何度も質問して申し訳ありません。 1度目の質問で「死にたい」と書かせていただいて、アドバイスを頂きました。その後、過去の「自死」「鬱」「母との確執」に関する質問やアドバイスを拝見し、「死なずに生きなくてはならないのかも」と少し思えるようになりました。 主人や大好きな娘が苦しむと思うと、自殺に踏み切る勇気が薄れました。 ただそうなると、またどうしようもない苦しみが再燃し、ずっと悶えます。 死にたい気持ち、他者貢献出来ないもどかしさ、孤独、駄目だという想い苦しさ、自分が壊れてしまった後悔とやるせなさ。考えを改めようとしても止めようとしてもどうしようもない涙に押しつぶされます。 拙い考えですがせめて「家事、仕事はシャキッと行い、手透きな時は電池が切れたように寝て、家族が話しかけてきたら電池が入って応対する」ようになりたいと思います。 そう、使うときにスイッチを入切する電化製品のようにただ起こる事象に対して反応したい。 どうすれば良いでしょうか? 鬱のせいか今は哀は感じても、喜怒楽は感じないのです。物事に対するやる気が起きないのです。感情とかと無縁になりたい。 医師には「人生は苦。苦しいけどまあ良いかと思えるようになると治るよ」と言われています。諦め(明らめ)って事なんだろうなとは思うんですが、欲が強いからか「なんとかしたい」と想いが取れません。 もう感情なんていらない。淡々と粛々と世間や家族の要望をこなせるようになれれば、私の生きている価値は少しあるのかなと思います。 仏教を勉強すれば良いのでしょうか? 鬱になったきっかけが、宗教に絡んでおり、主人や子供たちからも「もう宗教は止めてね。神様に頼るのは止めてね」と言われています。 これ以上、家族を悲しませたくないのです。 でも、毎日どうして良いのか分からず、苦しいのです。疲れていたら、癒してあげたい、怒りや苦しみを受け止めてやりたいのです。代われる事があるなら代わってやりたいのです。荷物が重いなら一緒に背負ってあげたいのです。 主人や子供たちと心許した人への限定の想いですが。 「あるがまま」では壊れてしまった電化製品です。棄ててしまえればすっきりするのに棄てれないお荷物。もうこれ以上迷惑をかけたくないです。 どうすれば役に立てるのか動けるようになるのかアドバイス頂けたらありがたいです。
私の食べ物に対する感覚は日本的な考えなんでしょうか? 仏教的な考え方なのでしょうか? それとも少数派なんでしょうか? 世界共通の認識だと思っていたのですが、そうではないようだと思うようになりました。 一般的に日本人の食べ物に対する感謝はいくつかの意味があると思います。 ①命を頂くことに対する感謝 ②食材を育ててくださった農家の方に対する感謝 ③食材を育んだ地球の恵みに対する感謝 ④調理人の方に対する感謝 ⑤食材を入手するための代金を稼ぐ労働に対する感謝 これらが一言で表されるのが「いただきます」という言葉だと思っていますが、特に①を強く意識していると思います。 そして食べ残すことは、奪った命をないがしろにすることだとして、食べ残さないようにします。 動物だけでなく植物に対しても同様に命を頂いていると考え、米粒一つでも無駄にしてはいけないと子供のころに教わりました。 私は「殺すのは出来るだけ少なく。食べ残すことは死ぬ必要のない生物まで殺す行為だ」「食べるために命を奪ったのだから、食べなくては無駄死にだ。」と考え、 そして動物はもちろん、植物も命を頂くと考えています。 欧米諸国では、日本とは比べ物にならないほど家畜の福祉に対する意識が高いです。 可能な限り家畜の苦しみを軽減しなければならないと考え、苦痛の少ない方法で飼育し、苦痛の少ない方法で屠殺しなければならないと考えています。 ですが、どうもそれは生きている時だけのようなのです。 食肉を食べ残すことに対しての意識がとても違うと感じています。 もちろん、もったいないとは思っているようですが、「死ななくていい分まで殺した」という風には思ってないようです。 「食べても食べなくても、いずれにしろもう死んでいる。」と考えているようです。 動物福祉に熱心な方でもです。 大乗仏教には精進料理がありますよね? 出来る限り殺生を避けるために動物性のものは取らず、植物にも命があるが感謝して無駄にしない、という考え方だと思います。 そして上座部仏教では「托鉢で頂いたら肉魚も食べてよい。食べ残してはいけない。」と聞きました。 このことから私の考え方は仏教的なのかな?と感じたのですが、仏教的でもなければ日本人の共通認識でもない、という意見の人がいて、疑問に感じ質問いたしました。 どうぞよろしくお願い致します。
