生きる事が辛いし、怖いです。金もないです。仕事も辛いですし、人も怖いです。自分自身も欠点だらけ。心の支えなんていうのもありません。なんだか常に疲れてるんです。原動力みたいなのも湧いてこないんです。 特に母が自死してから尚更です。 自死をしようと思っても中々、苦痛が苦しくて怖くてできません。 でも勇気を持って自死すべきなのでしょうか? その勇気を頂ければ幸いです。
仏教に限らず宗教が具するテーマには、如何にして必然必至の死を受容するか、超克するかということがあると思います。 にも関わらず、人の死んだ時にからんで「忌日」とか「回忌」など「忌まわしい」という字を使うことには違和感があります。 死や血を忌まわしいもの、汚らわしいものとするのは神道の思想のような。 また、各宗祖が亡くなった時をも指して「遠忌」と呼んだりすることがあると思いますが、僧侶のかたはこれには抵抗ないのでしょうか。
私は今死ぬことについて悩んでいます。というのも、ある本を読んで「人は確実に死ぬにもかかわらず、その恐怖から逃げる為に死を連想する物事を日常から遠ざけてきた。本当によりよく生きるなら、自身の納得のいく終わらせ方を考えるべき。」という旨の文章に感銘を受けて、それ以来自身のやるべきことを放ったらかして自分で自身の息の根を断つことばかり考えるようになったからです。 私がなぜここで相談しようと思ったかと言いますと、身近な人に相談しようものなら確実に反対されることが目に見えているからです。 私は、今のところ他人から見て不自由な生活はしていないと思っていますが、これまでただ死ぬのが怖いという理由だけで勉強を頑張ったり体を鍛えたりするばかりで、夢のない生活を延々と続けています。そんな中先述の文章に出会った、「死の権利を自由に行使する」という人生で初めての夢が出来て、しかも運良く自身の満足のいく死に方を見つけたことで今すごく充実した気分で生きています。 ‥ただ一つ気がかりなのが、両親や数少ない友人といった私が死んだ時に残された人たちの気持ちです。 私の満足のいく死に方というのはぶっちゃけ自殺の一種にあたるやり方で、一応人に迷惑をかけるつもりはないのですが、それでも私が事情を説明せずに突然死ぬと両親や友人に影響を及ぼしてしまいます。かといって、馬鹿正直に自分の夢について説明したら、絶対反対されるとも思っています。だからといって、他人の為に興味ない生き方をするのは生殺しにされているようで凄く嫌です。でもでも自身の夢だからって人に迷惑かけていいのかなぁ‥ こんな感じで中途半端に人の心が残っているせいか、自身の夢と他人への影響のジレンマで悩んでいます。 一応自身の見解としては、「生殺与奪の権利を握られるくらいなら、自身で決着をつけたい。たとえその為に人が死ぬとも、例え地獄で残酷に裁かれようとも。自分の意思を貫くなら今じゃあないのか。」といった自己中の極みみたいな結論に至ったのですが、一応取り返しのつかない事なので相談してみたいと思い、文章をしたためることになりました。 あまりにも生物として気の違ったような質問で申し訳ないですが、何卒ご返事の程宜しくお願い致します。
