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hasunoha 問答検索結果 : 「 お経 」
検索結果: 3038件

越三摩耶戒罪(おつさんまやざい)が気になります

密教をご存知のお坊様に、質問をさせてください。 3つ質問があります。 「越三摩耶戒罪(おつさんまやざい)」が非常に気になっております。 密教には、在家の人間がやってはいけないことがあると聞きました。 在家の人間が、阿闍梨の許可なく、勝手に真言を唱えたり、伝授なしに梵字を書いたり手印を結んだりするのはいけないと聞きました。 これを破ると越三摩耶戒罪、越法罪という宗教上の罪になる。 何の功徳も、ご利益もなく、徒労に終わる。 「大叫喚地獄に落ちる」とか「無間地獄に堕ちて出ることができなくなる」という恐ろしげな記述もありました。 1つ目の質問です。 何人かの先輩の信徒(在家)から色々と聞いて、自分なりに考えをまとめました。 ・真言なら唱えても良いし、功徳もご利益もある。 ・手印を結んだり、梵字を書くのはやめたほうが良い。 ・阿字観はお坊さんの指導のもとやること。独学は駄目。 ・本格的な祈祷の真似事をやるのは絶対に駄目。 ・「地獄に堕ちる」は、師僧の指導に従わない・修行のルールを守らない修行僧を戒める方便。でも原則として守らなければならない。 これでよろしいのでしょうか?  2つ目の質問なのですが。 私は信仰を持つ前から、仏教に強い興味がありました。 多くの本を集めて読んでいたのですが、愚かな素人の悲しさ、当時は越三摩耶戒罪のことは知らず、手印や梵字の書き方の本、さらに儀軌や口訣書を含めた専門書もかなりの数、蔵書として所有しております。 また密教美術にも惹かれ、曼荼羅の色紙も購入してしまいました。 しかし阿闍梨の許可なく、曼荼羅を建立したり、儀軌や口訣書などの専門書を読むのも越三摩耶罪に当たると聞きました。 ・小さな仏壇の上に、両界曼荼羅の色紙を額に入れて飾っているのですが、これを気にするのはやはり神経質すぎるでしょうか? ・密教の専門書を読むことを気にするのも、神経質すぎるでしょうか? 3つ目の最後の質問なのですが、先輩の信徒(在家)から、 ・「そもそも貴方は結縁灌頂を受けておらず、正式に三摩耶戒を授かっていないので、越三摩耶罪は成立しない。だから気にする必要はない。しかし灌頂を受けると越三摩耶罪が成立してしまうので、注意しなさい」と聞きました。 この解釈は正しいのでしょうか? 長文かつ生意気な質問で、申し訳ありませんが、ご意見を伺えましたら幸いです。

有り難し有り難し 34
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後悔ばかりしてしまいます。

お付き合いをしはじめたばかりの彼がいます。 でも、緊張してしまうのか、沈黙がコワイのか 「どうでもいい話」ばかりしてしまいます。 例えば、別れた夫の話。 彼には関係のない 私の友人の話。 彼は、聞き上手なのか 私のことを少しでも知りたいと思ってくれているのか、ずっと私の話をニコニコ聞いてくれていますが、 ふと気付くと 「どうして私、こんな話してるんだろう?」 と思って 悲しくなります。 もっと彼のことが知りたいのに、気付くと私のどうでもいい話で もちきりになります。 もともと、人づきあいがあまりうまくなくて、それをストレスに感じてしまい、別れた夫からも グチばかり言う女だ といつも言われていました。 カウンセラーさんにお話に行ったり、お寺をお参りして心を軽くしようと日々努力を積んでいますが、どうでもいい話をする癖が治りません。 離婚後も何人か男性と知り合いお付き合い直前まで進んでも 「話が重い」と言って別れを切りだされたこともあります。 ようやく、きちんとお付き合いが出来る人が現れ もう失敗したくない・・・と思うと余計に それに緊張を感じて どうでもいい話をしてしまうことに、後悔ばかりして お会いして帰ってきても 「また振られるかもしれない」という不安に襲われます。 お坊さんは、いつも ご説法をされるときに 限られた時間できちんと大切なことをまとめてお話をされていて お聞きしていても、すごいなぁと感心させられます。 どうでもいい話をしなくするために お話をする時のコツや、 要領よく 大切なことを話す方法、 相手のことを丁寧に聞き出す方法などを教えてくだされば幸いです。

有り難し有り難し 35
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2022/11/15

入信しなければならないですか?