仕事が毎日忙しく、自分の時間が持てない日々。 来る日も来る日も仕事に追われて夢の中でも嫌々仕事し、怒られて、悪夢を見続け追い詰められます。遊びに行くような友達も1人もおらず、相談できる人も身近に誰もいません。家族にも毎日八つ当たりして、もう長生きしたいとも思わないし、別にいつ死んでもいいと思っています。 私は世の中お金が全てだと思っています。お金がないから働き、お金を自分で生み出す才能がないからこうして嫌々やりたくもない仕事をやり、働いてたいしたお金も貰えずストレスまみれのつまらない日々を送るしかないのだと思います。自分には何もない、才能もないからこのくらいのつまらない人生を送るしかないのです。 小さな楽しみや幸せを見つけなさいとよく言われますが、私にはただ日々がそうできている程度にしか思えません。そんな気休めもう充分だと。 とにかく毎日辛く、楽しいこともなく、さっさと死にたいという気持ちしかなく無気力で悲しいです。こんな不愉快な考え方の私にもうお言葉も頂けないかと思いますが、最後の助け船だと思い投稿しました。
初めまして。湯屋と申します。 ご多忙な中、読んで頂き、感謝申し上げます。 どうしても自分では解決出来ない悩みと不安があったため、こちらへ投稿させて頂きました。 悩みとは、病気への強い不安についてです。 私には、優しい旦那と可愛い5歳の子どもがいます。離れて暮らす実家の父母も、真面目でしっかり者で良い関係を築けていると思います。 私には持病が二つあり、大学病院へ定期的に検査を受けに行っています。(直接命に関わるものではありません) しかし最近、身体の不調がとても多く、節々が痛むたびに、「大きな病気だったらどうしよう」と不安になります。(なるべく病院へは行っています) 長生き願望はありません。しかし、私が大きな病気をしたり、死ぬことにより、大好きな家族に負担を強いてしまうのが申し訳なくてたまりません。「死ぬことが嫌」というより、「私が死ぬことで大好きな家族に寂しい思いをさせてしまう。多大な迷惑をかけてしまうのが申し訳なさすぎる」という思いです。 朝起きてから寝るまでの間、常に「病気だったらどうしよう」といちいち不安になってしまいます。つい最近、父の癌が発覚したことも大きいかもしれません。 先のことでいちいち不安になるより、今という時間を大切にしたい!そう思うのに、頭に浮かぶのは、病気のことばかりです。何か症状があると、すぐにスマホで検索しまくってしまうのもやめたいです。 一日病気の不安に怯えてしまい、ストレスに潰されそうです。 病気に怯えてばかりいるではなく、いま自分が生きる現実を大切に、前向きに楽しく暮らすにはどうすれば良いでしょうか?どうすれば、病気の不安を断ち切れるでしょうか?アドバイスを頂けると助かります。 最後までお読みくださり、誠にありがとうございました。
はじめまして。 まずは現在の雇用状態は、障害者雇用で嘱託社員という形となっております。 昨年の6月にうつ症状で休職しました。その時の感情に「死にたい」がありました。カウンセリングや自己内省の結果、私の場合は消極的な「生きていたくない」でした。 7月半ばから何とか復職してやりくりしていたのですが、8月の終わりに不運にも帰宅中に交通事故に遭い3ヶ月の休職を余儀なくされました。 11月の下旬に何とか職場復帰しました。しかし、会社が良かれと思い配置してくれた部署の仕事や人間関係が絶望的に合わず、わずか5日で自殺企図に至り警察と消防、訪問看護師さんに保護されました。心が内と外からの圧力で設計図ごと消し飛んだ感覚でした。 現在も「無力感」「孤独感」「絶望感」はありますが、衝動性は無いため比較的安全は確保された状態です。 今回の「死にたい」もやはり「生きていたくない」でした。忘れていただけで、私の中には常に「死にたい」もどきがいるようです。 そんな中で過去に認知行動療法や暴露療法などを受けた資料を振り返り、幾度となく「自己否定」という言葉が出てきました。 本当はずっと前から知っていたくせに「無い」ものとして扱っていた自分からのSOSだと思っています。心が現在進行系で壊れている「今」だから気づいてあげられたとも思います。 今は退職を選択して、「今、自分にしかできない」自分のケアを最優先にしようと思っています。そうしないと一生後悔しそうなので。 具体的には、自己受容とセルフコンパッションを進めていこうかと思っています。 あとは毎日少しでも「自分の力でできた」ことを増やしていこうとも思っています。 追記になりますが、職場の人に対しては相手にはそうせざるを得ない事情があったのだろうと許すことはできますが、恕すには至っていません。 何か「40年熟成の自己否定」を癒やす術があればご教授頂けると幸いです。 長文失礼しました。
