自死で子供に先立たれた親です。 いのちの集いに参加したい気持ちがありますが、仏教でも宗派には拘らずに出向いていいものでしょうか? 私自身それほど仏教に詳しいわけでもないのですが。 気になりましたので、一応質問させていただきました。 ご回答いただけると助かります。
去る3月22日夫が自死いたしました。 あれから80日近くたち、涙は枯れてまいりましたが、日々彼に対する罪悪感、己への嫌悪感は増すばかりのような気がいたします。 私が、彼のいう事にもっと耳を傾けていたら、なぜ彼は一人で出てゆかなかったのだろう? 生きてくれさえすれば・・・ どう泣きわめこうが、謝ろうが反省しようが、もう彼はこの世には居ない。解っているのです。 49日が過ぎるころから、自死念慮は収まったように思います。 が、人生の希望が見えないのです。 何もやる気がおきないのです。 これではいけないと、こちらで拝見した、井上貫道老師の坐禅会にも参加致しました。カウンセリングも受けています。自死遺族の会(築地本願寺は気分がすぐれず、伺えませんでした)も参加してみようとは思っております。 はやく普通の生活を営めるようにしなくてはと思っているのですが、なかなか思うようにゆかず、まだ、彼の亡くなった家へも立ち入ることが出来ません。 また、長時間の外出は気分が悪くなってしまい、ついつい引きこもってしまいます。 どうしてよいのか解りません。 また納骨のことでも気がかりがあります。 それは、また次回お尋ねいたします。 脈絡のない文章で済みません。
母が難病になりそれを苦に自殺をしました。 本当に苦しんだ結果の事でした。 亡くなった母の顔は苦しんだ様子もなく本当に安らかな顔でした。その顔を見た時に母は苦しみから解放されたのだ。と思うのですが、よく聞く話では自殺すると地獄に行くと聞くのです。 そんな事はない。とは思うのですが考えてしまいます。母の事を思い、日々過ごしていく事が供養になると私は思うのですが、どうしても気にしてしまいます。
息子を亡くしました。 自死でした。 私に対する遺書はなく、彼が亡くなった本当の理由はわかりません。 息子が逝ってから色んな事を考え思って来ました。 もっともっと話し合っていればこんな事にはならなかっただろう…とか 独立していたからもっと会いに行けば良かったとか考えてたらキリがないのです。 でもわたしが泣くと他の家族が心配します。だから表面は普通にしています。 でも心が辛いのです。 自慢の息子だったのに自死ということを世間に隠している事も ちゃんと子育てを全うできなかった自分にも怒りがあります。 わたしはこれからどう向き合い生きていけば良いのでしょうか?
10年ほど前に高校生だった娘を自死で亡くしました。 よく“出会えた事にありがとう” “私の子供でいてくれてありがとう” という言葉を耳にします。 私もそう言いたい! でも娘は生きているのが辛く自ら死を選んだ… 死の数ヶ月前「なぜわたしを産んだの?」「わたしは生まれて来たくなかった」「いつ人生を終わらせるか考えてる」と娘に言われました。 娘が生まれた時の様子、みんなが喜んだ事を伝えましたが…娘の心には響かなかったのですね… “生まれたくなかった”子を勝手に産んだ私が “ありがとう”なんて言うのは 自己満足?自分勝手?娘を苦しめて死なせた私は感謝もできない…。 亡くなった娘とどうやって向き合えばいいのか もうずっとわからない。 もうこの世で充分苦しみ 怖く 痛い思いをして亡くなったのだから 今は暖かく 優しく 明るく 穏やかな場所で娘の魂が癒されている事のみを祈る日々です。 “ありがとう”はやはり言うべきではありませんか? 自死した魂は成仏できないのでしょうか? …もうすぐ命日です。
