去年7月に主人をガンで亡くしました。 亡くなる前・前日に主人が病院に来て欲しいと言っています!と看護師サンに言われ病院へ・・・ その時には危ないとも言われなかったのでその日には娘と一緒に汽車で帰りました! そして、次の朝5時に看護師サンから呼吸が浅くなってますと言われましたが、汽車がなく7時の汽車で行きましたがもう息をしてないと看護師サンから告げられ、娘と昨日なんで帰ってしまったんだと後悔しています(TT)
今年の三月に、お一人様だった叔母がガンで亡くなりました。 彼女は海外生活が長かった為、自己主張が激しく、他人への接し方も物凄く厳しかった上に人の悪口ばかりを言う人だったので、周囲の人達から避けられていました。また、実姉である私の母とも会えば直ぐケンカになってしまう事が多かった為、彼女一人では出来ない身辺の世話は、長年私の役割になっていました。 (私が思春期に入る頃に別の病気で帰国してきた時は勉強面でこちらがお世話になることが多かったのですが、こっちもこっちで反抗期だったのでやはり喧嘩の繰り返し…。落ち着いて接し合う事が出来るようになったのは、私が大学生になって彼女への接し方を学んできた頃からだったと思います。 クリスマスにはお手製のディナーを振る舞ってくれたり、紫陽花の季節には一緒に遠出をしたりと、いい思い出もだんだん作れるようになっていました。) ですが、8年前にガンが発覚して (たまたま私が家を訪ねた時に物凄く体調を崩している姿を発見し、「このまま死にたい」という彼女を泊まり込みで1ヶ月掛けて説得して病院につれていきました) 以降、入院中はほぼ毎日病院に通い、退院しても診察の度に病院まで送り迎えをし…。彼女がだんだんと弱っていくさまを一番近くで見ていました。昨年春に余命宣告された時には涙が溢れて止まりませんでした。 病状が悪化してからも、彼女は先述の通り我が強かったので、在宅介護の方に説得されても頑なに意思を曲げず最期まで自宅にいる事を選びました。最期の日、意識のあるうちに「私の叔母さんでいてくれてありがとう。大好きよ」とお別れをしました。 そして、息を引き取ったあとは、彼女から生前言われていたとおりの手はずを整えて葬儀も終えました。 …なので、何もかもを完璧に終えたはずなんです。終えたはずなんですが、私だけがまだ、叔母の死を受け入れきれてない気がするんです。 叔母が好きそうな猫のグッズを見つけたり、よく一緒に行った場所へ行ったり、出かけるために車の運転席に座ったり…。そんな一瞬にさえも、叔母の存在を思い出してしまって、なんとも言えない気持ちになってしまうのです。 他の人はもう、彼女の死を受け入れて前へ進んでいるのに、このままでは私だけが取り残されてしまったままになってしまう様な気がして、不安でなりません。どうしたら、私も前向きになれるのでしょうか…
4日前、主人が急性硬膜下血腫で倒れ緊急手術を行い、手術は成功しましたが、左半分が脳梗塞で後遺症が残ると言われました。その次の日は脳圧が下がらないので脳を取り出して脳圧を下げる外科的手術を行うことを提案されました。どちらにしても植物状態になるということで、息子と相談して外科的手術はしないこと、延命処置もしないことを決めました。そんなに時間はないと思いお寺さんにも事情を話し、葬儀場にも相談して、何があってもいいように準備もしました。 3日目、状況が安定しているようです。病状は息子が帰ってきて、担当医から聞く予定です。家には私一人で何かあれば私一人で対処しなくてはいけません。 一人になると長引くのかすぐに亡くなってしまうのか、中途半端な状態で気持ちがわさわさして涙が出てきます。気をしっかり持とう思うのですが、苦しくて仕方ありません。心の持ち方、気持ちが落ち着くように何かアドバイスを頂けないでしょうか。
『もし離婚したら、あいつ自殺するよ?』 私の事ではありません。 以前相談した、死んだ父親と交際中だった頃の母親が言われた言葉です。理由は以前の相談に詳しく書いてありますが、それくらいの覚悟がないと父とは暮らしていけないと警告してくれてたんでしょう。 とはいえ、さすがにこの先明るい家庭を持ちたいと願う人に対して言う言葉ではないでしょうし、そもそも独身時代からそう(いつ死んでもおかしくないくらい情緒不安定)だったんなら、たとえ他に魅力的な点があってもそんな人を伴侶にしたいとは中々思わないはずです。 その証拠に私が子供の頃はお金もなく父は外でも酒絡みのトラブルを頻繁に引き起こしました。晩年は余命宣告され心身共に弱ってしまい、外では飲まなくなりましたが私達に隠れて飲酒し風呂で寝て溺れかけて救急搬送され、母が半狂乱になった事もありました。 