死についてお聞きします。 今年も、いろんな方がお亡くなりになりました。 高齢の方が天寿をまっとうするのは、幸せなことだと思います。 一方で、若者や、事件、事故に巻き込まれて亡くなってしまう人がいます。 死はどうして不平等なのでしょうか? 自分は、いつ死ぬのでしょうか? 教えてください。
数年前に、家族を自死で亡くしました。 原因はうつ病でした。 一時、残された家族はどん底まで突き落とされましたが、 穏やかな日々を送れるように、前向きに頑張っています。 それでも、数年経った今でも「○○(私や他の家族)のせいでこうなった」と家族から言われる事があります。 精神的に不安定なのが理解できますので、 何も反抗する事無くその発言を聞き入れ、じっと耐えています。 精神科の受診も勧めましたが、気が進まないのか今まで行った事はありません。 なるべく刺激しないよう、あまり連絡はとっていませんが、間違った行動を起こさないか、いつも心配です。 どのように接していけば良いでしょうか。
初めて利用させていただきます。 先月の26日に父を亡くしました。孤独死です。 父と母は私が高校の時に離婚しているのでそれからずっと1人で暮らしていました。 亡くなる約2週間前に会ったのが最後です。 その時は元気だったので2週間後にまさか父が亡くなるとは思いませんでした。 持病もなく足が少し悪いくらいで特に変わった様子はなかったのですがなんとなく家に行ったら浴槽で孤独死していました。 父の変わり果てた姿を見てから毎日の様にフラッシュバックを起こし1人でお風呂に入れなくなり旦那と入っています。 夜も眠れず不眠気味です。 まだ検死が終わっておらず父の遺体がかえってきていないので火葬も納骨も出来ず現実を受け入れずにいます。 子供もいるので心配させたくなくて普通に過ごしているのですが正直つらいです。泣きたいです。でも涙が出ません。 頭では亡くなったことが分かるのですが 心が追いついていかないです。 ふとした時に父との思い出をおもいだし 心が痛みます。 私がこのままだと父は心配で 成仏できませんか? 父は自分が亡くなっていることに気づいていますか? 最後に夢で会うことは可能ですか?
よろしくお願い致します。 先日祖母が亡くなり、ふと死が怖くなりました。自分が死ぬことへの恐怖、死んだらどうなるんだろうという事や、自分の家族や周りの大切な人が死んでしまったら、自分は耐えられるのか、そればかり考えて漠然と不安になります。 昔から「死」まで行かなくとも、卒業や引越しでの「別れ」や「終わり」というものに人一倍敏感で、ドラマやアニメの最終回ですら気持ちが不安定になる性格です。 これから年齢を重ねるにつれ、色々なものとの別れが増えると思いますが、どういう心構えでいればよいのでしょうか。
三ヶ月前に母親が病気で亡くなり、3日前に父親が心筋梗塞で亡くなりました。どうして立て続けにこんな事が起こるのか、子供の一才の祝いをもうすぐ父とすると約束してたのに。どうしてこんなことが起こるのか分かりません。 これからどうしたらいいのか途方にくれています。質問ではなく聞いてもらいたいために書き込みしました、質問するとすれば1.どうすれば心が落ち着くか 2.不幸なことをどう受け止めたらよいか が知りたいです
母の自殺から数ヶ月が経ちました。 四十九日を終え緊張の糸が切れたのか、うつ病が悪化してしまいました。 自責・不安・焦り・虚しさに毎日襲われます。気晴らしに…と好きなことをしても、楽しくありません。 また、母の自殺をフラッシュバックしてしまうため、"母が自殺した日"を何度も何度も追体験してしまいます。つらいです。 服薬治療も含め、できることは全てやっています。 でも、3年経った今も改善しません。それどころか悪化したので、「元気になりたい」という気持ちが湧いてこなくなりました。 以前は「元気になる」という目標がありましたが、今はそんなことを思えるほどの気力がありません。ただただ、生きるのに疲れました。自殺未遂をするほどには。 ただ、窓の外をぼんやり眺めながら遺書の内容や死ぬことを考えていると、心が落ち着くのです。 