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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 悟り 」
検索結果: 1805件

なんのために生きているのか

大切な大切な大好きな家族である猫が病気になってしまいました。 とても辛いです。 かわりたいです。 どうしてせっかく生まれてきたのに、年をとっていくのか。 どうしていずれ死ぬのに生まれてくるのか。 生まれてきてたくさんいいこともあるし楽しいこともあると思います。 でも、悲しいことや辛いこともたくさんあります。 なんで生きていくんでしょうか。 この世には人数制限があって、新しい命がこの世に誕生するためには、失われる命がないといけないのでしょうか。 愛猫がもしいなくなったら、生きていくかいがありません。 ただ、すぐ私も後を追ったら親が悲しむので、親と愛猫がいなくなったら私も後を追いたいです。 生きていくことは修行だというけれど、それなら死ねたら楽になるのでしょうか。 不健康なことをして緩やかに死んでいけたらと考えてしまいます。 頭で理解しようとしても、心が受け付けません。 悟りを開いたら悲しくなることはないのでしょうか? できることはなんでもしてあげたい。 私と命をわけっこして、同時に最後を迎えたい。 どうして私ではなく愛猫が辛い目にあわなくちやいけないのかわかりません。 試練ばかり与えるのは、神様や仏様が私のことを嫌っているからなのでしょうか。 それとも私が悪いことをして、その報いなのでしょうか。 かわりに私の命をささげれば、悪いことはなくなるのでしょう?

有り難し有り難し 28
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どちらの宗派、教えを信じれば良いのか

初めて質問を投稿いたします。 るると申します。 私は学生時代うつ病を患い、生きていくことのつらさ苦しさと死への恐怖に悩み、救いとなる教えを求めて父方の宗派のお寺である東本願寺へ参りました。 そこで、どのような人間であってもすくい取ってくださる阿弥陀様の教えを聞き、何があっても必ず助けてくださる存在があるということに強い安心安堵感を得ることができ、その後は真宗の教えを聞く機会を定期的に作り心の支えとしてきました。 数年後、大学は無事卒業し就職すると私は非常に忙しい部署に配属され、激務と過労で再びうつ病の兆候が出てきて頭の中があらゆる雑音でいっぱいになっているような感覚に陥りました。 その時心の支えとなる教えをまた求めてお寺に行こうと決心したのですが、何故か今回はいつもとは異なる直感のような感覚で母方の宗派のお寺である永平寺に参りました。 永平寺で禅の一端を体験し、その後禅に関する本を読む中で、あるがままを冷静に見つめ自らの内の欲や煩悩を統御する教えを学び深く感動し、禅の教えをこれから生きていく中で実践したいと思いました。 前置きが大変長くなりましたが、二つの宗派の教えと出会いわたしは今どちらを信じたら良いのか迷っております。 煩悩を否定せず阿弥陀様が必ず救うとする真宗か、煩悩を統御し坐禅を通して自ら悟りを目指す禅宗か、全く異なる教えに触れどちらも捨てられないと悩んでいます。 両方を信じる道もあるのでしょうか。 拙い文章になりましたが、僧侶の皆様から何か教えをいただけたらと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 60
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辛いときにやること