そしてその度に母は前述の言葉か逆に離婚して子供と実家に帰るべきだ、と主に母方の祖父母や友人から言われてたそうですが、元来負けん気の強い母はそんなつもりは毛頭ないと言い返したものの実際のところ二人の子供を一人で育てていく自信がなくてできなかった、と父の死後にポツリと言ってたのも忘れられません。 父は母と出会ってから45年後に不慮の事故で死亡し、母の精神は崩壊しました。それを知って『さっさと別れるか具体的な解決策を相談すれば良かったのに…。』と無神経かつ無責任な発言を陰でしてた方もいたと人伝に聞きましたし、その方達とは母の強い要望で一切関わらなくなりました。 腹立たしいですが事実ですから仕方ありません。 今の母は誰かが側にいないと絶対に生きていけませんが、経済的な事情で福祉の支援は必要最低限しか受けられずにいます。 そして、その役割は長女であり父似の私にしか務まらないと周囲の人達に言われると最初こそプレッシャーを感じた反面誇らしかったものの、こうやって徐々に絶望していったんだろうな‥とようやく当時の母の気持ちが理解できる様になりました。それでも母は過去に何度か入院していて、次にそうなったら死ぬまで退院させてもらえない気がして正直怖いです。なので、近い将来母が死んだら私も後を追うか、いっそ先に死んでも良いとさえ思ってます。 やはり両親は結婚すべきではなかったのでしょうか…。
またご相談させていただきます 今度は主人の事です 余命いくばくもない、迷惑を掛けられた兄の事に対して主人はどう思っているのかと聞きました 会った方が良いと言いました 私はそれを聞いてショックを受けてしまいました 私が兄に会ったら、どういう状態になるのかとか全然判ってなかったのです うつ病がひどくなり、また数年引きこもりをするかもしれません 以前の質問でも書きましたが、包丁で刺すかもしれません どういう状況になるのか判りません 以前急に家に兄が訪問してきた時に 私は恐ろしくて、ギャーって叫んでしまい、怖くて家の隅っこにうずくまって隠れていました 怖くて怖くて仕方ありませんでした。 それまでも電話が鳴るだけで、お金よこせと恐喝されているようで、耳をふさいでも聞こえる電話の音に震えていました。 そういう状況を知ってながら、会えとはどういう事なのか そこまで私の事を理解してなかった事に驚きました 主人に質問すると、普段普通にしているから判らなかったとかいう返事です そういった事は胸に秘めて、気持ちを押し殺して生活するのが普通だと思ってましたが 毎日毎日何かぐずぐず言った方が良かったのでしょうか? ショックを受けて打ちひしがれてる私を放置して主人は普通にテレビ見てましたので いつもなら黙って隠れて泣いているのですが 今回は、どうして知らん顔してるのか? 謝れと言いました そしたら「ごめんごめん」と軽い謝り方でした それに対して私はもっと誠意のある謝り方をしろと要求しました どうして謝ったり、慰めたりできないのか?と問い詰めました 30数年一緒に暮らしていて、どうしていつまでも理解されないのでしょうか? 以前もすごく怒って、毎日毎日頭の血管が切れるかと思う位怒って それを一か月しました そしたらやっとそこまで怒ってるとは思わなかったと言われました もしかしたら脳出血でも起こすかもしれない位の怒り方をし続けてやっとわかるとかいう鈍感具合です 私は子供の頃からすごく我慢をしいられてきて なんでもかんでも我慢我慢の生き方をしていると思います 主人にはあんまり我慢せず怒りますが 男性とは異星人と以前から思う所はありますが 主人みたいなタイプに理解してもらうにはどうしたらいいのでしょうか 一番理解してくれてると思ってた主人が他人と同じ事を言うとは思いませんでした
こんばんは。 実は先日、階を分けてですが、同じ家で暮らしていた大好きだった祖母が亡くなりました。 去年に入ってから体調不良が続いていた祖母が病院に行き検査を受けたところ、子宮癌だったそうで、9月に手術と入院をして癌を摘出する事はできました。けど11月に肺への転移が発覚し、抗がん剤治療の勧めを受けた祖母ですが、拒み私たちは祖母の意志を渋々でしたが受け入れました。 私の祖母の家系は癌家系で、祖母は祖母の姉弟や両親を癌で亡くしました。近くで看取ってきた分抗がん剤治療や病院に対する疑念などが拭いきれなかったようでした。 ここからが私の悩みです。 亡くなった祖母は肺への転移が見つかってからは呼吸が苦しそうだったり、最終的に骨に転移した時は痛がっていたりしました。 亡くなった今、祖母は痛みや苦しみから解放されたと思っています。 それを私は良かったね。もう苦しくないね。と思っているのですが、やはりこれは不謹慎なのでしょうか…? ここ2、3年前から私は気付かなかったけど祖母は認知症が始まっていたようで、癌が発覚した後には私も気付くほどでした。 