虚しさや不安を忘れ、「死んだら母のところに行けるかもしれない」と希望も湧いてきます。 以前こちらで相談したとき、【先に往かれた親しい方々やご先祖様がお母様をあたたかく優しくお迎えなさって下さいます。】と回答をいただいきました。 ふとそれを思い出し、「わたしが死んだら母が迎えてくれる、死んだら母に会えるんだ」と嬉しくなりました。 嬉しいなんて気持ち、久々に湧きました。だから、ホッとしたのかもしれません。 「死」を考えることで心が穏やかになるなんて、おかしいでしょうか。 また、心身共に疲れ果て気力がなくても、自分に鞭打って生きなければいけないのでしょうか。 わかりません。教えてください。
はじめてお話させて頂きます 昨年の夏に二十歳の息子が事故で亡くなりました。 先日は一周忌と新盆の弔いを行いました。 現在の私は 息子の位牌や墓前では 息子が悲しまないように、心配しないように 笑顔でいることに努めています。 ですが、頭では理解していても 心は現実を受け止めきれていません。 休日は1日中涙が止まらない日もあります。 息子の事故当時一緒にいた友人達は 月に一度は家に来てくれて、他愛も無い話をして 帰っていきます。 息子を忘れないでいてくれることが とてもありがたく思えます。 その友人達や、私の会社の人、親戚以外で 息子の事故を知っている人には会いたくありません。 優しい言葉を頂いても、現実を突きつけられているようで 悲しくなります。 息子は、なぜ死ななければならなかったのでしょうか? 息子に会いたいです。 ただただ、息子に会いたいです。 この場でお話するのは間違いなのでしょうが・・・ 私は、死後の世界もその類の話も信じてます。 なので自殺をすると、息子と同じところに行けないと 思っているので自殺も出来ません。 今はただ、自分の寿命が尽きて 息子の所に行けるのを待つのみです。 優しい言葉も、明るい未来も要りません。 今でも、明日にでも息子に会いたいです。 皆様、まだ二十歳の息子は なぜ死ななければならなっかたのでしょうか? 会いたいです。
お世話になります。 私の父親は難病ALSです。 今は人工呼吸機をつけていますが、 母親とお見舞いにいきますが、私は父親が 何かいいたそうで辛くてたまりません。 生きているのが幸せなのかわかりません。 このままお迎えがくるのを待っだけで いいのでしょうか?
実家で火災があり家が全焼、昼寝をしていた父が亡くなりました。 祖母と後妻さんと暮らしていた父。後妻さんの手前、会うのは年に数回でしたが、今年息子が誕生してからは毎月会っていました。 気性の荒い父でしたが初孫の誕生を心から喜び可愛がってくれました。ただ私がコロナを非常に警戒していた事もあり、抱く時はマスク二枚重ね必須。差し入れを持って家まで来てもらったにも関わらず抱かずに帰ってもらう事もありました。息子にキスしようとした父に『やめて!』と怒った事もあります。 まさか父がこんなに早く、しかも突然亡くなるなんて。息子が生後半年を迎える5日前に亡くなってしまいました。『今忙しいから』と言って数十秒で電話を切ったのが最後の会話です。 母との離婚を通して精神を病み、いつも声を荒げていた父ですが、孫の前では常に目尻が下がっていました。ここ数十年見たことのない笑顔は昔の優しかった頃の父でした。なので今思い出すのは笑顔の父ばかりです。 息子の成長をもっと父に見せたかった。私も親になりようやく父の苦労が分かり始めてた矢先にこのような事が起こり涙が止まりません。父と息子の写真は3枚のみ。しかも全てマスク着用。家が全焼してしまったので遺影がこのマスク姿のものしかありません。 なんであの時マスクを外して撮影しなかったんだろう。なんであの時息子を抱かせてあげなかったんだろう。ぷにぷにの赤ちゃんの頰にキスするくらいいいじゃないか。後悔ばかりです。 父に会いたい。不器用だけど、たくさん私を愛してくれた父。母をたくさん傷つけた父が許せず顔を合わせば常にぶつかってばかりだったけど、本音は父の事が大好きでした。 気持ちの整理をするために私は今後どうしたら良いのでしょうか?
