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hasunoha 問答検索結果 : 「私 死 死にたい」
検索結果: 3271件

生きたいと思いたいです

30代女です。9ヶ月程前に最愛の母を癌で亡くしました。(生まれてからずっと実家暮らしでした。) 母は約6年闘病し、死ぬ1ヶ月程前に病状が急速に悪化し、定期の受診をした際に緊急入院になりました。コロナ禍の為に面会が出来ず、病院から呼び出された時には母は意識が無く、手を握って呼びかけていましたが、回復しないまま亡くなってしまいました。 緊急入院した当日、私は仕事に行っていた為、母に言った最後の言葉は、前日の夜の「明日は病院いく日だから、早う寝なあかんよ。」という冷たい言葉でした。そんな事もあって、母の死に対して、後悔とか、懺悔とか、悲しみとか、とにかくとてもショックが大きくて、今でも母の事を考えると涙が止まりません。 そのため、母が亡くなってからは、例えば交通事故などで明日自分が死んでも構わないと思うようになりました。でも痛いのや怖いのは苦手なので、自殺願望はありませんし、病気とかも怖いので、なりたくないです。 ちなみに、日常生活は普通に送れていますし、趣味などを楽しんでる時は普通に笑えます。仕事も一生懸命やってますし、ご飯も美味しいと感じます。 自分が死んだら父や兄姉、友達、職場の仲間も"悲しんで"くれるとは思いますが、"困る"事は無いと思います。独身だし、財産もないし、仕事は別の人が引き継げば良いし。だから適当なタイミングで、あっさり死ねると良いなと思ってしまいます。 こんな考え、生きたくて必死で頑張っておられる方々に失礼な考えだとは分かっております。本当に身勝手だと自覚してます。 だからやっぱり「死んでも良い」ではなく、「生きたい」と思えるようになりたいです。

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2023/10/17

大切な愛鳥の命を奪ってしまいました。

一昨日、大切な家族である文鳥のピノを殺めてしまいました。 まだ生後7ヶ月でした。人生で初めてお迎えした家族でした。挿し餌から育てた子で我が子同然でした。 ピノは私にもったいないくらい可愛くて良い子でした。そんな子を、私は側にいて欲しいというエゴで殺してしまったのです。 きっかけはピノを自分のかけていた毛布の中に入れてしまったことです。 もともと寒いだろう、温めてあげようという気持ちからよく毛布に入れていました。 しかし、その日はピノを毛布の中に入れた後、腕で押さえつけて、疲れからか意識を失いうたた寝をしてしまいました。 そしておぼろげな意識の中で、私はピノを力をかけて押さえつけていました。 殺意はありませんが、本当にどうして死なせてしまったのかわかりません。 心の底から愛していたピノを苦しめてしまいました。なぜそんなことをしてしまったのか、自分が恐ろしいです。 意識が戻り、ピノの声がしないことに気づいて、遺体を見つけたことで死なせてしまったのだと気づきました。 ピノはまるで眠っているかのようで、また目を覚ましてくれるのではないかと考えてしまいました。 何度も目を覚まして欲しい、ごめんね、愛してると呼びかけましたが目を覚ましてはくれませんでした。 本当に可愛想なことをしました。こんなひどい最後を迎えさせてしまい胸が苦しいです。ピノはもっと苦しかったと思います。 最低な飼い主でした。 償うことも代わりになることもできず、自分が許せません。 ピノが亡くなった日は家から出れず一日中泣いていました。 ずっとピノのことを考えてしまい、辛くて眠ることが出来ません。 また、火葬して頂いた際に骨に傷はなく、腎臓など内臓系が悪かったみたいだと聞きました。 そんな体で私のために一生懸命生きてくれていたのに、追い討ちをかけて死なせてしまったことが辛いです。 窒息死であれ、ショック死であれ自分の手で殺めたことに変わりはありません。 叶うならピノに本当にごめんね、愛していたのは事実だ、大好きだと伝えたいです。 家族や周りはピノは凄く愛されてて幸せだったと言ってくれます。 私はピノに毎日幸せを貰っていました。 だけどピノは本当に幸せだったのだろうか… 永遠に出ない答えを探してしまいます。 今後、ピノがいない日々を過ごすことが辛いです。

