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hasunoha 問答検索結果 : 「 苦しみ どうしたらいい」
検索結果: 3878件

疲れました

ここでネガティブな質問ばかりしていますが、普段は明るく振る舞って出来るだけ笑顔でいるように心がけています。 といいますのも、家族が全員私を頼りにしているのと(私、三姉妹の末っ子なんですけどね…)、いつも肩身の狭い思いをしている父と他の家族の仲を取り持つのが私で、何かと問題を起こしている上の姉と家族を取り成すのも私の役目なので、私が暗いと皆が暗くなるんです。 貧乏で家がかなり狭いので、自分の部屋がありません。つまり息抜きできる場所がありません。 家族は時に私を頼り、時に私が精神病だからと変に気遣ってきたり、そのくせあれやこれやと困らせることばかりするし、言い方は悪いですが、なんか子供を四人抱えてる気分です。 そろそろ限界がきそうです。最近はちょっとしたことでイライラして八つ当たりしてしまったり、笑顔でいるよりむっとしていることが多いです。 だからといって家族を見捨てることもできないし…ありのままの私を愛してくれるのは、家族と仏様くらいなものですから。 前に母が泣きながら言ってきました。「ダメな母親でごめんね」と。 親にこんなことを言わせる私は子供として失格です。ショックで母以上に泣きました。 なんかまとまらない文章で支離滅裂ですね。ごめんなさい。特に質問とかないんです。質問するサイトで質問しないですみません。 ただの愚痴でした。 アドバイスとか感じたこととかあればご回答お願いします。

有り難し有り難し 22
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死は存在しない

もう10年以上も前になりますが、母の命日が近付くと、色々と考えます。 不治の病を宣告された母。いわゆる「手かざし系宗教」の信者である叔母(母の妹)から勧誘され、藁にもすがる思いで行った本山で「あなたには助からない相が出ている」などと訳知り顔で告げられた母。 同行した父親も勧誘されましたが、断ったとの事。 (父も母も、元々は徹底した無宗教、無神論の人でした) 母は闘病中も死の間際も、「私が死んだら○○を宜しく」 なんて言葉は一言も言いませんでした。 私は、人の思考は死を思う為には出来ていないと考えます。 脳はあくまで、身体を効率よく動かし合理的に生き延びる為に、進化の過程で生物が獲得した器官であり、「死」なんて抽象的な思考を弄ぶ為のものではないと思うんです。 死んで肉体の機能が停止すれば、感覚器官(眼や耳、肌など)も停止し、仮に死後が存在するにしても、想像を絶する世界を見て、感じるはずです。軽々と「死後の世界」なんて言えるはずが無いです。 生物の脳も身体も、ひたすら生きる為に作られています。死ぬためにつくられてる訳じゃないです。だからこの脳、この身体で死について考えること自体ナンセンスで、飛ぶ為に作られていない私の手で、鳥のように空を飛ぼうとするようなものです。 お釈迦さまが死後を無記とした真意は… 私は、死後が浄土であれ輪廻であれ、あるいは本当に恐ろしい事ですが正真正銘の「無」であっても、仏教の救いに変わりはないと言う事ではないかと考えます。 人は死なないです。死の間際でも、風邪をひいたように、一晩明ければケロリと治ってると心の奥底では信じて最後の日まで生き続けるのではないでしょうか。 母は死の間際まで死を考えませんでした。少なくとも、口には全く出しませんでした。何かを悟っていたのか、一片の悟りもなく生にしがみついていたのか今では分かりません。 ただ、母の姿を思うと私も生の続く限り全力で生きたいと思うばかりです。 「生きてる時は死んでいない、死んだら生は無い、だから死は存在しない。死を恐れず、生を全うせよ」と言ったギリシアの哲人に、私は賛成です。 こーゆー考えもまた、妄想でしょうか? 「これだけ問答を重ねて、君はまだ何も分かってない」とお叱りは覚悟の上です。 日々、人の死と向き合っているお坊様方の実感を聞かせて頂ければ嬉しいです。

