先々週に失敗するはずのない手術で母が亡くなりました。 笑って手術室に入ったのが最後。 意識戻らず1週間でした。 予期していなかった、なぜ手術をさせたのか、母のいない現実に空虚感でいっぱいです。 絶望感の中、通夜告別式を終わらせましたが、火葬中に主人の家族が激怒、大騒ぎをして献杯もせず食事もせずに帰りました。 おそらくしきたりうんぬんだと思います。 ゆっくりと母を送りたかった事。 なぜ問いつめられなくてはならないのか。 母を冒涜しています。 悔しい気持ち、寂しい気持ちでいっぱいで気が狂いそうです。 少しでも気持ちがラクになる方法を教えてください。
こんばんは。 初回と前々回、質問させていただいた内容についてです。 ご回答をいただいてから自分がしてしまったことに対してしっかりと受け止め、謝罪、懺悔、誓いを立てている日々です。相手の幸せもずっと願っています。 しかしどうしても相手のことが気になってしまい「もしトラウマとなって残っていたら」、「現在は両親から『あんたは優しい子』と言ってもらえるが、本当は私は優しい人間でなくて申し訳ない。裏切ってしまって本当にごめんなさい」、「私なんかが幸せに生きていいのか」という気持ちがグルグルと回っています。過去のことばかりが鮮明に思い出され、今の生活に集中できておらず、現在の記憶も曖昧な状態です。色々な感情が抑えきれず涙が出る時もあるのですが、泣きたいのは相手であり、私のような子供を持ったしまった両親であり、なんで自分なんかが泣いているのだろうと情けなく思います。 やっぱり死んでしまおうかと思ったのですが、前々回にも書いた通り自己満足であり、更に両親を悲しませてしまいます。自分自身がされたことについてはもう何とも思っていません。でも自分がしたことについては許すことがどうしてもできません。自分自身が許せません。 罪悪感を忘れたいわけでは一切ありません。一生向き合っていくものだと思っていますが、どうしたら上手く気持ちを切り替えられるでしょうか。 支離滅裂な文章で申し訳ありません。
仏教にもいくつかの宗派に別れるとおもいますが…宗派が違っても教えは一緒ですか?また宗派によって違うところをざっくりと教えてください。ちなみに、私の実家、嫁ぎ先は曹洞宗です
水施餓鬼と本施餓鬼の違いを教えて下さい。 当寺院では水施餓鬼(7日、16日のどちらかで墓参りと回向)と本施餓鬼(16日で新盆者回向と先祖回向)が行われます。どちらも先祖供養等で有り、回向料も高くなりますしどちらか1回で良いのでは無いでしょうか?お寺でお念仏を唱えて頂き、その後お墓にお参りすれば一日で済むと思うのですが・・・お寺の収入確保としか思えません。 施餓鬼会の起こり等は理解しています。知恩院本山に尋ねても分かる者がいないとの返事でした。
最近、仏教を勉強しているのですが、四念住における身念住がよく分かりません。 「体が不浄である事を観察する」という解説をよく見るのですが、そのままの意味で「体が汚い」と理解すればよろしいのでしょうか?もし、そうであるならば、何故その様に観察しなければならないのでしょうか? ご教授いただければ幸いです。
この世に我こそは『真理』と言う宗教があふれているのはどうしてですか? また、偽物と本物はどこを見れば区別つきますか? 人間に絶対的真理なんて見分けられるのですか?
私の不注意でペットを殺してしまいました。10年生きれるはずの命をわずか一年で奪ってしまいました。昔から動物が凄く好きで、一目惚れして飼った子だったのに。 最近始めた仕事が自分の気づかない内にキャパオーバーになってしまい、お世話ができなくなっておりお水がずっと空っぽだったことに気づかず脱水症状を起こし、朦朧とした意識の中頭を強く打ってしまい亡くなってしまいました。 凄く甘えん坊な子で亡くなる1週間くらい前からも構って構ってとずっと私に鳴いてきてたのに、疲れ切っていた私は無視し続けて構ってあげることすらもできなくなりました。 きちんと業者にお願いして埋葬する予定です。 こんな酷いことをした自分はもう動物が好き。と名乗る事は一切しないと心に誓っているのですが、この先どうやって生きていけばいいのか分かりません。自分が好きで飼ったはずの子の面倒も見れない私が生きている価値なんてあるのでしょうか。 今回のことが起こる前から希死念慮が強く薬も飲んでいたのですが、「罪を償ってその子の分まで幸せになる」って言葉を受け入れられません。奪ってしまった命はもう戻ってこないのだから...
先日祖母が亡くなりました。 祖母は宗教に入会していて、熱心でしたが私は入会していません。私は祖母とは違う他の宗派に興味があり、行く行くは入会するかもしれません。 でも、祖母が自分が死んだら拝んでね!って言ってました。 仏壇もありませんし、どの様にすればいいでしょうか? 今は南無妙法蓮華経と言って、おばあちゃん、天国へ行ってください!と言うだけで数秒間で終わります。 そういうやり方でも亡くなったおばあちゃんの助けになるのでしょうか?
