日本のお坊さんがお葬式をするのは、もともとは儒教の影響なんでしょうか。 昔、読んだ中国史関係の本に、孔子は尼山の巫儒(祭祀を執り行う人)の一族の生まれで、巫儒は亡くなった人の魂(鬼神)を沈めるためにお葬式を執り行っていたとありました。孔子の意志とは無関係かもしれませんが、そんな流れで儒教には先祖や目上の人を尊重する思想が組み込まれていったのかも…? 日本は、神道がありながら仏教と儒教を取り入れたことによって文化のごった煮体質になったみたいなことをよく聞きますが、実は神道や仏教より、儒教の影響のほうが大きい気がします。 儀式的なところは神道と仏教だけど、根本的な考え方(○○すべき論とか)は儒教っぽいし。 寺社仏閣はごまんとあるのに、いまいち宗教が根付いてない感がするのは儒教の影響が大きいから、な気がするのは私だけでしょうか。
有難き法縁を最近恵まれて、僧侶になることを考えている者です。仏道に生きることは自分にとって良いだけでなく、それを世に広めることは非常に大きな意味があると思っています。教行信証を読んで、これは広めるべき教えだと深い感慨を得ました。寺族でない者が僧侶になる道もいろいろと調べました。 しかし、私が今まで積んできた学業を捨てて僧侶になることは本当に社会にとって最善なのか、と思いました。(現在、米国の大学に在籍し工学を勉強しています。ちなみに浄土真宗の寺に毎週通うようになったのもこの地です。) もちろん、そこには自分が工学をやりつつ仏教もやるという煩悩もありますが、私がここまで工学の勉学を多額の費用が掛かるにもかかわらず進められてきたのも立派なご縁で様々な人のおかげです。技術者になれば社会に貢献できるとも思います。寺族でない者が別の職業に就きつつ僧侶になり寺を開くことは現実的でしょうか。 親鸞聖人は非僧非俗といいました。関東の農民とともに農作業にも励んだと聞いています。今日でも、別の職業に就き世の荒波に揉まれつつ、僧侶として(例えば、毎週日曜日に自宅をお寺にするなど)人々とともに仏道を歩むのは意味があることだと思うのです。 休日を持たない覚悟はあります。また、通常の寺という形に囚われず、布教所のように小さな形でも仏法を広められるのなら良いと思います。しかし、寺族でない人が別の職を持ちつつ寺を開くケースを拝見したことがありません。実際のところどうなのでしょうか。
人への悪口や批判的な事が自分の中に浮かぶとき、自分の事は棚に上げて、とか何様なんだ、などと自問自答が起きることがあります。 悪口を言いたい瞬間というのはありますが、言う事や言っている自分にやや抵抗を覚えます。 なんだか醜い事をしているような、後ろめたい感情を含んでしまいます。 出来るならばあまり悪口を言わないように、と一応心がけています。 とはいえ、世の中は悪口、愚痴を平気でいう人が多くいるように感じます。 その人達は多少なりともそういった後ろめたさのようなものは感じないのか、と不思議に思います。 そこでお聞きしてみたいのですが お坊さんも他人への悪口を言いますか? また、仏教やお坊さんの立場から見て、悪口、他人を悪く言う事はするべきでないことなのでしょうか?