尊敬する大好きな恩師が亡くなって2年。 病気と余命宣告を同時にされる3ヶ月前まで夢を語っていた恩師。半年後に亡くなりました。この現実を受け入れることは出来ません。人はいつか死ぬと分かっていたし、元々敏感な方でした。でも、病気と余命宣告を同時にされる3ヶ月前まで恩師は夢を語っていました。なのに3ヶ月後には夢を諦め死に備えて身辺整理。恩師は自ら余命を聞き、身辺整理をし弁護士に遺言の立ち上げを頼みました。そしてもし自分が死んだらあなに貰った手紙を棺に入れるよう息子に頼んでいいかと聞かれました。妊娠中の私は、促進剤を入れる前に恩師に会いに行ってから出産しました。恩師の危ない状況を聞き、2日退院を早め、その足で恩師の元へ行きました。意識が朦朧としていたけど、頷いてくれました。そしてその日に亡くなりました。産後2日目のことで、痛みを抑えながらお葬式へ行き、自分の手で手紙を入れました。それからは子育ての日々。衝撃的な事で、受け入れる時間もなく今日まできました。あんなに夢を語っていた恩師が亡くなったことで、人の死は無条件に突然訪れるものなんだと初めて強く実感しました。普段は忘れているけどいつも死と隣り合わせなんだと。それから生きるのが怖くて、家族を失うのではないかと不安です。だから後悔しないために、常に最悪の状態を考えています。今車が突っ込んできたらこの位置は危ないとか、もしあの看板が落ちてきたら危ないから走ろうとか。父の癌を早期発見したのも私で私が家族の命を守りたいという気持ちに苛まれています。もし家族の誰かが倒れたら誰に119番を頼んでAEDを誰にどこから持ってきてもらうかなど常に頭でシュミレーションしています。それでも人は死ぬのでこの行動が全て結果になるとは思いません。もっと楽しく生きれる人が生まれたらよかったのに。死の恐怖に潰されるくらいなら最初から無でよかったのにと考えてしまいます。でも、恩師とこの世で出会えた事、恩師と過ごした時間は私にとって最高の宝物です。今までもこれからもずっと私の大切なかけがえのない時間です。恩師が亡くなってから悩んだりしても、自己解決できるようになりました。恩師の教えがあるからです。でも恩師が亡くなったことや受け入れられないこと死の恐怖に関しては悩んだままです。きっと恩師の死は私に与えてくれた最後の課題なのです。どうかアドバイスいただけませんか。
自殺対策は仏教の最も得意とする分野ですが、現状の効果はNPOのそれと大差がないのがはがゆいです。 もし輪廻転生が否定されるなら、自殺対策は有害無益で、むしろ自殺を奨励すべきです。 釈尊も若い頃自殺しました。(般若心経の呪文、梵天勧請) 仏教の目的は、涅槃(解脱、心の死)ですから、輪廻転生が否定されれば死後が無いので心は死んでいます。 まさに涅槃状態です。死即涅槃と言えます。 輪廻転生が真実であっても、自殺は諸刃の剣です。 釈尊のように涅槃状態であれば、自殺は奨励されます。 「厭離穢土 欣求浄土」と言う佛教語もある位ですから。 我々も、釈尊に倣って寿命が尽きる前に自殺によって涅槃を得なければなりません。 寿命が尽きた瞬間では多分涅槃は無理だと思います。 私はその修行の厳しさに初めから諦めています。 「現世安穏 後生善処」ならばまだ希望が持てますので寿命が尽きるまで待ちます。 しかし通常の自殺は防止しなければなりません。 何故なら心が死んでいないからです。 六道輪廻で脅しをかけるのです。 それも真実の脅しですから遠慮はいりません。 この自殺対策は有効だと思います。 ちなみに自殺者と通常の死者との死後の風景は、丹波哲郎制作映画「大霊界2」で参考できます。劇場映画ですからフィクションや甘さはありますので、その点は考慮が必要です。 輪廻転生が普遍化している国の庶民の思考については、 NHK「世界ふれあい街歩き」の「チンプー」(ブータン)が参考になります。