初めてご質問します。拙い文章で読みにくいかもしれませんが、もし宜しければ読んで頂いてご意見貰えれば幸いです。 親近者でもないのにいつまでも悲しみにおり、未練を残していて恥ずかしいです。 前向きな気持ちになりたいと思っています。 1年前、18歳から23歳までお付き合いしていた方が自ら命を絶ちました。この方にはお別れしてからもう何年も会っておらず、久しぶりに彼に会えたのはお葬式でした。 その際会えた瞬間に愛しさがこみ上げてきて、私は何故この人と別れる事が出来たのかと呆然とした程です。 彼は人生において恩人のような人で、2人で1人のような精神的にも一緒にいた人でした。私の浮気心と価値観の違いで別れたのですが、別れてからも、この人だけは幸せになって欲しい。この方より先に結婚は出来ないと思っていた程、幸せになって欲しかった人でした。 別れてから他の人とお付き合いしていたのですが、まさに理想のタイプになっていて恋人に望むものは全部その彼と比べてしまっていた程です。 そんな彼は当時の婚約者と家族を残し遺書を残し亡くなりました。とても優しい人でお葬式には人で溢れかえりました。とても人に好かれる人でした。 私はまさに最早他人であり、その家族や婚約者にご愁傷様ですとしか言えない立場です。それなのにいつまでも毎日彼の事を考えます。彼が亡くなってから私の人生はガラッと変わり、仕事に対しても人に対しても姿勢が変わりましたし人に優しくしたいと思うようになりました。彼の様に私も人の思いや記憶に残る様な、生きていることを示す様な仕事をしたいと思い頑張れる様になりました。 しかし最近、こんな風に考えている事がとてもおかしい事ではないかと思うようになりました。私は自分で選んで別れた他人です。今大事にしないといけない人もいます。なのに、毎日彼のことを考え、自分の一部がいなくなったような親近者のような辛さを覚えます。それはそして誰にも共感して貰えない事ですし、寄り添って貰えない事だという事も自覚していますが…この未練が辛くて堪りません。どうすれば、この未練を断ち切れるでしょうか。
私自身精神疾患により、希死念慮に悩まされています。 ただ、幼少期に母親を病気で亡くしているので自傷、または自分から死へ向かうことは母に申し訳なくてできません。 (錯乱状態になったりした場合はわかりませんが。まずそうはならない疾患です) 長患いの中で、とても澄んだ心を持つ友達ができました。 彼女は自分だけを責めて、病気のせいなのに「こんなこともできない自分はダメだ」との思いを抱えて自ら旅立ちました。 私個人の考えでは彼女は自殺というより「病死」だと考えています。 身体的疾患での死は仕方ないととらえられますがやはり自死というのは公にするには憚れることもあるようで私が彼女の死を知ったのは旅立ってから3か月ほど後のことで、もちろんお葬式にもいっておりませんし、ご両親が特殊な宗教をなさっている関係からお墓参りもさせてもらえません。 「霊能者」というような人は「自殺した霊魂は救いがない」とか「ずっと真っ暗闇をさまようだけ」などと言う人が多いようです。 そんなのひどすぎる。あんなに苦しんだ挙句、誰も責めず自分だけを責めて、精神疾患による考え方の歪み・・あまりこの言葉使いたくありませんが・・もあっていってしまいました、あんなに苦しんだのにまだ苦しまねばならないなんて・・・ 自らいのちを絶つということをよしとしているわけではないのです。 ただ、精神疾患(心の病気≠精神疾患)によりこのような結果になった方々にも救いはないのでしょうか。 もう一度申し上げますが、彼女が生きていた頃を知っている私は 彼女のことは今でも「病死」ととらえています。
自死遺族であり、精神疾患者家族です。 精神疾患を理解しなければと家族会等へ行くと、上の子を助けられなかった失敗者の様に感じ、障碍と向き合いながら明るく対処されている方々との距離を感じます。 また、自分の心を鎮めればと参加してみる自死遺族会等でも、辛くても他の家族との幸せを語る方々を遠く感じます。 年老いた両親は他の孫の成長を嬉しそうに話すし、 友人は子供の就職や結婚の事を悪気なく喋る… どれもこれも、自分には手に入れられ無い事を普通に話して聞かされると、涙が出できます。 人は人、我は我… 言わないだけで、皆悩みは有る… そう自分に言い聞かせてますが、辛くて落ち込む事が増えました。 特に年末年始は世間を見るのが更に辛かったのです。 何かお言葉を頂けますか?