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子供を残して自殺することについて

もうすぐ2歳になる男の子と主人の3人暮らしです。夫婦仲は良く、子供のことは誰よりも大切で愛しています。経済的な不安等、特段思い詰めるような原因はありません。普通の幸せな家族です。 その状況で私は死にたいという思いが強くなる一方で、これが鬱病なのか気質なのか、そのどちらであっても私の死にたいという気持ちを消してくれる可能性があるなら教えて頂きたく存じます。私はその気持ちを消したいのです。 私は物心ついた頃から死にたい・消えたいという願望が常に頭の片隅に張り付いています。楽しい時や悲しい時など、その時の状況・感情に応じて出るものではなく、常にです。死にたいというより、最初から自分の存在をなかったものにしたい。それと同時にこの世の全てが自分の夢の中なのではないかと思います。 私は人に全て話せるような普通の家庭環境ではありませんでした。それでも誰よりも辛く苦しい悲惨なものでもきっとありません。ただ、子供がしなくても良い経験を色々としてしまったのだと思います。 それが恐らく私の感覚を普通とは変えてしまった要因の一つだと感じています。恐らく普通の人より常に悲しく存在意義がなく、生きてる実感が鈍いです。みんなが抱えるような悩み云々ではなく、悩みなどなくてもひたすら暗いのです。 家庭環境に恵まれなかったので、私はサザエさんのような幸せな家庭に強い憧れがあり、それを今手に入れることが叶っています。それでも私の気持ちは明るくならず辛く重い一方で、もう限界なのかなと思っています。 今まで必死に前向きに、この暗い気持ちを消したくて頑張ってきたつもりですが、はたから見たら実に幸せな家庭を手に入れましたが、それでも私の気持ちは変わらないのです。もう頑張れる目標・気力が見つからないのです。 今、子供を残して死ぬのか、子供と一緒に死ぬのか、その選択で迷っています。 親を失う子供の気持ちは痛いほどわかっています。だから一緒に連れて行きたい。でもこの子の人生を私が奪ってしまっていいわけがない。それでも私は死にたい。その繰り返しで後は勢いで判断するしかないのかなという状況です。 死ぬのはいけない、というのはわかっています。死に方に悩むなら生き方に悩めと自分でもわかっています。だから、そもそものこの死にたい気持ちを消したいんです。 助けて下さい。お願いします。

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今日が命日

今日、卒業のことで、私と母と担任と学年主任と副校長で面談がありました。 怒りでいろいろと忘れてしまいましたが、「卒業する気はあるか」と副校長に聞かれ「半々です」と正直にこたえました。卒業したい気持ちもあるけど、行きたくないという気持ちもありどうしたらいいかわからない状態でした。 そしたら、副校長にさんざん貶されて責められました。 「そんな甘いこと言ってられない」 「今やめて親に迷惑かけるのか」 「もう人間関係がどうのこうのって言って、おまえが泣いても誰もおまえに同情なんかしないからな」 「学年主任も担任もおまえが頑張るというから、会議でおまえのことを庇ってやってるのにおまえはまったく行動を起こさない」 「社会に出たらそんなこと通用しないからな」 などと言われ、大泣きして過呼吸起こして逃亡しました。 そんなこと自分で十分わかってるし、私に同情してくれた人なんて一人もいなかった。 だいたい私が不登校になったのは、無気力症候群のように全てにおいて嫌になったからです。 その原因になったのがそもそも担任と母と副校長です。 人のせいにするな、と副校長は言いましたが人のせいじゃなきゃこんなふうになるわけないじゃない。 もう全てが嫌になりました。 「死ぬ」か「学校へ行く」の二つの選択肢しかテーブルの上にないように感じました。 死にたくなって、公園のベンチに座り、死ぬことへの償いに念仏やお経を唱えていました。 寒さが身にしみて、手が凍えていくたびに死が近づいていくことを嬉しく思いました。 そしたら学校の先生にみつかり、祖父や叔母が迎えにきて今家にいます。 明日から全ての教科出なければ留年になると言われました。 家族は「卒業頑張るぞ」と意気込んでいますが、私はもうそんな気持ちまったくありません。 学校へ行きたくない。 行くくらいなら死にたい。 今夜、山へ行って死のうと考えています。 もう何もしたくなくなってしまいました。 涙が止まりません。 どうか許してください。 もう頑張りたくないんです。