なぜ、私たちは生まれてくるのでしょうか。なぜ、生と死が一つのものだと分からないのでしょうか。 なぜ生まれたら苦しみがあるのに、生きる楽しみに浸ってしまうのか。執着とは、罠のようなものなのでしょうか。 なぜ私たちは生まれてきた理由を知らないのでしょうか。なぜ浄土や輪廻があるか否かを知るすべを持っていないのでしょうか。 どうしてこの心は、真理とは違う方向に向かってしまうのでしょうか。私たちは生きているうちに悟ることができないのでしょうか。 自分が愚かだと僅かに気が付いても、未だに愚かなのはなぜなのでしょうか。
私は息子が1歳半の時に関節リウマチを発症しました。当時主人の我儘な希望ですごい田舎で暮してました。大きな病院に行くには高速道路を使って1時間はかかり、でも専門科はなく整形外科で痛み止めを処方してもらってただけでした。その間どんどん悪化し、手足首の関節いたる場所に広がりました。主人は仕事後、仕事中間とお酒ばかり飲んで育児家事私の病気にも無関心でした。余りの激痛で何度も自殺を考えました。主人に全くなつかない母親っ子の息子の事考えると出来ませんでした。あれから転勤もあり専門科に行き適切な治療は受けてますが壊れた関節は元には戻らず動かせば痛み、泣いてばかりの毎日に疲れただ死にたいと思うだけです。もう楽になってもいいでしょうか。
はじめまして。 この頃たて続けに大切な方たちが死んで行きます 身内が2人どちらも癌で 親友 愛していたペット… 皆まだ若く元気盛りで 身内以外は何の前触れもなく突然いなくなったのです 私はもう誰かの死に遭遇するのが嫌です 心が張り裂けそうなぐらい辛いです 天へ昇られた人達に会いたい 私もいっそ__と考えることも多々あります でも今生きている大切な家族や友人と離れたくない その二つの気持ちがぶつかり合って何も手につきません この気持ちはどう整理したらいいでしょうか… 私たちが生きている意味って何でしょう こんなことは家族は勿論 先生や友人にも相談できませんでした そんな時にこちらのサイトを知り お坊さんになら相談してみようと思いました どうぞ よろしくお願いします
精神疾患を抱えています。 父がステージ4の癌で、あと2,3ヶ月との余命宣告を受けました。 母が亡くなってから10年、2人で乗り越えて来ました。 父がなくなっら独りぼっちです。 辛い精神疾患を抱えながら独りで生きて行くのは拷問に感じ、死にたいです。 hasunohaの動画を見て、精神疾患の自殺は病死ともとれるような事を仰っており、確かに脳の病気だから。 今まで希死念慮とずっと闘ってきて、疲れました。
初めて質問させていただきます。 私は子供に命を大切にしなさいと教える立場でありながら、自分自身は死を考えています。 こんな自分が子供の前に立つ資格などない、でも子供たちがいるから踏みとどまれている、矛盾していますよね。 将来を考えると不安で仕方ない、涙が出てきます。 2年前、死のうとして入院し、母を泣かせてしまいました。 その日以来、絶対死のうとしちゃいけないと思ってきましたが、最近私が生きていてはいけないと感じます。 あの日以来止まっていた自傷が出てきました。 疲れました。 みなさんの質問・回答を見ていると涙が止まりません。 長文乱文すみません。 これからどうしたらよいかわかりません。 逃げ出したらいけませんか?
