アラフォー独身未婚子なしです。 幼い頃は家庭でも学校でも虐められ、自分に自信を持てず生きてきました。頭も容姿も悪く、自分はダメだから一人でひっそり生きようと世間から逃げて生きてきました。 だけどアラフォーになった今、とても後悔しています。容姿が悪くても若さがあった、頭が悪くても大卒で正社員で、若いからまだ勉強出来てたし、良いところ今よりあったじゃないか、何で自信を持てなかったんだろう。もっと頑張らなかったんだろうと。ゴミになるものに何で消費や浪費をしてたんだろう。 無能で友達もいない、未婚のおばさんで死にたくて仕方ないですが、死ぬのが怖いです。 私はこれからどうやって生きていけば良いのでしょうか?そもそも生きてて良いのでしょうか?苦しいです。
お世話になっております。 昔から貴女は幸せだと言われても幸せだと思えませんでした。どうしたら幸せだと感じられますか。この悩み、悩めることも幸せなんですか。なにが幸せなんですか。幸福感の追求も煩悩ですか 例えば小学生の時、UNICEFの募金活動を見ても、「自分が死ねばアフリカの子供は長生きできる」と母に言って叱られた思い出があります。幸せだから、自分は不幸だ、死んでいい人間だと思ってはいけないのですか…? よく思い出せば4歳くらいから人に気遣いをして生きてきました。が、それが原因とは考えられません。いつも何かしらの理由をつけて自己完結で悩まないようにしてますが、いつも考えてしまいます。単純に経験不足で、年数を積めば自ずと理由をつけて消える悩みかもしれません…。はたから見て嫌な質問してごめんなさい。大分お世話になっているので、この質問で最後にします。しかし20うん年生きてきて一番の悩みなんです。ご回答のほどよろしくお願い申し上げます。
生きることを諦めそうになります。 頑張っても頑張っても先が見えず不安になり、焦り…その繰り返しになってしまっています。 そこからなんとか抜け出そうと、勉強したり頑張り方を変えてみたり自分なりに行動しているつもりです…また負の連鎖を断ち切るため、考え方を変える努力もしています… しかし、頑張っても頑張ってもその頑張りが報われている気がせず、諦めそうになってきてしまいました… 高校卒業時から、死にたい。死のうか。という思いがあり、徐々にその気持ちは薄れてきてはいますが、しかし未だに頭をよぎります。 病で余命幾ばくもない方や、不慮の事故や事件で亡くなってしまう方々がいる中で、このような考えに陥るのは甘えだと思っています。 その方々に比べれば、私の不幸など大したことはない、と頭では思うのですが、感情面では生きることを諦めたいという気持ちが出てきます。 私を大事に育ててくれ、大切にしてくれる家族、そして私を愛してくれる彼、友達…。周りにたくさんの人がいる中で、死ぬことを諦めたい、と思ってはいけないと思っています。 このような気持ちを吹き飛ばすにはどうしたら良いのでしょうか。
いつもご相談にのっていただきありがとうございます。 自殺のニュースをみて毎回とても悲しい気持ち辛い気持ちになります。ニュース見るたびに、虐められたこと、その相手をやり返してしまったこと、今も地元では誹謗中傷されてることを思い出し深く考えてしまいます。いじめ返したことはとても反省してます。 私も相手もいじめ被害者の時に死ななくてよかった。ですがまだ相手が苦に思ってる可能性もありますよね。。私も未だにやられたことは思い出して辛くなるからです。自分がやられて嫌だったことをやり返した時のことの方が申し訳なく辛くなりますが。。相手は私にやった事忘れてるみたいですがそれもまた辛いのです 私も消えたくなることもありますが、子供の成長を見ていたいですし、夫も好きですし、長年の悩みを解決し前向きに生きたいとも思います。ここで相談させていただいて、だいぶ前向きになれる時間が増えてきたような気がしていた矢先、また落ち込んでしまいました。 死って本当に悲しいです。ですが私も死んだ方がましとか、最悪なことを考えてしまう時がたくさんあります。もう何年も体に染み付いてるように、頭に浮かびます。 どうすれば、死にたいなど思わなくなるんでしょうか。誰にもわからないとは思うのですが、、、死にたいなど思うと言霊になったり、悪運を引き寄せたりすると思うのでほんとに辞めたいのですが、、
解決しない悩みばかり抱えて辛いです。 何年も前から、死にたいって願望があり自分の体を傷つけたり首を絞めてみたりしています。 死にたくなったらどうしたらいいですか?
