私の知り合いにたくさんヴェジタリアンがいますが、私は菜食とは言えない部類です。 インドをはじめ世界の菜食主義者は、もちろん宗教上の理由からくるひとがほとんどだと思いますし、まわりもそうなんですが、 菜食主義者の方に “肉というのはやっぱり血なんだ、牛でも豚でも、屠殺場というのは、それはそれは悲壮な声が響き渡っていて、 殺されるときに生き物は、涙を流しながらものすごく負のエネルギーを発する。 そうした肉を体内に入れるということは、そうした負のエネルギーをも取り込むことになるのだ。それに加え現在の牛、豚、鶏の飼育状態というのはおぞましいものがあり、せまい家畜小屋に押し込まれて、ただ肉となるために生まれ、そして死んで(殺されて)いくのだ” ということを聞いて以来、私の生活の糧になる為に殺されたんだと、なんとも言えない哀しい気分になってしまいます。 やはり、動物が殺されるときは、負のエネルギーを発し、食することでその負のエネルギーを取り込むということは本当にあるんでしょうか? お坊さんの中には、四つ脚の動物は食さない方もたくさんいらっしゃると聞いた事があるんですが、お肉は食されますか? また、人間の生活の糧になる為に殺されていく動物への感謝や供養の仕方はどうすればいいのでしょうか。 お忙しいと思いますがご回答いただければ幸いです。よろしくお願い致します。
こんにちは。またまたご相談させていただきます。 この前の相談では、大変励まされました。お答え下さったお坊さん方、本当にありがとうございました。 さて、私は悩み事が多い方なのでしょうか?これは、進路のときだけでなく、何をするときでもそうなのですが、わたしはすぐに自分を追い詰めてしまいます。何をするときでも、これを失敗してしまえば、人生終わる。みたいに思ってしまうのです。 わたしは、武道をさせて頂いていますが、試合のときは、どんなに有名選手でなくても、人は集まりますので、どうしても自分を見られます。審判の先生方もいらっしゃるので。そんなときになると、物凄い自分を追い詰めて、自分がやるものに集中するのではなく、失敗しないことだけを考えてしまうのです。そして、酷いときは、過呼吸や、吐き気、手が震えます。 就職活動中ですが、その試験でも、失敗したらと考え、精神的に参ってしまうのです。 なので、何かあると、いやでいやでたまりません。これから色々な事があると思います。人と仕事をする事、昇任試験など。 どうしてこんな風になったか分かりません。いじめにあったあらか、それとも失敗続きだったからか。人になにかを見られるや、結果が怖くて怖くてたまらないのです。 今の状況では、生き苦しくて、たまりません。何か、楽に生きれる方々はありませんでしょうか?
数年前、大学を卒業しました。当初は都会の会社に就職するつもりだったのですが、一人っ子ですので、どうしてもという家族の懇願に負け(その他でも様々な理由があるのですが)、なかば強制的に地元に帰ってきました。いま思えばあのときに親を捨ててでも思い切って都会に出るべきだったと思います、タイムマシーンがあったらそう言ってあげたいです… ですが、やはりこのまま過疎が進む地元にいて未来はあるのかな…今後死ぬまでこの土地に住むのかな…地元と心中するのかな…と思うとお先が真っ暗に思えて、なにもかもが嫌だなと暗くなってしまうのです。地元を好きになろうとがんばりたいのですが、新聞やニュースでそういう地方の暗い内容を見るともうウワーーッとなってしまって…。県外に出た、もしくは都会に生まれた他人や同級生を羨んでばかりです。 最終的に地元に帰る決断をしたのは自分ですが、後悔が消えないです…。一人っ子に生まれたことやこんな過疎化が進む地元に生まれたことって…理不尽だと思います…せめてきょうだいがたくさんいたらなぁ…地元がもっと未来ある土地だったらなぁ…たらればばかりですね…親のバカ!!!という気持ちです、八つ当たりだ…私もういい年なのに… とりとめのない文章になってしまいました。 お坊さんにお聞きしたいのは、①どんな心構えでいたら衰退する地元を悲観せず暮らしていけるようになるか②自分の希望に反して地元に戻ってきてしまったのも縁なのか③他人を羨まないためにはどうしたらいいか ということです。三つ全部でなくてももちろん構いません、ぜひ、お答えいただけると嬉しいです。よろしくお願いします。