ここ1.2年よく生きる意味を考えます。そこでネットで調べたら仏教での生きる意味や、それに連なる数々の話が出てきました。 それで形から入ってみようと、両手を合わせて生きる意味を考えようとしました。すると不思議と落ち着き、考えもまとまり辛さも軽減しました。 またすぐツイッターやYouTubeを見ようとするので、そのたびに煩悩、煩悩とつぶやくと意外と自分を制することができます。 すごいと思ったので、手を合わせる時に使おうと、ネットでちゃんとした数珠も買いました。 そこで、ふと思いました。自分は無宗教なのに手を合わせていいのか、数珠や数珠のブレスレットを身に着けていいのか、仏教の教えの美味しい所だけを掬っていいのか。自分に合う宗派も探して、自分と向き合う臨済宗が少し気になりました。 このような場合はどうすればよいのでしょうか、宗派に入らないといけないのでしょうか。また入信しなくても仏教徒を名乗ったり、数珠や、手を合わせるのはよいのでしょうか。 また少し浅はかだと思うのですが、臨済宗が少し気に入ってしまったので(響きがかっこよかったり、ぱっと見の教えが良かった)臨済宗用の数珠ブレスレットは身に着けてよいのでしょうか。これもちゃんと入信してからの方がよいのでしょうか。 多くてすみません、勝手に仏教徒を名乗る場合、自分は無宗教ではなくなり「自分は臨済宗だよ」となると思うのですが、それでゆくゆく臨済宗がしっくりこなくなり、他の宗、たとえば浄土真宗でしたら、急に「今は浄土真宗を信じてる」などと変えてよいのでしょうか。それとも一つ一つ手続きをしなければならないのですか? 宗教に触れてこなさすぎた為、どこまで許されるのか、こんな手軽に名乗れるわけがないと思ってしまいます。 長々と失礼しましたが、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 27
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新しい人生を歩みたいのに…

私は旦那を自殺で亡くしてから五年、その事実を受け止めながらも子供たちには明るい未来を見せてあげたい気持ち、私自身も新たな前向きな人生を歩みたく自分なりに一生懸命生きてきました。 再婚を視野にいれ、活動もして参りました。 しかし、どうしても上手くいきません。もう五年です…正直つらいです。精神的にも経済的にもです。何もかも消してしまいたいと思うこともあります。  先日ある方にどうしてこんなに前に進めないのだろう、良い人に巡り会えないのだろうと話をしたところ、亡くなった旦那が私に未だに執着していて、まだ自分を見ていて欲しいとわがままをいっていて、成仏できていないと…。気持ちはわからなくはないですが、私たちには未来があります、だから諦めて残された私や子供の幸せを祈って欲しいと思っています。実際、お骨は私ではなく彼の両親の元へ返しました。私には子供たちを育てていくことしかできないと思ったのでお任せすることにしました。しかし、彼の両親は経済的に厳しくお墓や樹木葬などの選択はせず家に未だにお骨を置いてたままなんです。それもちょっと気がかりではありますが、私にはどうすることもできません。だからと言って成仏ができないというわけではないらしいですが、どのようにしたら旦那が成仏できるのかわからないのです。 私自身の経済的な状況も良くないのでたくさんのお金をかけることが難しいです。 成仏してもらうために何か良い方法はありますでしょうか? どのようにするのが良いと思われますか? ご意見をお聞かせいただければ幸いです。 助けてください!

有り難し有り難し 16
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風俗に行っていた彼との今後

いつも拝見させて頂いてます。 優しいお言葉、たまにクスッと笑えるような、でも心を潤してくれるお言葉を拝見して元気を頂いてます。 早速なのですが、恋愛に関して悩みがあり相談させて頂きます。 私は付き合って約3年になる彼氏がおります。 その内7ヶ月ほど同棲しています。 私27歳、彼は30歳です。 双方の両親にも会っています。結婚前提の同棲です。 今年6月に、彼が関東方面の出張に行った際、ソープランドに行った事が判明しました。判明したのが10月下旬です。彼は「本当にごめんなさい。全て俺が悪い。情けない。別れたくない。」と言ってきました。 その時は頭が混乱していたのもあり、時間が欲しい事と、1人になりたい旨を伝えました。 約1ヶ月間1人にり、たくさんの方々に相談に乗ってもらい、悩みに悩んで先週彼と話し合いをしました。彼は別れたくない、1からやり直しさせてくださいと少し泣きながら言ってきました。私も好きな気持ちはもちろんあります。しかし、1度風俗に行った者は、今後も行くとの声をたくさん聞いてきました。彼は性欲がとても強い方ですのでまた裏切られるのではないかという不安があります。素人の女性に手を出していない分まだ可愛い方なのか… 気持ちの整理がまだついていない状況です。 彼曰く(本当かどうかは分かりませんが)、私が初体験だそうです。私の前には2人ほどお付き合いした方がいるみたいですが… 結婚を視野に入れてお付き合いしていた最中、こんな事があり、とてもショックです。 一度は目を瞑り今後も付き合って行くか、別れて新たなスタートを切るかとても悩んでいます。 厳しいお言葉でも何でも構いません。 ウジウジ悩んでる私も情けないですが、背中を押して頂けると大変嬉しいです。 文章もメチャクチャで申し訳ないです。 寒くなってきました。どうかお体ご自愛ください。

