幸せを生きてほしいので、私からお願いできるものなのでしょうか? 本当に耐えられなくなったら死ねばいい。死ねる選択肢があることに救われています。

有り難し有り難し 24
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2025/04/25

後悔から抜け出したいです。

昨年の12月に顎変形症で上下の顎の手術をしましたところ、鼻の下が伸びて口の位置が下がったのに顎が上に移動したため、口と歯の位置がずれてしまいました。 今は口を開けても上の歯は見えず、下の歯や歯茎がすごく見えやすくなってしまいました。 また、口を動かした時に上の唇が動いているような見えなくなり、まるで腹話術の人形のような動きになってしまいました。 手術前は笑った時に、上の歯だけが見えていたのに、今では必死で口角を上げても上の歯が半分も見えません。 町を歩いても、テレビやネットを見ても、上の歯が見えている笑顔に目がいってしまい、その度に変わってしまった自分の口や歯の見え方と比べて強い悲しみの気持ちに襲われ苦しくなります。 他にも、口の中のスペースが狭くなったためか、舌が喉を少し塞ぎ息がしにくくなったり、鼻が広がったり、術前から少しあった顎関節症が悪化してギシギシと音がしたり、左の鼻が通りにくくなり、顎下に麻痺が残ったり…とたくさんの後遺症が出てしまいました。 通院している矯正歯科や口腔外科の先生にお聞きしても、改善は難しいとのことで絶望的な気持ちです。 自分の歯をこれからも残したくて、より良く生きたくて受けた手術なのに、今は鏡を見ては前の顔に戻りたい、手術をする前に戻りたいと後悔の思いで胸が苦しくなり、喉が塞がる息苦しさでより考えが後ろ向きになり、大好きだった食事も音を聞くのがストレスで楽しめなくなりました。 1日1日を生きることが辛く、人生が早送りで終わればいいと毎日思ってしまいます。 夜中に目が覚めるようになり、気持ちが落ち込み楽しさを感じられず、すぐに涙がこぼれます。 これでは自分がダメになってしまうと思い、心療内科に行き薬を服用するようになりましたが、どうしても後悔の思いから抜け出せず、仕事も手付かず、家族にも笑顔を向けることができません。 そんな私と一緒にいることで、家族もだんだんしんどくなってきています。 家族と以前のように笑顔で過ごしたい、楽しい思い出を作ろうと思えるようになりたいです。 今のままでは、家族が壊れてしまう。 そんなことにはしたくない、でもどうしても苦しみから抜け出せない。 前の顔に戻りたいという後悔から、どうやったら前を向けるようになるのでしょうか。 後遺症を受け入れて、これからの人生を楽しめるようになるにはどうしたらよいのか。

有り難し有り難し 37
回答数回答 2