お忙しいところ有難うございます 私自身(40代)の病気が少しずつ進み 終活をしなければ、と思います どこから手をつければよいのか 分からず、不安です 両親は離婚した事もあり、子どもの頃 お墓参りはほとんど記憶になく。 結婚して、婚家はきちんとお墓があり 初めてお墓参りや法事をさせて 頂けるようになりました その宗派は浄土真宗で、葬儀やお経を 聞いて、拒否的な感情はなく ごく自然な気持ちで受け入れられました 私が自分の終活をするのに、 残される夫の負担を少しでも 減らしておきたいと思います 長男ではないので、新たにお墓を 購入する必要があること、 葬儀の形、宗派、お仏壇などについて 少し決めておきたいと考えました 何となく、というだけで宗派は 選んでも良いのでしょうか? 結婚した嫁ぎ先の宗派になるのが 自然なのでしょうか? 婚家のお墓は私営大型霊園で、法事の たびにお坊さんをお呼びしています 特定のお寺さんなど相談できる場所が なくて悩みました 私が亡くなったら、子どもたちや夫が 時々お墓に会いに来てくれて お仏壇に話しかけてくれるといいな と思います 負担にならないように、でも話したい 時に話せるようにモノの形があれば 安心できるのかな、と感じています 分からないことばかりですみません 教えていただけると嬉しいです
カテゴリーに悩みましたがこれにしました。 私は好きな人がいました。というか、います。 この間で揺れています。 本当は諦めないといけない人です。 なぜなら相手は主治医だからです。 先々月、私の事情で、かかる曜日を変えなければならなかったのですが、その曜日に先生は外来に出ていないため、主治医を変えなければなりませんでした。 なので、お礼の菓子折りと共に、手紙を添えました。連絡先を書き、よかったら、連絡を下さいと。 しかし案の定連絡は来ませんでした。予想はしていました。先生は病院でのお立場を守るべきだし、先生を頼りにしている患者さんもいますから、その選択は当たり前です。 やらない後悔よりやって後悔!と思い渡したのですが、実行しても、先生に迷惑かけたと後悔の念。 そして先日、先生に、この間は困らせてごめんなさい、と書いた手紙を、クラークさんに託しました。勿論そこには何の連絡先も書きませんでしたが、御返事みたいなことは何も起こっていません。 心の中で、未だに連絡を待つ自分が居るから、本当にやるせないのです。 先生は先生の答えを出しているのに、諦め切れないどうしようもない自分がいて。 好きだからだと思います。いい歳こいて、夢見てます。 支離滅裂ですみません。 お坊さん、こんな諦めの悪い私に、何かお言葉を貰えないでしょうか。 よろしくお願いします。
こんにちは。初めて此方に投稿させて頂きますヒサシというものです。 お坊さん助けてください。 もう自分自身の心が分からなくて不安になります。 僕は不定愁訴になりました。不定愁訴とは診察しても異常がないのに病状があることです。 そこで医者にストレスか何かからじゃないですか?自分自身を整理してみては?と言われたんです。 それで自分自身を見つめ直すことにしたんです。 ちょっと目を閉じて自分とは何なのか?僕は一体どういう人なのか? そう考えていくと僕って何者なのか?この考えているのは本当に僕なのか?この精神、心とは何なのか? 何か考えても暗闇の中にスゥーっと消えてしまう。この心の中は宇宙のように広がっている無の空間、ブラックホールのように感じて死を思わせるのです。 そう思うと無性に怖くなって家を飛び出して3分ぐらい走っていました。家に帰っても震えがずっと続いていました。 その後、震えとかは収まりましたし、考えるのもやめようとしましたがご飯食べている時もお風呂に入っている時でも何をやってる時でも霞がかってモヤモヤします。 またたまに思い出してしまいとてつもない不安と震えが来ます。 こんなこと考えてるのをやめればいいとは思うのですが、やはり思い出したりして苦しいです。 何とかなりませんか?よろしくお願いします。