私は5年ほど前に躁鬱病と診断され、今年の夏には乳ガンと告知をされました。 早期の発見だったため、抗がん剤治療と手術で完治する予定です。しかし、私は完治したくなかった。出来れば転移してくれれば自死を選ばなくても若くで死ぬことが出来たのに、と思うのです。 乳ガンを、見つけた時にはまずお医者さんと思いましたが、これが人間の生への執着なのだなと思いました。 でも、親に心配をかけ、辛い抗がん剤治療をうけながら働き、高額な医療費を払い、こんな事転移してたらやっていられません。 治療拒否も自死と同じ扱いになるのでしょうか?
高校二年生です。 先日私の友達が自死しました。 鬱病で最後まで苦しみ抜いての死だと思います。 助けてやれなかった自分が情けなく、胸が痛く、後悔の念でいっぱいです。 彼女がちゃんと成仏して、幸せになれることを祈っています。 そこで、亡くなった人はどうなるのか調べていると、自死した人は成仏できずにずっとこの世で苦しむという記述が多く見られました。 大好きな友達が苦しみ抜いてやっと楽になれるかと思いきや、亡くなっても苦しんでいるかと思えば耐えられません。 本当に彼女は成仏できないのでしょうか。 私にできることはないのでしょうか。 どうか回答よろしくお願いします。
数日前、仕事関係の知人が急逝しました。 自殺でした。自傷行為や自殺をほのめかすLINEを確認していながら、周囲の気を引きたいだけと思いまさか本当にこんなことになるとは考えていませんでした。 ショックが大き過ぎて感情も整理できず、涙がとまりません。また、救えたかもしれなかった命です、もっと何か私自身できることはなかったのかと悔やまれる気持ちもあります。 しかしながら当然遺されたご遺族のほうがもっと辛いだろうし、何とか平静を取り戻そうと思うのですが、身近な人の自死という今まで経験したことのない現実に、胸が押しつぶされる想いです。 このような経験をふまえたうえで、今後私はどう生きていけばよいのか。 何か指針となるお言葉を賜れたら幸いです。 どうぞよろしくお願いいたします。
前回自死してしまった娘のことでご相談したのですが、 とある僧侶の方から自殺した者はすぐに仏様の元へ行くことはできないと考えている。なぜなら辛くとも最後まで精一杯生き抜いた人と途中で諦めた人が評価が同じではないからと言われました。 私はそうは思えません。 自死する人はみな心の病が原因だと思うのです。普通の精神状態であれば誰が自ら死を選ぶでしょう。諦めたのではない、それしかもう選択肢が無かったのだと思います。 心の病も身体的な病も同じものではないのですか。 また闘病されて亡くなった方でも生前に悪行ばかり行った方もいるでしょう。それでも自死してしまった人間がすぐには行けない極楽へ行けるのですか? 娘は苦しみ抜いて自ら死を選んでしまいました。 精神科へ通院入院もしていましたしカウンセリングへも通いました。それでも病は少しも良くはならなかったのです。 これも立派な闘病だと思います。 娘は生前、抗ガン剤治療で髪を失った方の為に長い時をかけて髪を伸ばしヘアドネーションへ32センチもの毛髪を寄付しました。 免許証の裏面の臓器提供の欄にサインしてあったのを知っていたので、死後に角膜提供もしました。 子供の頃から人の悪口を言ったり無責任な噂話をするのも嫌いな子でした。 