久しぶりに地獄についてなのですが、 さっき何気なく地獄について調べたら、阿鼻地獄(無間地獄)のことで気になりました なんかよく読んだら、「五逆罪 謗法罪」というのがあり、特に五逆罪は父母、そしてお坊さんや悟りを開いた方などを殺してしまうと無間地獄行きとかいていたと思います。でも無間地獄=人殺しがおちる と思ってたのですが殺しの中にも殺生があって、それについて調べたら、命あるものをころしてはいけない。とあり、殺人者は五逆の罪に入ってなければ無間地獄行きではないのかな?と思いました。 僕の思ってたのは間違ってたのでしょうか?でもずっと前に地獄の絵本みたいなのがあったのですが「ひとをころすも2000年も真っ逆さま」とあって、これは阿鼻地獄(無間地獄)と関係してますよね。 五逆罪と殺生の違いがイマイチ把握できてませんでした。
叱咤覚悟での質問です。 私には娘が一人おりますが、娘を授かる1年前に死産(中期中絶)をいたしました。 第一子は、長い妊活の末に授かった念願の子供でした。 安定期に入ってすぐの頃の検診で、性別と同時に、障害がわかりました。 腕欠損、という障害でした。 周りや夫も、「あなたが大事。今回は諦めなさい。」と言い、産みたい!と泣いたものの結局障害を持った子供を育てられない、という弱さから、中期中絶を選びました。 担当医には、「産まれる前に分かることは希で、きっとお腹の赤ちゃんが教えてくれた。」と言って慰めてくれ、私自身、その子が教えてくれたことを胸に、前向きになるよう努め、一年目の命日を終えてすぐに、娘を授かりました。 幸いにも、娘は無事産まれ、健康に育ってくれていますが、未だに、罪悪感が拭えません。 そして何より、自分を信じられず、お空に旅だった子同様、娘にも何か障害を背負わせているのでは、と疑う自分がいます。 子供の頃から、知的障害などを持った人に好意を持たれたり、つきまとわれることが非常に多く、自分はそういう人を引き寄せているのでは、という恐怖心すらあり、子供が欲しくてもずっとずっと怖かったのです。 障害を否定する訳ではなく、自分はそんな強い人間じゃないし、優しくもないし、正直障害のある子供を育てる自信もないのに、やはり最初に授かったのは障害のある子で、なぜ、どうして、という考えが拭えません。 また、いつか妊娠しても、また障害を持った子を授かるのではないか、と意味もなく不安になります。 長々と書いてしまいましたが、なぜあの子は私を選んだのでしょうか。 私を選ばなければ、今頃この世に生まれて来れたかもしれないのに...。 なぜ障害のある子供が産まれるのでしょうか。 とてもとても真面目に生きてきました。 不真面目で、悪いことばかりしている友人たちが、障害のない子供をたくさん産んでいくことに、正直心苦しくなります。 産んであげられなかったこと、自分を責めること、娘に疑念を抱くこと、どうすれば私は解放されるでしょうか。 何かアドレスをいただけますと幸いです。 よろしくお願いいたします。
死ぬ直前の悪い想念があの世で延々と続いて、ガキ道や地獄へ落ちてる場合、どういった供養をすべきでしょうか? 朝晩お食事お供えしたりは欠かしてません。 結局、あの世の本人の悟り諦めしかないのでしょうが、どうやって子孫としてサポート出来ますでしょうか? お経は一応毎日あげてます。 感謝の言葉も述べてます。 子孫が出家僧侶となり千日回峰業のようなこの世での荒行するなりで、全ての欲を絶つくらいしないとならないのかなと感じてます。 私は酒タバコギャンブルも一切しませんし、殺生にあたる肉食も止めました。 懺悔文を口語にして、御先祖様の愚かさや貪りから起こしてしまった過ちに詫びてます。 自分の苦しみは自分の業と理解してますが、御先祖様の苦しみ迷い悩みだけは、私の命があるうちに可能なら解消してあげたいと願ってます。 お知恵を拝借出来れば幸甚です。 まあ、今まで通り供養して、この世では明るく感謝の気持ちでがんばって下さいとしか言いようがない質問でしょうが。
阿弥陀様のお力でどんな悪人も浄土へ生まれ仏になれるという教えは、現在うつ病で死にたい人の背中を押してしまうものではないでしょうか? 私は救いのお力が決まっていることの安心感で今をより力強く生きていけると思うのですが、それは私が健康で、頑張れる心身の状態だからだと思います。 うつ病の人は今の状況がつらすぎて、ただでさえ消えたい、死にたいのに、死んだら悟りを開く仏にさせていただけるとわかったら、その言葉は非常に魅力的で、喜んで死んでしまうと思うのです。 私にはそういううつ病の人に、阿弥陀如来の誓願に包まれて強く生きてほしいのです。 どう考え、お話すればいいですか?
