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検索結果: 1418件

死ぬために生きるということ

長文失礼致します。 「早く死にたい。なんのために生きているんだろう」という、答えの出ない疑問に悩んでいます。 前々から思っていた事ではありますが、最近は特に強く、そして気付けばずっとそのことばかりに頭を悩ませています。 数年前、母がうつ病を煩ってからというもの、発達傷害を持った姉の事もあり、両親の喧嘩は毎晩絶えず、その度私は一人で声も出さず泣く日々を繰り返しました。 当時小学生だった私に頼れる存在はなく、他の兄弟もすでに自立しており、我が家ながら自分の居場所がどこにもない感覚に押し潰されていました。 幼少期の経験からか、今は対人恐怖症なのかなと思う程人と関わるのが苦手で、集団の中にいると酷く虫酸が走るような感覚に襲われ「どうしてこんな所にいるんだろう」と、自分の存在意義を見失います。 昔から勘の鋭い自覚はあり、相手の顔を見るだけで相手の考えている事が分かってしまう為、カウンセラー相手でも本音を言う事は滅多にありません。 己を含む人という生物が嫌いで、その為他人から向けられる好意が気持ち悪く感じてしまいます。 そのくせ人を傷付けることが怖くて出来ず、自分が傷付けたという事実に自分が傷付き、自己嫌悪に陥ります。 「他人を傷付けるくらいなら自分だけが苦しい思いをしていればいい」と、笑顔を作り、他人を優先する…我ながら馬鹿馬鹿しい程の矛盾と無意味な自己犠牲のせいで、結果他人から好かれ、異性からは好意を向けられたりと、終わらない悪循環で苦しみます。 そして例えば、化粧っ気のなかった同級生が久々に会ったら化粧をして綺麗に着飾っていたりなど、自分の知らない所で周りが変わっていってしまうことに恐怖を感じます。 つい最近、年の離れた姉の妊娠事実を知りました。喜ばしいことのはずなのに、最初に抱いた感情は戸惑いや恐怖でした。姉と彼氏との仲がそこまでよくなかったこともありますが、それよりも自分の姉が姉でなくなる事に漠然とした喪失感を覚えました。 姉を独り占めしたいだとか、そういう事ではなく、ただ変わることへの恐怖が非常に強いです。自分は変わりたくない。 このように、人とろくに関わる事もできず、どうしようもない性格なのでこの先不安しかありません。死ぬことを考えてる時は他のことを忘れられるので、今はどうやって死のうか、又、大人になったら死のうと心の逃げ場を作っておく事で生きています。

有り難し有り難し 52
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「死にたい」という言葉に囚われています

本当に死にたいわけではないのに、何に対しても「死にたい」って思ってしまいます。 例えば後悔した記憶や恥ずかしかった記憶を思い返しては「なんであんなことをしたんだろう死にたい、死ねばいいのに」って考えてしまったり、楽しい事があっても「私なんかが楽しんでいるなんて許されないから死にたい」と、そういう風に考えたり口に出す癖みたいなものが昔からあるのですがここ数年それがとても酷くなってきて、どうしたらいいのかわからずにいます。 酷くなった引き金は、生きがいだった愛猫が病気で亡くなってしまい、再就職に失敗したからです。現状実家暮らしのフリーターな事もあり自分への失望感や負い目が酷く他人との関わりも極力避けるようになりました。 自分が落ち込んだり悲しんでいると心配してくれる家族がいます。楽しいと感じることも嬉しいと感じることもこれからやりたいこともあったと思います。 でもすべてが「死にたい」という言葉に直結してしまって、酷い息苦しさと八方ふさがりのような、生きにくさみたいなものに囚われています。死以外に道はないぞと自分自身で言いきかせているようで怖いです。 どうしたらこのような気持ちに囚われず前向きに生きていけるのでしょうか。ご意見聞かせて頂けたら幸いです。

有り難し有り難し 26
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家で死ねたとしても孤独死、もしくは屋外で野垂れ死ぬ運命なのか