この手の回答を見かけたのならそうです。 また私です。 2度程僧侶様の助言を貰いましたがそれも無念ながらどうにもなりませんでした。 未だ途方にくれ、これからの予定も無く、もう死ぬしかないとか馬鹿な事を考えてしまう今日この頃です。 この質問は答えて頂いた僧侶様への感謝と申し訳無さから投稿させて頂いております。 この質問の意図が分からない方は私の過去の投稿を参照するとお分かり頂けると思います。。 私の質問に答えて下さり、本当に、本当にありがとうございました。 この様な事を呟いても気分を害するだけかも知れませんが、感謝の意だけでも伝えるべきだと思い、投稿させて頂きました。 僧侶様、ありがとうございました。
生きていることと死んでることではなにが違いますか? 死んでしまったらかわってしまうことは、なんでしょうか? 声が聴けなくなることでしょうか。言葉を交わすことができなくなることでしょうか。動いている姿を見れなくなってしまうことでしょうか。 姿・形を見れなくなってしまうことでしょうか。 自分の言葉や声が届かなくなってしまうことでしょうか。 死んでしまったら、一体なにが違うと思いますか? 不生不滅なら、生きていることと、死んでいることの、決定的な違いとは、なんだと思いますか?
生きる事は有難い、つまり有ることが難しいのは、 母が子を産むことが命がけで、生まれてくる事が奇跡である、と言う事はとてもよく分かります。 ですが、それと同じくらい「死ぬ事」も難しいのではないでしょうか。 死は人生のゴールだと思います。 ゴールに辿り着くには難しいと思います。 質問に戻りますが、 生きることを望むことは、 多くの人から励ましや称賛を得るのに、 どうして死ぬのを望む事に対しては、 否定されてしまうのでしょうか。 自殺はどうして許してもらえないのでしょうか。 自分のために生きることには 多く人が賛同するのに、 自分のために死ぬ(=自殺)することには どうして多くの人が否定するのですか。 同じくらい、難しいのに。
既婚子なし女性です。 子宮がんになり子宮摘出をし、子供を授かれなくなりました。 がんになって死を身近に感じ、再発への恐怖、子供のいない人生の絶望感、体調不良、病気療養中のため仕事もできず家に引きこもり、日中は夫も仕事の為一人で孤独感を感じます。精神安定剤を飲まないと過ごせなくなってしまいました。 懸命に支えてくれてる夫に依存してしまい、夫にも疲労が見られ「少しでも良いので1人の時間が欲しい」と言われ、夫の前でも明るく振る舞わなくてはと感じてしまい余計に辛いです。 趣味も好きな事も楽しめなくなり、何のために生きてるのかと自問自答の毎日で、治療して一生懸命生きようとしてるのにふと死にたいと毎日頭によぎります。(本当は健康で生きていたいのに) 何を生きがいにすれば今後頑張って生きていけるのでしょうか。 生きるしかないのなら人以外の心の拠り所が欲しいです。 仏教を学べば楽しく生きていけるのでしょうか。 教えて下さい。
一型糖尿病歴35年なのですが、インスリン注射を毎日やらないといけない生活に疲れを感じています。最近は糖尿病性神経障害のせいが足の指が痺れて痛いです。酷い時は眠れません。今まで何度か自殺をしようとして今はどうにか生きています。他の一型糖尿病患者さんには成功者も多くいます。ですが、私には何もなく、二十年以上前に癲癇も患い今はただ死ぬのが怖いから生きているだけといった情けない状態です。闘病も疲れてしまったし何かしなくちゃいけないというプレッシャーと考えてはいるのに行動に移せないことに嫌悪感を抱いております。 以前インターネットを通じて知り合った方から「生きているだけでいいんだよ」という言葉をかけていただいたのですが、本当にそれでいいのでしょうか… 闘病生活からも逃げたい
始めまして、みなと申します。 昨日、私はしてはいけないことをしてしまいました。 詳しく書けずに申し訳ありません。 きちんと確認していればこんな事にはなっていなかったはずなのです。 どうしてこんな事をしてしまったのかと考えると夜も寝れませんでした。 このまま毎日毎日この気持ちに苦しめられるのかと考えると、生きていくのが嫌になりました。 もう生きていくのが嫌です。 もう死ぬしかないのでしょうか。 助けてください。