いつも拝見し、様々な方のご質問やお坊さん方のご回答を読ませていただいては多くを学ばせていただいており、ありがとうございます。 初めて勇気を出して質問させていただきます。。。 少しずつ本を読んだり話を聞かせたいただいていますが、まだまだ初心者です。 本来ならばいずれかの宗派に特化して学ぶべきなのでしょうが、まだそこまで絞れておりません。 少し学んだレベルなのですが、自力の仏教も他力の仏教も頷かされることが多々あります。 どちらの仏教も並立するんやないかなと思うこともあるくらいなのですが、他方、それぞれで相反する考え方もあります。お経さんでも同じです。 元はお釈迦様から始まった同じ根っこなのに何故なんやろう…と不思議でした。 これは、対機説法、応病与薬が具現化した結果だと理解するべきものなのでしょうか? そうであるとするならば… 浄土真宗では、煩悩はなくならず、自力では決して救われず、悟ることはできないと聞かせていただいています。 他方、禅宗では、煩悩を減らして行き修行を重ね悟りに至ることを目指すものと認識しています。 ということは、人それぞれによって(対機)、自力で救われる人もいれば他力で救われる人もいる、 煩悩のままで救われる人もあれば、煩悩を減らして(なくして)救われる人もいるということでしょうか。 どの様な人に、どの様な説法=教えが適切なのでしょう⁇⁇ 屁理屈の様な、ド素人の、アホな質問で大変恐縮ですがご教示頂けますと有難いです。 もしかして過去にどなたかが似た様な質問をされて回答がある様でしたら申し訳ありません。 宜しくお願いいたします。
人は何か自分が理想とするものになるために修行することが多いと思います。 例えば、美容師になるため、寿司職人になるため、プロレスラーになるため、何年もの間、上の人について厳しい修行をすると思います。 大したことしてなくても結婚するための花嫁修行というものもあります。 現世、人間の世界が苦しいのは魂の修行の場だと聞いたことがあります。 しかもそれが輪廻転生で何回も続くなんて、魂は一体何になりたいのですか? しかも、何かになれたとしても人間として生きてる時にはそれを全く感じない。 ダイエットですらきつい思いをした後には自分の理想とする体型を手に入れた喜びがあるだろうに。 ある企業のCMで「目的を知らずにレンガを積むのと、橋を作る目的でレンガを積むのとでは出来栄えが違う」というセリフを言ってます。 目的がわからないのに現世で修行って無駄じゃないですか?
生きていく指針を探しているうちに仏教が合うのではないかと思うようになりました。 大学がキリスト教という事もあり、キリスト教の宗派だけでなく、イスラム教や神道も調べてみましたが、自分の考え方とは異なる印象があります。 キリスト教の一宗派であるプロテスタントの勤勉さやキリスト教全体が持つ他者との共存や無償の奉仕には同意するのですが、自然に対して人間優位的な部分も見られるので、研究対象にはできるのですが、生きていく指針として合いません。 そういった経路もあり、仏教に重きを置くようになりました。そこで、仏教の宗派を調べています。私が持つそれぞれの宗派についてですが、法相宗の色々な修行がある事には同意するのですが、『この世の物は自分が作り出したものである』という暴力的な印象を受け、日蓮宗や密教、浄土真宗、浄土宗はただ念仏を唱えているだけ、そして禅系は座っているだけという印象を持っています。 私自身は、自分の心身を持って他者に貢献しながらも、修行をする事で悟りは開けるものだと考えています。また寺などのいわゆる(適切ではないですが)宗教施設にいるのではなく、浮世に属しながら伝えていくのが伝道だと考えており生き方にしたいです。 伝えられていないとは思いますが、教えを下さい。
(こちらの質問は利用規約にもとづき一部編集しています) 僕が昔瞑想してた時に雑念を払い無になろうと心がけ瞑想してました でも雑念を払い無になろうとする意識自体が雑念であることに気づき 無になろうと意識することも意識しないいことも野放しにしました そしたら目の前で色んな色をした小さな粒が不規則な動きをしてる光景が見えました その小さな粒の不規則な動きを目で追ってるときはまだ自分の中に意識がある状態で その小さな粒の不規則な動きを目で追ってないときは自分の中に意識が無いような状態でした そしてその小さな粒の不規則な動きを目で追ってない意識が無い状態になると 神妙な気持ちでボーっとしてるんです 