ときどき、父親がひどく憎くなり、「いっそ父を殺して自分も死んでしまいたい」と思うことがあります。 これまで、両親の顔色を窺いながら生きてきました。 ささいなことで怒り出し、私や母を否定する言葉を吐き続ける父を見て、なるべく彼を怒らせないように、母が悲しまないように、自分なりに気を配ってきたつもりですがそれでも「殺してやりたい」とまで苦痛に思っていませんでした。 それが普通の家庭なのだと思っていました。 決してそうではないと気付いたのは最近になってからで、それを自覚すると同時に「苦しい」と感じ始めてしまったのです。 癇癪持ちのようによく分からない点で怒り出し、物に当たり怒鳴る父を見て「もう殺してしまいたい。それが出来ないのなら自分が死にたい。むしろ父に殺してほしい」と度々思います。 私と父は、よく似ていると思います。 こだわらなくてもいい細かいことにやたらとこだわり、自分に自信が持てないのにプライドが妙に高く、自己肯定が下手です。 父の怒鳴り声を聞くたびに、私の悲鳴を聞いているようで呼吸が苦しくなるのです。 父が嫌いなわけではありません。 両親に(つまるところ、私の祖父母に)あまり愛されずに物理的にも精神的にも暴力をふるわれていた父親が、不器用にも私たちを大事に思ってくれていることは知っています。 私にとっての祖母が父に、「お前なんて産まなければよかった」と言っていたことも知っています。 だからこそ「あなたの娘はあなたを殺したいと思っているんですよ」と思わざるを得ない今の状況が苦しいです。 いつか本当に父を殺してしまうのではないか、自分から死を選んでしまうのではないか。 私からの一方的な同属嫌悪の果てに、最悪な共倒れをしてしまうのではないかと不安です。
当方は、病気不安が著しく強い不安障害で精神科に通院しています。 病院を見るだけで発狂してしまうことがあります。 検診・人間ドックも受ける前から強い不安に襲われてしまい、自死まで考えるまで追い詰められてしまいます。 上記症状で通院、カウンセリングを始めて1年以上経過しますが、改善の傾向は見られません。 検診を受けるくらいなら、死んだ方が良いとまで思ってしまっています。 しかし、会社からは人間ドックは就業規則に定められた義務なので受けなさいと言われてもう耐えられない状況です。 会社は、検診でなく人間ドックが義務化され、再検査も義務化されています。 再検査結果は、値が改善されないと認められません。かなり健康に厳しい会社です。 昨年は、主治医が診断書を書いて頂き人間ドックは免除となりました。 しかし、未受診者がいたとのことで労働安全衛生法違反になってしまったということが通達されました。 私のせいで法を犯してしまうというとんでもないことをしてしまいました。 今年は、いかなる理由でも人間ドック受診は免れないかもしれません。 でも、受診まで4週間を切り自分をコントロールできないほどの不安に襲われています。 食事制限や健診へのストレスのせいで、ここ3ヵ月半で13kg痩せました。 食事も食べたいものや美味しいものではなく、如何に検査値に影響しないかを考え選択してしまいます。 塩分(血圧)が怖くてほぼ味のしない食べ物を食べたり、糖分(血糖値)が怖くて炭水化物が食べれなかったり、体重が怖くて食べる量をかなり制限したりと辛い思いをしながら健康診断に向けて対応しています。 先日、発熱を伴う風邪をひいた時には、医師からスポーツドリンクやアイスクリーム、うどんなどを推奨されましたが血糖値の上昇が怖くて食べることができませんでした。 健康のために受診する健康診断が、健康を害してしまっています。 人間ドックを受診しない方法としては、仕事を辞めるか死ぬかの2択しかないと思っています。 再就職する時も検診が義務化されているため、もう駄目だと思います。 日本社会において、検診を受けないと生きることが認められていないことは承知しています。 しかし、受けることができない自分がいます。 もう日本で生きることはできないのでしょうか? 助けてください。