「地獄の裁き」の「地獄」とは、仏教の考え方における最下層の世界のことで、罪を犯した者が死後に生まれ変わる場所です。人間は死ぬと、この世とあの世を 分ける三途の川を渡り、そこで閻魔と呼ばれる大王の裁きを受けます。裁きによる罪の重さによって、落とされる地獄が決定します。地獄には罪の重さに応じて 段階があります。 地獄の思想は、浄土思想や平安時代の末法思想の広まりとともに人々に定着し、民間信仰となりました。お経の功徳によって地獄に落ちることを防げることから、当時の人々は熱心にお経をとなえるなどの信仰活動を行っていました。 こちらの文章はとあるサイトの一文をコピーさせていただいてます。 https://biz.trans-suite.jp/20492 ←こちらのサイト様です と書かれていますが、人間が死んだら行くべき所は、もうすでに固定されているという事でいいんでしょうか? 天国地獄どちらかに行くというものは、そもそもなかったんでしょうか。 不安です。 というか、どれだけいいことをしても無意味ってことですかね。 人に優しくしたり、色々あると思いますが・・。 自分の行くべき場所はもう決まってる訳ですから・・・ 生きてるのもしんどくなりますね。
3回忌を自宅で行うのですがいくらくらいのお布施が相場ですか? ネットで調べると1万~5万位と交通費ですが 実際のところどのくらい必要ですか?
仏教では生きることは苦しみであると説いていることは、自分なりに仏教を勉強して少しは分かっているつもりです。しかし、去年は私をかわいがってくれた祖母を亡くして愛別離苦の苦しみを味わい、数年前からは、会社の老害である人物に毎日顔を合わせて怨憎会苦の苦しみを味わい、仕事では待遇に見合わない責任を負わされ心労が絶えません。たまには、楽しいと思う事や、うれしいと思う事もあります。しかし、苦しいと感じる事のほうがはるかに多いと思います。ふと冷静になると、こんなに苦しいことばかりで生きていくのが苦痛で、自分のこれからの将来に絶望してしまうことがあります。まだまだ不勉強でわからないのですが、仏教(釈尊)はこういった悩みにどういった回答をされているのでしょうか。最近、年を取ったせいか(まだ31歳ですが)釈尊や阿弥陀如来様、地蔵菩薩様などのエピソードやそのお慈悲を知り、有難さに涙してしまうことがあります。人間の苦悩に真剣に向き合う宗教は仏教だけだと思っています。ご回答お願い致します。
こんばんは。 私事ですが、質問させていただきます。 つい2ヶ月前にも、愛犬の事故死を乗り越えられない…という悩みでこちらに質問させていただきました。 その時はありがたいお言葉を多数いただきまして、なんとか前を向いて家族皆で頑張って行こうと歩み始めようとしておりました。 ですが最近になって、残されたもう一匹の方の愛犬が…急に病を患い、最悪もって10日の命と言われました。 どうしてなのでしょうか。私はなにか悪いことをしたのでしょうか。 もう心に負荷をかけすぎて、立ち上がれそうにありません。 明日なんて来なくてもいいとすら思います。 諦めるのはまだ早いと、愛犬はまだ生きていると、自分でも思うのですが、 あまりにも辛い出来事のスパンが短すぎて…もう心が壊れそうなのです。 これからどうこの気持ちと付き合っていけば良いのでしょうか。 負の連鎖を断ち切り、苦しみから解放されたいです。 そして悲しみに満ちた世界だとしても、生きていく、その意味を教えてください。 長々と申し訳ありません。 お忙しいとは存じますが、 どうかアドバイスなど頂けたらありがたく思います。 よろしくお願いいたします。
私は阿弥陀如来様が大好きです。 毎日救っていただくことへの感謝として念仏を唱えています。ハスノハでもたくさんの問答を見るのが楽しみです。 ところが、先日、ハスノハで真宗のお坊様が「極楽浄土があると信じていない」人への解答で、「阿弥陀如来様や浄土というのは働きのことで、実際亡くなった人が浄土という場所で生まれ変わるということではないのだろう。だから浄土とはこの世での働きのことで、死後の世界としてあるわけではないと思う」「仏様というおとぎ話を使って今生での安寧を得るのだ。だから阿弥陀如来様が実在するか否かはどうでもよい」「自分も科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」 という旨のことを仰っているのを拝見しました。一人ではなく何人かのお坊様がそういったことを仰っているのを見ました。 誤解していただきたくないのですが私はハスノハのお坊様方のことを尊敬しております。ですが少なからずショックでした。私は今生で死んだら、阿弥陀さまに迎えに来ていただいて極楽浄土に生まれ、そこで仏となる修行をできることを嬉しく思っていたからです。 また、何があっても阿弥陀如来さまがいつも一緒にいてくださることが喜びであり、心の支えです。 法話を聞いたりしていると、「阿弥陀如来様という素晴らしい仏様がいらっしゃる(=阿弥陀如来は実在する)」「死んだら極楽浄土にいき仏になる(=極楽浄土は実在する)」とお経も親鸞様もハッキリ仰っているように思います。 阿弥陀如来様や極楽浄土の存在を確信するのが、浄土真宗ではないのですか? 私が、元はキリスト教を学んでいたこともあって、阿弥陀如来様や極楽浄土への解釈が違うのではないかと不安です。 (極楽浄土と天国は、極楽浄土は阿弥陀如来様の国(他の仏様もそれぞれ浄土をもっていらっしゃる)。という違いだと理解しています) 私はこれからも阿弥陀様といつも一緒だと思っていても良いですか?