度々お世話になります。 就職して、紆余曲折あって辞職して、自死に失敗して、そして転職して1年が経ちました。 この1年、仕事こそが生きがいだと自分に言い聞かせ、前職を辞めた自分への罪滅ぼしも兼ねて脇目も振らず突っ走ってきました。結果的に仕事に不満はなく、良好な人間関係に恵まれています。 ですが、その裏で常にどうしようもない生きづらさを感じています。物心ついてから今まで、ただ生きてるだけであれこれ考える事が多すぎて、生きる事が相変わらず苦しいです。 仕事もキャパオーバー気味な上、いろいろなことを考え込んでしまい潰れそうです。地元在住ですが頼れる人はいません。上手く例えられないのですが、自分を支えてる張り詰めた糸が何かの拍子に切れてしまいそうです。 そもそも、自分は1度自死を試みた時に死んでたはずです。あの時感じた「やっと終わった」という、今までにない安堵感のようなものが忘れられません。 耐えられなくなった時、衝動的に自死を選んでしまいそうで、実際その一歩手前の段階まできています。 苦しみながら生きる意味が分かりません。かといって前回とは違って仕事上の責任を負った今、投げ出すこともできません。 以前、死んでしまおうと思っていたところを救っていただき今に至ります。今回も何とか頑張りたいのですが、こんな状態の私はどうしたらいいでしょうか。
過去に似た質問があったらすみません。 こんにちは、私は27歳の一児の母です。 私は高校生くらいのときから、 寝る前に、自分が死んだ後の世界について 考えて、怖くて眠れなくなることが よくあります。寝室で、恐怖で叫んでしまうこともあります。私達は、 当たり前に回っている地球の、ほんの 一瞬を生きているだけで、私が死んでも 世界は回って、過ぎていきます。 何が言いたいかというと、つまり 死ぬのが怖いのです。人が死んだら、 どうなるのですか? 魂と肉体が、とか言いますが、 脳の働きで精神と自我があるだけですよね。 死んだら無に還るのですか? お坊さんだからこそ、 お聞きしたいです。 よろしくお願い致します。
小一の息子が最近、『隕石が怖い、どうしたら悟りを開けるの?』と真剣な顔で聞いてきました。理由をよく聞いてみると、以下のようなことでした。 宇宙に関する教材で、地球にはその昔たくさんの隕石が落ちて来たこと、そのせいで恐竜は絶滅したことを学んだ。さらに、これからも落ちて来る可能性があると聞いて、隕石に対して強い恐怖を感じている。 また、別の日にTVでたまたま見た仏教の番組で、人は何度も何度も新しい人生を繰り返し生きる輪廻の話を聞いた。そこから脱するためには悟りを開くしか方法がない、ということを知った。 だから、自分がお爺さんになって死ぬまでに隕石が落ちて来なかったとしても、次の人生がまた来てしまうから、早く悟りを開かないと、隕石の恐怖からは逃れられない!と考えて先の質問をしたようです。 毎晩思い出してしまい、眠れなくなるほどで、本人はかなり真剣に悩んでいます。色々と安心させる言葉をかけてみましたが効果なく、、専門家の皆さまのお力をお借りできますと大変有り難いです。よろしくお願いいたします。
過去の自分の行いに対して、自己嫌悪と罪悪感で、苦しいです。 やってしまったことに対して、これからどう向き合い、どう考えて、どう行動すべきでしょうか? 私は、小学生の頃、いじめをしていました。 同じクラスの女の子を、悪者として扱い、酷い言葉を投げかけ、上履きを隠したり、非道ないじめをしていました。 また、ある男の子には、気持ち悪いと言って嫌って、陰口を叩きました。 小学校を卒業し中学生になり高校生になるにつれて、私は自分がやっていたことに対して後悔と罪悪感を覚えるようになりました。 そのため、人にできるだけ優しく接するように心掛けました。 人に優しくしていると、自分が良い人間に生まれ変わったような気がしました。 ひとりで寂しそうな子に声をかけ、落ち込んでいる子がいれば優しい言葉をかけました。 それを続けた結果、つい最近まで自分が優しい良い人間だと思いこんでいました。 しかし、ふと小学生の時の行いを思い出し、自分が良い人間ではないことを思い出しました。 私がやっていたことの陰湿さ、非道さをあらためて自覚し、強い罪悪感が湧き出ました。 大変申し訳なく思っており、後悔しています。 罰を受けるべきだと思います。 直接謝罪をしたいと思い、相手の連絡先を調べているのですが、相手のための謝罪ではなく、自分が少しでも楽になりたいがための謝罪なのかもしれません。 謝罪はせずに、罪悪感と後悔を抱きながら、生きていった方が良いでしょうか? 私は、今後、どうすれば良いでしょうか?