きっと自分でも不安だったのではないかと、お医者様は抗がん剤治療をすれば余命は1年程延びると言っていて私も祖母と例え一年でも長くいれるのなら受けてほしいと最初は思っていました。 ただ日々過ごす中、苦しそうに呼吸したり痛いと蹲ったりする祖母を見ていたら、このまま認知症が進んで誰が誰かも忘れてしまうなら、いっそ楽になった方が誰も傷つかないのかな。と思いました。 祖母は生前自身の家族に早く迎えに来てくれと口癖のように言っていて、それは遺される側からしたらとても寂しい言葉でしたが、祖母は49日を過ぎたら会いたい人達に会えますか? 会えるなら、私が祖母に会えない寂しさなんてどうでもいいのです。もしかしたら、私が寿命を迎えた時にまた会えるかもしれないから。 祖母は検体登録をしていて、お葬式をあげることもできないし遺骨が納骨されるのは2、3年後になるらしいのですが、祖母はちゃんと家族の元へ帰れるのでしょうか… 天国へ行けるのでしょうか。 疑問ばかりで申し訳ありません…
当然ですが、死は誰の目の前にもあって、それを余命という形で知らされた時は感謝すら覚えました。言葉どおり、死ぬ気で生きて来ました。 宣告された期間を超えた今、すでに余生な生活の感覚で、 すでに亡くなっている数人の友達を思うと、自分の死んだ後の周囲の人間は、こんな感覚なんだな、という経験もさせて貰い、恐怖より安堵でした。 ところが最近、夫に、ここ10年の間、(私から)愛されていると思えない、と言われました。 がっかりして、身体中の力が抜けました。 私なりに愛してきたつもりでしたが、彼の求める形では無かった事、ずっと彼はその想いを持っていること。私には同じ10年という時間は残されてない。その上、体力が明らかに落ちてきて出来ないことが増えてきているのが分かります。彼は、病気の事は知っていますが病状は知りません。 でも、そんな言い訳よりも私の気持ちが落ち込み過ぎて、家にいるのが辛いです。 何をする気も起きず、生きる素晴らしさを毎日見せてくれていた植物たちの世話すら出来ないのです。 ましてや生きている大切な娘の前で元気に振る舞えず、『大丈夫?』と言わせてしまっています。 娘が情緒不安定になるかもしれない、と心配です。 私が元気に明るく居ることが1番良いとは思うのですが、どうしてもできず、かと言って家を出ることもできません。 心を落ち着けて暮らす(少なくとも娘の前で)には、なにか試す方法はありますか? 教えて頂きたいです。 いつ死んでもおかしくない状態で生きる気がなくなった今、早く死んだほうが周りの人にも良いのだろう。 彼は私が居なくなった後の事を思い、今は耐えているのなら、早く死んであげたい。 いつ死ねるかな。 と、だいぶネガティブです。
現在結婚2年目の専業主婦です。 実母が10年前から抗がん剤治療をしていて 今年に入ってから容態が悪くなり入院中です。 正直、実母の面倒を見るのに疲れました。 実父は単身赴任で車で2時間の距離に住んでいて仕事が休みの日に来ています。 兄はいますが仕事が忙しく入院中の手伝いはゼロ。結婚して奥さんは専業主婦ですが奥さんに頼むわけにも行かず平日はわたし1人です。 実母が倒れ緩和ケア病棟に移り、1人で住んでいたマンションに夫と一緒に越してきました。 夫には頭が上がりません。何も言わずにわたしが提案したことに賛成してくれています。 元々不妊治療も行っていましたが、看病するストレスから一度不妊治療も休み、精神的にも不安定です。 私は看病するために生まれたのか、兄は好きにやりたい仕事をして生きているのにわたしは娘だから介護しなければいけないのか、と。 毎日毎日病院に行けば遺言のような言葉を言われ、日に日に弱っていく母を見るのがとても辛いですが癌が見つかってからの10年間何度も余命2〜3ヶ月と言われ続けてきました。 その度に死の恐怖を感じ、辛い日々でした。私はその度に仕事を辞め看病してきました。 早く終わって欲しいです。 こんなに苦しいのであれば私が死ねばいいと思います。 夫といる時間だけ死にたいと思いません。 不妊治療で早く子どもが欲しいと思っていましたが、こんな苦しみを感じさせるなら私も子ども入らないと思うぐらいです。 私は人生がめちゃくちゃにされたと思っています。仕事を辞めさせられ、住むところも変えさせられ、お金もないのに専業主婦をさせられ、不妊治療さえ満足に出来ない。 もし実父が倒れた時は一切手は貸さないと、何と言われようと私はもう介護には関わりたくありません。 わたしは何で生まれてきたんでしょうか? 死にたいと思って、もう病院にも生きたくないと思って、でも行かなければいけない義務を強く感じ涙の日々です。 早く母が死んで解放されたいと思うわたしは、どうきたらいいでしょうか。