有り難し有り難し 12
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死ぬことが頭から離れない

私は完璧主義者です。でも何事も完璧にやりきれるだけの能力はありません。 完璧な秩序のある生活や思ったことを完璧なやりきることへの執着心がとても強い人間です。だから一度のつまづきで全てを放棄したくなります。 ただ、現実に社会は混沌としています。それだけでなく、身の回りのことや仕事に完璧な秩序を保つことの能力が私には欠如しています。そのギャップにとても苦しめられています。自分で作ったルールを遵守できないこと、予想外のアクシデントで自分の計画が狂うこと、このようなことが本当に本当に苦痛です。 こんな混とんとした世界で生きることが果たして幸せなのか。娘や家族への情だってもちろんありますが、それを感じる主体がいなくなればすくなくとも私の気にすることではなくなります。おまけに私は利己的な人間です。考える私がいなくなればそれで残された人への想いも断ち切れます。 死んだら思考する私はいなくなります。苦痛を感じる器官もなくなります。それだけでこの世界を離脱することが大きな救いになると感じるのです。 死ぬことは怖いです。でもなぜ死んではいけないのか、よくわかりません。残された人は悲しむかもしれませんが、死んだ私にはそんなこと関係ないとも思うのです。 生きるか死ぬか、そのことが頭をぐるぐるしています。死んではいけないような気もしますが、とにかく死にたさが頭を覆って、でもそんな勇気はなくて、生きることに手がつきません。 死ぬことは果たして救済なのでしょうか。死後の世界については信じることはできません。それにこんな相談をするくらいですので生きたいという気持ちもないわけではないと思うのですが、この先もっと大きな挫折を味わった時、そのような自分を許すこともできないと思うのです。 この場でこんなことを質問していいかもわかりません。ただ、なんとか生きやすく生きていける方策があれば楽になれるとも思うのです。死と生について私なんかよりも深く考えておられるお坊さまに何か知恵をお借りできないかと考えています。 まとまらない文章で申し訳ありません。何卒よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 87
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自殺をします。

いろいろ疲れました。 きっと僕は、首を吊って死ぬでしょう。 恋人もできず、このまま孤独である未来も、たとえ伴侶ができたとしても養わなければならない未来も苦痛しか感じません。 仕事も忙しい日々で、趣味の面では自分で決めた目標も達成できず、虚無感、無力感に苛まれます。 人から変なやつと言われ続け、今までは受け入れてくれる人もいましたが、やはりからかわれると屈辱を感じます。 なんというか、そもそも人間は攻撃的で利己的なのに、コミュニティの中でしか生きられないな生き物で、その中でなんだかんだ競争に勝ってきた者の末裔が現代人なのであって、それ故に自殺しようがなんだろうが、負けた結果でありそれはとても自然なことと考えます。 前置きが長くなり、すみません。 質問は、下記です。 不自由で不遇な人生を生き切ることが尊いことなのでしょうか? 偉いことでしょうか? 負け犬が生き延びたところで、なにがメリットとなるのでしょうか? 以上です。 好きな僧侶の言葉に、人は意味の次元に生きていないという言葉があります。 全くもってその通りと考えます。 故に自殺も同じく、等しく無意味な一般的な事象手間あると考えます。