八方塞がりで身体共に心がストレスでどうにかなりそうです。 これまで、それでも自分に御褒美を与えて乗り越えたり 楽しいと思うことを自分で探したり他のコラムや教訓めいたもの 偉人達の名言、お坊様達の悟りなど読み漁り気を紛らわし なんとか生きて来た部分もあります。 でももう数年もこんな状態だと自分でもおかしいと思います。 私はもっと幸せになってもいいのではないか 自分で自分を不幸にしてないかと思っても現実は上手くいかず ストレスを酷く感じるようになりました。 これ以上ないどん底を何度か体験し、どん底ならあとは這い上がるだけだと希望を持ち、自分はもっと幸せになってもいいのではないかと 周りを見て疑問を持つようになりました。 ネット:いい人もいるけど数えるくらいで悪意を向ける人も同数かそれ以上いると思っている。心当たりなく、勘違いを勝手にされ、発言も気をつけていたのに向けられる敵意に疲弊し希望も努力もズタズタにされ悔しい。自分に落ち度はなくても変な人に目をつけられやすい 仕事:年配者のモラハラパワハラに耐えながら最初は苦痛で私生活にも支障が起きてたがネットの件があり「あっちよりはましだ」ときつかった期間も乗り越えた。でも毎日がしんどくて辛い。時々叫びたくなったり泣きたくなったりする。周りは笑ってるのに自分だけが笑えず楽しいと思うことがない 家族:姉がどうしようもなく自殺を盾にして金銭を要求しているのを見るたびに死んでくれた方がましかもしれないと最初は引き留めてたのが呆れてしまって救いようがなく、姉のせいで睡眠障害に陥ってしまった。ギャンブル狂になった彼女を助けてあげてという人がいたら、その人が助けてあげて欲しい。むしり取られる一方の家族を見ると 真面目に生きてる人間が不真面目に生きてる人間によって不幸にされてるのが許せない 男性:怒鳴れば言うことを聞くと思ってる人が許せない。 偏見持ちの父を許してない部分がある それらと毎日付き合っていくうちに頑張ろうという気持ちも砕けて 全部やめてしまいたいどこか遠くに行きたい自分が先に死んだ方が もう苦しくないのではないかと思うけれど、それを許さない自分もいます。 美味しいもの食べて母をいっぱい喜ばせて猫と暮らして 幸せに平穏に暮らしたいだけなのですが 生きるって難しい。良いストレス発散ってありませんか 煙草は吸いません

有り難し有り難し 47
回答数回答 1

無欲すぎる

無欲すぎることに悩んでいる25歳社会人(8月末退職)です。 新卒で入社した会社を8月末で退職し、次の仕事を探している段階なのですが「やりたいこと」「働く上で興味があること」がなかなかでてこない状況で、自分について考えてみることにしました。   小学生のころから「おこづかいあげる」と言われても「いらない(今の私には必要ないから)」と言って断るので家族から驚かれるような子供でした。 また年頃の友達は「かわいくなりたい」「痩せたい」「メイクしたい」「おしゃれしたい」といった欲から自分磨きに励んだりしていましたが、私は友達のように熱心に自分に向き合う人間ではありませんでした。   私は他人のためなら頑張れたり行動したりできるタイプの人間でした。困っている人は助けたいし、私を頼ってくれた人には全力でこたえたいと思っています。究極の利他主義で友達からは「お人よしすぎる」「自分の利益を考えた方がいい」と言われる始末でした。   確かに、他人に時間を割きすぎて自分を顧みる時間がなく心身が疲れてしまったり、もう少し自分のことだけを考えてもよいのではないかと思うことが時々あります。でも誰かの為になっていることが巡り巡って自分の幸せにもなっていると思います。   長くなりましたが、なかなか自分のこと「だけ」を考えて損得感情をもったり、自分自身に興味や欲望の「矢印」が向いていないのではないかと思っています。 人間は煩悩が誰しもあり、その煩悩を取り去ることが悟りへの道だと思いますが、私はそぎ落としてもいないのに欲望の熱がほかの人より低いと感じます。年を重ねてそぎ落とされ悟るのであればよいと思いますが、25歳の段階でこの具合だとこれからの人生に彩りがなくなってしまうのではないかと感じます。   「お金を稼ぎたい」「キャリアアップしたい」「誰かのために働きたい」こう言った「欲」は良い欲だと個人的には思います。「欲」がないと指針がなく、熱もなく、前向きに頑張る原動力がなくなってしまうからです。   相談する相手が違うと言われればそうかもしれませんが... 欲を見出すにはどうしたらいいのでしょうか? それともこの無欲の状態は人として健全な状態なのでしょうか? 難しいことを聞いてしまって申し訳ありませんが、できるだけ多くの方のお考えやご意見をいただければ幸いです。 どうぞよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 12
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〝感謝〟