人生の折り返し地点を迎えて、心穏やかに過ごすどころか毎日孤独で不安で仕方がありません。 今現在、独身で両親と兄と暮らしています。 恋人はいません。 友達は居ると言っていいのか悩んでしまうような付き合いの人がほんの数人います。 兄とは絶縁状態です。 親戚づきあいもありません。 私は精神疾患を持っていて今は無職なので、世間のコミュニティというものに全く属していません。 両親が亡くなってしまったら私はひとりぼっちです。 そのことを考えると堪らなく寂しくなって夜も眠れません。 外を歩いていても家族連れや友達と連れ立って歩いている人達。 携帯で話しながら歩いている人。 仕事をしている人。 誰を見てもひとりではありません。 自分だけが世の中で一人ぼっちだという思いに苦しめられます。 両親が居なくなった後、収入が無くなり住む家もなくなり路上生活を余儀なくされ最後は一人、野垂れ死ぬ運命なのだと思うと悲しくてたまりません。 そうだとしても、一人で心穏やかに最後を迎える事が出来るでしょうか? どうしたら、どんな環境下にあってもひとりで強く生きていくことが出来ますか? 自分の未来に何の楽しみも見出せません。 死のうとは思いませんが生きているのが辛いです。 アドバイス頂けたら嬉しいです。 宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 22
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母親の死について

昨年末に母親が亡くなりました。最初、父親から連絡がありまず噓だと叫び号泣しました。兎に角信じられず現在も受け入れられず何処かで生きてるんじゃないかと思ってます。正直自分も母親の後を追うと真剣に考えましたけど、何とか踏み止まりました。それからは虚脱感、脱力感、後悔の念ばかりです。母は兎に角昔から頑張り屋で自分が物心付いた時には病室に居た記憶が多いです。癌も患い子宮癌に甲状腺癌と最後は腎臓の透析をしてまして、夜中に大動脈解離で手術は無理という事で亡くなりました。自分と両親は離れて住んでまして私は長野、両親は千葉でして元々母は長野の出身で2年程前には両親は長野に住んでたのですが事情があり弟夫婦と住む事になりました。事情と言うのは、私は長男ですが昔からだらしなく弟の方がしっかり者で兄貴にはこれからの両親面倒は無理と判断したのでしょう、自分が引き取ると言う形になりました。本当に恥ずかしく、情けなく思います。話が逸れましたが私は母ととても仲が良くて買い物や色々と良く出掛けました。他人から見たらマザコンです。兎に角、父も母も弟も皆負けず嫌いで頑張り屋で努力家で自分は皆と正反対の性格で一言で駄目人間です。でもそんな自分にいつも皆は優しく特に両親には一生頭が上がらないです。だからこれから頑張って親孝行したかった。。特に母にはしたかったです。。その矢先に母が亡くなり自分を恨みました。生きてる時に何で何でと思いましたが、親孝行したい時親はなしと言いますが本当にその通りです。今は無念で何かあれば何処でも涙が出て辛いです。今も母の思い出の中で生きてる感じです。人間はいつかは旅立ちますのはわかってますがあの頑張り屋の母がと思うと寂しい悲しい空しい悔しいです。母ではなく自分が代わりにと思いました。後から家族から聞いた話で亡くなる前は私の名前を何度も連呼してたと聞き心が痛くなりました。結局離れて暮らしてからは電話では話たけど合いには一度も行かなかったです。母は痛いし辛かったのを我慢して頑張ってました。本当に辛いです。死にたいと思いますが正直怖いです。私はこれからずっと母の思い出の中で生きてくのでしょうか?どうぞ何卒下らな事ですがご回答の程宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 14
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愛犬の死

