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hasunoha 問答検索結果 : 「お坊さん 宗派 」
検索結果: 1129件

浄土真宗と曹洞宗の二股はだめですか

こんにちは、宜しくおねがいします。  生き方について悩みが多く、暴れる心をなんとか鎮めたいと最近、 浄土真宗の聞法に通っています。  随分昔に死んだ明治生まれの祖母を思い出したからです。彼女は封建的な夫に黙々と仕え、息子に戦死されても、一人娘に急死されても、毎日の日課を黙って静かにこなし、仏壇になんまんだを唱え、老いては子に従い、右を向いていろといわれれば右を向き、左を向いていろといわれれば左を向いているような、大切にはされていたのでしょうが全く存在感のない祖母でした。無口で静かでしたから声も覚えていないのです。すっかり忘れていたのです。  ところが、自分も老境に入り、しかしいまだ心穏やかならず、怒りや貪りに振り回され苦しむ有様で、あの諦観したのか、または阿弥陀様にお任せしきったのかのような祖母の姿が私を聞法に向かわせました。  しかしこの身はしぶとく、聞法をいただいている間は少しは素直な気持ちになるのですが、それもなが続きしません。  第一、近代教育を受けた私には、「はからいを捨て、お任せする」のは難しいです。はからうことばかりを目指し、学び、訓練してきたのですから。もしかすると、もっと死が近づいたら少しはそんな気持ちが持てるのかもしれませんが・・・  ただ、三木清が言うように「自分は最後は親上人の言葉どうり、あの世で懐かしい人たちに会えることを信じている」のは私も同じです。  問題はあの世のことでなく、日々の生活で心配や怒りや嘆きに振り回されることです。  そんな私が禅宗の教えで行住坐臥を整えることや、禅の言葉に従うことで、少しは苦しみから離れられるように思うことがあります。 子供のころ永平寺を訪れて、「こんな風に生きている人もいるのだ」とショックを受けたことから大人になって、禅林句集や道元禅師を読むようになりました。指針になります。  阿弥陀様にお任せできない私が曹洞宗に頼るのはいけませんか? 浄土真宗では一筋でないといけないと聞きます。お任せしきらないといけないと聞きます。浄土真宗と曹洞宗の二股みたいで罪悪感があります。  迷える私にお言葉をいただきたいです。  宜しくおねがいします。  とんぼ

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死ぬ気で頑張る→失敗→死ぬ

母が精神病で虐待されて育ちました。 唯一心を解放できた勉強も母の進学反対により潰され、母の気に入った職場に就職することで自立しましたが、母の職場への干渉に耐えられず、成人したその日に退職。その後は学習塾でアルバイト。 結婚したが、私もあの悪魔のような母親になってしまうのでは?他のママ友とうまくやれるのか?隔世遺伝で子どもが悪魔になるのでは?などの恐怖からノイローゼぎみでした。虐待の連鎖を止めるため、たくさん勉強しました。そんな中で、仏教の「母の愛もまた煩悩」という考えに救われ、母を許すことができました。また、かなり調子がよくなりました。しかし、夫が失業することになり、私の就職活動と妊娠の両方は無理だという恐怖から私が避妊薬をのむようになったこと、また、仏教系の新興宗教に通い出したことから夫から「最初から産む気がなかったんだろ、ダマシタナ」と離婚になりました。 その後は新興宗教に誘われ出家しました。でも、みなさん結構実家から援助してもらっていて、結局「親に感謝」という雰囲気でした。もちろん、私も母には感謝してますが「母=善」という考えには疑問を持ちました。団体の代表者から他の在家の信者さんの悪口を聞かされ、それは構わないのですが、「俺の信者さんからの迷惑と比べたら、あなたのお母さんから受けた苦痛なんてなんともないから(笑)」と言われてプッツリきてしまいました。 宗教団体から出るため就職活動もはじめました。実は九年間かけて取り組んできた通信の大学が、再来月に卒業なんです。大学では哲学や宗教や心理学をやりました。それを活かせればと思いましたがどこもダメ。学習塾でさえも。 もうやる気が全くなく、死にたいです。でも唯一、学習塾には行けています。宗教団体に家賃と活動費と食費を払わないといけないので、。それに教え子はかわいいです。引越を先に考えてますが気力とお金がないです。 実家もだめ、結婚もだめ、出産もだめ、就職もだめ、学業もだめ、趣味もない、友人も一人もいない、出家もだめ、で人生詰んでます。死んだほうがいい人生です。趣味がないので、できるだけ一日仕事をしたいです。学習塾は夕方しかないので... また再出発できるのでしょうか。