「仏教的・釈尊の法として、〝感謝〟〝御恩〟の 概念 とは、どのようなものでしょうか?」 昨年は、大変、お世話になりました。 件の問題は、そのまま遺恨となったままですが、私自身は回復傾向にあり。 家族間 以外に関しては、至って順調… だと思います。 父母や家族に対しては、新しい境地です^^; 日々、試行錯誤のリハビリ中で、周囲の皆さんの 理解と協力 に、感謝しきりの毎日です。 先日、ふと、(宗教全般に関してではありますが、まずは仏教的に釈尊へ)疑問が浮かびました。 シッダルッダは、かつて、妻子を捨て国を捨てて、悟りへの修行の道を進んだと記憶しています。 息子や国の民は、その後を追い続け。 妻や女性たちは、追うことも許されなかった(ただ後を付いていったけれど受け入れてはもらえなかった)…? 宗教的には、神や仏へ対しての敬意や信仰については説かれていると思うのですが。 では、その他の存在への〝感謝〟〝御恩〟とは、どのように話されているのでしょうか? “生きる”ということは、決して 独り では行えないのだと思います。 だからこそ、他に 救い を求める。 生きとし生けるものすべて。 救い 救われ。 支えられ支えて。 そういうことについての、仏教の概念を。 そういえば、私は知りませんでした。 寺院や僧職でいえば、在家の方からの支えがあってこそ、成り立っている職だと思います。 宗教全般に限定したものでもありませんが… 個が尊重されるのは、大変に良いことだと思うのですが、個人主義に偏向し過ぎてしまっているように感じてしまう昨今。 仏教という立場では、どのように解釈されているのかが気になりました。 浅学を恥じるばかりです。

有り難し有り難し 7
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人に嫌われるのを恐れすぎる性格の改善

悩みがあります。 私は人からよく「優しすぎる」と言われます。 たしかに人に優しくする事は心がけていますし、人が嫌がるようなことは絶対しません。しかし、最近は少々度がすぎてるみたいで、「優柔不断」「はっきりと言え」「偽善者」などと言われる事が多々あります。 多分、私は優しくしたいというより、嫌われたくないんだと思います。これには理由があり、過去の体験が原因になっています。その体験とは、昔人に理不尽な嫌がらせを何度か受けて、それが限界になって一度だけ反論して暴言を吐いた事があるのですが、逆にやり返され、暴力を振るわれた体験です。その上、周りの人は「お前あんなこと言うのか」などと言って私の暴言を指摘してきました。それ以来、悪口は言わないし、人に反抗もしなくなりました。しかし、段々と人に嫌われる事に過敏になり、いつしか自分の意見もろくに言えなくなってしまいました。そのせいで周りもイライラしてるのだと思います。これ以上イライラさせたくない、しかし何かを言って人に嫌われるのが怖いし、何より過去のトラウマが消える気がしません。今の自分を変えたいような、変えたくないような変な気持ちです。私はどうするべきでしょうか。

有り難し有り難し 35
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私は本当のダメな人になってしまった。