14歳3ヶ月で亡くなりました愛犬に後悔とごめんねばかりで毎日泣いています。自分の意思で早朝から夜遅くまで週末も会社の日々を7年、長時間の留守番、長年寂しい思いをさせていた上に一緒に居る時は日常の色々にいつも苛々し犬にあたってしまった事もありました。命を預からせて頂いた責任や命の重みを軽視してしまっていました。このままでは駄目と生活や考えを改め一緒に居る時間を増やし大事にしてきたつもりですが転居数回、一緒に居る人や環境変化多い生活に付き合わせ日々の中でも自分優先の考えや行動が多々でした。 3年前仕事をしながら資格を取る事に決め段々と余裕が無くなり私の中に消したいのに消えない自分がいました。犬を撫で微笑みかけながら「可愛いいい子何年も寂しい思いをさせてきた分も世話させてね、甘えてね、長生きしてね」と言いながら心か頭のどこかで「寝たきりになる前に、、、歩けなくなる前に、、、いつ死ぬの」という言葉が出てきて犬に見えない様に自分の頬を叩いていました。 1年前から2週間に1回の血液検査、私は獣医師の前で萎縮してしまい聞いたり言ったりが殆ど出来ず家族である自覚も足りず時々検査や処置に疑問を抱き転院を考えながらもその病院へ行っていました。 ある昼間いつもと全く違う様子ぐったりしていたのに当日朝に病院へ行っていた事もあり夜に嘔吐もしましたが薬をあげて様子を見てしまいました。翌朝病院へ行き入院以降絶食絶水点滴のみで9日目朝に10gだけフードをあげガツガツ食べたと。その翌朝誤嚥か何かで肺炎を起こしたと酸素室の話も無いまま急変すると今日明日わからない、点滴を病院と自宅どちらで続けるか聞かれ連れ帰りその日の夕方息を引き取りました。亡くなる迄の長時間お腹を激しく上下させとても速い呼吸、苦しく辛そうな様子ばかり鮮明に出てきます。入院は私にとってだけの安心でしかありませんでした。特にここ数年どれ程痛みや辛さを我慢し頑張ってくれていたか、体調悪い中歩み寄ってきてくれたのも力を振り絞ってのことだった、なのに私は無理をさせてしまっていた、わかろうとしていなかった考ていなかった、と。10gのフードをガツガツ食べた、生きようとしていたと思えてなりません。じーっと私を見ている子でした。余裕のない私と私の中の消したい気持ちを感じ取っていたと思います。あの時、別の病院へ行っていたら等の後悔も次々と出てきます。

有り難し有り難し 12
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幸せを感じると死ぬのが怖い

以前、死ぬのが怖い、そしてこの世界はなんなのかという質問をさせて頂いた者です。その度に暖かいご回答を頂き、大変感謝しております。ありがとうございます。 ご回答や仏教について、素人ながら自分で調べたり考えたりしております。その中で、やはりお釈迦様のように、この世から執着を無くすということは、死の恐怖や今生きていることの恐怖を克服する上で大切だと考えました。 しかし、この世への執着というのが、日々の小さな幸せを感じるたびに増えて行くように感じています。例えば、今日も家族と暮らせたこと。友人と話したこと。ご飯が美味しかったこと。素敵な景色を見たこと。そのような日常の幸せを噛み締めるたびに、大切な人たちと離れたく無い、なぜ永遠に一緒にいられないのか、こんなに綺麗な景色を死んだら見られない、死んだら「今ある幸せ」が消えてしまうのだ…と、死によってそれを失うという恐怖にかられます。魂を信じてみても、自分の肉体さえ今は愛おしく、離れがたく思ってしまいます。 この世への執着を手放すことと、幸せを感じることは共存できるのでしょうか?死という自己意識の消滅の恐怖は、どういう考え方をすれば克服することができるのでしょうか? 今はまだ、死ぬのが怖すぎて生まれてきたくなかったと思ってしまうことが多いのですが、願わくば、それでも生まれてきてよかったと思いたいです。いつも、どうせ死ぬのに生まれた、最悪だ、と思ってしまうので、恐怖を克服することで、本当に心から幸せだと思いたいです。 乱文で申し訳ありません。御助言を頂けると幸いです。

有り難し有り難し 15
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主人の死と向き合えていなかったこと