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自殺のタイミングが掴めません

はじめまして。 無職です。以前数年間は働けていましたが、働き始める前からすでに、ちょっとしたストレスで簡単に体調を崩すようになっていました。今も続いており月一で通院しています。学校や職場といった何らかの集団に入るのが恐ろしくて仕方ありません。 学歴も恐ろしく低いです。資格等は全く無いわけじゃありませんが、もはやアルバイト労働さえも怖い始末です。 以前は楽しめていた趣味が、あんまりおもしろくなくなってきているのを感じます。希死念慮が年々強まってきているのを感じてはいました。 しかし、何故死にたいのか。生きる上で必要な労働云々に対してどうしてここまで恐怖を感じるのか、自分でもよくわからないのです。他人と自分を頻繁に比較して苦しいということだけは自覚できています。 潔く人生を諦めて、どうしようもない自分自身にとどめを刺そうにも、その決心がつきません。タイトル通り、タイミングがわからないのです。 やろうと思えば、おそらく簡単に成し遂げらると思います。あとは腹を(というか首を)括るだけです。ただどうしても「本当にここまででいいのか?」「まだ寿命もたっぷりあるぞ?」「もう少しだけ何か楽しめないものか?」とウジウジして踏みとどまってしまいます。 まぁ家族にとっては自分は足手まといの失敗作です。死んだ後を心配することなど何一つとしてないのですが、あとはどうやったら決心して行動に移せるんでしょうか? 以前からこのサイトを見つけて気になっており、とうとう情けなく相談してしまった次第です。

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2024/09/10

生きる事が不安で面倒くさい

自分の人生に不安な事があってこれから生きるのが怖いしやらなきゃいけない事も多くて面倒くさいと感じている高校生です。 (自分の人生の不安は定期テスト、模試、大学選び、大学受験、大学生活、自立できるか、就職、仕事、人間関係、親しい人達との別れ、推しロス、健康、恋愛、性、結婚、子供、親の介護、親の死、犯罪や事故を起こしたり、巻き込まれないか、自分の老後、自分の死、自然災害、将来の日本、世界の事など) そんな感じで最近はこれから生きることが怖いしめんどくさいなと感じていますが、かと言って死んだら自分の好きなことが出来なくなるし、美味しいものも食べれなくなるから死にたくはないです。だからこれから生きるのも死ぬのも怖いし嫌だという気持ちになっています。 でも僕は世界的に見たらすごい恵まれてると思うんです。帰れる家があって、教育を受けられて、毎日美味しいご飯が食べられて、趣味も持てて、自分の好きな人達が今も生きてて、信頼できる相手も居て、毎日屋根の下で眠れたりする事ができててとても幸せだと思うんです。なのにそれでもまだ苦しみがついてくるのかと思ってます。 そしたら僕はこんな考えが浮かんで来たんです。どんな場所に産まれても、どんな生物に産まれても、結局生きる事が苦しい事には変わりないんじゃないかって。とはいえ死んでも苦しい。 そこで質問です。 何故生きる事は苦しい事なんでしょうか? 何故生きる事と苦しい事がセットでついてきてしまうんでしょうか? 何故こうも生きる事って面倒くさい事、苦しい事、理不尽な事だらけなんでしょうか? 何故私達生物は苦しまなきゃいけないんでしょうか? 何故人生は思い通りに行かないんでしょうか? 生きる意味はないってよく聞くけど、じゃあ何で生きてるんでしょうか? 何故生きても死んでも苦しみが着いてきてしまうんでしょうか? 未来の恐怖、不安を無くすにはどうすればいいですか? こんな状況で僕はどうすれば良いですか? こんなめちゃくちゃな長文を最後まで読んでくださりありがとうございました。

有り難し有り難し 27
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生きるのは苦しみ?

うつ病(持続性気分障害)の治療を10年近く受けていいる者です。 先だっては、お坊様方からのメッセージをいただきありがとうございました。世の中には良い人もいると分かり嬉しかったです。 前回の質問よりも「命」について突っ込んでお尋ねします。 生きているのが苦しくて苦しくて楽になりたいです。 死にたいと思うことがあります。 【 自分の命であっても、なぜ命を絶ってはいけないのでしょうか? 】 「生きたくても生きれない人がいる」「生まれてこれなかった命がある」「困る人がいる」「悲しむ人がいる」「ひとつしかないから」「死ぬのは怖いから」「ご先祖様からの預かりものだから」「命のリレーだから」「なかなか人間に生まれるチャンスはないから」などの答えに頭では理解出来ます。 しかし、死について考えているときは負のスパイラルの真っただ中にいるので、自殺のストッパーに全くならないのです。 本で読んだのですが、「お釈迦様も生老病死を苦しみとおっしゃった」そうですよね?つまり生きることも苦しみ。 だから修行して解脱し、二度とどこの世界にも生まれないようにするのですか? もしそうなら個人的にはしっくりきます。(でも結局は生きていてもつまらないですよね。) こんな質問をしていますが、本当は死にたくないという自分もいると思います。死にたがりの生きたがりなのでしょう。 お答えをいただけるとありがたいです。よろしくお願いいたします。