長文失礼いたします。 祖母が8月に亡くなりました。92歳でした。2月に突然脳梗塞を起こして、肺炎を起こして1ヶ月くらい意識不明でした。そこから意識が戻って療養型病院に移って、脳梗塞は順調に回復して退院寸前でした。祖母も自宅に帰るのを楽しみにしていました。その直後もともと持っていた間質性肺炎が医者も驚くほど知らぬ間に悪化していることが分かりしてそれから3週間くらいで亡くなりました。発病してから本当に毎日休みなく家族3人全員が2時間くらい車で30分くらいの病院に顔を出して看病や介護をしました。私は亡くなる当日朝から亡くなる瞬間まで意識ない祖母の手をずっと握っていました。生きている限り希望を捨てはいけないと思っていました。でも、亡くなりました。でも亡くなった瞬間、全て努力なんか全く無意味で死んだら無なんだと確信しました。何をどう努力しても死んだら無なんだと。 唐突に話は変わりますが、漫画で、「ジョジョの奇妙な冒険」という本があります。その中で西部開拓時代のアメリカの話で、上手く言えませんが、ある国に特殊な技術を持っている、医療行為と死刑執行を代々生業している一族の登場人物が出てきます。ある時その登場人物の診療所に、夫のDVで失明した女性が仕事中の怪我で運び込まれます。登場人物は自分の持つ特殊技術で女性の失明を治せると確信したので、治そうと試みますが、ほんの少しの偶然の出来事で彼女の失明を治せず彼女は永遠に光を失います。治せるはずの彼女を治せなかったことにショックを受ける息子に、登場人物の父は、「彼女の失明を特殊技術で治せると父である自分は分かっていた。でも意図的に治さなかった。彼女は盲目が故に生かされている。もし失明を治せば、DVを行った権力者の夫達は、目が見えるようになった彼女の命すらも奪う可能性があるからだ」と言いました。 結局何を言いたいか上手く言えなくて申し訳ありません。ただ、祖母の死の無の感触を思い出すと、なぜかこの漫画のことを思い出します。 どう繋がっているか考えても分かりません。結局言いたいのは、題名の通り、いくら願っても努力しても叶わないことは一体どういう意味を持つかということです。本当はもっと突き詰めて自分なりの意見をじっくり温めてみたいと思っていますが、どんなことでもいいので、何かお言葉を頂けたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。
実生活で困っていることはないのに、最近気持ちが追い詰められて、頻繁に死を考えるようになってきました。 趣味もあるし、仕事もある。家もあるし、周りから虐められるような事は今はないのですが、過去の辛い経験が、未だに心の中で私を苦しめているようで、ここ数年落ち着いてきていた死への思いが再び強くなってきてしまいました。 過去、異性から虐められたり、心許した相手からセクハラメールを送られたりして、異性に対してはもう恋愛感情も持てないし、結婚もする気はないのですが、先日結婚相談所から電話が来て、普通に断ればいいものを、良縁を結ぶという言葉を聞いた途端パニックになり、強い口調で返して電話を切ってしまいました。相手は仕事で電話をかけてきただけだというのに、そんな態度をとってしまった自分が心底嫌になり、泣きながら跡が残るほど自分で自分の首をいろんなもので締めてしまいました。 死ななければいけないという思いは二十代の頃から強く常にありました。 最近は落ち着いてきたのに、またそれが強くなって、思うだけでなく自分の首を絞めてしまう状態になってしまいました。 人に迷惑掛けずに生きる事も、自分から命を経つこともいけないことなのは分かっているのです。生きてても案外なんとかなってることも分かってはいるのですが、同時に人に迷惑をかけてはいけない。でも、頻繁にパニックになって倒れる自分は人に迷惑をかけている。そんな自分は早く消えるべきだという気持ちも同時に沸き起こって、そのうち取り返しのつかない事をしてしまうのではないかと恐ろしく感じます。 おそらく、後者は過去に酷い言葉をぶつけられ、散々傷ついた過去の自分が思っている事なのだと思います。それが、未だに心の中に存在して、消えずにいるのだと。 もう、誰も私を傷付けないし、酷い言葉を投げ掛けない。傷つく必要はないのだと、心の中に居座ってる過去の自分に言い聞かせたいのですが、逆に辛い思い出が蘇って、今の自分が参っていってしまっています。 私はこの苦しさを抱えたまま生きていかねばならないのでしょうか。この苦しさを抱えながらも前に進むにはどうすればいいのでしょうか。将来の事を考えても見えるのは死ぬ未来ばかりで、何も見えないのです、昔から。 少しでもいいです。何かアドバイスをいただけたら有難いです。