いつもお世話になっております。祈願寺の椅子席で足を組んで 座っていたら女性の修験者さんに 「こんにちは〜…あっ!ご祈祷始まったら足を閉じて お座り下さいネ!あ、まだ大丈夫ですヨ!」と言われました ✳︎ 素直に笑って謝りましたが、なんだかモヤついています。 私はいつも時間前に畳に降りて正座、マナーも守るし、経頭さん にも合わせます。お堂中の防犯カメラにいつも映っている筈です。 おまけに、「これから仕事ですか」と同じお坊さんにまた 聞かれて休みと返したら「日曜日だからね」とか言われるし。 ✳︎ 私は色々な意味で目につくんでしょうか。 熱心な若者は珍しいから見本になって欲しかったのか、 若い修験者さんだったので、新米警察官がやると言われている バン掛け練習のように、お客への注意の練習なのか。 だったら喜んで協力します。 ✳︎ それとも、以前ここでも相談したお嬢様が何か言ったのを 真に受けてしまったのか。 ✳︎ 仕事云々に関しては、あと1回我慢して、4回目となる次で苦情 言おうと思います。といっても、みんな私の事知ってるし…。 ✳︎ 「お勤めしてない人はお参りしたらいけないお寺なのですか? 私なんかよりもっと自分勝手やってる信者さんいますね? どれだけ我慢させられてると思ってるんですか。 私だって色々あるけどちゃんと周り見て考えてるんですよ?」 くらい言いたい気分です。 * なんだかな…ご意見頂けたら嬉しいです。
父が8月に46歳で脳幹出血に倒れそのまま亡くなりました。先々週に百か日を迎えました。 お坊さんから「百か日はこれまでの悲しみを乗り越えて普通の生活をするための節目」だと聞きました。 私は今の今まで父が死んだなんてことは実感しておらず長い長い出張に行っている感覚でした。いつ作業着で帰ってくるんだろう、と、そんな気持ちで待っている自分がいたんです。だから、倒れた時の父の顔を思い出したり写真を見れば涙は出ますが、普段悲しいと心の底から思ったことがありませんでした。 でも昨日、たまたま寄ったパン屋さんで流れていた曲が昔父と二人美味しいと言いながら食べたラーメン屋さんで流れていた曲で、その時初めて「あ、父は亡くなったんだ。もう一生あのラーメンを父と一緒に食べられないんだ」と実感しました。 昨日はたくさん泣きました。 いないと思えば思うほど涙が出て今も少し思い出すだけで涙が出そうになります。 今まで頑張って1位を取っていた定期試験もなぜか頑張るのが怖くなってしまいました。 褒めて欲しい人がもういないんです。 乗り越えたいなんて思えません。でも乗り越えないといけないのは痛いほどわかります。 私が今しなければならないことはなんですか? 父が今私にして欲しいことや私にして欲しい生き方がわかりません。私が今したいことは父とまた会話することです。おはようだけでもありがとうだけでも父に言って「なんもだよ」って言われたいだけなんです。
こんばんは。初めて質問させていただきます。内容は自分が友達にしてしまったことへの罪悪感についてです。 私は以前、バイトを通じて知り合ったとても仲のいい友人がいましたが、仲良くなったぶん、嫌なことろが気になるようになりました。そして別の人に友達の酷い陰口を言うようになってしまい、ある日それがバレました。陰口を言う自分は最低だという自覚はあったため、したことを謝りましたが、友達はすごく悲しんでいたし怒っていましたし傷付けました。当たり前ですが許してくれなかったと思います。 バイトをやめ、彼女とは絶縁しました。住むところも変わり、きっともう会うことはありません。ですが、10年近い時間が経ったいまでも後悔が消えません。どうして自分はあの時あんな酷いことができたのか、止められなかったのかと何かにつけて悔やんで苦しいです。そして、自分が他人に陰口を言われたときや理不尽なことをされたときも、あのときのばちを受けているのかなと思ってしまいます。 もちろん私よりも友人のほうが苦しんだと思います。ですのでこの罪悪感も当然と受け止め、一生この苦しい気持ちと罪悪感を抱えて生きていかなければならないのでしょうか。もし償えるのでしたらどうすればよいのでしょうか。勿論お叱りでもかまいません、どうかお坊さんのご意見をいただきたいです。