何故私は巻き込まれ続けるのかがわかりません。 たまたま入ったお店にたまたま強盗が押し入り、店員を刃物で脅し、居合わせた私も人質。 たまたま前を歩いていた男性がバンに跳ねられた上に2発発砲され唯一の一部始終目撃者。 仕事帰路中、いきなりカッーターを腹部に突きつけられ脅され、たまたま巡回中のパトカーにその場を発見される。 バス待ち中にドスンと音がし後ろを振り向くとすぐ後ろに飛び降り自殺をはかった女。 早朝薄暗い中マラソンをしていたら何かをふみ、よくみると飛び降り自殺女の飛び散った脳ミソ。 他にも多々ありますし、全てが当然ながら警察をとうし済みなものばかりで、 1度警察官から、嫌みや悪い意味ではなく、単純な口からでた感情で、よく理性たもてるね💦ということを言われたこともあります。 突き付けられたカッーターや人質の類いは、自分からその道を選び、その店に入ったという不運で納得できますが、 私の場合そのほとんどが他人がたまたま飛び降りたとか、他人が目の前でたまたま事故にあうという私には不可抗力的な、災害に巻き込まれたのと同じような、引きこもるでもしない限り防ぎようのないものにやたら巻き込まれますし、面倒なのが唯一の目撃者だったり第一発見者であること。 理性たもてる理由はあまりに遭遇しすぎて馴れたのと、腹が立つから。 特に自殺者、死ぬなら外で飛び降り飛び込みや首吊りをせず、自宅で死ねよ💢赤の他人を巻き込むな💢としか思えないから。 これらを抜いたただの普通の人生の中の苦痛であるなら、親からの虐待による施設暮らしやいじめを受けたりの経験からも、必ず雨はあがり、陽はまたのぼるを信じている私には糧にできるし、試練の1つだとプラスに思える経験なのですが、 これらのものは正直不必要で、せいぜい1度の経験で十分にしかおもえない腹立たしいもの…。 しかも死ぬか身動きとれない身体になるまで雨はやまず陽はのぼらないとしか思えないもの…。 当然他人の事故や死から、残された者からも学べるものはあっても、根本的に人の抱く心は同じようなものだと既に知っている私に繰り返されてもまたかよと怒りが積もるだけなのです。 何故そうなったかを理解したり理由を知り共感した所でこうも繰り返されても私には苦痛しかのこらないのは私のあり方が間違っているから? だとするならどう心のあり方をすべきですか?
こんにちは。度々すいません。 一言で言うと何か生きる事に疲れました。 と言うか、人生をやり尽くした…そんな気分です。特別、結婚したい訳でもないですし特別何かの職業に就きたい訳でもないです。そして何より特別生きたい訳でもない。 ただ、望むものがあるとすれば眠るような穏やか(じゃないかもしれませんが…)な死だと気づきました。 小さい頃から息を止める遊びや姉に首を絞められる(今思えばよく死ななかった)そんな変わった遊びが好きでした。 恋人…と言って良いのか分からないネットでしかお付き合いした事がない人とも すぐに終わって恋愛に向いてないんだなぁと思いました。 ただ、最近になってダイエットを始めました。何となく棺に入る姿は最後は若く美しく生涯を終えたいからです。 最近、一瞬だけ目が見えなくなる事があり 死を期待してしまいましたがすぐに治りました。 趣味も友達も居ません。 泣いても母親は痛いのも苦しいのも怖いのも無理なのできっと追ってくる事はないと思います。 自殺する予定は無いですが念のため遺書も用意してあります。(見つからなければそれで終わりですが…。) 生きるとしたら、何を希望に何を目標に生きれば良いのでしょう? 私は、今こうして文字を打つ間にもお迎えを待っているのに神は中々私を連れて行ってはくれないみたいです。 最後に、多分自殺はしません。でも生きるのも嫌なんです。休む事も中々出来なくてちょっと愚痴みたいになってしまいました。 読んでくれてありがとうございました。
初めまして、色々と今の悩みを検索していると、このサイトに辿り着きました。 どうか、誰にも明かせない今の悩みをご相談させてください。 私は先日、窃盗で警察の厄介になりました。幸いにして不起訴処分となりましたが、実家住まいということもあり、親に身元引受け人となってもらいました。 私は30を過ぎており、親もそこそこの年齢です。そんな親に切ない思いをさせてしまったことが、申し訳なくて、できるなら死を選びたい程でした。今となっては何故あんなことを、と後悔でいっぱいですが、今更悔やんでも取り戻せないことだと承知しています。 何故死を選ばなかったかは、私が今現在借金があり、今私が死ぬとその返済義務が親に回ってしまうと考えたからです。 借金に、窃盗に、学生の頃も色々と迷惑や心労を親にかけてきて、今また更に…… 借金のことは、両親は知りません。 ここまで親不孝な娘はいないだろうと思います。せめて結婚して、孫の顔を見せてあげたいですが、体に問題があり、それもなかなか叶わない状態です。 仕事はしています。きっちりと日々の生活を慎ましく送り、自立し、更生した姿を見せていくことで、少しでも親孝行になるでしょうか…? どうぞ、よろしくお願い致します。