親バカかもしれないですが、こんな心の美しい子が自死してしまったからと言って、生きるのを諦めたから生から逃げたから、病死の人と違うからすぐに極楽へは行けないというのは本当に哀しく気持ちの持っていきようがありません。 その僧侶の方は残された私どもの行い次第で娘は成仏するのだと言われました。私達が娘のために功徳を積むのは当然と考えますが、 だからと言ってそれをしなければ娘が成仏できないとは考えられません。娘の人生は短かったかもしれないけれど、立派に生きたと思います。 残されたものが功徳を積まなければ成仏できないのであれば天涯孤独で自死してしまった人はどうすればいいのですか。 自死を選んでしまった人間は本当にすぐには極楽に行けないのでしょうか。 私の前回の質問への回答を読まれてしまった同じような自死遺族の方々もショックを受けられるのではないかと心を痛めております。 自死を容認できないからと言ってわざわざ自殺と言う言葉を使う僧侶の方は回答なさらないでください。
つい最近の話しです。 世界でたった1人の母が自死しました。 突然の事で、受け入れられないというよりかは、受け入れないように心が抵抗しておりました。 しかしながら、ご遺体と対面したとき初めて、間違いなく母だと理解しました。 私に対するメッセージも遺書もありません。 ただ、ひとつわかることは正式な診断はないものの、鬱病が原因だったとは生前の行動から推測しております。 実は身内の自死は幼き頃に一度経験しており、そのときの原因が鬱病だった為、 似た症状からそう考えました。 今は何故母はなくなってしまったのか、 意味のない追求と、あの時なんでこうしてあげなかったのかという後悔ばかりで自責の念に悩まされます。 長文申し訳ございません。 アドバイスが欲しいのですが、 私はこの事実とどう向き合えば良いのでしょうか。 また、後悔の念はどうしたら和らぐのでしょうか。 なにかお言葉をいただければ幸いです。
個人の行いは社会の行いに通じる、逆も然り自殺の原因は苦しみがほぼだろう、詳しい原因はそれぞれだが、周りが与える影響が、その人の行いを左右するのは事実であろう。 故に他の人の自死は大小あれ社会全体に影響を与える(水滴と水槽の理論)ので我々は自殺者をなるべく減らす様に行動しなければならない。自死が増える→社会が病む→苦しみが増える→自死が増えるのループこのループの最初は社会が病むかもしれない。 とはいえ、実際に追い詰められている人は周りの事など考える余裕などないであろう。よってその様な場合は理論構築よりも寄り添いや共感で心の余裕をつくる必要がある。 以下、理論構築精神的に余裕のある時に参照 ケース1 自分なんか 何らかのの理由で自己肯定感が低下した場合、これは方っておくとなぜ自分だけ→恨みに変化する。 原因となる自己肯定感の低下を解決できればいいがそれが不可能なケースも存在するはず。自分の価値観を変える、若しくは多角的な視点を持つ必要がある。恐らく実物的な苦しみは消えないが生きがいは生まれる事になるので恨みには発展しにくく自死まで考え辛くなる可能性がある ケース2 環境による攻撃等 この場合は自身が疲弊していくため特に正常な判断がし辛くなるのでは。一番はその環境から離れる事だかそういう訳にもいかないパターンも存在するであろう。この場合は自分自身と周りから距離を取り休息が必要になるだろう。何もかも疲れたは限界のサインなのですぐ自分を危険から守れる安全な場所を探すべきなのだろう。動けるうちにどれだけ安全な場所を探し回復できるかが鍵になりそうだ。 