父を2018年に亡くしましたそれから4年経った今でも思い出しては涙が出てしまいます。私がまだ18歳で春のとても綺麗な桜が咲いている時期でした。突然朝に吐血をし救急車で運ばれましたが、既に癌が全身へ回っていて余命1ヶ月と宣告されてしまいました。父は病院がとても嫌いで病院へ行きたがらない人でした。確かにここ半年くらい父が体調悪そうで母とふたりで病院行きなよと何回も説得していましたが、とても頑固なので頑なに行かないと言われ続けていた矢先のことでした。ですが、亡くなった後に父の携帯を見ると倒れる2日前に 「お腹が膨れてきた。」「胃がん末期特徴」「ここら辺の総合病院」 という検索履歴が残っており父も怖かったんだなと感じました。 そして思春期で反抗期の時に亡くしてしまいもっと大切にすればよかった、もっと沢山話せばよかった、もっと愛情表現してあげれば良かった。そんなことばかり思います。 今でも街中で私の同い年くらいの女の子とお父さんが仲良く買い物をしているのを見かけると心がとても痛く涙が出てきます。 亡くなる前日父が母に「ずっと2人のそばにいるからね」 と言っていたそうです。確かに何か不幸なことがあると不思議と好転していきます。そのたびに父が見守ってくれているんだと感じることが出来ますが姿も気配も感じなく見えないです。 もう一度、一度だけでいいから父に会いたいです。会ってこんなに大きくなったよ大人になったよパパと同じお酒も飲めるようになったよ。そう伝えたいです。 いつも父の写真、父が最後に手首に付けていた病院のタグ、それを形見代わりに仕事の時も、遊びに行く時も持って行きます。それがないと何故が落ち着かないですそれがあるととても心が安心して守られている気持ちになれますがやはり父は私のそばで守ってくれているのでしょうか。毎週1回は母と一緒にお墓へ行って今週はこんなことがあったよなどこれからこんな事があるんだ!など父に会いに行っていますがそういうのも父は気づいてくれているでしょうか。 これからも父と過ごしたかけがえのない時間、父がくれた愛情を心にしまって頑張りたいと思ってます。
5年ぶりにここへ相談します。 あの頃も息子に戸惑い悩み苦しみ、ママ友からの仲間ハズレなども乗り越えて、なんとか今まで生きてきました。息子も高校生になり 高校に入ってからはあんなに嫌がっていた勉強に目覚め、中学では下から数えて10番以内が今はクラスで1位や2位になるほど勉強ができるようになりました、ですが勉強ができるようになってからは高卒の私をバカにし、父親の大学もバカにして、勉強できない人は社会のゴミだと言うようになりました。3年前に亡くなった私の母は女で1つで5人兄妹を育ててくれました。 貧しいこともあり、5人中、三人が中卒で 妹二人は登校拒否で中学もろくに行けていません。その妹の一人がガンを患い余命数カ月と言われたのをきっかけに、話の流れで 妹たちが中卒で、登校拒否だったことを息子に話したら、その日から事あるごとに5人中三人中卒とかありえない!とか、中学も行ってないなら義務教育も放棄してるから社会のゴミだとか 私の家族を馬鹿にしだしました。 そんな日が続き、私も我慢の限界が来てしまい 「頭が良くなったからと言って、学力が無い人を馬鹿にするのなら、ましてや母親の家族を(しかもガンで辛い状態の妹)を馬鹿にするなら、もう息子が学校に早く行くために毎日毎日5時半起きで起こしているが、そう言うことを含め息子のために動くのをやめます!」と 啖呵を切ってしまいました。息子は別にどうぞどうぞ、ご飯だいくれればいいし、朝も自分で起きて行きますよ。と平気そうです。 私はただ、人を馬鹿にすることを改めて欲しかっただけなのですが、頭が悪く口でも勝てずうまく言えないので、こんな事になりました。 どうすれば息子は反省してくれるのでしょうか?このまま、息子のために動かないのはネグレクトになるのでしょうか? ずっと、息子のために死にたい気持ちを抑えて生きてきたのに、また挫けそうです。 助けてください。
大学一年生です。 現在、カウンセラーになるために心理学部に在籍していますが、進路を変えようかと迷っています。 幼少期から今まで辛いことが沢山あって、ずっと耐えて苦しんで生きてきました。(詳しくはプロフィール欄を見て下さい) 環境から身につけてしまった自分を追い詰め辛い方向に持っていく考え方の影響で、苦しみが増えたりずいぶん楽しい機会を逃してしまったと思います。 高校三年生の時、ついに今までのストレスが決壊し、重い精神病を発症しました。その時出会ったカウンセラーさんが随分私の心の整理を手伝ってくれて、私はそのことがきっかけでカウンセラーに憧れるようになり、進路を決めるのに少しの時間しかなかったこともあり、心理学部に決め、無事大学の心理学部に合格しました。 