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後戻りはできない

3日前に家を出て誰からの連絡も断ちました。 年明けから、家族間で仕事ついての言い争いが多くなり、それまで一人でいっぱい悩んで、泣いて考えていましたが、ふともう全てがどうでもいい、衝動的に家を出て、その足で携帯も解約し、仕事に必要なものだけ残し、ビジネスホテルに2日泊まり、今ネットカフェにいる状態です。家族へは、憎しみしか感じなくなりました。、私は去年、脳梗塞jを患い病院の診察予約日でしたが、死ぬことを決めていたので、病院にいっても仕方ないと思い、行きませんでした。毎日、飲んでる薬も時間通りに飲まないと体に力が入らないくらいなのでそれを2日間飲まないとものすごく体の動きにくくなってます。ホテルに泊まったとはいえど、浅い眠りと昨晩は一睡もできなかったので頭もくらくらし、体は歩くのが精いっぱいの状態です。このキーボードをうつのも左手はほぼ動きません。この2日間、あそこで死のうと想像して、何度もその場所まで行きました。でも死ねませんでした。その場で涙があふれいいわけをつけては引き返して、また思い直して戻るということを繰り返しました。やりたかったこと、会いたかった人もたくさんいる。行きたかった場所もたくさんある。死のうと思った場所に立って、涙が出るということは私の心はまだ死にたいと思いながらも死にたくないといってるのかなとかいろいろまた考えました。みんなに迷惑掛けてるやとろうなとか、誰も帰ってない私の部屋を見て、私の母は何を思うんやろうとか想像しました。でも、きっと普段から、人が死ぬのは仕方ない悔やんでも落ち込んでも人は生き返らない、割り切って考えるしかないといってる人なので、自分の娘でもそう割り切っていつも通りの生活をしてるんやろうと思います。私は3人兄弟ですが、母は多分、一番の失敗作とでも思われてる思います。昨日、自分名義のキャッシュカードも郵送してそれには死ぬと決めたとまで書いて連絡も断っている以上、もうやるしかないという意思で固まっています。タイトル通り、後戻りできないように自分で退路を断ったのです。それに今更、「死にきれませんでした。」なんて生き恥さらせないし、またみんなに謝って、意気地なしとか陰口言われて生きていくなら死のうとしか思えません。私は誰かに話を聞いてもらいたかったんだと思います。自分で自分を追い詰める前に。今からどうしようかと悩んでいます。

有り難し有り難し 22
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いろんな悩み

こんにちは( *・ω・) よろしくお願いします。 私は去年2月に妹を交通事故で亡くしました。 当時は両親がとても落ち込み、そのことが心配で私が悲しみ暇がありせんでした。 毎日片道40分ある実家に通いました。 下の子がまだ生後4ヶ月くらいだったこともあり余計に自分のことは後回しにしていました。 そんな日が続き、去年10月に育休が終わり仕事復帰しました。 保険の仕事をしています。 復帰して、死についての話、交通事故での話などを聞く機会がこんなにツライのかと思いました。 妹が亡くなってから車を運転するのが怖かったのですが、田舎なので運転しないと生活ができないので我慢して運転していましたが、足が震えたり意識が飛ぶような感覚に教われたり病院に行こうか考えるような症状が出始めました。 ですが、ごまかしごまかし運転していましたが仕事で車で往復4時間くらいのとこに月1回行かなくてはいけなくなり正直仕事を辞めたいです。 辞めたいのですが私は9月まで役員をしなくてはいけないので辞めにくいです。 もう病院に行って診断書を書いてもらおうかとか、辞めます‼と言い通そうかとか辞めることばかり考えています。 気づいたら、休みの日もそのことを考えていて憂鬱でした。 これはもう仕事を辞めなくては私がおかしくなってしまう。と思ったのですがやはり役員をしているので所長に言いにくいです。 病院に行ってから所長に言うべきか、それとも後先考えずとりあえず所長に言ってみるか、どうしたらいいでしょうか❓ ちなみに所長は独身でお坊っちゃまで頼りない人なんです💦 一年たったら悲しみも少しは和らぐかと思いましたが子供も手がかからなくなり自分の時間ができ考える時間ができた時、妹の死を改めて考えました...ほんとに死んだんだ。なぜ?妹が...あんな約束をしたな、ほんとだったら今一緒に買い物しているはずなのに一緒にご飯を食べてるはずなのに...ほんとにおかしくなりそうです