以前より、死の恐怖について相談をさせていただいており、大変お世話になっております。 たくさんの方から頂いたご回答はどれも暖かく、そして勉強になっております。ありがとうございます。 問答の中で、自分の弱い点や、認知や考え方の歪みがわかり、この方法で恐怖を緩和していこうという方向性は見えつつあるのですが、恐怖緩和に対するどの方法を行うにしろ、習得や納得(体でわかるまでやる、なども含め)には多くの時間を要します。死は人生の命題ですので、一年やそこらで恐怖が激減し、納得することはできないと考えます。 私は方向性としては、禅などの「体で納得」を目指したいと考えていますが、これこそ一朝一夕で身につくものではないですし、仕事等による時間の制約もあり、納得に至るには長年の修行が必要だと感じています。 そんな風に時間をかけてゆっくりと学びを深めてはおりますが、もちろんその間にも死への強い恐怖感は消えません。特に、楽しいことがあった日の帰り道や夜には、必ず「この思い出も自分の存在もいつか消える」という思いで気が狂いそうになり、パニック症状が出ます。 それを、娯楽へ走ったり、禅と宗派は異なりますがお念仏に頼ったり、お墓やお寺に行ったりと、一時凌ぎでやり過ごしているのが現状です。このように、最近は「いつか死ぬ」ということがいつも恐怖で気掛かりで、楽しい・嬉しいなどのポジティブな場面が心から楽しめないような感覚になっています。 前置きが長くなりましたが、 お坊さん方の中に、今に至るまでに修行をなされている間に私のように気持ちが揺れたり、恐怖でパニックになったりしたご経験をなされている方がいらっしゃいましたら、「ご自分が一旦、その問題(私で言うところの死の恐怖)への納得感を得られるまで」に、どのような心持ちや行動で過ごされていたのかをお聞きしたいです。 また、現在も私は死の恐怖緩和についての対処を学んでいる最中ですので、もし同じ問題に悩み、納得した方法や考え方があれば、併せて教えて頂けると嬉しいです。 お時間ある時で構いません。様々なご回答を聞きたいです。お手数をおかけ致しますが、ご回答頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。
前回の質問時に生じた質問です。 もう何年前のことだか正確に覚えていませんが・・・ある日のこと、前途ある若き僧侶が殺害されました。夜間、路上で危険行為をしていた青少年らを注意したところ、逆上した彼らに暴行され、その末に息を引き取ったそうです。 当時、この報道を偶然テレビで観ていた私はとてもショックを受けました。僧侶という特殊な立場の人が犠牲になったことや、私個人のそれまでの想いや経験とも重なったのでしょう。暫く、忘れられませんでした。けれども、年を経るごとに少しずつ忘れ、思い出すこともなくなりました。しかし、数年前にお坊さんが書いたあるエッセイを読んだ時、一気に思い出したのです。 そこには偶然にも、あの事件のことが書かれていました。もちろん、実名などの記載はありませんでしたが、私はフラッシュバックのように、当時、テレビに映し出されていた事件現場を思い出しました。どこにでもありそうな人気もまばらな夜間の風景、暗い夜道と街頭、街頭に照らされた白いガードレール、記事を読む女性アナウンサーの声。 筆者と被害者の男性は、修行道場で先輩・後輩の関係で、男性は修行を終えて実家のお寺に帰った後に急死。彼の父親であり、師匠でもある住職は、葬儀の挨拶の中で、こう述べたそうです。 「それでも、許さないといけないのでしょうかね・・・」 仏教の教えでも、何であっても、人は皆平等で、言動には大なり小なり理由があります。