毎度お世話になっております。 お坊さんと匿名でお話ができるというのがなかなかに楽しくてつい頻繁に利用してしまいます。 私は僧侶ではありませんが、仏教のことを、ちょこっとずつですが勉強するのが趣味なんです。この趣味がなかなか共感されないんですよ。 今回はちょっと学問的な質問を。 タイトル通りですが、仏教の教義では女性を蔑視、と言えるかどうかは分かりませんが、宗教的素質の低い存在であると見なしているということが、現在どうかはともかく、歴史上にあったことは間違いないと思います。 そのような考え方がいつから、どこから出てきたのかな?という質問です。 いわゆる初期仏教で既に宗教的素質に男女差はあったのでしょうか。 大乗仏教に入ってからなのでしょうか? 大乗からだとするとインドから? 中国から? そのあたりのことがちょっと知りたいです。 よく女性蔑視として挙げられる例として、たとえば五障とか変成男子とかいう言葉は、ウィキペディアを見る限りではお釈迦様の思想ではない、となっていますが、初期経典などに同じような考え方は全く見られないのでしょうか? 一応強調しておきますが、現在の仏教が女性差別に加担しているかどうかという話ではなく、また戒律の数や教団の違いといった現実的な差異ではなく、あくまで悟れるか悟れないのか、という宗教的な素質に関わるところの差が、どこからあったのかな? ということです。 詳しい方がいれば、ちょっとした参考でも教えてほしいです。
昨年、大学受験に関する相談をさせて いただきました。回答と時間のおかげで 今は楽しく生活しています。 ありがとうございました。 今回もどうぞよろしくお願いします。 半年程前から友人と計画していた 海外旅行出発1週間前になりました。 しかし友人が先日足を骨折し、松葉杖と 車椅子がないと生活できない状態になって しまったそうです。 誰にでも起こり得ることで仕方ないとは 思っていますが、本当に楽しみに していたので電話で報告を受けた際 ぎこちない反応になってしまいました。 友人はわたしに迷惑は確実にかかるが、 行けると思う、キャンセルの判断は わたしに任せると言っています。 私も友人も、初めての友達との海外旅行を 本当に楽しみにしていました。 だから行きたい気持と、 旅先でまたケガをしたらという不安、 私自身骨折をしたことがないため、 痛みも不便さも分からないので サポートできるのかなど 色々な気持ちが葛藤して どうするべきか全くわかりません。 最終的に決めるのはわたしと友人ですが、 お坊さんたちならどうするか 教えてください。 また、旅行するにしてもキャンセルでも 友人はわざとケガをしたわけではないので 責めたくありませんが、どうしても モヤモヤした気持が残ってしまうと思います。 しかしずっと仲良くしてきてくれた友人に こんな風に考えてしまう自分が嫌です。 こんな気持ちの鎮め方があったら 教えてください。
こんにちは。わたしには生後5ヶ月の息子がおり、可愛くて可愛くてしかたがない毎日です。 ですが最近子育てをしていて、産後うつなどになるような時期でもないのに、ふと大きな不安に襲われることが度々あります。 まだ1人で何も出来なくて、わたしが目を離すとすぐに死んでしまいそうな気がしたり、この子がこれから幼稚園小学校へ上がった時に友達ができなかったらどうしようという不安や、私に似て男の子なのに運動が全くダメだったらいじめられるんじゃないだろうかとか、将来結婚出来なかったらどうしようとか、受験に失敗して病んでしまったら?とか、もし、事故や病気になったら…など書き出したらキリがないくらいに、不安になってしまいます。今考えてもしかたない事だとはわかっていますが、こういうことで悩むことをやめられません。あと、以前の投稿で「占いなど信じなくて良い」という回答を頂いたのですが、お坊さんたちがそのようなことを書いている文章を読むと、その時だけ安心できます。ですが、この理由のない不安がすぐに湧き上がってきてしまい「もし悪い結果の占いが当たっていたりしたら…」など考えたって分からないような、証明もできないような事も考えてしまいます。どうすれば母親らしくどっしりと構えることができるのでしょうか。理由なく不安になることや、すぐに占いなどに手を出してマイナス思考へ走ってしまうこの弱い心を無くしたいです。他のみなさんはもっと真剣な悩みを相談しているのに、わたしだけこんな質問内容でバカバカしいと思われるかもしれませんが、回答いただけたら嬉しいです。強くなりたいです。