大学に通い始めた頃、我慢して耐えて頑張って心理の勉強をしていました。私のように心に沢山の問題を抱えた状態だと、心に向き合う心理学の勉強をすると、自然と自分の心を追い詰めることになります。でもその時は、自分が凄く辛くて苦しくてもこんな大変な状況を克服して自分が立派な心理士になれば、誰かの力になれる、それが私の人生の唯一の正しい道だと思い込んでいたのです。美化していました。 私は最近、薬のショックで死にかけたり、余命5年の大病であると誤診されたりすることがあり、自分の人生を振り返り生き方について真剣に沢山考えました。 このままでは死んだとき辛い思い出しか残らない、思い残しばかりになってしまう。そんな危機感がします。 心理職は、普通の仕事に就くよりもずっと自他の心に向き合い続けなくてはならない仕事です。心理職に就けば自分の幼少期にも向き合い続けなくてはならないでしょう。私は凡人です。心に向き合うのが苦しいのに、どうしてその仕事に就くのか?自分が辛くて苦しくてどうしてその状態で誰かの力になれるでしょうか 私はもう随分回復して、心理の勉強をしなければ鬱でもありません。 私は自分が幸せになれる進路に進みたいと思うようになりました。 人生を幸せに生きたい。もう苦しむのやめよう。わざわざ自分が苦しむ方向へ行く必要なんてない。 アドバイスや、意見をお聞かせ下さい。
私の生き甲斐であった母が、先月急に亡くなりました。 今までひと月に一度のペースで大きな病院にもう十数年もかかっておりましたし、普段の通院でも特に問題ないとの事でしたので、いつも自分の事(痛い苦しい辛い)を殆ど口にしない母が珍しく異変をうったえる事もあったのですが、年齢的なものもあるのだろうと思っておりました。後で考えてみると昨年秋頃から『しんどい』という言葉も増えてきていたように思います。でもその時も、主治医に『この数値でしんどいはずはない。大丈夫!気のせいや。』と言われ、その言葉を信じ特に検査をする事もなく日常過ごせておりましたし、4月のお誕生日には家族で旅行も行きました。 GWが明けて念の為にと受診したところ、末期の癌でもう手の施しようがなく余命二ヵ月と告げられました。 その二ヵ月を満たずして母は亡くなりました。あっという間でした。 母の病院関係や健康管理、身体の事に関しては本当に今まで心配で心配で異常なほど気を配ってきたのに…こんなに大切にしていた人の、これほどまでに最愛の人の、見る見る弱っていく姿を、病に侵されて苦しみ息絶えていく姿を、手を打つ術もなくただただ見ている事しか出来なかった日々は、この脳裏から消える事はなく日に日に罪悪感と喪失感に押しつぶされそうになり、このまま後を追えたらと思っています。 普段偉そうに『母さんの健康は私が守る!』と母の思いは二の次で自分の思うように引っ張て来た…結果がこれかと…。どうして母の信号に気付く事が出来なかったのか…。私を信じ、私に遠慮をしてなかなか自分の意見を言う事もなく身を任せてくれていた母に、最期まで事実を伝える事も出来ず頑張らせてしまった…。最低な親不孝者だと思います。昔からあまり贅沢をしてこなかった母を喜ばせたい一心で生てきました。これから親孝行が出来ると思っていました。 家族での旅行や外出をする度に『いつか罰があたる。』と言っていた母の心意も気になります。母の意思と反して私が勝手に母に色々してきた事が、その私の『欲』が『罰』となって、何かを悟っていた母が連れて行かれたのでしょうか…。そのように思えて仕方ありません。 母は今どう思っているのでしょうか…。 これほどまでの地獄はありません。母と同じくして、私自身も死んだも同然です。 『死』とは何でしょうか…。どうかご教示ください。
高校三年生で春から大学生になるものです。 母が末期の胃癌で2年前に余命一年と医師から宣告され、去年の11月末より 体調を崩し、現在入院しています。医師からも、心の準備をしておいた方がいいと言われていますが、母が絶対に良くなると私たち家族は信じ、今も病院に通い母のそばにいます。 しかし、精神的に辛く、この歳で母を失うということはとても耐えられません。学校に行けば友達が家族の話や母親の話をしているのを聞くと、 何故わたしばかりこんな辛い思いをしなくてはいけないのか。 何故母が病気になってしまったのか。 友達は放課後に遊びに行っているけれど、私は早く家に帰り、母がいないぶん、洗濯物をたたみ、部屋の掃除、夕食の準備などをしなくてはいけません。 父親や弟、祖父母も母のために病院に毎日通い、母の世話をしてくれているので、私も頑張らなくてはいけないと思っています。 最初は、母のためにも、家族のためにも、母が家のことを心配しなくてもいいようにと、全力で家事をやってきました。家族も頑張っているし。 