どもどもーー 浄土真宗の中学生です 僕は今日死んでからのことについて少し考えていて 死んだら地獄とかあるんかな?と思い地獄とか無間地獄とかってどんな感じなんかなと思い 僕は地獄には落ちたくないのですが 地獄ってどんなところなんかもきになるし、地獄に落ちてみたいな落ちたいなみたいなことを軽く考えてたしそれを仏様に考えてたかもしれません笑 そのことを友達に話したらそれ矛盾じゃねみたいな感じになり仏様は地獄に落としたりなんかしないやろってみんなで笑っていたのですが 仏様や阿弥陀様はどんな悪い人も見捨てないと思うし、どんな人も地獄には落ちないと思います まず僕は地獄はあるかないかわからないけど、多分地獄は仏様が人間が生きている時に悪いことをしたらこうなるから悪いことをしてはいけないという意味で作ったと思うのですがどうなんですかね?笑 もし仮に地獄があったとしたら僕は 死んだらそういう落ちてみたいとか落ちたいとか考えてしまったけど僕は本当は地獄になんか落ちたくありません なら浄土真宗ではないどうすれば地獄に落ちないのでしょうか? 僕は基本仏壇で毎日夜お参りをしていますが そこで南無阿弥陀と唱えれば地獄に落ちないのですか? お参りの内容は今日やってしまったことの反省や善いことをしますという誓いなどをしています なので今日は本当は地獄に落ちたくないです ということを伝えたいと思います それで伝わると思いますか? あともし仏様などを信じていなかったり仏様に無礼なことをした人でも助かるのでしょうか?
私は、あと何年、苦しまねばならないのでしょうか? 「老いも病も受け入れよう」(瀬戸内寂聴・著、新潮社) 7年前に、この本を読んでいるのですが、受け入れられない自分に、折り合いをつけられません。 私は、寝たきりの状態や認知症になってまで、生きていたくありません。私は、その可能性が高く、安楽死が認められていない今の日本では、長生きしても苦しむだけです。 前回の質問で、文中に「親の二の舞を演じる可能性が高い」と書きましたが、本当にそうなりつつあります。昨年、特殊詐欺の被害に遭ってから、その傾向に拍車がかかったと感じます。 私は、これまでに、何度か「殺されかかったこと」があります。とりわけここ数年、その時に殺されていれば・・・と、夜中にうなされることが、増えました。 登録名・しげさん様(名指しでゴメンなさい)のつぶやきに、「安楽死希望」という主旨のものが、あったと記憶しています。私の考え方と、かなり近いです。ただ、今の日本では、安楽死は認められていないので、親の介護が終了して「お役御免」となっても、私はまだ「生きて」いますが・・・。 質問やつぶやきを読むと、「死にたい」「なぜ生まれたのか」などと、嘆く方も多いですが、もっともな話です。回答僧の皆様の考え方にも、一理ありますが・・・。 読売新聞社に、「安楽死を容認する法案を、早急に成立させるよう、国会議員に働きかけを・・・」という投書も、出しています。ことごとく「無視」されましたが・・・。 回答僧の皆様は、問答を読む限りでは、ほとんどの方が、安楽死に「反対」のようですね。 私は、独り身なので、長生きする必要性は、ないでしょう。兄とは、ほぼ絶縁状態です。兄は、「死ね」と、私を罵倒しましたから・・・。 本音を言えば、国会で「安楽死容認法案」が成立したならば、その権利を行使したいです。そうすれば、死の予定日から逆算して、慈善団体にいくら寄付可能か(残りの生活費の計算)などの、数字・金額を弾き出せますし・・・。 字数制限の関係で、文章をかなりはしょってしまったので、要点が曖昧になったかもしれません。 私が、受容できない自分を受容することは、永久に不可能なのでしょうか? 「一切皆苦」と言いますが、安楽死が認められていない今の日本の現状では、死ぬまで七転八倒するしか、選択肢はないのでしょうか?