こんばんは。 二度目の相談になります。 何度も質問して恐縮ではございますが、 どうぞ宜しくお願い致します。 数週間前に、友人に連れられ出会いの場に参加しました。私は乗り気ではなくその場を楽しませるピエロ役に徹していました。その時です。母親からおばあちゃんが亡くなったと連絡がきました。 信じられなくて…ツラくて… でも、その場を白けさせてはいけないと思い 隠し通し、最後まで明るく振舞っていました。 大好きだったおばあちゃんとの色々な思い出や、笑顔など思い出して数日間は心がすごく痛くていっぱい泣きました。 そして、そのおばあちゃんの命日に知り合った男性にも後日ご飯に行き、おばあちゃんの話をしたら、そんな時に感情を抑えて頑張らなくて良かったのに…逆に辛かったでしょう? 気づかなくてごめんね。っと言ってくれて、その日から彼がマメに連絡してくれて、気にしてくれたりしてます。 そんな中、彼に告白をされて私も少し惹かれてる程度だったのですが、もしかしたら、おばあちゃんが引き寄せてくれたのかな?と、因果関係があるのかもしれないと考え、今回お坊さんに聞きたくて質問致しました。 おばあちゃんの孫の中で結婚してないのは私だけだし、心配してくれたのかなとか、色々考えたりします。 スピリチュアルな話になってくるのかもしれませんが、もし何か関係性があれば嬉しいですし。 【まだおばあちゃんと繋がっていたいと思ってるからすがってしまっているのかもしれませんが】 関係性が全くないのかもしれませんが、もしこの出会いに何らかのおばあちゃんとの関係があれば、教えて下さい。 馬鹿げてる質問で大変申し訳ございませんが、何卒宜しくお願い申し上げます。
今日はこの場を借りて相談ではなく感謝の言葉を載せたいと思います。 過去2度相談をさせていただきました。 両方とも就活に悩んでいる内容でした。 その後再度新しく見つけた会社からこの度内定をいただきました。 未経験の業種・職種からの転職活動という 簡単ではない道を歩く決意をし 時には諦めよう、非正規社員でも良いんじゃないかと 迷う時もありました。 魔が差し暴挙に出たり、傷付いたりし そんな時の心の支えとなったのが「hasunoha」でした。 毎回親身に回答していただき 時には身が引き締まるような言葉もいただき 自分を改める機会にもなりました。 家族をはじめ現在の職場の人達・友人・そしてお坊さんの様々な励ましのお陰でここまでこれたと思っております。 歩くのは自分の脚ではありますが、 背中を押してくれたのは皆様です。 普段は相談の場ではございますが、この場を借りて ありがとうございました 私自身もこれからはこの経験を悩む人を救えるようになりたいと思います。 また相談する時があると思います。 でも、どうしても感謝の言葉をお伝えしたくこの場を借りました。 暑い日が続き、台風もやってきますが、お身体だけは大切にしてください。 それでは失礼いたしました。
人生の出会いと別れ・一期一会を考えさせられます。 昔の同級生、恩師、道を尋ねた女性、ロシア人の先生、お寺で見ず知らずの私に挨拶して下さったお坊さん、手助けしたおばあちゃん、ネットでお取引した男性、死んだおばあちゃん・おじいちゃん。知った仲の人から、名前も素性も顔も知らない人まで、人生で出会ったたくさんの人の事を ふとした時に思い出します。 なんていうんでしょう。どの方も 思い出すと心がぽかぽかするんです。でも同時に、もう会えなくて なんとも言えない、心にぽっかり穴が空いた気分になります。 寂しい悲しい、でも穏やかな気持ちもあって、恋愛感情じゃない、愛?というか好きだ!って気持ちがあって、もっとその人の事を知りたかったし、一緒に居たかったんだと思います。 この気持ちに気付いたのは1年程前です。この時、初めて「一期一会」という言葉の意味を理解しました。 でも、別れの心の整理が出来ません。 どのような心持ちで 人と出会い、別れれば良いのでしょうか? なぜ、一期一会はあるのでしょうか? 出来ることなら別れたくない、もっと勇気を出して話ていれば良かった。と後悔するのは間違いなのでしょうか?