私はずっとダメなやつだと思っていました。 がんばっても、がんばっても 結果が出ないし、 それどころか 人に迷惑ばかりで、 怒られることがおおくて とても落ち込んでいました。 そんなやつはみんなに嫌われて当然と よく、親から言われました。 私は嫌われたくなくて 必死だったのに、 報われなかったんです。 ずっとです。 自分なりにがんばってきました。 でも他人から見たら 全然頑張っているようにはみえなかったようです。 全く落ち着きがなくて 他人から見ると意味不明なよくわからない間違った頑張りで空回りしてましたから。 私は人に相談ができませんでした。 自分のことをちゃんと話すことがうまくできなかったし、 いつも、おまえは恥ずかしい ちゃんとしなさいといわれていたから ちゃんとしなさいとまた怒られると思うと誰にも言えませんでした。 でも、最近、 それは間違いだとわかりました。 いっぱい心理の本とか悟りの本とか読んで心の整理ができ、 たった数ヶ月で天と地がひっくり返るくらい 自分はだめじゃなかったと思えて、そして誰も私をダメなやつと言ってなかったし、それはわたしの勘違いだったと思えました。 でも、矛盾しているのですが 自分はやっぱりダメなやつと思っています。 自分は気づくのが遅かったと思います。 後悔してます。 もっと人に早く相談すればよかった。 ぜんぜん悩むことじゃなかったのに、 バカでした。 なんで、こんなに、悩んでいたのだろう。幼稚な自分が情けないです。 とんでもない勘違いをしていて こんなに簡単に解決できることを二十年も悩んできたなんて。バカみたい。 普通の人はちゃんと精神科行くのに、 普通は誰かに相談するのに、 自分がおかしいなと思ったらなぜうまくいかないのか、 普通はちゃんと立ち止まって考えるものなのに。 みんな、別にどうも思ってなかったのに 自分が、自分で 「私は弱くてダメな恥ずかしく惨めで気持ち悪い人です」と証明するような生き方をずっとしてきたので、親にも迷惑かけて 自分を自分でダメにしてしまったなととても後悔しています。 今までいきてたくないなと、思ってましたが、 今度は違う理由で 生きてるのが恥ずかしいから 生きていたくないと、思っています。 私はどう考えていきていけばいいでしょうか。 綺麗事とかはもう、うんざりです。

有り難し有り難し 129
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様々な思想の中でどの道に進めば良いのか

こんばんは。 以前に質問させて頂きましたが、またこちらで質問させて頂きます。 私は現在、社会人をしながら様々な哲学や思想について勉強してきました。 勉強をする理由は、様々な思想がある中で、真理(正しいこと)を知りたい、あるいは自分の納得できる考え方を見つけたいと強く思ったです。 そして、これまで学んできた中で、仏教の考え方(特に空の思想)が最も真理に近いものだと考えるに至りました。 これ以上は、学問ではなく座禅などの修行をしないと真理は分からないと思っています。 しかしながら、修行の道に踏み出すことにもためらいがあります。 理由としては ・社会人としての現実の生活があり、それを捨てて修行の道に入ることは現実から逃げているのと同じではないかと考えること。 ・出家して何かしら悟りのようなものを開いたとしても、後の生活がつまらないもののように予測してしまうこと。 ・仏教の教えが一番真理に近いものだと思うが、自分が惹きつけられる思想が他にあり、そちらの教えの方が自分が納得できるのではないかと考えること。 (具体例 三島由紀夫から西部邁先生に連なる保守主義、フライトからラカンに連なる精神分析、キルケゴールやカントなどの実存主義的哲学、大本開祖の出口王仁三郎に代表されるスピリチュアリズム) これらの理由があり、様々な思想のどれにも惹きつけられて、どれかに決めて一歩を踏み出せていないのが現状です。 また、仏教の教えの中でも様々な考え方がありますが、私は最近ご活躍されている南直哉和尚の本に非常に納得させられることが多いです。 特に、この前出版された「超越と実存」という本の中の、親鸞と道元についての文章には深く納得させられました。(どちらも、超越的存在を排除しつつも、実存を受容するための思想として紹介されていました。) しかしながら、批判をする方もいます。 このように、様々の思想の中で混乱しているのが現状です。 お坊さんにお伺いしたいのは、「私の文章を読んでどう思われるか、私はこのままでいいのか、それとも何かを変える必要があるのか」ということです。 現在、28歳ですが、17歳から今までずっとこのような思想的混乱状況から抜け出せていません。 このまま人生が終わるかもしれないと思うと発狂しそうです。 何でも良いので、何かアドバイスを頂けたら幸いです。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 17
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