お世話になりますm( )m カテゴリが間違っていたらスミマセンm( )m 臨死体験についてどう思われますか? これは体験した人でなければ なかなか分かってはもらえないと思うのですが 自分は1度だけあります もう25年くらい前になるのでしょうか その日はなんだか とても身体がしんどくて 自分の部屋で 横になって休んでいました するといきなり 自分の身体から魂が抜ける感じがあり ( 夢のレベルではなく、相当な衝撃でした ) 上へ上昇していきました 高さ的には3メートル位上の感覚でした 今まで自分の部屋だったところは 無限の真っ白い空間になっていて 非常に驚きました!! 色的には曇りの時の感じの少し 寂しい?感じのする白色でした 身体は無重力で すべての身体の苦しみから 解放された非常に気持ちが良く 極楽そのものでした しかし、瞬間に自分が死んだと悟って すごく怖くなり 「 まだ死にたくない!! 自分が死んだら誰もペットのお世話が出来ないから 死にたくない!! もう、死にたいとか思わないから まだ死なせないでください!! 」など とにかく焦ったというか 必死な気持ちでした すると 黒い「もや」がかかり始めて 目が開いて自分の部屋に戻って来ていました しかし、身体だけは全く感覚がなく 恐ろしい感じでした 何故か、このまま感覚が戻らなければ 『 また連れていかれる 』と 本能的に思いました 決して何か見えたわけでもなく( 死神とか ) 本能で思いました 戻って来れたのもある意味 奇跡的なような気もします 他の方の臨死体験の話のように 三途の川とか他のなくなった誰かがいたとか そこまでは見てないです 自分が臨死体験をしたのは ほんの数秒だと思います これも、そんなの嘘じゃないかとか なかなか信じてもらえないかもしれませんが 実際検索すると 同じような光景、体験をされている方が 多く本当にある世界なんだと確信しています ただ、そこに長くいた場合 どんな世界が待っているのかは 自分ではなんとなく想像することしかできません きっと何か高い( 精神的に?? ) 世界があるんだろうなあと思っています 仏教的に言うと臨死体験とは どうゆう事になるのでしょうか? よろしくお願い致しますm( )m
おおらかに生きるコツを教えていただきたいです。家庭の愚痴のような話になり恐縮ですが、お話聞いていただけると幸いです。 婚約者と一緒に住んでます。 とてもあたたかく良い人なのですが 気を利かせてやっていただいたことに対し わたしが小さなことが気になりムッとしてしまいます。 例えば夜洗濯物を浴室乾燥にかけ始め本人は飲みに行き、乾燥時間が入浴時間にかぶってしまってたり、料理した後片付けが7割で止まって他ごとしてたり。 昼ごはん代渡してるのに家の食材で昼ごはん作りもりもり食べて(大食い)別途食費を請求したり。。わたしが食費を管理しており節約しようとメニュー工夫したりするのですが本人は一食でいろんなお肉を使い切ったり、値段は気にしてなさそう。 一緒に家事してくれることはこの上なく嬉しいのですがモヤモヤ。 同じ価値観でないからこそ違いも生まれる、他の面でわたしも許容してもらっている、と思いつつつめたい反応をしてしまいます。気持ちを伝えてみたこともありますが小言のようで嫌な思いさせてるだろうなとわたしも悲しくなります。黙って感謝を伝えればいいのに。 このような気持ちの時どのように折り合いをつけてますでしょうか、アドバイスをいただきたいです。