祖父が先日亡くなりました。 祖父が生前よく行っていたお寺でお通夜とお葬式をして一旦は私自身も家族も落ち着きました。 ですが、もう姿形を二度とみることが出来ない、話すこともできないと考えるともっと連絡したり、会いたかったなど後悔でいっぱいです。 私は大学浪人をしていて、祖父はいつも私の進路や将来を気にかけてくれていました。 以前から何度も手術をし身体は弱っていましたが、生活は補助なくできるようにまでなっていました。ですが、家の前で突然倒れてまもなく亡くなったので、何の報告もできずに心配をかけたままで亡くなったのがとても悔いです。 受験が終わったら、旅行にいこうとか、祖父はビールが大好きだったので呑みにいこうとかそんな約束もしていたのに果たせませんでした。 せめて、最後に一言だけでも聞きたかったと毎日思います。 49日まではまだ修行をしているとお坊さんに教えていただいて、供養することでいいところに行けるからと言われたのに、このままではきちんと祖父を供養してあげることができないと分かってはいるのですが。 大好きな祖父だったのにまだまだこれから祖父のいない時間を過ごさないといけないことが悲しくて仕方ありません。 祖父にとってきちんとよい最期を迎えられたのか、納棺の際に祖父の胸元に手紙を入れたので、読んでくれたのかなとか死者となってしまった今聞くことはできませんがとても心配です。 夜もなかなか眠れません。 心を落ち着かせるにはどうすればよいのでしょうか。
お久しぶりです。 初めてご相談させていただいた時はもう1年も前にもなります。 以前の話題にあった彼との結婚は、まだです(笑) 今回も、少しお坊さんに聞いていただきたいことがありますのでご相談させてください。 現在、私は転職をして新しい職場で、仕事に励んでいる毎日です。 そんな新しい職場で、とても魅力的な上司の方がいます。彼は結婚をしていて、2歳の娘さんがいます。初めは話しやすい人だなと思っていたのですが、娘さんの写真を見たときに、とっても可愛いハズなのに、可愛くないと思ってしまった自分がいて驚きました。 もともと私と上司の方とは支店が違うのですが、私は各支店を回る役割があり、彼の支店へ行った際に仲良くなりましたが、今は仕事外でも会って話がしたいと思ってしまっています。 ですが私には彼氏がいます。 でも心の中では上司へ想いを寄せているような気がします。 この事は一切、口には出しません。 誰かに言ってしまうとすべて終わりだと思っています。 心の中で他に好きな人がいることは悪いことなのでしょうか。 人は2人の人間を同時に好きになることは出来るのでしょうか。 私が上司を好きなのであれば、この気持ちはどこへやればいいのでしょうか。
この前父はちょっとしたことで私に火をふいたように どなって今はよそに畑仕事へいってます。 今回は母のことです。 あまりに祖母がかわいそうに思ったので お坊さんに聞いてもらおうと思って書きました。 ばばは若い頃から足の爪に水虫があって、 痛いというので水虫の薬を 書いておいておいてたら、ぼけてないとき一度目薬と間違えて 目に挿して水で洗って大慌てでかかっていた眼科へ両親がつれて いきました。 そのときのことを母は覚えていて そんなとこおいといたらばば挿しよるねんって怒って 全部母が世話せんなんっていって怒ります。 痛がるから一日一回挿したら戸棚へ戻しといてねと言いました。 そんなことだけでも怒る母に これからのばばの介護が出来るのか 不安がよぎります。 ケアマネは頼りないしね、聞いてくれないしね。 