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仏教と神道

 こんばんは。先日は私の質問に真摯にご回答下さりまして、誠にありがとうございました。こちらで質問させていただいて、お坊さま方の回答から今後の生活のヒントになることを沢山学ぶことができました。本日は、さらに質問したいことがございますので、ご迷惑かとは存じますがご回答頂けますと幸いです。  私は、仏教について勉強していく中で、日本では仏教と神道が結びついて独自の文化を形成してきたということを学びました。それは、ヨーロッパのような激しい宗教対立ではなく、大乗仏教の柔軟な教えがあったがゆえに土着の信仰を包摂できた結果生まれたものであり、世界の中でも珍しい信仰体系であると思います。  しかし、仏教の教えと神道の教えは相容れない所があるようにも思い、そこが自分の中で考えの整理がつかない点でもあります。例えば、先祖崇拝はもともと仏教の教えには無かったと学びましたし、神道の荒魂・和魂といった概念も仏教の教えとは異なるもののように感じます。この両者の教えの違いをお坊さまはどう整理されているのでしょうか。  なぜ、このようなことを申し上げたかと言いますと、私の実家の信仰と上記の問題が関連しているためです。私の実家の宗旨は浄土真宗なのですが、仏壇の他に神棚もありますし、両親は仏壇の他にも調理場や庭石などにお供えをしています。また、お寺にも神社にもお参りに行きますし、お墓へもお参りに行きます。これまではこれらを当たり前のこととして受け取っていたのですが、仏教を勉強していくうちにこれらの習俗に対して疑問が湧いてきてしまいました。  浄土真宗を信仰する家庭では、神棚は基本的には置かないと伺っております。また、死んだら即成仏という考え方であるため、位牌も必要ないと聞いております。しかし、私の実家には神棚もありますし、黒塗りの位牌もあります。この両者の間の矛盾をどう整理すれば良いのでしょうか。菩提寺の住職様に質問はしてみたのですが、曖昧な答えで納得のいくものではありませんでした。私は、人生を生きていく上で道標となるものを得たいと思い、仏教の勉強をしてきたのですが、現実の生活に活かせるように整理しようとすると、矛盾点が多く悩みはむしろ以前に比べて増えてしまっているような気がします。  お忙しいと思いますが、お坊さま方のご意見を伺えましたら幸いです。よろしくお願いします。

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僧侶になることは「逃げ」なのか

私は高校2年です。 5で神童、15で才子、16過ぎれば只の人 と言った具合に、高校受験の失敗を皮切りに 落ちぶれていく人生を歩んでいます。(神童なんておこがましいですが、) 中学までの怠惰な生活をしていると、 当然、第一志望の高校には落ち、滑り止めの高校でも、成績は下がる一方、順位は下から数えた方が早くなるまでになりました。 なんとかしなければならないのは、分かってるけども、モチベーションは下がり、無気力。 さらに、成績が下がり…と悪循環の日々です。 そんな中、テレビ番組で僧侶の方々を拝見し、その道徳観、柔和な笑顔に惹かれました。 これまでの、偏差値や年収の見栄が第一の数字を求めてきた私にとって、とても異質で別世界で生きているように思えて仕方がなかったのです。 魅力的に感じ、僧侶に憧れ、志すようになりました。 しかし、仏教系の大学の偏差値というのは、お世辞にも高いとは言えず、家族や担任からは、受験から現実逃避しているのではないかと思われています。確かに、私は学校の課題から逃げ、担任からは、見放されています。しかし、表面上だけ良い子である私の内面がどうしても許せなく、また、現実との乖離に悩むのをどうにかしたいのです。 私自身、なりたい思いはあるものの、本当に僧侶でいいのか、受験から逃げたいがために、僧侶という芝が、青く見えているだけなのではないか。修行すらも投げ出してしまうのではないか。と不安に思ってしまいます。 私の僧侶に対する気持ちは本当なのか自分自身で確かめる方法、そして、周囲を説得する方法、そして何よりこの文章を読んで、逃げていると思うのならば率直に言っていただきたいです。 長文失礼しました。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 45
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神や仏を信じない者がやっても良い?

見つけて下さり、ありがとうございます。 私は発症前までは、神や仏、ご先祖様や霊魂など、色んなことを信じていました。 母の教えで、特にご先祖様を大切にし、常に手を合わせていたと思います。 ところが発症後、何もかもが信じられなくなりました。 もしもそういったものがあるなら、兄弟姉妹の中で、1番ご先祖様を大事に思い、遠くのお墓にも毎年お参りしていた私が、何故こんなに苦しい思いをしなくちゃいけないのか? 同じ血の通う兄弟姉妹を、どうしてこんな形にしたのか?(プロフィール参照) そんな思いばかりになりました。 母の教えに対する反抗心ではなく、あまりにも酷いと思われる人間からの仕打ちや、物語の様な自身の病気に、あらゆる『人間に関すること』を、心から信じることができなくなったのです。 そうしている内に、ここを拝見し、何度かご質問させていただき、写経や座禅をしてみたい…という気持ちが湧いてきました。 こんな私が、そういったことをさせていただくのは、良いことなのでしょうか? また、それでも良いと言って下さるのなら、何に良いのか?、また、どこでどんな風に行えば良いのか? 教えていただきたく思います。 宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 71
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夫を突然失いました