しかし、最近、春休みになり、たまに、SNSを見れば友達は毎日のように出かけているのを見て、こんなこと思ってはいけないですが、 何故私たちばかりこんな辛い思いをしてやっていなくちゃいけないのか。 私だって友達と遊びたい、家に帰ったら家族がいて、母の料理を食べたい、母と買い物に出かけたい、家族みんなでたわいもない話をして笑いたい。 そんな当たり前のようなことを毎日ふつうにしている友達にとても羨ましく感じるようになりました。 こうやって思っている自分がとても嫌です。母が一番病気になってしまい自由に生活できないのが悔しいのに。 母の世話に忙しくなり、 自分の時間が作れず、日々イライラした状態が続き、父親と衝突してしまうこともあります。 こんな私たち家族になにかお言葉をいただけるとありがたいです。
こんにちは。 初めて質問させていただきます。 以前までは人並みに幸せな人生を過ごしていたと思います。 しかし、数年前に愛猫、祖父を亡くし、就職を機に実家を離れました。 孤独や悲しみを背負いながら、日々を生きておりましたが、最近になり両親が大病を患ったという報告を受けました。余命宣告はまだ受けておりませんが、ネット情報の海を潜ると5年生存率が数%しかない現実を突きつけられました。数年前に愛猫を失った記憶がフラッシュバックし、不安に過ごす毎日です。 人や動物はいつか死ぬものと知識としては理解しているのですが、見送るたびに胸が引き裂かれそうな悲しみに駆られます。もう何も失いたくないという思いの反面、また一つ私の大切なものが失われそうな現実を突きつけられ、自分の気持ちが整理できず、混乱しています。 いくつか質問させていただきます。 ① 迫りくる離別の恐怖に対して、これから私はどう向き合えば良いのでしょうか。世間の大人の方々は親を亡くしているにも関わらず気丈にふるまっていますが私にはその自信がありません。何か別れに対する心構えのようなものを頂けますでしょうか。 ② 神様?はなぜ我々に離別の苦しみを与えるのでしょうか。 出会って、愛をもらい、いつかは別れる。私も生を受け、たくさんの愛をもらい、最期には手放して旅立つと思います。法事やお坊さんのインタビューの中で「諸行無常」や「執着はいけない」といったキーワードをよく耳にします。そうであるならば、なぜ神様?は我々に「手放したくない」といった執着の思いをさせるのでしょうか。最初から出会わなければ、生まれなければ、我々は苦しみを感じずに済んでいると思います。 自分の気持ちの整理がついておらず、うまく文章化することができませんでした。 抽象的な質問になりますが、ご意見やアドバイス等頂ければ幸いです。
私は自分の経験から生まれかわりや守護霊、神さまなど霊的な力を信じているのですが、どうしたらその霊や神さまに対してお礼ができますか? 自分に起こった具体的な現象は下記の通りです。 祖父が他界する数日前に娘(祖父にとっては初めての曾孫)が生まれました。 祖父はあと余命1ヶ月ほどと医師からは言われ、寝たきりで点滴のみで生きていましたが、娘の誕生を待っていたのか、1ヶ月半以上生きて、娘が生れた4日後の11月15日11時15分に息を引き取りました。 亡くなった日は子どもの成長を祝う七五三の日でした。 亡くなった当日は私も入院中で祖父とは会えませんでしたが、私が娘と退院した日が通夜となり、祖父と会うことができ、なおかつ親戚中の方たちが集まったので、思いがけず退院したばかりの娘のお披露目もすることができました。 そして翌日は日曜日でしたが、友引でお葬式が出来ないことから、久しぶりに家族が揃い、娘とゆっくりした時間も過ごせました。 初めての出産で、退院後の生活が不安でしたが、両親ともに忌引で1週間家にいたため、色々相談もできました。 その後も夜、娘が天井を見ながら何かを目で追うとか、娘が声を出して喋る、会話を聞いているかのように、タイミング良く返事をするなど、不思議なことが四十九日まで続きました(四十九日の日に娘は半日眠り続け、起きてからはほとんど喋らなくなりました。その後、息子が生まれましたが、同じ時期には全く喋りませんでした)。 また息子の病気が見つかる前、娘が転んで息子の上に乗ってしまいそうなことが立て続けに2回あったのですが、いずれも娘が弾かれるように体が揺れて、息子からギリギリの場所に倒れました。 その翌日、息子の病気が分かり、脳出血寸前の状態で、強い衝撃や大泣きなどしていたら危ない状況だったということがわかり、ヒヤッとしました。 いずれも祖父がタイミングを見計らって他界したり、娘の守護霊として守ってくれているのではないかと思えて仕方ないです。 祖父に対しては実家に帰った際にお線香をあげるくらいしかしてないのですが、日々、守っていただいている御礼をするにはどうしたらいいのでしょうか?