こんばんは。 歩き出しては立ち止まり、迷ってはお坊様方にいただいた回答をもう一度読み返し、気持ちを切り替えてきました。そして、ようやくひとつ先へ進めたかのように思えていた矢先に、ある音楽を耳にしました。それは、2人で良く聴いていた曲でした。 私はとても嫌でした。聴いていられませんでした。なぜだかそのときはわからなかったのですが、あとからじわじわと気づきました。 私は主人の死に全く向き合えていませんでした。 亡くなったらどうなるのか、それがわかれば生きていける、そればかり気にしていて、根本的なことを受け入れていなかったのです。 主人の為にお葬式や新盆はしっかりやってあげたかったし、会社の方が来られてもしっかりした様子を見せたくて気を張っていたし、子供たちにはあまり悲しい顔を見せないように、もちろん子供たちが辛いときは一緒に悲しみに寄り添い、いままでと変わらない元気で明るい家族でいたくて頑張ってきました。主人の為、子供たちの為に進んでいくしか、生き方がわかりませんでした。 周りの人に「ちゃんと前に進めてるよ」って言ってもらいたかったのかもしれません。 そのために死を受け入れる時間は後回しに、どう向き合っていくことが幸せなのかを優先に考えてしまったのだと思います。 主人の死を受け入れるためには、どうすべきなのでしょうか。向き合う必要性があるのかすら私にはわからないのです。

有り難し有り難し 30
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孤独死を避けたい

こんばんは。 もともと仏教に興味があることもあって、死期を悟った時は安らかに終末を迎えたいと思っています。 病気、貧困、痴呆などで孤独死することもあると思いますが、それも受け入れたいと思います。 ですが、その後、腐敗したまま発見されないのではないか?と想像すると怖くてなりません。孤独死した身内を発見して、凄惨な現場を見たトラウマがあります。自分が、夫が、親が、またあの状態になるのではないかと、毎日考えてしまいます。不安がわいたきっかけはコロナウィルスです。高齢の親が遠方にいて、夫とは仕事の関係で離れることがあります。安否確認はとっていますが、間に合わないこともあると思います。また、夫婦もどちらか先に逝くので、遺された方は一人暮らしになります。子供はいません。家庭の事情と仕事の関係で地域との繋がりも薄いです。 例えば、終末期の老人であれば、看取り介護や見守りサービスが受けられます。でも、元気な高齢者や若者の方は一人暮らしが続くため、孤独死の可能性が高いのではないでしょうか。 そこで、ご質問させてください。病気、貧困、痴呆などやむにやまれない事情で、死期を悟り、静かに死にたい人達の看取りホームのようなもがあれば気が楽になると思ったのです。本人が納得したら医療を受けず、最低限の水と塩だけ与えて貰い、誰かに背中をさすって貰い静かに死ぬ施設で生き絶えれば、すぐ火葬もしてもらえると思います。ぎりぎりまで頑張って自殺しようとされる方がそうした施設で最期を迎えるという選択肢もあるのではないでしょうか。イメージしたのはインドの死を待つ家ですが。私も介護年齢になる前に、コロナの治療が受けられないとか、病気で働けない、介護や生活保護は受けられない、でも一人暮らしが難しいとなった時、そうした最後の瞬間には、看取りの施設に入りたいと思いました。 私は人に迷惑をかけたくないという考えが強く、孤独死から近隣に影響を与えることに抵抗を覚えます。孤独死した身内も決して幸せだったと思えませんし。 ですが、私が考えるような終末期の家は、日本では法に触れたり、犯罪の恐れを呼んだりするのでしょうか? もしも許されるなら元気なうちにそこでボランティアしたいとさえ思うのですが。 終末期の家の考えはおかしいでしょうか? だとすれば、地域とつながりのない一人暮らしの人が孤独死を避けるにはどうすれば良いのでしょうか?