病気を一杯抱えてる私が一日一回水虫の薬をもって いくことになるのか母どうせしないだろうな。 母はちょっと介護したらしたしたとおおげさなんですよね。 ばばがかわいそうですね。 娘に介護嫌がられたらね。 だからわたしにしか言えないだねばばは。 私も車運転できなくなってばばをクリニックに連れていって あげれなくなってしまったし、たくさん病気や痛みあるしで これ以上の世話はしてあげられそうにもないな。 ごめんねばば。 優しく話は出来るけど、車運転できなくてね でも優しいばばはそんなこと思ってないと思います。 いつも私はばばが祖母でよかったよといいますと 祖母は私が孫でよかったよといいます。 あの世にいっても私のこと守るよっていってくれてます。
仏教は世界に名だたる宗教ですが、最も信者が多い宗教は何と言ってもキリスト教、ですよね?またイスラム教もかなりの影響力がありますし、それらの始祖たるユダヤ教も、アメリカの政経界に強い影響力を依然として持っていると聞きます。 そんな世界的な影響力の持つ、これら一神教が冠する「アブラハムの宗教の唯一神」に対して、仏教がなんのアプローチもした事がないとは個人的には考えにくいのですが、なんらかの仏教的解釈を加えて、仏教の中での位置づけ、みたいなものが決まっていたりするのでしょうか? ヒンドゥー教や神道などの多神教の神々を仏教の中に取り込んでいくのは、日本でも本地垂迹の歴史等があったように、既にやられて来たことですし、個人的にもそこまで波風が立つような事ではないと思います。 が、流石に「アブラハムの宗教の唯一神」を仏教の中に位置づけようとすると、各一神教徒から「そうじゃねーよ唯一神なんだよ!仏の中に入れるんじゃねーよ」と大バッシングが食らいそうで、なかなか難しさを感じます。 他宗教との兼ね合いの話になってはしまいますが、もし仏教として果敢に唯一神を取り込もうとした歴史や、または現役のお坊さんとして私はこう考えているなどありましたら、小生にご教授頂けたら幸いでございます。 ※最後に、小生はあくまで仏教や神道、一神教に対してはズブの素人です。質問文に根本的な間違いがあるかも知れません。その際はお手数ですがご指摘願います。
私は、物事に対して、悪いほうに考えてしまいがちです。 電話をして相手が出ないと「嫌われているから出てもらえない」と考えたり、メールの返信が ないと「嫌われているから返信が無い」と考えたりしてしまいます。 実際、掛け直そうと思ったけど忘れてた、や、返信内容を考えていて返信が遅れてしまったという答えだった事がほとんどでした。 昔、友達の考え方を聞いた事がありました。とりあえず悪い方に考えておいて、結果として良かった時、その差を考えて嬉しく思いたい、みたいな…。それを自分にも当てはめてしまっているのかもしれません。 今も、とある事で返信が無い人がいます。良い人と言える方なので、返信内容を考えている途中なのだろうなと思う反面、怒っているから返信が無いのかなとも考えてしまっています。 返答をしてくださっているお坊さんの皆様にどう思われてしまうかわかりませんが、私はよく、とある仏教のサイトを見ます。宗派は内緒ですが、迷ったり辛くなった心が癒される気がしています。 今回もそのサイトを見て、きっと大丈夫と思ったりしますが、やっぱり暗く沈んでしまいます。思いの高低差があります。 何故私はこんなに、悪い方に考えてしまいがちなのでしょうか。物事を良くとらえられるようになるにはどうしたら良いのでしょうか。