有り難し有り難し 59
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最愛のペットを亡くし後悔、懺悔

こんばんは。はじめまして。 今年の1月15日に大切な我が子を亡くしました。 あの子は私にとって大切な大切な家族でした。 なのに、あの子が生きている時はあの子が今生きていること、朝はおはよう、 夜はおやすみを言える事が当たり前になってしまい、あの子の気持ちを考えることもほとんど無く、何事も自分優先、あの子たちの事は後回しになってしまっていました。 就職で実家を離れてから一人暮らしになり、仕事から帰ってきたらすぐに出かけ、夜遅くになる事も何度もありました。 去年の11月頃から体調を崩し、良くなったり悪くなったりの繰り返しでした。 体調が悪くなったら懸命に看護し、悪い間は生きた心地がしないほど心配で心配でたまりませんでした。 なので前日体調が悪そうな様子に気付いた時も、また良くなってくれると心から願っていましたし信じていましたが、それは叶わず翌日の18時58分頃息を引き取りました。 あの子が亡くなってなぜ病院に連れて行かなかったのか、なぜ今までこれで大丈夫だったから今回も大丈夫なんて思ってしまったのか、それ以前になぜ正しい知識をもっと学ぼうとしなかったのか、自分で自分が憎くてたまりません 私の保温不足が原因でした。 14日の昼、お昼休みに家に帰ったとき、元気そうで室温も高かったので、寒暖差がいけないと思いケージ内のヒーターを消して仕事に戻りました。 その後仕事から帰宅し、ただいまーと挨拶し、あの子が元気そうなのをチラッと確認しただけで、自分はお腹が空いたからとお菓子を食べたり祖母に電話をしたりして、あの子がまた体調悪そうにしている事に気づいたのが2時間後くらいでした。 あの子は寒さに耐えながら必死に生きてくれていましたが限界だったのだと思います。 どうしようもない後悔、毎日毎日後悔しています。 私が殺してしまったも同然。私が殺してしまったんです。 なぜ罪のないあの子が死に、大罪をおかした私が今この世に生きているのか、あの子は懸命に生きようとしてくれたのに。 明日で49日を迎えますが、後悔と懺悔、自責の念でいっぱいです。 死んであの子の元にいき、心から謝りたいです。 私にこの世で生きていく資格はないと思いますが 支えてくれている家族や今生きているペット達の為にもこの世で償いながら生きて行かなければならないという事もわかっています。 ですがどう償えばいいのか分かりません。

有り難し有り難し 35
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毒もみのすきな署長さん

という、宮沢賢治の童話があります。 署長さんが赴任した町には、禁じられた漁法があります。その一つが毒もみで、自然由来の材料で作った有毒な薬を川に浸すなどして、浮いてきた魚を獲る方法です。署長さんは町の人たちを取り締まり、いかにも職務を全うしているかのように装いますが、ある日、こっそり毒の材料を取引しているところを町の子供に見られてしまいます。町の大人たちは真偽を確かめようと、署長さんに詰め寄ります。署長さんは憤慨し、名誉にかけて犯人を捕まえると約束。しかし、皆が当てはあるのかと問うと、ちゃんと証拠はあると言い、町長さんの前にずいと顔を突き出して、こう告げます。 「実は、毒もみは私ですがね」 かくして、署長さんはお縄頂戴となり、死刑が確定。そして、いよいよ死刑執行のその時、彼は笑ってこう言いました。 「ああ、面白かった!俺、毒もみだーい好き!今度は地獄でやろっかな」 皆はすっかり感服しましたとさ。おしまい。 という話なんですが、人は誰しも「分かっちゃいるけど、やめられねえ~アホレ~スイスイスイ~♪」ってことが、よくありますよね。その理由は自己を客観的に見れない切なさに起因していると思いますが、例え、見れても根源的な欲求が満たされない限りは苦しむ。 その根源的な欲求とは「生きる意味」ではないか。そこがそもそも欠落しているから変なことをし、そして、これをどう捉えるかで人生が変わる。後付けでその理由を作った人、にっちもさっちもいかずに道元禅師を尋ねた人、何かに夢中になることで考える暇をなくした人。色々、居ます。どれを選ぼうが本人の自由で、また、それ故に人を愛し、人を傷つけ、妬み憎んで七転八倒。それを糧にして物を作ったり、歌ったり、ままならぬ人生の詩を詠んで何とか生き抜き、それが今度は他者を慰める糧となる。 大事なのは、覚悟を持って挑めるかどうか。誰が何と言おうが、坊さんに叱られようが「ああ、面白かった!次は地獄で!」と腹くくって言えるなら、それでいいじゃないの。 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言いますが、我々は圧倒的に愚者。経験に学ぶしかない。大事なことはスムーズには進まないし、簡単には伝わらない。だから、お坊さん怒らないで。皆、助言には感謝しているけれども、対等な姿勢を示さないと逆効果だと私は思うのです。 ※言葉足らずだったら後で補足します。

有り難し有り難し 87
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「死にたくない」と思わないのは、おかしいことですか