いつもありがとうございます。 私は45歳になる女性です。 最近、ワクワクする事もなく欲もなくなり何だかつまらない毎日です。 昔は、どこどこに旅行に行きたい!温泉に行きたい!これをしたい、あれをしたい!と色々と行きたい所や、やりたい事がありました。また、洋服が大好きでウィンドウショッピングも大好きで買い物が大好きでしたが洋服を見てもワクワクしません。 趣味や夢中になれるモノがある人が羨ましいです。 夢中になれるモノを探そうと色々とアンテナを張り巡らせますが、これも慣れたらつまらなくなるのかなと思うとやる気が起きません。こんな感じでつまらない人生のまま歳を取るのかなと思うとゾッとします。 既婚ですが、子供はいないので、子供のために頑張ることもありません…
自殺した後の死後の世界のことが気になっています。また、お釈迦様は死んだ者の死に方、死にぎわを問わないとは本当でしょうか?仏教の法典?について色々と調べてみて、お釈迦様が自殺したら地獄に落ちると言っていないことや、自殺を否定していないこと、それら全ては人間の善悪の価値感であることがわかったのですが、サイトや書籍によって若干のバラツキがあったので本職であるお坊様にお聞きしました。じゃないと何か未練のようなものが残りそうで… また、人間は死んだらどうしても輪廻転生をしなければならないのでしょうか?私は今まで生きてきて、もう生まれ変わるのはこりごりだ、無になるか世界をただ傍観するだけの存在になりたいと思いました。そういうものになる方法はあるのでしょうか? あとこれは個人的なことなのですが、人間は肉体を離れて霊や魂だけになったら性別や年を超えて姿を変えられるのでしょうか? 以上、よろしくお願いします。
先月、彼が突然死しました。 もう直ぐ付きあって3年でした。遠距離のためお互いが行き来してました。私に子供がいたため子供優先の付き合いでした。彼の仕事が比較的、自由なため日中家事をしながら毎日電話で世間話などしていました。遠くてもとても身近な存在でした。去年の夏頃から子供の都合もありなかなか会えず、子供にも彼にも申し訳ない気持ちになり別れを告げました。その後もやはりお互いの気持ちは変わらず別れてはいますが前のように話してました。家族の事、悩みをいつも聞いてくれてアドバイスしてくれて愛してくれました。亡くなる2週間前もやはり罪悪感から連絡を断ちたいと彼に伝えました。でも、やはりLINEでやりとりしてました。またいつものように連絡を取りまた変わらぬ日々になるものだと思っていました。 亡くなった次の日、弟さんから知らせを受けました。以前から自分に何かあれば弟から必ず知らせるようにするからと言っていました。その通りになりました。いろいろな事が駆け巡り混乱して、相手のご家族が葬儀にきて欲しいと言われたのに行けませんでした。 あれから毎日、後悔と寂しさと愛しさが込み上げて涙が溢れます。家族の前では泣けないので顔で笑い心で泣いて、1人になると号泣してしまいます。早く夢なら覚めて欲しい。なぜ、私を置いて逝ってしまったのか。側に行きたいとそればかり考えてしまいます。どうしたら彼を感じられるのでしょう。毎日絶望の日々です。 彼の妹さんが励ましてくれます。有難い事です。 もう2度と会えないのでしょうか? 夢のなかでも彼は毎回私の前から居なくなり私が探し回っています。
お世話になっています。僕はこれまで、「お念仏は1日10回程度でいいだろう」と思っていました。何なら、1回でもいいと思っていました。ところが、あるお坊さんから聞いたのですが、「お念仏というのは、瞑想みたいなものだ」と言っていました。ただ手段が違うだけだと。瞑想では、呼吸や身体の感覚に集中することで、「今」に心を置きます。お念仏も瞑想と同じで、お念仏を唱えている時だけ「今」を生きることができると言っていました。自力の計らいというのも、瞑想でいうところの雑念なのでしょう。また、阿弥陀様や如来というのは、この世の大いなる働き(空、因果律)のことだと言っていました。浄土真宗はとにかく比喩表現が多いんだと。これらのことは本当なのでしょうか?もし、本当だとしたら煩悩を自覚する意味が分かりません。また、煩悩即菩提の概念もよく分からなくなってしまいます。僕は今まで本当に浄土(死後の世界)があり、阿弥陀様も実在する「人」だと思っていました。 しかし、内心では疑いを持っていました。南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生でき、それが出来なければ地獄行きというのは疑問に思っていましたし、大宇宙の法則がなぜ「この人は浄土、この人は地獄」と判断するのかもおかしいと思っていました。もし、このお坊さんのいう通りなら、色々と納得できる部分がありますが、実際のところはどうなのか気になります。回答お願いします。