加害者となった青少年らにも、殺意があったかどうかはともかく、腹立ち紛れに暴力をふるった原因や理由がそれぞれあるでしょう。しかし、だからと言って許せるかどうかは、また別の話。けれど、許すか諦めるかしなければ、生きている限り、苦しみ続けなければならない。また、こういったことが二度と起こらないように、暴力事件の被害者の方々が活動しておられますが、その活動は別として、果たして、彼らに救いはあったのでしょうか。 「許す」って何なんでしょう。諦めたら救われるのか・・・ただ、どうしようもない「ままならぬのが人の世だ」と分かっただけではないのか・・・「救い」って一体、何なのでしょうか。
以前こちらで相談したのですが、最近になってまた死が怖くなってきました。 もちろん、自分の死もですが親の死や友達の死も怖いです。 考えても無駄と言うのはわかりますが、不安で仕方がないのです。 ネットで調べて見ても、臨死体験と言って、死後は無と言ってる人と天国があると言ってる人もいてどっちかわかりませんし、死後の世界は考えにくいらしいし、どうすればいいかわかりません。 親が死ぬのが怖い、友達も、いつかできる彼女なども死ぬのが怖い、もちろん自分も。 どうすれば良いでしょうか?死後の世界は架空の世界でしょうか?それを考えると色々なことを楽しめず、朝食を吐いてしまったり、どうすればいいですか?お坊さんは怖くないのですか教えてください。お願いします。 後、死後の世界があったらおじいちゃんとおばあちゃんだらけじゃないですか?しかも、僕は死んだら親を求めるけど僕の親はおばあちゃんを求めて、おばあちゃんはひいばあちゃんを求めてってなりませんか?考えすぎでしょうか?
私は、自分の死に対しても恐怖感が強いのですが、それよりも家族の死が恐ろしくてなりません。子供たちの無事を確認しないと、いても立ってもいられず、しょっちゅうメールやラインを送ってしまいます。つまり、人はいつ死んでもおかしくないという事実が恐ろしいのです。主人に対しても、同じような気持ちで、少しでも帰りが遅いと不安感に襲われます。家族との別れを想像しては、苦しい気持ちになりますし、そうなったらどうしようとうろたえてしまいます。妄想だとは 分かっていますが、気になって仕方ないのです。そのとき考えようとか、別のことを考えようとか工夫しますが、すぐ妄想にとりつかれてしまうのです。人が死ななかったら、どんなに気が楽だろうと思います。不可能なことですが。自分の死についても、常に病気の心配をしていて、自分の寿命が気になって仕方ないのです。自分の死も、考えだすと怖くてたまらず、だからと言って、誰にも話せず、毎日悶々としいます。家族の死も自分の死も怖くてたまらないのです。どうか私を助けてください。どうぞよろしくお願いします。
夫が亡くなりました。11年の結婚生活でした。闘病の末、眠るようになくなりました。本当につらいです。夫と二人、子供もいないので、唯一ほっとできる時間を過ごす人でした。自分のことより、私を優先してくれる人でした。今後どう生きたらよいか、ただパニックです。無事納骨までしたら、私はどうなってしまうのかと。
若い頃から精神疾患に罹患しており、死が怖く精神不安定で、頓服が欠かせません。 死恐怖症(タナトフォビア)なのでしょうか? いずれ訪れる自分の死、妻の死、身内の死に怯えています。 また、妻に先立たれて、一人ぼっちになってしまったら、生きていけないだろうと絶望してしまいます。 目の前にある死体に対しても恐怖を感じてしまうでしょう。 精神が弱いので、きっと、妻の死を前にすると、失神するほどのショックを受けると思います。入院が必要になるかもしれません。 死に対する恐怖を克服するにはどうしたら良いのでしょうか? ご教示ください。