ログインできなくなり新規登録させて いただきました。今まで何度か質問した 恩師の死についてです。余命を言われ、 私が出産で入院する日に会い、小さな声で 頑張ってと言っていただきました。 無事に出産してボイスメッセージで報告すると 意識が朦朧とする中で唯一、私の声に反応して 返事をしてくれました。なんとなく、 1日早く退院して産後すぐの体で恩師に 会いに行きました。もう意識もあまりなかった けど、声をかけると頷いてくれました。 私のことを待ってる気がすると、身内の方に 言われました。そしてその日の夜に亡くなりました。私の人生を変えてくれた人でした。 亡くなる直前も、私のことが可愛い、 1番気になる存在だと言っていたそうです。 半年以上が経ちますがまだピンときません。 お盆の夜中に心の整理をつけるため、 恩師の家の前を通りました。もういない、 存在しないことを理解するために行ったのに 電気がついていました。きっと身内の方と 思います。でも、私にはそばにいるよと 言って下さるように感じました。 別の日、家族で外食をしたかったけど お店が予約で埋まっていて、別のお店に 行くことになりました。そこは恩師と食事 して以来、行っていないお店でした。 私は複雑で、できれば行きたくないし 心の準備ができませんでした。でも、恩師の 死を実感するいい機会と思い、腹を括って 車を降りると電話が鳴り、最初のお店から でした。今席が空きましたと。私は、 恩師が無理しなくていいよと言って下さって いるように感じました。きっと、たまたまで 偶然のことでそれ以上でもそれ以下でもない。 でも、たしかに恩師を感じます。 会いたい。さみしい。もっともっと恩師に 教わりたいことがあるし、もっともっと恩師と 一緒にいたかった。頭から離れる日は ありません。今も心から尊敬し、大好きな人。 私の心の支えです。今何してるのでしょうか。 私のことはもう忘れてしまったのかな。 なぜ恩師はこんなに早く私から離れてしまったのか。会いたい寂しいつらいです。 実感もないし涙も出ない。夢に出てきてほしい。 言葉にできない寂しさがあります。 どこで何をして私のことはどう思ってるのかな。 あの世とは何かな。恩師は寂しくないのかな。 私は寂しいのに。死を実感できないし あの世が見えるわけでもない。ただ消えてしまったの?つらいんです。
先日父方の祖父を亡くしました。私にはいとこもおらず、親戚も少ないため祖父を失ったことは想像以上にショックでした。父は元々家族と仲が悪かったために私達家族はほとんど祖父母に会うことがありませんでした。でも私自身は祖父母に何かされたわけでもないので、嫌いではありませんでした。たしかに祖母は頑固でワガママな所があったので幼い頃から付き合いづらい事は何となく感じてはいたのですが、祖父は穏やかでとても優しい人でした。しかし5,6年会っていなかった私達家族は祖父が余命宣告を受けていたことすら知らされておらず、亡くなった日にようやく知らせを受けました。とても悲しいです。どんなに疎遠でも私にとってはただ1人の掛け替えのない祖父でした。祖父は長生きだったので私は可哀想だったとは思っていません。ですが、死ぬ前に一度でいいから元気な私(孫)の姿を見てもらいたかったです。きっと本人もそう願ってたに違いありません。私は祖父が死んだ日(まだ知らせを受けていなかった時)祖父の夢を見ました。久しぶりに会った祖母は元気でしたが、祖父は庭の掃除をしていました。夢だったのでその時は特に気にとめませんでしたが、後で考えると祖父は私に何かを伝えようとしていたのかもしれません。私は祖父に会わせてくれなかった家族を恨んでいるわけではありません。気難しい父の家族を憎んでいるわけでもないです。悪意があったわけではないし、突然のことだったので仕方のないことです。でももしあと一度だけ祖父に会えていたのならこんな思いはしなかったでしょう。祖父が孫に会えずに死んでいった孤独と悲しみを考えると涙が止まりません。まだ子供の私はどうすればよかったのでしょうか?そして残された私達はどうやって生きていけばいいのでしょうか?死んだらそれで終わりなのでしょうか?お別れを言えず死んでいった祖父は私のことを見ていてくれるでしょうか? 夢でもいいからもう一度会いたいです。そして言えなかったありがとうとさようならを自分から伝えたいです。
父が余命僅かな状態です。 元々厳格な性格の父でしたが、心の病を患った事により、引きこもり、家族に対して理不尽な暴言や暴力を奮うようになり、家族を完全に支配していました。 幼少期より父に対して恐怖心があり、思春期の頃には毎日死んで欲しいと願っていました。父の言いなりの人生で、父が死んだ後、本当の自分の人生が始まると思っていました。 大人になってからは、さすがに毎日死を願う事はなくなりましたが、それでも苦手意識は変わらず、同じ空間にいると怯え、吐き気がする状態でした。 人に言えば、いい歳なのだから親のせいにするのはおかしい、自分の人生なのだからと言われてきましたが、どうしても父に対する恐怖心が拭えず、怒られない・バレない選択をしてしまい、思うように生きれませんでした。普通とは違う、自分の家庭が嫌で嫌で仕方がありませんでした。 