色即是空のような無であると同時に無でないような そしてずっとその状態でいると白昼夢みたいなのを見るんです 白昼夢を見てるときは意識がないのでそれを見てるという意識がなく見てるんです でも後で意識がある状態にもどると自分がさっき変な夢を見てたなと気がつくんです 白昼夢には良いものもありましたが悪いものもありました 一番悪いものは白昼夢の夢の中でもう一人の自分が無差別に人を殺してました でも僕はそれをボーっと見てるんです 意識があるのかないのかもわからず 善悪の価値観があるのかないのかもわからず 自分であるのかないのかもわからず ただただボーっと見てるんです 凄く怖い夢だったのでそのことを親に話しました そしたら親は「え!おまえ上の階で瞑想してたのか?おまえ下の階でテレビ見てたじゃん・・・」って言われました それを聞いて僕は瞑想して意識が有るのか無いのかわからない状態になると悪霊に憑依されるんじゃないかと思いました そして瞑想やヨガのルーツを探ると ヒンドゥー教の破壊神シェバからで人間の切り落とした頭部を持って踊ってる神様からだというのを知りました インド人はカニバリズムや麻薬や変態的性癖を儀式的に行いこのシェバを崇めてることも知りました 瞑想やヨガのルーツって危ないんじゃないんですか? 瞑想やヨガの危険性は全く無く健康に良いだけなんですか? 瞑想のしすぎて悪霊に取り付かれることとかないんですか? 僕が見たのは単なる幻想で何も考えず瞑想し続けて悟りを開いた方がいいですかね? というか瞑想し続けた結果として自殺大国日本や僕のこの悪夢すら救える悟りの力は得られるのですか?
宗教家と臨床心理士の共通点と違いはどんなことが考えられますか? ユングの分析心理学の勉強をしているなかで、宗教的な考えがでてくることもありますが、宗教の実践者からみた意見をいただけましたら幸いです。 表面的に仏教を学んだ私から感じる共通点は、禅の「公案」が心理療法でいう夢分析、仏性というのが、ユングでいう、意識と無意識の全体性の中心にあるとした自己(セルフ)。などなど 単に依頼者に相談にのるという単純な共通点ではなく、宗教家も臨床心理士も無意識的なことが深く関わっている印象を持ちました。 また、お坊さんで臨床心理士の資格を取られる方がいらっしゃいますが、反対に臨床心理士が悟りの修行をすることの意義など考えられることがありましたらお願いします。
ご質問させて頂きますハルソラと申します。 私は禅の思想に感銘を受け、座禅修行を念頭に日々の生活を送っております。 多数の書物やお話から理屈では「なるほど悟りとはこのようなものか」と理解しつつも、お坊さまはご存知の通り、頭の理解でどうにかなるものではなく悪戦苦闘の日々です。 そこで私はふと思いました。なぜ人間はこんなに修行しなければ悟れないのか?…と。 昔、文鳥を飼っていた事がありますが、文鳥は悟っていると思いました。 すべての行動が「作為なく自然体で、ありのまま」なのです。 例えば、指で突っつくと怒るのですが、次の瞬間に手のひらを差し出すと、怒っていた事はすっかり忘れて手のひらに乗って機嫌良くしているし、 晩年は羽の力も衰えて全く飛べなくなりましたが、そんな事を気にしたり落ち込んだりする様子もなく、シャカシャカと素早く走りいつも通りのご機嫌なのです。 動物植物などはそのように「ありのまま」生きている(…と思う私の推測ですが)のに何故に人間は長い間たくさんの修行をしてやっと悟れるか、あるいはそれでも悟れない、という言わば面倒な存在なのでしょうか? お坊さま方もお忙しい中まことに恐縮ですが、ご教授よろしくお願い致します。
他の問答で仏教は"心の平穏"を見つける事と書いてありましたが心の平穏が見つからないです。 ずーっと死ぬor投薬を数年続けてて最近本当に生きるのをやめようと確信しつつあり、今はもう絶望感と戦いながら生きてます。おそらく私の年代でここまで人生に苦痛を感じて、失敗して、でも普通の人ぽく振る舞い、誰にも悩みを離さず生きてる人はかなり少ないと思います。 365日10何時間「死にたい、生きる意味は?生まれてこなれけば」と何度も考えている人間ですよ? そんな私はやはり苦しみについて人以上に考えるし、哲学や仏教に自ずと向かいます。 でも普段心の平穏や幸福な人たちはどちらかというと、ここハスノハで説教されるような不勉強な人達で何の苦労もないし、不幸も少ないです。人生勉強とかいうけど勉強の量が圧倒的に違うし不公平すぎる。 