ここでも相談しました、家族にも相談しました、医者にも行ってます、カウンセラーにも行っています。でも死にたい気持ちが消えません。 ここでは、あなたは疲れてるから休んだほうがいいと言われました。 でももう家族が許してくれるとは思えません。 もう一年近く、ぐうたらして、休んでるはずです、これ以上休むことを認めてくれるとは思えませんし、坊さんとはいえ、ネットの人の言ったことを信用してくれるとは思えません。 お金もありません、独立できません。バイトには何度も落ちています。 かといって学費も払ってもらって、これ以上負担をかけてくれるとは思えません。 自分が恵まれた立場にいることは理解してます。それでも死にたい気持ちが消えません。 もう疲れました。死にたいです。 自分は死んだほうがいい側の人間だと思います。
はじめまして 私は、事情があり20年以上毎日が死にたい気持ちとの戦いでした。 あと一歩で自殺していたであろうタイミングが何度もありました。 しかし、自身の病気や手術、環境の変化や出会いなど様々な大きな変化がここ数年で起こり、ようやく死にたいと考えることがなくなりました。 それどころか、毎日が楽しくて幸せだと感じます。 食事は美味しく、友人と話せることも仕事も趣味もこんなに楽しい事だったのかと、大げさではなく生まれ変わったような気持ちです。 2か月後には夢だった業界への転職も決定しています。 ところが同時に、自分が死ぬんじゃないかという恐怖があります。 幸せだからこそ、なんとなくもっと悪い事が待っている気がして怖いです。 やっと自殺願望から抜け出せたのだから、もっと楽しみたいです。 明日死ぬかもしれないと思って生きろと言いますが、もしそうなったらと毎日焦りのようなものもあります。 時々襲ってくる、この不安や恐怖について自分はどう向き合えばよいでしょうか? どう幸せを受け入れれば良いでしょうか? 何かアドバイスやこれからの人生において心の支えになるようなお言葉を頂けたらと思います。 よろしくお願いいたします
死について質問です。 今の私にとって死とは、必ず行き着く先であるからこそ、明日すら計り知れない今を頑張る源となっているように思います。 小学生の頃はずっと死にたくないと思っていたのに対し、大学時代は死にたいけれど自分から死ぬ勇気はない、そんなことで周りに迷惑もかけたくないと思っていました。 また一度だけどうしようもない気持ちがいっぱいで手で首を締めた時、少しの吐血で非常に驚き、やっぱり自分から積極的に死を選ぶことはできないと実感しました。 そうして死の捉え方が変わっていきながらも、今は明日死んでも、五十年以上後に死ぬことになっても、いつでも悔いなく安らかに眠れるような気がしています。 一方で医療職に就き人の命を救う立場でありながら、このような死の捉え方をしていることには、どこか自分や他人に嘘をついている気がしてしまうこともあります。 お坊さんがたは、お葬式などで死者を弔う役目を果たされながら、死をどのように捉えておられますでしょうか? どうぞお聞かせ頂ければと思います。 宜しくお願い致します。