歳をとり性格が丸くなり、父がこちらに歩みよろうとしている事は分かっていましたが、受け入れる事はできませんでした。父から受けた人格否定や暴力、辛くて毎日死にたかった過去の日々をどうしても水に流す事はできなかったのです。 そんな父の病気が発覚し、想像していたような開放感はなく、悲しみや、父の不遇な人生が可哀想に思いました。しかし、父をただただ心配し悲しむ家族の中での疎外感も感じてしまいます。 私も父を許し、最期の時を過ごすべきなんだろうと思います。父が悪人ではなく、病気がそうさせていたのだと、分かっています。しかし、納得できない自分もいます。 結局は、私が全て飲み込むしかないのかと。 長年連れ添った伴侶を亡くす母の気持ちも痛いほど分かっており、できる限り助けたいと思っていますが、当たり前のように支援を求めてこられると腹を立ててしまいます。私の心の葛藤にも目を向けて欲しいと思ってしまいます。 父に対して、穏やかに、できる限り苦しむ事なく最期を迎えて欲しいという気持ちは本当です。仏教ではどのように考えるのか分からないのですが、次の人生があるならば、次は幸せな人生を送って欲しいと願っています。私には関係のないところがいいですが… まとまりのない文章になってしまい、申し訳ありません。私は自分の心をどのようにもっていけば良いのでしょうか。父の最期の時にどのように接すればよいのか、どうかご教示下さい。
はじめまして。宜しくお願い致します。昨年、数年間ガンの闘病をしていた母が亡くなりました。お医者様から余命半年と言われていたのですがそれ以上に生き、最後の最後はすごく辛かったと思いますが、それでも母と少しでも寄り添えて良かったと今では思っています。 今は父と二人で生活をしているのですが、度々親戚が手助けをしてくれます。片付けや料理など。助かっている部分もあり、相談に乗ってくれるのでとても感謝はしています。 その親戚は昔から神様や仏様を大切にしてきた方で、母が亡くなってからは私に同じように諭してきます。 私自身どうしたら亡くなった母やご先祖様が満足するかわからないなりに、毎朝晩お水やお茶を変え、炊きたてのご飯あげ、月命日には新鮮な果物、頂いたお菓子などをあげ、毎日お経を1時間(朝晩30分ずつ)あげています。 どのぐらいあげれば良いのかわからないなりにやってはいるのですが、最近不安に思うことが増えたり、身体を壊したりしています。その事を親戚に相談すると「供養が足りない」と言われ続けます。 この「供養が足りない」とは、私は何が足りていないのでしょうか? お経をあげる回数や時間が足りないのでしょうか。お経をあげている時の気持ちがこもっていないからでしょうか。 正直今までと生活が変わり、私が家事全般をし、新しく仕事も始めたので不安で精神的ストレスが溜まっています。まだ20代で結婚相手もおらず、自分の今後の人生も不安でいっぱいです。最近では親戚と話すのも嫌になってきてしまいました。私の為を想って言ってくれているのはわかるのですが、それでも辛いです。どうしたら良いのでしょうか。
お恥ずかしい話なのですが、私は10年ほどお付き合いをしていた、不倫関係の相手がおりました。 私は独身で、相手に家庭がございました。 その彼が先月、55歳という若さで突然病死し、既にお骨になった後、私の耳にその事実が届きました。 奥さまとは長年家庭内別居状態で、私達が付き合い始めた頃に傾き始めた会社も5年前には倒産し、50過ぎで新しい職に就くプレッシャーや強い責任感などから、自分の身体を後回しにした結果でした。 私も貞操観念の欠如と言われるのは承知の上で、自死された彼のお父様と同じことにならぬ様、 彼に寄り添い支え続けた10年でした。 彼は22歳の若さで、会計事務所の所長さんの強い勧めで、5歳年上のお得意様のお嬢さんと訳も分からぬまま結婚し、 私は私で、彼と出会うまでお付き合いをしたことが有りませんでした。 ですから、私達は初めて本当に心から愛し合える相手同士でした。 私達の間柄を知る周りの方々も、 私と付き合う前から、彼の口から奥さまについての苦悩を聞かされており、 世間では、ただただ愛人の側が悪いと言われるけれど、不倫不貞で片付けられない、お互いでないとダメだった強い絆で結ばれていた二人と感じて下さっていた様で、 皆さんがご焼香に行かれるとき、彼の家の中には勿論入れないが、家の外から手を合わせたらどうかと連れていって下さいました。 私には余命宣告を受けている母が一人いるだけですので、彼を亡くした今、この先路頭に迷う人生を思うと恐怖しか有りません。 また、こんな50過ぎのおばさんに、いつも沢山の愛情と安心を与え、大切にしてくれた彼を亡くし絶望で胸が苦しくなります。 誰にでも公平に思いやりを掛ける慈悲深い人でしたから、もうこの世で修行をする必要がないと、 神様が早々に連れていったのかも知れません。 私には霊感が無いため、彼がそばにいる気配すら感じません。 それにホーキング博士が唱える様に、魂もあの世も無いなら、死んでも会えないということになります。 もう死んでも会えないのかと思うと、母に心配を掛けたくないのに、泣けて泣けて、どうしようもなくなります。 人の道に外れた自業自得の人間が、助けを願うのはお門違いと思われるでしょうが、どうかお助けください。苦しくて苦しくて仕方ありません。