夫との会話が不快でストレスです。 夫が箸で皿を引き寄せたので、行儀が悪いよ、子供が真似するからやめて、と伝えたら「そんなに箸のマナーを言うなら、箸置き買ってきてきちんとしたらいいんじゃない?」だって。 外から帰ってきても玄関の鍵を閉めないので、物騒だから閉めてと言ったら「自分の家は鍵を閉める習慣がなかった。寝る前に玄関を見て戸締りはしている」ですって。 他にもママ友が旦那さんに苦労していてかわいそうなんだ、と言えば「でも向こうの旦那の言い分は聞いてないからわかんないじゃん」。 二言目には屁理屈、否定、「俺は」「俺の時代は」…、そして武勇伝語り。 私は冗談や面白いことが好きなので、そんな話も振ったりした時期もありましたが、何が面白いのかわからない、みたいな人を見下した態度。つまんない男と鼻で笑ってますが。 いちいち不快になるので、自衛のために会話をやめました。夫は在宅で家におり、昼食はほぼ会話なし。ストレスでしかありません。 私に話しかけにくいのか、子供を通してなんか伝えようとしてきます。直接言えよとイライラします。 とにかく不快です。でもこのままではいけないとモヤモヤもします。子供もいるし。 たわいのない冗談を言い合い、笑いの絶えないご家庭が羨ましい。 出会った頃は何時間も電話で話したりしてたのに。いったい何を話してたんだっけ? どうしたらいいですか。
この世で生きていくのは修行だと聞きましたが、天国へ行くには、どのような生き方をすれば良いのでしょうか。 人にはそれぞれ、良い部分や悪い部分があって、完璧な人など存在しないと思います。 考え方も様々で、気の合う人や合わない人がいて、人間関係は決して簡単ではないです。 でも最終的に自分のためになるなら、あらゆる努力をしたいと思います。 そもそも、この考え方からして、いけない事かもしれませんが… 人間関係だけでなく、生活の仕方、心の持ち方など、アドバイスをいただけると有り難いたいです。 どうぞよろしくお願い致します。 幼稚な質問で申し訳ありません。
親しい方が勤める職場で死亡事故がおきました。 その方は何年も前にその会社を立ち上げていて現在は引退されていますが非常に責任を感じておられます。もしあのときにこうしていれば、、、事故の原因に立ち返ると自分の責任になる、、、などと苦しんでおられます。 やりきれない気持ちは察することしかできないのですが、心をしっかり持っていただきたいので何か言葉をかけてあげたいのですがなにをいっても空虚な言葉しか出てきません。普段明るい方なので落ち込んでいる姿を見ているのが辛いです。なにか救いになれるためにはどうすればよいでしょうか
お寺の住職が近所の神社まで宮司の仕事もしてます 掛け持ちしてもいいのですか
こんにちは。以前は失礼なご質問をして申し訳ありませんでした。再度こちらで質問させていただきます。 私は将来の進路として、自衛官になることを考えています。災害派遣や国の防衛など、社会の役にたつ機会が多いと考えたためです。 しかしながら、政府の集団的自衛権の行使容認などもあって、自衛隊は将来、戦闘地域に派遣される可能性が高くなっています。 そこでご質問なのですが、万が一戦闘となり人を殺めることになった場合は、仏教の立場からはやはり不殺生戒を犯す罪になるのでしょうか? 不殺生戒を犯すことになるかもしれないと思うと、応募するのに気が引けてしまうことも確かです。 僧侶の方のご意見を是非伺いたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