新しい年が始まりました。hasunohaに、おられるお寺様方にも。今年もたくさんの幸せがありますように。 よろしくお願いします。 私の友人は、とても精神状態が悪く、死にたい。頻繁に口にします。 死んではならない理由。 どうして死んではならないのかを、上手く説明する事ができませんでした。 私も一番うつ病が酷かった時は、同じように毎日死ぬ事ばかりを考えてきました。 今でも咄嗟に消えてしまいたい。と思う事が、あるのも正直、事実ではあります。 でも、自分を作り上げている、数えられない程の細胞の一つ一つ。日々全身を巡る血も。 地球に、人の小さなはじまりが発生した時から、今日の自分が、お腹に宿り、細胞分裂、生まれて、大人になった、今まで。 人になるものの発生からスタートして、今の自分まで、たくさんの、生死生死を繰り返し、自分まで繋がった。物凄く怖い程に深く壮大な歴史。意識はしないけれど、本当ならば、物凄い事なんですよね。 自分の体をつくる全ての細胞の一つ一つに、数えられない位前から繋がってきたご先祖様たちの、数えられない人数の血が、自分にも入ってるんだと思うように最近なりました。 自分一人の体で生きている気はするけれど、全ての細胞一つ一つにに、全てのご先祖様が宿っていると思えています。 友人にもそのように伝えました。 お寺様方は、自殺がダメな理由、死んではならない理由。 どう考えますか?どう思われますか? 苦しむ友人に、どうしたら、伝えられるでしょうか? そして、時々、間違ってしまいそうになる私に。 命をどう伝えてくださいますか?
こんばんは。質問というかアドバイスなんかをいただければと思い投稿しました。 私はとある大学の3年生ですが、ここまで生きてきて、生かされてきて、自分が何がしたいのかよく分からなくなってきました。 将来的なこともそうですが、近々何がしたいか、直近で何がしたいかも分かりません。 普段からあまり人付き合いの多い方ではないですが、そこそこに人とは関わってきました。けれど、そもそもそこから疲れてしまって今は人とひたすら会いたくがないために大学を休みがちになってしまっています。 高校の頃や大学に入学したての頃は今よりかは活動的だったように思います。 絵が趣味だったので絵を描いたり、友達と遊びに行ったり、大学祭の実行委員なども経験したりしました。 しかし、体感で3年生のはじめの頃から、自分が何がしたいのかわからず、何をすべきと指摘されても出来ず、学校やバイトにも支障が出てきたように思います。 また、躁鬱の切り替わりが激しくなったようにも思います。楽しい雰囲気の場では自分も他と同じように楽しむ事が出来るように思うですが、その後自室に戻ると猛烈に自分が嫌になってしばらく誰とも会いたくなくなります。数分前まで暗い気持ちであったのに今は楽しくて、またその数分後には別の事で暗い気持ちになることもあります。 鬱の要因は現在や過去の自分の所作についてがほとんどです。 過去のことは忘れた方が楽になるとは聞きますが、過去を忘れられるほど詰め込めることもありません。 何をどうしたら改善するのでしょうか? また原因はなんだと思いますか? 半年ほど前に母と祖母が続けざまに亡くなったのですがそれが原因でしょうか?(しかし母と祖母とは中学2年の頃から離別するようになり、里親の元で暮らしていたので、葬式などでも特に悲しいとは思いませんでした。) 生かされているのが苦痛でなりませんが死ぬにも手間がかかり面倒だと思っています。 カウンセリングにもいくつか行きましたがあまり効果はありませんでした。 とにかく何もかもが面倒です。何もかもしたくないけれど、そんなことを口に出したら四方八方からやんややんや言われるのではないかと今まで誰にも言えずにきました。 どうしたらいいですか?