以前、猫を虐待して殺してしまい、どのように自分に罰を与えるべきかと相談させていただいた者です。 その後も毎日、私が殺した猫達を思い出し、罪悪感に押し潰されそうになるとともに、回答していただいたお坊様のお言葉を胸に、反省し、少しずつですが罪ほろぼしをしていました。 自殺も考えたこともありますが、死んで楽になるのはズルいとか、自殺は私が手にかけた猫達に対する冒涜になると、苦しくとも生きようと思っていました。 昨年のことになりますが、健康診断で癌が見つかりました。 自分への罰で悩んでいたところ、天から下された罰ですので、治療することなく、猫達が味わった苦しみを少しでも感じながら死を迎えようと思っています。 進行具合から死はまだまだ先でしょうが、最近は澄みきった気持ちで、身の回りの整理を行っているところです。 ところが、どうしても気になり出したのが、死後、私が殺した猫達に会えるのかということです。 私は当然に地獄に行くのでしょうが、そのような者が天国にいる猫達に一目だけでも会えるのでしょうか? また、会うことが可能だったとして猫達は自分を殺した私に会ってくれるのでしょうか? 会えない場合、何とかしてメッセージを伝えることはできるのでしょうか? 何とかして直接謝りたいのです。 何度も繰り返された質問でしょうが、どうしても気になり質問させていただきました。
これまでも、20代の頃から卵巣の病気があり、検査や手術を続けてきましたが、、そちらは長い経過の末、心配の具合が減ってきました。 とはいえ、不安が高まるとあちこちの臓器が気になり、色々病院にかかったりしています。 このたび、そのついでに乳がん検診受けたところ、予想してないしこりを指摘されました。今のところ、大丈夫そうだけど、悪性の可能性もゼロではないようで、経過観察になりました。 次の予約が1月ですが、とても気持ちがもたないくらい不安定になっています。 そうなると死ぬのは怖くないと思える証拠をさがしてみたり、40までは生きれたのだからいいと思い込もうとしたり。でも自分でコントロールできないことが起こることが怖くて怖くて、居ても立っても居られないです。 そしてこちらのサイトに辿り着きました。時間を見つけて直接のご相談もしたいですが、 まずは今のこの気持ちをどうしたらいいか。どうしたらいいのか、荒波に放り出されたかのような気分で、グラグラと心が揺れています。普通に過ごす時間もあるけれど、こんなことをしてていいのだろうか、わたしは何か現状を変えるためにしなくてはいけないのでは、と考えては、焦燥感でいっぱいになります。 わたしはどうしたらいいのでしょうか。まだ病気と決まったわけではないのにこの状態で、私は果たして今後死に向き合えるのだろうか、とも思ってしまいます。 なお、死が怖いので50まで生きれれば本望と思ったりしていました。父と義母を私の1番恐れてるガンで亡くしたのも、影響を受けやすい私にはきつかったのかもしれません。 何かお言葉いただけますと幸いです。よろしくお願い申し上げます。
昭和初期の演歌というか流行歌の歌詞には浮世(または憂き世)と言う言葉が頻繫に使われました。 輪廻転生が真実となれば、この言葉は重要な意味を持ちます。 輪廻転生即ち心が永久に生き続けるということは、この世に死がある限り心は現世と来世(後生)の二つの環境を持つことになります。 到達が極めて困難な涅槃に依る智慧の完成を除けば、心は二つの環境のどちらが真実の住処であるかと言うことを考える必要があります。 当然死を伴う現世より来世が真実であることは明確です。 そこで現世に憂き世と言う言葉が使われるのだろうと思います。 現実に現世を生きることは大変です。 空気と水は兎も角、食料は殺生を伴うものが大部分です。 五戒にある如く殺生は悪の根源です。悪人でなければ生きることはできません。 しかし生きる為の必要悪ですから、ここから弱肉強食の世界が広がります。 現在の世界情勢の表れもこれが根源でしょう。 死ねば殺生は無くなりますが、心がそのままでは、再び転生が繰り返され、殺生を余儀なくされます。 現世では来世に留まるべく心の修行が必要になります。 これが仏教ではないでしょうか?