昨年大学生になり、もう10ヶ月ほど経ちました。 全くと言って良いほど、友達ができません。 たまに一緒に座ったり、ちょっと喋ったりする程度の知り合いは居るのですが、会話は続かないし、もっと深い会話がしたくても出来ません。 元々私は人見知りで友人は少ない方なのですが、高校時代はクラス替え等が無かったこともあり、仲の良い友人は沢山いました。 その友人たちは他の大学へと進学したり、就職したりして、何だかみんなその場所で上手くやっているようです。 私は恥ずかしながら高校時代の友達への見栄があり、その友人たちには友達がいないと相談することができません。 もちろん家族にも、友達と楽しくやっていると言っているので今更相談できるわけもありません。 この歳にもなって、友人をマトモに作れない自分に嫌気がさしてきます。 最近は、「私の何が悪いのだろう。」とずっと考え込んでしまって落ち込むばかりです。 インターネット上の友人でも作ろうかと、SNSもいろいろ始めてみましたが、特に話せる人が出来ることもありませんでした。 私は一体どうすれば友人ができるのでしょうか。
こんにちは、 毎日ありがたく拝読させていただいております。 またひとつ質問させて下さい。 お仏壇の前に長く座っているのは余りよくないことなのでしょうか? 私自身、気持ちが落ち着き、何も考えずボーッと、ひたすらボーッと座っているだけなのですが(笑) 手を合わせた後や朝夕のお茶やご飯をお供えした後によく座ってます…。 両親には不思議に映るようですが、心地よくてついついボーッと無心に近かったり、おばあちゃんとのことを思い出したり。 離れているので年に数回程度のことですが。 放っておいたら延々座っていそうな勢いかも(笑) 匂いとかうまく言えない安心感があるのです。 変な質問で申し訳ないですがよろしくお願いいたします。
年賀状書いたので出します。年賀状出すってことは来年も生きるってことかと思います。3枚くらい返事くるといいです。見返りを求めている時点でまだまだ修行が足りません。年賀状で生存確認です。年賀状だけの付き合いの人がいます。そんなものかなって思います。年賀状もらうとほっこりします。手紙を書くことが好きです。 お坊さんはたくさん年賀状書くイメージあります。勝手にイメージしてます。
こんにちは。 何度かこちらで質問させて頂いた者です。その節はお世話になりました。 今現在私は火葬場で働いて居るのですが、周りから『よくそんな仕事出来るね。他に無かった?てか火葬場って心霊スポットじゃない?笑』などと言われます。 それとは関係ないのですが、最近ご遺族様達の辛い顔や泣き顔を見るのが精神的に辛くなり、退職する事になったのですが、それを周りに話すと、弱虫じゃん。心が弱いよね。生きてく為に働くんだから自分の精神状態とか仕事に持ち込んだらダメだよ。と言われました… 私はやっぱり精神が弱すぎるんでしょうか…? 無心で働き続けた方が良かったのでしょうか? 何かお言葉を頂けたら嬉しいです。。
ご閲覧ありがとうございます。 この度新しくお仏壇を迎えるにあたって悩んでおります。お力添えお願いします。 私の実家は四国で、母は15年前に亡くなりました。 その時は母方の祖母の強い希望で母方の宗派浄土真宗で葬儀を行い、 お仏壇、過去帳は母の実家、お骨は母方のお寺の納骨堂にしまってあります。 そして一週間前に父が亡くなりました。 父は真言宗なので真言宗で葬儀を行いました。お仏壇は父の実家です。 そこで私がつい最近家を新築で関東で購入したため、小さいながらお仏壇を購入しました。 49日法要が終わりましたら、位牌を私用にもう一枚頂き、私のお仏壇にお祀りします。 なお、余談ですが、今後の法要は 母は母の実家でもう一回法要を終えたら永代供養します。 父は父の実家で今後法要します。 そこでなのですが、 私のお仏壇に父の位牌と 母の過去帳もしくは法名軸を私用に、もう一枚お作り頂き、祀ってもよろしいのでしょうか。 私の家では法要はしない予定ではありますが、宗派の違う位牌と法名軸を並べてもよろしいのでしょうか。 私にとってはかけがえのない両親なので、安らかに見守ってくれたらこれ以上に嬉しいことはないので悩んでおります。よろしくお願いします。
小さなお子さんが闘病の末亡くなるテレビを見てふと思いました。 親より先に子が亡くなると地獄で石を積み鬼に壊され、また積んでの様な話を聞きますが 願っても努力をしても親より生きられない、辛くて大変な思いをしても亡くなってしまったお子さんもこんなことになってしまうのはとても辛いなあと思いました。 お釈迦様の教えは慈悲深いのにこのお話だけは 悲しいなぁとおもってしまいます。
頭のなかがぐちゃぐちゃで、発狂しそうです。 泣きたいし、喚きたいし、なにもかもぶっ壊したいです。 助けてください
悩みではなく質問です。 私8年前に母親を亡くしています。 元々神さまや仏様について深く考えたことがなかったのですが、母親を亡くして少しだけ考えるようになりました。 その結果、世間でいう神さま、仏様は私にとっては母親だと考えるようになりました。 理由としては、私を産み、育て大人にしてくれ、色々なことを教えてくれたのは母親で、亡くなった今でも母親が教えてくれたことは守っていこうと思います。そして、寂しいときや心に魔が差しそうになったとき、母親がどこかで見てくれているから思い直そうと思えたり、逆に人に親切にしようと思えたりします。 また、私にとって母親は偉大で、一生頑張っても母親みたいにはなれないなと思うふしがあります。 また、母親と過ごした時間、たくさんの愛を受けたことを幸せに思い、心の支えになってます。 だから私にとっては神さまや仏様は母なんじゃないかと思います。この考えはお坊さんの考え方からではずれていますか?