有り難し有り難し 7
回答数回答 2
2023/07/21

大切な人が死ぬのが怖い

付き合って半年以上の彼氏がいます。 私は、母親とトラブルがあって以来、家族とは疎遠になっています。 頼れる人がいない中、同い年の彼氏は、私のことを父親のように可愛がったり、とても支えてくれています。 将来のことなど、たまに話したり、幸せな未来を想像します。 そのとき、私は、人生の終わりの死まで考え始め、もし、ある朝、大切な彼氏がどんなに起こしても目覚めなくなったらどうしようと、不安と悲しさでいっぱいになりました。 大好きで大切な、家族のような彼氏が私より早く亡くなったら、もう笑いかけてくれないし、話をきいてくれたり、ハグしてくれなくなると思うと涙がとまりません。 人はいつか亡くなりますし、人生の長さも決めれません。 分かった上で、彼氏より先に私が天国に行ければとも考えたのですが、逆に彼氏が悲しむと思います。 絶対に死んでほしくなくて、私がいつも歩道側を歩きます。 ですが、考えつくのは、こうなったらどうしようという、悪い想像ばかりです。   もし、彼氏が先に亡くなったら、私は、この世界で生きていけないと思います。 それだけ、彼は、なくてはならない存在になっています。  今までいろいろ乗り越えてきましたが、彼の死は乗り越えられないと思います。 私の方が先に亡くなる可能性もあるのですが、彼の死に対して、気持ちを落ち着けようとしても、人生経験と、思考が足りず、どうすればいいかわかりません。 どうしたら、この不安な気持ちを落ち着けられますか。

有り難し有り難し 9
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死にたい気持ちが消えません。

40代の主婦です。小学一年生の男の子と夫の3人家族です。夫は一年前に転勤が決まり先に海外へ行きました。私は昨年の3月に子どもを連れて行くはずでしたが、コロナで入国制限がかかり行けなくなり、そのまま子どもと2人日本で過ごした後、ようやく最近夫のところへ行くことができ、ようやく一年ぶりに家族3人での生活が始まりました。 私は夫に会ってほっとしてしまったのか、こちらに着いて2週間ぐらい経った時に突然死にたくなり、夜にお酒を飲んだ後ドライヤーのコードを首に巻いて死のうとしていました。夫がすぐ浴室に来たので私は今も生きていますが、あの時夫が来てくれなかったら死んでいたかもしれません。 夫とその日朝まで話をして気づいたのですが、子どもと2人日本で過ごした一年の間、実は私はとても疲れていたのだと気付きました。子どもと2人だけの入学式、突然の休校で自宅で宿題をやる毎日、学校がようやく始まってママ友との面倒な付き合い、子どもが友だちとケンカして謝りに行ったり。夫とは毎週末LINEで会話していましたが、夫は平日は忙しくて毎日ちょくちょく話すことはできませんでした。その間も私はストレスで胃を壊したり、夜中に母子2人で眠るのがこわくなりお酒を飲みながらスヤスヤ眠る子どもの頬をなでて泣きながら朝まで起きていたり、この子のためにがんばろう、そういう気持ちで一年過ごしました。 そしてようやく夫のもとに来れたら、あ、もういいやと思ってしまったのです。あんなに子どものためにがんばれたのに、行きたい大学にも行けてしたい仕事もできて、結婚もできてかわいい男の子も産まれて、大変だったけどようやく夫のところに来れて、きれいな街にやってきて美味しいものを食べれたから、もういいや後悔しない、という気持ちです。 日本に帰りたいのかというとそういうわけではありません。今住んでいる国は人々も明るく、日本よりコロナの状況はよくありませんが、日本人という理由で差別されたり嫌なことをされたこともなく比較的住みやすいところです。 子どもが悲しむのになぜこんなことを考えてしまうのか自分でもよくわかりません。死にたい気持ちとどう付き合っていけばよいのでしょうか。