ずっと鬱とした気持ちから逃れようと逃れ逃れ逃れようともがき足掻いてきた。今までそう思い生きてきた。そう思ってきた。生きる目的も楽しみも見いだせない。死にたいとただぼんやりと思い生きてきた。しばらく生きてやろう。その間に何かが変わればいい。棚から落ち来る牡丹餅をただぼんやりと待ち潜んでいた。しかしとうとう餅は落ちず月日は過ぎた。そうして今やあの苦しかったはずの憂鬱はぬるま湯に変わった。甘ったれた無気力。もう活力もとうに擦り切れた。かと言ってこうしてここに質問する活力は残っている。憎らしいフェイク野郎。死を盾に生きる人間。かと言って死もしない。憂鬱が去った確固たる安定した精神状態の今気が付いた。憂鬱が過ぎたことに恐れをなす自分がここにいる。いつからか私は無自覚の内、あの陰鬱を心地良く感じていた。気が付いてしまった。あの陰鬱な気持ちが恋しい。恋しくてまた再び陰鬱が訪れてくれまいかと慣れぬ煙を吹かしてみた。しかし、やはりあの陰鬱は帰ってこない。私は何を待っていたのだろうか。私は棚から何が降って来れば満足だったのだろうか。感傷か。果たしてそれさえわからない。わからない。そうして私はものぐさ太郎を思う。 お坊さん方はものぐさ太郎をどう評していますか。
毎日、怒りや恨み、寂しさ、不安などが目まぐるしく押し寄せて辛いです。 具体的にいうと 怒りや恨みは、 過去にネット上などで言われた悪口や当てつけ、愚痴、陰口など兎に角ムカつく言葉が頭の中をぐるぐる回って、それだけでも辛いのに心の中で反論してしまう時もありすごく疲れます。 そして嫌いな人のことをずっと考えてしまいます。考えてる時は相手に死んでほしいくらいに憎悪してしまいます。 「私はこうした、あいつなら……」みたいなことも考えてしまいます。 ネット上で言われたことですから気にせずリアルの生活に集中したいのですが、出来ません。 この怒りと恨みが一番辛くてどうにかしたいです。 hasunohaでのお坊さんたちの回答を読んでも、解消されません。 不安は、 新生活(一人暮らし)への不安、友達がいないことへの不安、精神科に通ってるが無事治るのかという不安から、両親の死、自分の死まで及びます。 頓服を飲んでもすぐまた不安になります。 そして、最近夜になると無性に寂しくなり、人恋しくなって泣いてしまいます。 今は親がいるからいいけれど、いつか親離れしないといけません。 一人暮らしをして寂しかったらどうしよう。と、不安が押し寄せます。 この調子で、怒りや恨み、不安、寂しさが1日のうちにたくさん襲い来て翻弄されてとても疲れます。 春からの新生活になってもこれが治らないなんて考えただけでも気が狂いそうです。 なんとかしたいです。よろしくお願いします。
何年も前に子供が乳幼児突然死で亡くなりました。 四十九日の法要の日、親戚は法要を終えた後その足で近くで行われていたイベントに遊びに行きました。事前に調べて計画していたと聞き怒りが込み上げてきました。子供の死を軽んじられたように感じました。 その時から、親戚との付き合いが苦しくなってしまいました。 その後また子宝に恵まれ、とても嬉しくて幸せな半面、また死んでしまうのではと不安になっている時に、赤ちゃんが生まれたから、もうの亡くなった子の事は吹っ切れるわねなどと言われ、悪気はなく、良かれと思っての言動とは分かっているのですが、また悲しくなってしまいました。 何年たっても、次の子が生まれても、亡くなった子に対する気持ちは変わらないのです。今でも鮮明に思い出して苦しくて涙がでてきます。 もう何年もたつし、親戚付き合いが盛んな家族なんだから、私もいつまでも執着しないで、わだかまりを水に流せばいいのにと頭では分かっているのですが、なかなか心がついてきてくれません。 なんとか心穏やかに、怒りを手放して、よい距離感を保てるようになりたいのですが、自分ではどうしていいのか分かりません。 どうしたら自分の気持ちをうまくコントロール出来るのでしょうか?