こんばんは、ふとした疑問が湧きお坊様方々の考えを聴きたく質問させていただきます。 自分には、自身の酷く・抜け出せない疑心暗鬼から人を遠ざけて傷付けてしまった(確認出来ませんがそう思っています。)人がいます。 今回、“一年”という時間はかかってしまいましたが何とかその人に謝罪の言葉を伝えるチャンスを自分で作れそうなんです!と、言うかその人に謝罪したいんです。 そこで思ったのは、この“謝罪”という行為は ⚫誤解から(自分の行為で)苦しんでいる(傷付いている)相手の心を救う為? ・・勿論、先ず第一にその人に楽になってもらいたい。苦しんだり、哀しんだりする必要はないと伝えたい! ⚫自分の心の苦痛を軽減させる為 ・・ひょっとしたら自分は許されないかもしれません。でも、そういう“行為”に寄って自分の心には区切りを付けることができ今までよりかは楽になるでしょう。(書いてて何だか“打算的”でイヤだなぁって、思います😵⤵) 考えていたら、この対極的な2つの考えが出て来て良く判らなくなってきました、、、。 仏教の質問や相談ではなく、お恥ずかしいのですがお坊様方々の考えを教えて戴けましたら幸いです! よろしくお願いいたします。
初めまして。 このたびの地震で、お墓が倒壊してしまいました。 現在、ご遺骨は伯母が自宅に置いております。 余震も続く中、業者の方の手が回らず 当分、修理をしてあげることもできません。 お墓の無残な姿を見るたびに、 亡くなった祖父母や伯父への申し訳なさで涙が出ます。 お墓を修理するまでの心の在り方を どのようにすればいいのか分かりません。 どうか宜しくお願いいたします。
今日から5ヶ月前?に毎朝仏壇のお米や水、お茶を飾る準備を済ませてからご先祖様の供養の為に般若心経を唱えています。 私は浄土真宗なのですが、唱える時に不動明王様の御真言や各如来様の御真言を唱える時に母親から「仏壇はご先祖様供養の為だから違う各宗派のご本尊の御真言を唱えるのは間違っとるよ?」と言われました。その日から御真言を唱えるのを控えています。 質問です。 浄土真宗の私でも仏壇の前で不動明王様の御真言や弘法大師 空海様の御真言などを唱えても大丈夫でしょうか? また、唱え方も問題はありますでしょうか?
はじめまして、失礼致します。 当サイトにて 数々の奇特のお話拝読致しております。 質問というよりかは、 周りに語るべき人のない身による自己満足のため、 ご回答をいただくには及びません。 宜しければただご一読下さい。 本題ですが、 十年来、今も心に懸けている方がおります。 彼女は明確に此方の干渉を迷惑・苦痛と感じており、 それを知りながらにして連絡を続けていた次第です。 所謂、ストーカーの加害者です。 執心の理由と致しまして、 思い初めたと同じ頃に些細なことで彼女をひどく疑い、 その心を傷つけたことを謝罪しようというものが第一でした。 まして彼女は此方の及ばぬほどの人柄・才能・容貌等でして、 人として惹かれたことも事実でした。 今なお昔の過ちを謝したく、 加えてその目的のために このような形で長年苦しめてきたことを謝する折あらばと思い、 先日連絡を取りましたが 無視されたのは言うまでもないことです。 お恥ずかしい限りですが、 今日まで来て、やっと彼女の苦しみに思い至り 年賀状なども含め一切の干渉を絶つ考えに行き着きました。 彼女を真に思う形として、此方なりにも方法を定めておりますが、 一方で自身の心の弱さを危うくも思っております。 関わらずにいることが可能か。 これよりは此方のできることとして、 謝罪と彼女自身とに対する執心を止め、 せめて全く関わらぬことを以て 彼女の心の傷が癒えるのに任せ、 罪障の軽減とすることが叶えばと存じます。 お目汚し大変失礼致しました。 ご高閲ありがとうございました。