こんにちは。 今年、「私はこのために生まれてきた」と思えるような大きな仕事を、文句のつけようがないほど良い形で果たすことができました。自己満足だけでなく、社会にも大いに役立つ仕事です。この社会に生を受けた責任も、果たし終えたといえると思います。 だから30代半ばにして、私にとってはこの先は「余生」という感覚で、もういつ死んでもいいと思うようになりました。 生きていることが、絶対的に幸せだとは私は思いません。生きていれば、「知らなければ幸せだったこと」を知ってしまい、絶望に苦しまなければならないこともあります。生きるためにはお金が必要ですが、そのためにあくせく働いて「何のために生きているのかわからない」と思ってしまうのでは、目的と手段が入れ替わっているようにも思えます。 それに、今の私は人生の目的を最良の形で果たし終え、幸せの絶頂にいます。もし今、人生の最後の時が来たら「私の人生は最高だった!」と笑って死ぬことができるでしょう。それはある意味、理想の死の形ではないかとも思います。 親はいますが、伴侶や子どもはいませんので、「この子の行く末を見守るまでは死ねない!」というモチベーションもありません。フリーランサーなので、組織に対する責任もないです。親や友人は私にもしものことがあれば嘆き悲しむでしょうが、志半ばではなく充分に人生を謳歌し、社会にも確かな礎を遺して生き切った私を、誇りに思ってくれるのではないかとも思います。 でも、そんな縁起でもないことを考えてはいけない…という風潮もありますし、「長生きしたいと思わない」なんて生物としておかしいのではないか、そんな考えを口に出すことは人としてタブーなのではないか…と我ながら思ってしまうこともあります。 一方で、死生観は人それぞれ、一般論に振り回されても意味がないのではないか…と思う自分もいます。「逆縁なんて親不孝」「生きたくても生きられない人もいるのに」なんて定型文もありますが、そんなのはケースバイケースだと思います。 もちろん、私は「自殺したい」と考えているわけではありません。ただ漠然と「今お迎えが来てもいいな、そうなっても全然『死にたくない』とは思わないな」…などと思っているぐらいです。 私の考えは誤っているのでしょうか。誤っているとしたら、なぜなのでしょうか。 こんな私に、有り難いご教示をいただけたら幸いです。

有り難し有り難し 111
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高い理想を持つのはいけないこと?

こんにちは.最近就活を始めた大学2回生です.高い理想を持つことは,今の私にとって,間違っているのでしょうか? 私は高校では地元で有数の進学校に入れたのに,高校生活で勉強を怠ったため, 第一志望の大学に入れず,中堅大学に入りました. 大学合格時,高校の同窓生の華々しい進学先と自分のを比べて,劣等感を感じました. 私はこの思いを自己研鑽に昇華すると決意し,大学入学後は学校の授業を真面目に受け,部活動や留学など,積極的に挑戦するようになりました. 時にサボることもありますが,その際は自分を責めずに許してひたすら「これからどうしたら良いか」を考えてやり過ごしています. また家族や友人等,周囲に応援してくれる人がたくさんいて本当に感謝しています. しかし,最近,私の持つ劣等感は,高い理想を持っているから生じるものだと気づきました. ふとした瞬間に,どうしても,私が知り合った高学歴で優秀で未来のために日々努力する人々を思い出し,「彼らみたいな高い学歴は手に入らなくとも,少しでも近づきたい!」と思ってしまいます. 実際のところ,それが今の私の原動力なのですが. 一方で,私が通う中堅大学の友人は,私のように高い理想を持たず,でもやりたいことには本気で取り組み,今を楽しんでいます.そして大半がこれまで卒業生が就職してきた地元や地方都市に就職します. しかし,私が目指す業界・会社には,高学歴の割合が多く,私の大学から就職した人は1人しかいません. かといって,私は高学歴でもなく,けっして優秀なわけでもないのです. (むしろ同じ大学に私より優秀で尊敬できる人もいます) でも将来は高学歴で優秀な,彼らのような人たちと働きたいという希望を捨てきれず,高学歴ばかりが集まる就活コミュニティにたくさん足を運び,繋がりを作ろうとしてしまいます. 自分と同じ大学レベルの学歴でそのようなコミュニティに入っている人がいなくて,孤独です.自分で足を踏み入れておいて,周囲の学歴と自分の学歴を比較して落ち込んでしまいます. 私の高い理想は身の丈に合わないものなのでしょうか? 高学歴でない自分は,自分と同じレベルの学歴の人が集まる,身の丈にあった職業にしか就けないのかと思ってしまいます. つたない文章で申し訳ないです,ここまで読んでくださったこと,大変感謝いたします.