有り難し有り難し 24
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釈尊の言行

 厚かましく、非宗教説を続けます。  釈尊の言行については、立川武蔵先生の「ブッダをたずねて」の受け売りですから、皆様先刻ご承知と思いますが、信仰について言及したいと思います。  先ず釈尊は、偶像崇拝を禁止したとのことですが、釈尊の死後、舎利を分配して、早速信仰の対象にしました。  仏像も信仰の対象として作成され、祇園精舎での説教で済むところを、巨大な寺院を建築し、仏像を納めて 荘厳さを競いました。  これは中国の仏教を模倣したのでしょう。  釈尊の言行からはまったく不要なものであるはずです。  次に釈尊の死が近づいたときに、近隣の村人たちが釈尊の葬儀の支度を始めているのを見て、弟子にあそこに参加してはならないと戒めたそうです。  元々葬儀には無関係だったようです。  確か応仁の乱で加茂川に死体が放置されていたのを、僧侶が荼毘に付したのが始まりだったようです。  釈尊の言行に従って、これらの行事を無くせば、仏教はただ説教と修行に励むことだけが残ることにはなりませんか?  仏教は信仰とは無縁だと思います。これが非宗教説です。  蛇足ですが、通常寺院の参道に仁王門がありますが、これが参道の入り口ではなく中ほどに建てられいます。  これは参道が、輪廻転生を示したと考えられます。  参道の入り口は娑婆です。参詣者は参道を通って本堂に向かいます。  本堂は娑婆から切り離された死の世界です。  本堂に居続ければ平穏ですが、娑婆に還るときは仁王門で苦しめられます。  「チベットの死者の書」によれば、丁度3週目に怒りの神々に遭遇します。  仁王門が中途にあるのはそれを模したものと考えられます。    従って輪廻転生は仏教にとってそれ程重要なものです。  現在仁王門の像は参道を向いていて外敵を防ぐと言われていますが、参道の中途にあるのも不自然だしその必然性が考えられません。  像は本堂を向くべきだと思います。  さびれたお寺の仁王門がその向きになっているとの記事も見かけました。

有り難し有り難し 59
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般若心経の「無無明・亦無無明尽・・・」の部分について

こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。

有り難し有り難し 89
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霊魂の存在を否定されるお坊さまへのご質問

 こんにちは。先日は私の拙い質問にご回答頂き、誠にありがとうございました。また、こちらで何度もご質問させて頂いておりますが、その度毎に丁寧なご回答を頂いておりまして、大変感謝しております。本日は、多少突っ込んだ質問になってしまいますが、自分の中でどうしても整理がつかない点があり、それを質問できるような場が他にありませんでしたので、この場を借りて質問させて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。  こちらのサイトを拝見しておりますと、「霊は存在しない」と回答しておられるお坊さまが何人かいらっしゃいます。お坊さまの中でも意見が分かれる問題なのだと思いますが、私は霊魂の存在を信じており、また輪廻転生もあるのではないかと考えております。霊魂の存在を否定されるお坊さまは、霊感商法やカルト教団への対応など、現実的な対策の観点から、またお坊さま個人の世界認識から、そのような発言をされているのだと思います。しかし、素人の私から見ると「悟り」や「阿弥陀仏の救い」を前提としてお話をされているお坊さまが、「霊魂」の存在を否定されることが、どうしても理解できないのです。  素人の私から見ると、「悟り」も「阿弥陀仏の救い」も、それが一体何であるのか分かりません。そのため、お坊さまが「悟り」や「阿弥陀仏の救い」をお話されることは、「霊魂」や「輪廻転生」のお話をされることと同じくらい荒唐無稽なもののように感じてしまうのです。唯物論者の方が霊魂の存在を否定されるのは理解できるのですが、お坊さまが否定されることは、私にはどうしても理解できません。霊魂の存在については、「分からない」とおっしゃることが最も妥当なのではないでしょうか。  実際に、現代には様々な宗教がありますが「霊魂」や「輪廻転生」の存在などを説いている宗教も数多くあります。もし、お坊さまが霊魂は存在しないと考えておられるのであれば、それらの宗教についてはどう理解されているのでしょうか。  このような突っ込んだ質問をして、誠に申し訳ありませんが、霊魂を否定されるお坊さまのお考えをどうしても伺いたいと思いました。ご回答頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。

有り難し有り難し 168
回答数回答 7