先日、友人が急に亡くなりました。 元々、自分が一度愛した大切な人です。 彼と事情があり距離を置いて半年後に亡くなりました。今思うと彼のことを一部分も理解できてなく、 何もできないまま別れた自分に対して、自己嫌悪でいっぱいです。 あれから心にぽっかり穴が空いてしまいました。 彼にしてあげられること、これから生かすにはどうしたらいいのでしょうか。
先生方、先日は親身になって相談に乗って下さり、本当にありがとうございました。 中でも特にお世話になった先生もいらして(噛んで含めるようにお話し下さって、本当にありがとうございます。心が楽になりました)、まずそちらに先にお礼を申し上げてからが礼儀だろうと思いましたが、一人の先生にあまりに頼りすぎてしまうのもご負担が掛かりすぎてしまいますし、別の質問事項ですので、あらためて投稿させていただけましたら幸いに存じます。 先日、他の方のご質問で「枕経」のお話がありました。 ここに、どうしても死ななければいけない人がいたとして、あるいは間もなく殺される運命にある人がいるとして、そしてとても救われたいと願っているとして、その人に何とお声を掛けて下さいますか? そのような人の、死に際しての心構えを教えていただけましたら本当に有難く思っております。 先生方にはお忙しいところ誠に恐れ入りますが、もしよろしかったら、「枕経のようなつもりで」お教えいただけましたら有難く存じます。 どうぞよろしくお願い申し上げます。
私は難病に罹患しており毎日その症状と向かいあっております。 『治療法は残念ながらありません』とドクターに言われても痛みに耐えられないので何度も病院に行き、せめて症状を緩和する方法や薬などないかドクターに聞くと。 『だから難病なんですよ』と言われてしまいました。 口腔内の痛み 鼻の痛み 喉の痛み 舌の痛み 気道の痛み 呼吸をするたびにドライヤーの風を吹き付けられているような症状等々。 痛み止めは効かないです。 痛みと苦しみがエンドレスで半永久的な辛さで少しずつ進行しております。 気が遠くなるような長い闘いですが頑張ってきました。 毎日24時間続く痛みを緩和する方法はないか自分なりに試行錯誤して工夫して来ました。 西洋医学だけでなく東洋医学も試しました。 この難病を受け入れて上手く付き合っていこう。と夫と子供達にも励まされ一日一日を頑張って生きてきました。 現代の医学をもっても『この痛みを緩和する方法はない』と言われても、私はあきらめず自分自身で色々な事を試しましたが痛みを緩和する事ができませんでした。 自ら命を経つのは良くない事だとは分かっています。だからこそ家族の為にも今まで病気と向き合いながら生きてきました。 私も本心は家族と別れたくはありません。ずっと一緒に居たいです。 しかし最近はあまりの痛みに、死んだらこの永遠に続く痛みから解放されるのかもしれない。痛みのない所に行きたいのです。 家族と一緒に居たい自分がいるのに、痛みの支配が大きくて痛みには勝てません。 自ら命を経てば阿弥陀如来さまに地獄に落とされますか? 現世では難病でこのような日々を過ごし。 来世もまた地獄に行きますか? どうかお教え下さい。
なぜ動物の安楽死は許されるのに人間の安楽死は許されないのですか? 私は死にたいので安楽死できる動物が羨ましいです…
ハスノハのお坊様のご協力もあり、死への恐怖は少しずつ和らいできました。 ですが死について考え始める前より、一日が短く感じられてしまったり、平均寿命を基準にあと何年で死んでしまうのかふと考えてしまったり、僕は長男なので兄弟の中で一番早く死んでしまうんだと思い度々心が辛くなります。それから死について意識しないようにするにはどうしたらいいか教えて下さい。