有り難し有り難し 16
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流産を願っています

付き合って間もない彼との間に子どもができすぐに籍を入れました。 私は離婚歴のある子持ちです。 すぐに悪阻が始まり、吐いたりしていました。子どももまだ小さい為、保育園にも入れておらず、具合の悪い中子どもの面倒も見るのはとても大変でした。 妊娠してから私はちょっとしたことでも泣いたり、イライラが止まらなかったり自分の感情を抑える事が出来なくなってしまい、子どもにもきつくあたってしまう事もありました。 そんな時に、旦那ともすぐに籍を入れたため、お互い知らない所もあり、 大きな喧嘩をしました。 その時にこの人とはこの先やっていけないと思いました。 私にとって一番大切なのは先にいる自分の子どもです。 その子に妊娠をした事で辛い思いをさせている事も嫌でした。 私は旦那に あなたとはこの先やっていけるとは思えないので 中絶したいと伝えました。 旦那は中絶には反対でした。 マタニティーブルーとかもあると思うし、 出産してそれでも上手く行かなかったら子どもはひきとるからその時離婚しようと言われ、 一旦中絶することは諦めました。 それからもことあるごとにつっかかってきて揉めました。私の口のききかたが腹立つとか。 でも私が検診の日には手の平返したように赤ちゃんの様子を聞いてきます。 最後に揉めた時に絶対に許せないことがあり、 もう何も話したくないので連絡してこないでと伝えました。 旦那はもう1ヶ月くらい家に帰ってきてません。 今は妊娠5ヶ月です。 毎日流産を願っています。 まだ中絶するのも間に合うのかもしれないですけど、どうしたらいいのか途方に暮れています。 自殺を考えてしまいます。 私は旦那の為に子どもを産むマシーンな気がして仕方ありません。 命懸けで出産してもその子は旦那のもとへ行くなんてバカバカしくて絶対産みたくありません。 経済的にも私は一人で子どもを二人育てるのは無理です。 そしてこの人の子どもを愛せません。 自殺を考えても子どもとお別れする決心が出来ず 毎日泣いて過ごしています。 夜も眠れず心身共に限界です。 私はどのような選択をしたら良いのでしょうか。 よろしくお願いいたします

有り難し有り難し 28
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因果応報はあるのでしょうか?

因果応報はあるのでしょうか? 私は、幼少の頃から父方の祖母を好きになれません。 息をするように嘘を吐き、男贔屓で(自分の娘すら貶します)、自分に甘く他人に厳しく、自分の評価を上げるためなら他人を簡単に貶めるような人です。 母は、嫁姑という関係のなかでとても辛い思いをしてきました。今も変わりません。 しかし母は「悪いところばかりじゃないし、私がもっと上手に受け流せればいいの」と言って、我慢しようとします。 たしかに、祖母にも良い面はありますし、私や両親が仕事の間に家事をしてくれることもあり、助かっているのも事実です。 しかし、それを度外視する程度には、過去の負の逸話や、母を含めた周囲にいる女性に対する態度はあまりにも酷いのです。 何年も前に、父に相談して祖母に注意してもらったことがありましたが、逆効果でした。父が不在になった途端に祖母のヒステリックな怒り(もとい八つ当たり)が炸裂しました。 しかしながら、外面は良いので、祖母とある程度親しい人間(それこそ親族レベル)でないと、その酷さに気付きません。 前段が長くなり申し訳ありませんが、ここからが本題です。 因果応報は本当にあるのでしょうか? あるのだとすれば、辛い仕打ちに耐えてきた母は報われ、他者を傷付け貶めてきた祖母に罰はあるのでしょうか? 何も、祖母に不幸になれと言うのではありません。ただ、気付いてほしいのです。そして変わってほしい。私はただ、家族みんなで穏やかに生きていきたいだけなのです。 これ以上、私の求める平穏を壊さないでほしい。このままではいつか私の心が怒りに喰われてしまいそうなのです。 因果応報があるのなら、いつかの報いを信じていたいです。 信じていれば、少しは心が支えられる気がするのです。 長文、乱文失礼いたしました。 読みにくいとは思いますが、どうか、少しでも心が楽になる回答をいただければ有り難いです。