有り難し有り難し 19
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2022/11/03

死、別れ、時が流れていくことが怖い

死、時間が過ぎゆくこと、全てのものとやがて別れなければならないことが怖くてたまりません。 立て続けに可愛がっていた愛猫を亡くしました。 二匹とも老齢で死ぬことは当たり前の年齢、特に苦しむこともなく穏やかな最後でした。 ペットロスなんだと思いますが、猫達がいなくなった哀しみや寂しさの他に漠然とした不安、恐れが湧き上がりしんどいです。 今は一緒に嘆き哀しんでいる家族ともやがて別れがくる、こうしている間も1秒1秒それまでの時間が短くなっている。 その次の別れの瞬間に今のことを思い返しているような、あっという間に来るべき時が来てしまうような気がしていてとても怖いです。 気分転換に外に出ても葬儀場やお墓の看板ばかりが目につき、世界が裏返ってしまったような気になります。 これまでは遠く空の上にそういうものがあって、今生きている世界はしっかり地にあるイメージだったのが、海の上にある小さな小島にいて、すぐ足元に深くて暗い海の底が広がっている、自分が生きている世界はとても心許ないものですぐに溺れてしまうのではないかというような気持ちになります。 在宅勤務でずっとつきっきりだった為か、死を真正面から受け止めすぎた気がしています。 どこに行こうが逃れられないことに気付いてしまいました。 昔の偉いお坊さんが、死ぬ間際に一筆と頼まれた時に死にたくないと書かれたという話を見かけ、偉いお坊さんでも怖いのかとどうしていいか分かりません。 自分が死ぬ前の晩はどんな気持ちか、親が死ぬ前の晩はと、そんなことばかり考えてしまいます。 さっきコンビニへ行ったことも10年前の旅行のことも思い出すとどちらも一緒で、全部の物事がどんどん過ぎ去っていくような、時間が圧縮されてしまってあっという間に全てが終わるような気持ちになってしまいます。 過去が全部一かたまりになっているというか…。 時間がすごいスピードで自分を削り取って過去のかたまりに押し込めていくような感覚があります。 とても怖いです。 仕方ないことを考えるのをやめたいです。 どうしたら今のことだけ考えられるようになるでしょうか。 偉いお坊さんでも死にたくないのに私のような人間が怖くなくなるなんてありえるのでしょうか。 どうしてこんなに寂しく悲しく辛い死や別れが避けられないこととして存在しているのでしょうか。

有り難し有り難し 15
回答数回答 1

#死ぬ事が怖い

小学生の頃より、ふとした瞬間に"死んだらどうなるのだろう"と考え始めた。 でも、当時は漠然とした考えで 中学生の頃も同じようにふとした瞬間に漠然と考える事はあったが、そこまでの恐怖はなかった。 高校〜大学の時に恐怖へのクオリティ?が上がり、特に両親が去ってしまうと考えた時に押し潰されるような不安に襲われ泣く事もありました。 しかし、泣いて翌日にはケロッと後に引く事はなかったが20代後半になり 1人の時や夜中にふと目が覚めて ・両親がいなくなったら孤独だ ・兄妹はいるけど順番で考えたら  私が最後か… ・結婚もせず独身、死ぬ時も孤独なのか ・どんどんと老化してきて何もできなくなって死ぬのかな、怖い。 ・日々の一瞬一瞬全てが無に戻る&無意味に思える、それが怖い。 色々な不安が頭にぶわぁーっと入り 今までと比べ物にならないぐらいの 死への恐怖の波がきます。 私自身がネガティブな状態で、それが原因なのかと思い携帯で検索してみると 同じような人がおり、安心するが 内容を読むと結婚していて子供がいてetc... いやいや、結婚もしている 子供もいる、"家族"がいる。 生きた証を未来に繋げれる地盤が あるのに…と、卑屈になってしまい 更に不安がこみ上げて泣いたり 不安で寝れなくなったりします。 両親や兄妹が去れば 私も終わりでいいかなって思うし 始まりがあれば終わりもある と理解しているけど グルグルと同じ事を考えてしまいます。 死への恐怖はどうしたら治りますか? とは伺いません…。 ただ、言葉では言い尽くせない この恐怖をどう乗り越えていくべきでしょうか? よろしくお願いします。

有り難し有り難し 27
回答数回答 2
2023/08/03

死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 14
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