ケース3 理想への解離 このケースは自分が思い描いていた理想とのギャップに苦しみケース1と同じように自己肯定感の低下に繋がる。いろいろな状態が考えられるが手っ取り早い解決法は今に満足する事であると考える。今この瞬間をマイナスではなくスタートと考えてこれから進めばいいし進めず後退しても意外とどうにでもなる(社会保障等を使うなど)と気楽に考えるのもありかもしれない。仮に未来への絶望があったとしても今スタートラインに立てているので(少なくとも死んでいない)この状態から自分にとってプラスになる可能性の行動をすればすぐに今より好転。 ケース4 恋愛関係の悩み よくわからん がアイツの意見なんですがどうなんでしょう 長くてすみません
ただ生きていくだけのことが難しいです。今まで何度も何度も生きるか死ぬかの地獄みたいな場面に遭遇してきました。 そのたびに「死にたい」と人に言って人から見た"死にそうな自分"をイメージすることで、なんとか生き延びてきました。 人に死にたいと言うとたいてい2パターンの答えが返ってきます。 「死ねよ」系か「死んだら悲しい」系です。どちらにも心はこもっていませんでした。面倒くさそうでした。 死ねよ系の中に私が社会で生きていると「社会やすべての人にとって迷惑だから自殺してね。約束だからね」といったものがありました。これは真だと思います。(私は生活保護を受給していますし、精神障碍者です。誰かの力を借りてもただ生きていくだけのこともできません。)一方死んだら悲しい系の中に「他の動物の命を奪って生きているのにその自分が自殺することは悪だから地獄に行き、未来永劫苦しむ」といったものがありました。これも真かと思います。 この二つは矛盾すると思うのですが、私がこのまま社会に迷惑をかけ続けながら生きていくのと、自殺すること。どちらが悪なのでしょうか。仏教的な答えをご教示いただけたら幸いです。
長男が17歳で、遠い空へと旅立ってしまいました。自死でした。 あまりにも突然で、今だに受け入れられなくて… やりきれなくて、気持ちをはきだすところもなく、ネットで、自死という言葉を知りました。 何のために生きているのか、 生きていていいのか、、、 生きていることがつらくてつらくて、、、 次男にまた身内がいなくなる悲しい思いをさせたくないという気持ちだけで、毎日をすごしています。 口げんかをし、でも、そのあと、なんとか話をして、笑顔で出かけていった長男。 その5日後、戻ってくることはなく、旅立ってしまいました。 できることなら、口げんかをしてしまったあの日に戻りたい。 けんかしないで、もっと冷静に話をしていたら… おちこんでいた長男の気持ちに全く気づかす、 私がおいこんでしまったんだ… 夢だったら、どんなにいいかと願い、 毎朝目覚めるために現実とむきあい、 私がお母さんでごめんなさい、、、 と… 長男が自死したことは、わずかな身内しか知りません。 あまりにも突然で、気持ちが不安定で、 事実を受け入れられず… でも、実際は、周りにいろいろうわさされることに耐えられない… そんな、私の弱さなのかもしれません。 生きていることが、こんなに苦しい… 残された家族で過ごす時間。 そこに長男はいません。 でも、日常過ごす中、 少しずつ笑うときがあってもいいのですか? 何か食べたとき、おいしいと思ってもいいのですか? 自死した長男は、今でも苦しんでいますか? こんな私を長男は、いつか許してくれるでしょうか?