約1か月前、ひき逃げに遭い、夫は突然帰らぬ人となりました。「いってきます」「いってらっしゃい」「バイバーイ」これが、主人と私、そして1歳の娘との最後の会話となりました。 夜11時過ぎ、警察の方から「ご主人が道に倒れていて怪我をしており、意識もないので救急車で運ばれました。今から病院に行っていただけますか?」と言われ、私は、飲みすぎて転んじゃったのかな?という程度にしか思っておらず、「ご迷惑をおかけしてすみません。すぐ行きます。」 と答えて、娘を連れて病院に行きました。 すると、何やら慌ただしい雰囲気…聞くと、「事故に遭ったようだ」と。 それからバタバタと手術室に運ばれ、私と娘は待合室で待っていました。 事態の深刻さに気付いたのは、手術室から戻った主人にICUで面会した時。たくさんのチューブで繋がれ、血だらけでした。 そして、主人の意識は二度と戻ることなく、次の日の朝息を引き取りました。まだ30歳でした。 それから、通夜や葬儀など気持ちの整理もつかないまま過ぎて行きました。なぜこんなことになっているのか全く理解できず、心と体がバラバラになっている感覚で、頭がぼーっとしてただただ涙が溢れ、最後まで主人にすがりついて泣きました。 まだよくわかっていない娘は、「おとうさん、ねんね〜」と言いながら無邪気に笑っていました。それを見てまた、涙が止まらなくなりました。 その後、主人をひき逃げした犯人は逮捕されましたが、それで主人が帰ってくるわけではない…心にはポッカリ穴が空いたまま、何もする気になれません。 たくさんの方からお悔やみの言葉をいただき、「娘さんのためにもしっかりね、頑張ってね。」 と言っていただきました。ありがたいです。 でも、「娘がいるからこそ、父親である夫にはいてほしいんです。娘の笑顔が支えにもなるけれど、それを見てさらに苦しくなるんです…」 という気持ちになってしまいます。 これから先、どうやって生きていけばいいのか…娘は心の支えであり、主人が残してくれた宝ですが、それでもやっぱり辛いのです。苦しいのです。消えてなくなりたくなります。自殺しようとは思いませんが、主人のところに行きたいと思ってしまいます。 この苦しみとどう向き合っていけばいいのでしょうか?

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葬式をあげてほしくない

死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 412
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悟りと解脱、輪廻転生について

こんにちは。 これだけこのサイトにお世話になりながら、悟りについて良く考えた事がありませんでした。私の考え含めて質問させていただきます。 仏教の入門書だとよく「修行の完成」→「悟りを開く」→「輪廻の苦海から解脱」と解説されています。 しかし自分はこの解脱と言うか、輪廻転生が今一つピンと来ません。 生前や死後については無記とするのがお釈迦様の真意に近いと思うし、 輪廻とは一種の比喩と考えるのが適切と思うからです。 実際、輪廻を考えると色々と矛盾が生じます。 例えば虫の輪廻転生。一生無心に鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」などあるのでしょうか?善行を積んだセミが高次の存在に転生し悪行を積んだセミがさらなる悪趣に落ちるのだとしたら、誰がそれを判定するのでしょうか? そのような超越的な存在(判定者の類)は仏教では否定されるのではないでしょうか? となると、悟りも輪廻転生を前提にしている限り、よくワカラナイものになってしまいます。 悟った覚者は転生せず、凡夫が転生する・・・のでしょうか? だとしたら悟ったかそうでないか判定者がいる事になります。 (ここでまた超越的な判定者の問題にぶつかります。) 悟りによって体質と言うか、魂(?)の質が変わるとでも言うのでしょうか。 じゃあ輪廻とか死後が無記なら、結局「悟り」て何なの?って話になって 頭の中ぐるぐるで何だかよくわかりません。 こんな考えって戯論でしょうかね? お考えを教えて頂ければ嬉しいです。

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亡くなった人が成仏するということ(難しいです....)

おはようございます。先日、父の仏壇の部屋と居間での供養について教えていただいた者です。あれから、亡くなった人が成仏することについて考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。お暇な時に教えてくださると助かります。 私は今まで、亡くなった父は天国に行ったと思っていました。時々仏壇やお墓のような祈りの場に降りて来るのかな....とも思っていました。 ハスノハに入ったのがきっかけで、成仏という字の意味を考えてそれは仏に成ることだと考えるようになりました。そうか、父は仏さまになるんだ....と思ったけれど、いざ祈ると自分の心の中に生前の人柄のままの父がいて仏さまになった父は想像がつかなくて、今まで仏壇の前で「ねえお父さん」と普通に呼んでいました。もしかしてとても失礼なことをしていたかもしれないですが、仏壇には仏像の絵があり、神様が祀られているんだろうと思いながらもよくわからなくて父にだけお祈りしていました。 本当は、深く考えないで父が安らかでいてくれれば仏でも何でもなっていていいのですが(不謹慎だったらごめんなさい)、亡くなった人の成仏とはどういうことか考え始めたからには知りたいです。でも私にとってはとても難しい部分なので、仏教初心者向けに教えてください。お願いします。

有り難し有り難し 160
回答数回答 7