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hasunoha 問答検索結果 : 「私 いない 」
検索結果: 61295件

一度も会えなかった婚約者

SNSで知り合った男性と1ヶ月程ラインや電話を毎日して、お互い好きになり、婚約までしました。彼はわたしのことを全て受け入れてくれて、悪いところも含めてすき(もちろん悪いところは注意するよ)と言ってくれました。仕事は全国どこででもできるため、来月には休みを取ってわたしの住んでる地域に引っ越してくるために家探しをしにくるとまで言ってくれました。 しかしわたしは人間不信なこともあり、実際に会うまでは信じられないと彼に伝えていました。すると彼は会って証明すると言ってくれて、会う約束をしました。 しかし会う約束をしたその日、連絡が途絶えました。わたしは、あぁやっぱり嘘だったんだ。裏切られたんだ。と思いましたが、元々怒りの感情が薄いためか、怒りや憎しみというものは一切なく、ただただ悲しくつらく、相手にも何か都合があったんだろう。と思うしかありませんでした。 しかしその3日後、彼の弟さんから、わたしと会う日の早朝に彼が亡くなっていたと一斉送信にて連絡がありました。わたしは、短い間でしたが親しくしていた者ですと返信しました。するとその日の夕方に返信してくださり、ご家族の方々も突然のことで整理がついていないとのことでしたが、持病の発作が原因であろうということと、彼は、両親には今年中に結婚して引っ越すということを伝えていた、本当はすぐに連絡しなければいけなかったのに申し訳ない、ということを聞きました。 第三者から見たら、会ったこともない人にここまで思うものなのか、騙されてるのではないかと思う人もいるかと思います。 しかしわたしは、彼は本当にわたしと結婚してくれる気だったんだ。信じてあげられなかった。一度も会えないまま。毎日電話していたのに体調の変化に気付けなかった。それから、とにかく悲しくて、つらい。もう会えないと分かっていても好きで好きで仕方ない。いつまでこの後悔とつらさに苛まれなければいけないのだろう。彼のことを忘れたくないけど、思い出すとつらい。いつか受け入れられる日がくるのだろうか。という気持ちでいっぱいです。 弟さんにわたしの思いを伝えましたが、返信はないです。彼との繋がりはもうなくなってしまうのでしょうか。 わたしはもう人を好きになりたくありません。今はとにかくつらくて仕方ないです。彼の元に行きたいとも思いますがそんな勇気は出ません。わたしはどうすればいいのでしょうか。

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仏教に様々な宗派がある理由

いつも拝見し、様々な方のご質問やお坊さん方のご回答を読ませていただいては多くを学ばせていただいており、ありがとうございます。 初めて勇気を出して質問させていただきます。。。 少しずつ本を読んだり話を聞かせたいただいていますが、まだまだ初心者です。 本来ならばいずれかの宗派に特化して学ぶべきなのでしょうが、まだそこまで絞れておりません。 少し学んだレベルなのですが、自力の仏教も他力の仏教も頷かされることが多々あります。 どちらの仏教も並立するんやないかなと思うこともあるくらいなのですが、他方、それぞれで相反する考え方もあります。お経さんでも同じです。 元はお釈迦様から始まった同じ根っこなのに何故なんやろう…と不思議でした。 これは、対機説法、応病与薬が具現化した結果だと理解するべきものなのでしょうか? そうであるとするならば… 浄土真宗では、煩悩はなくならず、自力では決して救われず、悟ることはできないと聞かせていただいています。 他方、禅宗では、煩悩を減らして行き修行を重ね悟りに至ることを目指すものと認識しています。 ということは、人それぞれによって(対機)、自力で救われる人もいれば他力で救われる人もいる、 煩悩のままで救われる人もあれば、煩悩を減らして(なくして)救われる人もいるということでしょうか。 どの様な人に、どの様な説法=教えが適切なのでしょう⁇⁇ 屁理屈の様な、ド素人の、アホな質問で大変恐縮ですがご教示頂けますと有難いです。 もしかして過去にどなたかが似た様な質問をされて回答がある様でしたら申し訳ありません。 宜しくお願いいたします。

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跡継ぎの悩み。お坊さんとしての在り方とは

 実家が寺院です。  住職をしている父親の在り方に疑問を覚えるとともに、自分の将来について悩んでいます。  現在、人々のお寺への関心は少しずつ薄れているものと思います。そんな中、私の実家は今でも多くの檀家の方々に支えられ、お寺として成り立っています。しかし、父はその有り難さが分かっていないように思うのです。    具体的な収入(僧侶が頂くお金を収入と呼ぶのは語弊があるかもしれません)を私は知りませんが、高級車を何台も乗り継ぎ、沢山の娯楽品を購入し、暴飲暴食…。具体的な発言があったわけではありませんが、「僧侶も職業だ。稼いだ収入を好き勝手使ってもいいだろう」というような気持ちが根底にあるように思います。  お寺の管理として沢山の工事も行い、綺麗なお堂を建てる一方で、景観として素晴らしい大きな木を何本も切り倒すようなこともありました。  非常に恥ずかしく思うとともに、悲しく、また、檀家の皆様に申し訳なく思います。そんな父の「粗さ」に母親が涙する日も増えました。ただ、私もまた、そんな父の援助があって、仏教科ではない別県の大学へ進学しているため、やっていることは本質的に父と変わりないのだと思うと、苦しくなるばかりです。  父親のような僧侶にはなりたくないと思います。ただ、日々誰かの死と向き合う仕事ですし、お寺としての管理も父なりに苦しんで考えているものと思います。大きなストレスもあるでしょう。父がどんな気持ちで高級車を乗り回しているのか、分かる気もします。改めて、現代におけるお寺や僧侶というものの在り方の難しさを感じます。「苦しすぎて私にはとても継げない。」「自由に暮らしたい。」「普通の家庭に生まれたかった。」そんなことを連連と考えてしまいます。  悩みやすい性格で、父親のことも悩みの一端に過ぎません。ただ、お寺の道に進むのか否か選択を迫られる時期が近づいてきており、「お坊さん」として生きていらっしゃる方々の言葉を聞いてみたいと思い投稿しました。  お坊さんとしてお金とどう向き合っているか。お寺への関心薄れる現代において、お坊さん・お寺として、今後どう在るべきか。また、悩んだ末に実家を継いだ方がいらっしゃいましたら、その決断に至るまでのお話など、相談としては漠然としており申し訳ないですが、何かご意見頂けると有り難く思います。

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