先日、僕の行き過ぎた言動が原因で以前から交流のあった方と絶縁することになりました。 言動の内容は伏せますが、一歩間違えたら警察沙汰になるような醜い行為でした。 その方には相応の賠償金を支払い、今後一切の接触をしないことを条件に赦しをいただきましたが、僕は自分の愚かさに失望する日々を過ごしています。 絶縁された以上は直接的な謝罪ができないため、僕は自分をとにかく責め抜いて理不尽にでも罰することにしました。 最初は死をもって償うためにさまざまな方法を考えましたが、「1銭の価値も無い僕が死んだところで僕が満足するだけではないか」という結論に至りました。 そこから自己否定について考えていましたが、まだ日も浅いのに緩みを感じています。 飲食も睡眠もせずに相手の幸せを願うべきなのに、僕は迎えるべきでない明日に備えて食事をして眠ってしまっています。 本当はこの先の人生から快い感情を消し去り、惨めな最期に向かって暗い道のりを歩むべきなのだと思います。 前置きが長くなってしまいましたが、ここから質問です。 僕がもう会うことのできない相手に対して罪を償い、相手を幸せにするためにすべきことは何でしょうか。 やはり自己満足でも自死を決行すべきなのでしょうか。
長文で失礼します。 下記のような問いを持っており、その考究(あるいは超克)に残る人生を費やしたいと考えております。 現在そのための生活様式を模索中で、出家もひとつの選択肢として考えております。 早速質問ですが、 ①下記のような問いは、仏教の中で取り組むに値するのでしょうか。 ②考究にあたり、仏教はもちろんなのですが、その他の学問の助けも借りたいと思っています。出家した場合それは可能でしょうか。 ご回答いただければ幸いです。 ーーーーー 私は相互作用の世界の中に生きている。それはすなわち、常に他者に対して影響を及ぼしている、ということ。しかし、そのような在り方は自然・当然なこととして無視されてよいものではない、と私には思われる。 私の眼前には生きるか死ぬかの選択肢が平等に与えられており、自覚的にしろ無自覚的にしろ、前者を選んで生きている。裏を返せば、私には自死という、他者への影響を自発的に止められる能力が備わっている。 一般的に生きることは尊いとされ、自身の幸福の追求が当然の権利としてみなされている。しかし私が生きるということには、他者の生や意志を損ねる、負の影響が必ず伴う。 そうであれば、生とは害悪ではなかろうか? その害悪性を無視してまで、この生は礼賛されるべきものなのか? 私はただ、生きたいという自分本意な欲求に盲目的に従っているだけではないのか? 生と死を選択肢として与えられている私が、なお自分を生かし続けるのはなぜなのか? 私が生きようとすることを、私はいかにして是認できるのだろうか?
2015年の4月に離婚し、ばつ二回になりました今は一人で派遣社員の仕事してます、二回の結婚で実の子供が三人いまが子供たちにわ 父親らしいことは何一つ出来てなく養育費も渡してない状況ですこんな自分が情けなく子供たちに申し訳なく日々、死にたい気持ちと格闘してます。 でも死ぬ勇気がない自分が情けなく思います こんな自分がこの世の中、生きてる意味有るのでしょうか、こんなくそみたいな世の中、生きてる意味有るのでしょうか?お金がないと何も出来ない世の中…
浄土真宗では往生即成仏を説きます。これは非常にありがたいのですが、煩悩具足の凡夫たる私としては死ぬ前に涅槃、あるいはそれに準ずる安らぎの境地に至りたく思います。これは叶わぬ願いでしょうか?