ここで説教されるような物事の解釈を変えるとか感謝とか人以上にしてるし、人以上にどうすればいいか勉強してますし考えてます、説教されてない幸福な人より何億倍も向き合いました。 毎日死ぬような目にあって、希望もなくて、自信につながるようなことはなくて、不幸ばかり。 そんな時に"心の平穏"と言われても無理、できるわけがない。仮に少しでも好転してもこの状態があと何十年も続き、もはや変えられないことの方が多い中、苦しみ続けるのに心の平穏なんて得れるわけないです。 いつも思うのですが、苦しみを減らす方法ってどちらかというと他人を攻撃して嘘をついて生まれた環境や遺伝子の有利さを発揮して利己的に生きる方が何億倍も心の平穏が生まれるという事。 毎日苦しんでる私のような人は平穏どころか苦しみばかりです。どんな捉え方をしてもやはり不幸なのです。 そしてそんな運の悪い人は仏教を勉強しても悟りについて考えても知名度のあるお坊さんに負けてしまいます。結局知名度もあり、欲を楽しみ、私よりも恵まれてるお坊さんが"心の平穏"こそが悟りといってるだけじゃないかと思ってしまう。 実際は悟りなんて無くて生まれた時に苦しむ人は苦しむだけの人生なのでは?と。 一度人生の地獄が続くと脳細胞が死滅していてもはや戻る事は不可能です。 仮に生まれて虐待されて親に愛されなくて友達に虐められて苦しんで自殺した人ってもはや何を悟るの?と思います。
毎日死について考えてしまいます。 死にたいという考えではなく、いつか来る死について不安で不安でしょうがなく頭の中で色々と考えてしまいネットなどからそういう関連のサイトを調べすぎてもっと不安になってしまっています。今では自分でコントロールできなくなってしまいました。文章では書ききれないので箇条書きで今自分の頭の中にある考えを書きます。 ・テレビやネットでの年齢を見ると将来この歳になりたくないなと、絶対なるのにも関わらず考えてしまう。 ・いつかは死ぬとわかっていても死にたくないと思ってしまう。 ・死後の世界がどうなっているのか、自我意識はあるのか、仮に生まれ変わりがあったとして自分が自分じゃなくなるのではないかと思ってもし、死後の世界がなく何も感じられなかったらと思うと不安と焦りが出てしまう。 ・自分はなんなのか、この体は本当に自分なのかという疑問。 この4つでどうしようもなくなりネットなどで調べて安心しようとするも信じていいのかわからずこのループに陥ってしまっています。 この事を家族に相談をしても「暇だからそう考えるんだろ」と言われるだけで考えないようにしようとしていてもふと、考えてしまいまたループに陥ってしまい焦りや不安、そしてパニックになってしまいます。先の将来、死後の世界が判明するのではないかとネットで書かれていたのですが本当なのかどうか本当にあるのかそれとも無で何も感じられなくなるのか、4つの考えのループから抜け出すのにはどうすればいいのか、身体や私生活に影響が出るほど深刻な問題なので、是非ともお教え頂きたいです。
毎日しんどいです。趣味を作ったり、楽しい事をしたり息抜きをしたりしていますが、しんどいです。 新しい環境についていけないです。
お久しぶりです。 以前、アングリマーラに関する質問をしましたが今回もそれに関する質問をさせて頂きます。 自分は以前アングリマーラに嫉妬してましたが次第に憧れを抱く様になりました。 極悪人のレッテルを貼られて周囲からも相当、罵詈雑言を浴びせられたであろうアングリマーラはそんな困難も跳ね除けて仏様になられた。 そんな偉業とも言える事を成し遂げた人物の様に自分もなりたいと言う願望を抱いてます。 生半可な気持ちでは到底無理だと思いますが可能性が0でない以上は自分もアングリマーラの様に悟りを開いて立派な仏様になりたいです。 勿論、お坊さんでも悟りを開くのが困難なのに私の様な劣等種が無理なのは存じ上げております。 道のりは険しく長いですが私も光を纏った仏様になりたいです。 その為には先ず小さな周りへの気遣いだったりをベースに毎日を過ごしていこうと考えてます。 今は優しさを基本にしていき周りから注意を受けたらそこを直す努力をしたりする事の積み重ねが立派な仏様になる第一歩だと私は思っています。 今の私はとても心が汚れて徳もたいして積んでなく寧ろ悪い事の方が多い。そんな小物が簡単に思いつく様な事ですが、それでもアングリマーラの様になりたい。この気持ちだけは本物です。 長い文章を読んでいただきありがとうございました。 お坊さんの方々、私はアングリマーラの様に立派になれますでしょうか?