有り難し有り難し 53
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2025/04/15

世界と未来が恐ろしい

今はそれなりに平和に生きています。衣食住に困ってもいないし、まだ戦争に巻き込まれているわけでもないと思いたい。世界的に見ればものすごく贅沢な生活をしていると感じています。だからこそ、この生活が終わることを恐ろしく感じ、また、今の生活を続けることに罪悪感もあります。 人間でも、自然界でも、未だに殺生は行われ続けています。私も肉や魚を食べることだってありますし、コーヒーやチョコレートを口にすることだってあります。けれど、これ自体が何かへの加害、搾取であることも事実です。電気や水を使うことは自然破壊に繋がります。けれど、この生活を誰かに明け渡せと言われても拒否してしまう浅ましさがあります。 今の生活は何の根拠も無しに何故か成立している宙ぶらりんなもので、ちょっとした間違いで崩れ去ってしまいます。そして、世界的に見ればそのバランスは日に日に悪くなっているように思います。終わるかもしれない生活、何かを傷つける生活を続けるのが怖いというのに、どうしても、今の生活が続くことを望んでしまいます。 安心して生きていたいだけだけど、自然界で天寿を全うできる生き物は少数派なのだろうという現実、解決策が見つからず悪い方へとばかり進む人間社会、オカルトな視点から破滅的根拠ばかりが積み重なる7月5日(都市伝説、占星術、仏滅)。これらが重なり、今になって自分の命と生活を惜しんでしまいます。 生物の命や感覚や自我を作り出しているのは、脳味噌や神経などの生体反応でしかありません。つまり、例え死んでもまた物質世界のどこかに生まれてしまいます。それが恐ろしい。死よりも、死に至る苦痛が恐ろしいのです。 要約すると「未来が怖い」ということになるのでしょうか。全てを忘れて自分の生活に集中していれば心は楽ですが、それは正しいことではないように感じられる。かといって、自分の全てを投げ打って他者の為にだけ生きる正しさを実行する勇気もない。そして、いつかはどう足掻いても残酷な流れの中に放り込まれる。それはこの命のうちかもしれないし、この命が終わってからかもしれない。けれど、いつか必ずそれは起こる。極楽浄土が本当にあればいいけれど、人間が発生する前、恐竜の時代にも極楽浄土はあったのでしょうか。 とりとめのない文章になってしまい申し訳ありません。解決策などないことも知っています。世界は信じるに値しますか?その根拠は?

有り難し有り難し 22
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生きているのがこわい

死が怖いです。大切な人や自分がこの世からいなくなる、どうなるか分からないことへの不安と恐怖で毎日ぐるぐる考えては1日を無為に過ごしてしまいます。 こんなに怖いなら生まれなきゃよかったと思うし、自我が芽生える前にしんでればよかったと考えてしまいます。 二十数年間生きてきて、大切なものも増えてしまいました。それらを失うことも怖いです。 朝目が覚めるだろうか、この車は私の元に突っ込んでこないだろうか、大きな事件や災害が数秒後に起きるかもしれない、目を離したとき愛犬が倒れたらなど不安が多くて、家から出られません。 事件事故のニュースを見ることも出来ませんが、何も知らずに生きることも怖いのでネットニュースを読むことはできるように頑張っています。 街中で妊婦さんやお子さんをお見かけすると、この人たちはとても幸せそうに見えるけど次の瞬間には…と恐ろしい事態を想像してしまい、素直に祝福できなくて自己嫌悪します。 50を過ぎた母が、「私はもう死んでもいい」「あと5年で逝くからあんたそろそろ自立しなさい」などと口にすることも私の不安を駆り立てます。(母は現時点で健康体です) 不安や恐怖を解消するまでにいかなくても、上手に向き合う?付き合っていく?方法はないのでしょうか

有り難し有り難し 10
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