お世話になります。 亡くなった魂は、あちこちと移動して私達の事を見に行ったりできるものですか? よく、白いのが見えたとか、光が見えたとか、見える人は言います。 同じタイミングで、亡くなった時の人の匂いがしたとか、お骨の匂いがするとかも聞いた事があります。 亡き魂は、行きたいとこに行けたり、会いたい人、そばにいたい人にくっついたり、できるものかなーと毎日考えてなりません。 夫を自死でなくしましたが、そんな夫の魂も家族を見守る側として、きちんと私達を守ってくれるのかと毎日思う日々です。 毎日、毎日、夫の魂はいまどこに…とずっと考えてなりません。 自死してしまっただけに…
初めまして。 私の父は61歳です。 現在一人暮らしの父は、どうやら自分で死ぬ時期を決めているようなのです(数年以内のようです。)。 理由は二つ。 一つめは、介護状態になったとき、子どもに迷惑をかけたくないから。 二つめは、生きる期限を決めた方が、金銭面で苦労することなく、楽しく生きることができるから。 というものです。 「そういうわけだから、俺の心配をするな。ある日突然いなくなるから。迷惑はかけない。」と言います。 父の言い分は理解できないものでもありません。長生きすることが幸せだとは限らないと、私もよく考えるからです。私だって死にたくなるときはあります。 ただ、それを子どもである私に伝える意味が分からないのです。 父の決意が本気だとしたら、私は父の言葉をどう受け入れればよいのでしょうか。 自分で死ぬ時期を決めるということに対して、反対すべきなのか、そのつもりで心構えをすべきなのか。 自分の親に「自死宣言」をされ、心穏やかにはいられませんし、正直憤りさえ感じます。 今まで散々心の虐待を受けた挙げ句、自死宣言。いつまで私の心を傷つけるんだろう?とも思ってしまいます。 まとまりのない文になってしまいましたが、回答をいただけるとありがたいです。よろしくお願いします。
初めて相談いたします。 自死で亡くなった両親のことについてです。 私の両親は3年前に自死で亡くなりました。 両親は米農家を営んでおり、3きょうだいの末の弟があとを継ぐ予定で一緒に住んでいました。 2021年6月9日、弟からlineで「2日前に出かけた両親と全く連絡がつかない。どこに行ったかもわからない。」と連絡があり、警察に探して頂いたところ、町外れの山中で2人共亡くなっていました。6月7日の朝出かけたあと、昼頃に自死したのではないかとのことでした。 後の警察の事情聴取では、父が地域やJAの役員活動が大変だと話していたこと、母の両親が貯蓄を使い込みお金の援助を求めてきていたこと、ちょうどコロナ禍で私も妹もなかなか帰省できず、友人に会うことも難しく寂しがっていたことなどがわかりましたが、日記や遺書もなく決定的な理由はわからずじまいです。 亡くなる2日前に母と電話したときにもいつもと変わらない様子だったように思えました。 急な別れだったため3年たった今でもなかなか心の整理がつかず、ふとした時に両親が何について自死するほど悩んでいたのか、私に何かできることはなかったのか、と考えてしまいます。 また1年前に私に子供(両親にとっての孫)ができたのですが、他のお母さん達が大変なときに実家を頼れることがとても羨ましく思えます。 やっぱり子育てについてもっと気軽に相談したかったし、助言や手助けしてほしかった。 私の子供が私の両親に会いに行くことはできないんだと、育児に少し疲れたときに涙が出てしまいました。 なんともいえないこの気持ちにも、いつか折り合いをつけられるのでしょうか? ひとりの大人として、親として、がんばっていくしかないとわかってはいますが、もっと両親に頼りたかったと思うのは甘えでしょうか? 長文、乱文を失礼しました。
以前友人を自死で亡くした事があります。 だいぶ乗り越えてはいますが、ふとした時に急にものすごい悲しみにおそわれる時があります。 でも、それは仕方のない事と受け入れていましたが最近また違う感情に悩んでいます。 今とくに悩みや死にたいと思う事があるわけではないのに、自分が死ぬ事ばかり考えてしまいます。自分が首をつっている所や胸に包丁をつきさしたり、そのような事が頭にうかんできます。 死にたいわけではないのに、そうしたくなるんです。 とくに疲れている時や、自死した友人の事を思い出すときに。。 鬱なのかなぁ、と思いますが自分が突発的に死んでしまうのではと不安になります。だけど、深い悲しみからか心が壊れてしまい、死ぬ事に対して怖いとか感情もなく無の感情になる時もあります。 自死した遺体も見ていますので、その光景が頭から離れない時があります。自分が認識しているより心のショックが大きいかもしれません。 どのように心をもっていっていいかわからず、早急になにか心を変える言葉をいただきたく書かせていただきました