有り難し有り難し 27
回答数回答 2

生きる事に疲れた

前回の質問時にも相談させていただいたのですが、生きる上で辛い事や不安な事が多すぎて考える事に疲れました。 まず、人間が嫌いです。 個人的に好きな人は身近に数人いますが、種・集団としては信用できません。 小さい頃から人が集まる所が大嫌いです。保育園の時に見た戦争の報道がきっかけで、人が集まると争いが生まれるというような意識が自分の中にうまれました。丁度その時期に保育園で、物静かだという理由でいじめられました。それからは他人に心を許す事がとにかく怖くて、高校に入るまでは学校という物には行きませんでした。 国単位で見ても、民族、宗教、歴史、etc、いまだに何かにつけて対立し合い憎しみ合い時には殺し合う、そういう構図の中に自分が属してる状況が凄く嫌です。最近の報道を見ていても、人を不安にさせるような人間は皆死んでしまえばいいと本気で思います。 また、異常なほどの心配性も治りません。少しでも不安な事があると、あれこれ抱え込んで深く考え込んでしまいます。この性格のせいでこれまでの人生は辛いものでした。 最近だと、緊迫する世界情勢の報道などを見る度に色々不安になります。人類の歴史はほぼ戦争の歴史で、平和な時代が長く続くとも思えません。近い内に何かの拍子で大きな争いに巻き込まれるのではと心配です。そんな、明日でさえ何が起こるか分からない状況下なのに、周りを見てると毎日楽しそうに過ごしている人がたくさんいます。こんな事で悩んでる自分がやはり変なのでしょうか。 毎日まいにち、自分1人が心配しても仕方がないような事で頭がいっぱいで精神的に辛いです。生きる事がこんなに苦しいのなら生まれてこなければよかったと思う事も多くあります。自分独りでこんな事考えてても、ろくな事を思いつかないのですが、どうしたら考えすぎないようにできるかアドバイスをいただけませんか。

有り難し有り難し 32
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死の苦痛が怖くて仕方ありません

死の間際に感じているであろう苦痛が怖くて仕方ないです。 最近、ときどき「死ぬ間際の苦痛」がどうしようもなく恐ろしくなってしまうことがあります。 多くはフィクション作品やドキュメンタリーを鑑賞している際に感じています。「死」や「病」に関する描写が出てくると、ふと「死ぬ間際にはどのような感覚なのだろう」と想像してしまうのです。 例えば病であれば、病床で満足に動くこともできず逃げられないまま病による苦痛を味わい続ける日々を想像し、気分が悪くなってしまいます。 フランス革命の話題であれば、「ギロチンにかけられた場合でも間髪入れずに死ぬのではなく、一瞬は生きているだろうから、その際に激痛を感じているのだろうな」などと考えてしまいます。 それ以外にも、例を挙げれば枚挙に暇がありません。 調べてみれば、やはり「苦しまない死」を享受できる可能性はそれほど高くないとのこと。 私はこの、「人生の終わり間際に大きな苦痛が予約されている」という状況そのものに耐えがたい恐怖を感じてしまいます。 思えば、私は「予定された苦痛」というものが非常に苦手です。 以前、微熱と悪寒があり「もしかしてインフルエンザかも」と思った瞬間に、来たる高熱での苦痛への恐怖で血の気が失せて吐きそうになったこともありました(ただの体調不良でした)。 コロナウイルスのワクチンを接種した際も、注射そのものではなく、ほぼ確実に発生するという副反応へかなりの恐怖を覚えていました。 死の苦痛も、私の中では同じです。 死ぬことそのものにはそこまでの恐怖を感じてはいません。 ですが、そこに至る過程である「苦痛」の存在が、私は恐ろしくてなりません。 夜遅くや、朝起きたとき、ふと浮かぶその恐怖に押しつぶされそうになってしまいます。 こうした「来ることが確約されている痛み」への恐怖を和らげるためには、いったいどのような心構えでいればいいのでしょうか?

有り難し有り難し 11
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