仏陀の教えには、一切皆苦、諸行無常、諸法無我、これらを正しく理解したうえで、世の中を捉えることができれば、あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になり、 苦しみから解放されるとあります。 現在の私は周りに期待せず、求めず、諦める事で心の平穏を保っています。しかし全てを諦めることは難しく、多少の浮き沈みもありますが、特に不満というほどの事もありません。 しかし疑問もあり、本当に欲を削ぎ落とし、 求めず、一喜一憂することなく平穏に過ごすことが幸せなのでしょうか?何かを求め、手に入れたときの喜び、又思い通りに行かなかった時に怒り、悲しんでいる方が、人間らしく生きるという事ではないのでしょうか?。 求めないという生き方は、悲しみや怒りといった負の感情は少なく抑えられますが、その分喜びもあまりありません。物事に対し一喜一憂する事なく平穏に過ごす事が果たして本当に人として幸せな事なのでしょうか?
何度も同じ質問をし申し訳ありません。今までご回答いただいた方々ありがとうございます。 しかし、生地獄のようで、また質問いたしました。数ヶ月前に事故で左目の容姿を醜くくし、一生、絆創膏で隠して生きていくことにしました。絆創膏を貼ると外見からは当該部はわかりません。しかし、容姿を褒められることが以前以後も多く、前の目に執着しています。元には戻らないため絆創膏の自分で日常生活をしたいのですが、以前の外見への執着から絶望感、無気力が続いています。この執着を頭からなくすには悟りしかないのでしょうか...?この事故が起きた意味も見出したいです...。
自分の悩みというよりも、知りたくて困っていることなのですが。。。 私は子どもの遊びの研究をしていて、「遊びとはなにか」という問いにずっと向き合ってきました。言葉の意味を探るうちに、遊戯という言葉以前に使われていたという「遊化(ゆげ)」という言葉にたどり着きました。 これは仏教用語ということなのですが、言葉の成り立ちや、意味をネットで調べてもあまり詳しいことは載っていなかったので、ここなら教えていただけるかと思い投稿しました。 修行の末、悟りをひらいたのちに自由自在に振る舞えるようになった”状態”の事を指しているということでしょうか。 また、それにまつわる仏教上の逸話などはありますか?
真実の悟り:神はいない、私は善側、私の命はみんなの命 真実と思うこと:上次元の単なる人間が寝ている身体(一)を昔神と呼んだ お願い:上次元の一の生きているはこの次元のみんなの気分にかかわるから、生きているエネルギーなどに全意識協力だったのための何らかをお願い。今は10歳と思ってね(^^) 全てのお父さんのような位置の人間より。皆好き。
瞑想を毎日1時間行っていますが、ある日「自分で考えろ」「解放」と頭の中で感覚として受け取りました。 目を瞑ってすぐに1時間経っていたので、不思議だなと思いました。 この状況をどのような状態なのでしょうか? 世間で言う悟り?お告げ?良く分からないです。 どの仏様がおっしゃたのかも分からないです。 この受け取った言葉はどうしたらいいのか分からないので、教えて頂けたら嬉しいです。 自分で考えろって言われた時点で質問すると、駄目な気がしますがよろしくお願いします。
何年たっても、嫌なことを思い出して怒ることをやめられません。 しねばいいのに、と思ったりします。 それは寝る前とかに、特に浮かびます。 いじめられたことや、嫌な態度をとってきた人達に大して。思うんです。 何年経っても、子供の頃の事でも、ムカつきます。 私は引き寄せの法則とか悟りとか色々良いことを信じて前向きに生きてる方ですが、これだけはやめられません… 許せないんです、ムカつくやつなんて死ねばいいんです! 悔しくてたまらないんです。 どうしたらいいでしょうか?