初めまして。 今も情緒不安定なので、乱文になってしまいましたら、すいません。 結婚4年目の30代夫婦(共働き)です。 先日大喧嘩があり、その事がきっかけで夫から離れたいと言われました。 理由は簡潔にまとめると以下の3点です。 *夫婦間の時間をもう少し欲しかった *夜の夫婦生活に対する不満(4ヶ月ほどレス) *完全に好きでなくなったわけではないが、情の方が強い 夫は口下手で普段から中々自分の意見は 上手く伝えれない人です。 そんな人なのでそこまで追い詰めていた事を深く反省しております。 私としては離婚はしたくない、これからも一緒にいたいと思うので、話し合いを行い、修復に努めたい事を伝えましたが、「一緒に頑張れない。」との事でした。 現状は私の気持ちが追いつかず、少し時間が欲しいと伝えてます。 これ以上関係を悪化させたくないので、しつこく感じられない程度のコミュニケーションを率先して行い、なるべく笑顔でいるように頑張っていますが、気が少しでも緩むとすぐに涙が止まらなくなります。 夜も一緒の布団で寝ておりますが、不眠になってしまいました。 また確証は無いのですが、気になる人がいる可能性があります。 ※お互いの携帯は見れるようになっており、不自然な人物登録がありました。 ※交際当初に浮気未遂の前科もあります。 ただ今回そうさせた要因は私にもあるということと、無用な疑いをかけられると気分も良くないだろうと思い、その事は置いております。 夫は趣味の関係で休みの日は終日不在がちで、仕事終わりも居ないことがあります。 こちらもそうさせた一因として、私のせいだと思いますので、出かけることにも口出ししないようにしております。 過去の夫婦生活の中で、夫が要因の離婚の危機(詳細は控えますが警察沙汰などです)はありましたが、その都度話し合いを行い、2人で乗り越えてきたと思います。 何とかもう一度やり直したいのですが、修復するにもどうすればいいのかわからず、路頭に迷っているような状態です。 本当に離婚するしか道はないのだろうか、と思うと辛く苦しく今すぐ死んで消えてしまいたくなります。 また極限まで辛くて、自分の気持ちすらもわからなくなってきましたので、こちらに相談しました。 どなたか助けてください。 お願いいたします。
こんにちは 私は24歳の京都在住の者です。 以前から当サイトを拝見させていただいており、今回どうしようもない悩みが出来てしまったので、ご相談に伺いました。 昨年、実家に住む母に癌が見つかり治療を行っていました。 手術はしたものの、後の検査で転移が見つかり、母は延命治療はせずにゆっくり過ごそうと思うと先日私に連絡をくれました。 それを聞いて現在京都で生活している私は、即座に退職をするなど帰省の準備をして10月末ごろに引越し予定になりました。 いつかは来ると思っていた母の死を考えつつも、その先の不安が溢れ出てきてしまい、夜もあまり眠れない状態になってしまってます。 引越し準備の不安、無職になる不安(帰省次第転職活動はします)。母が亡くなるという悲しみと、親孝行してあげたい気持ち。そして、母がなくなってしまった後私は立ち直れるのか… 寡黙な父と二人で、うまくやっていけるのか…父も亡くなったら、私は一人になってしまう… 今考えてもしょうがない問題ばかりですが、夜眠るとき、ちょっと気が抜けたときに胸の底から不安がどんどん溢れ出てきてしまいます。 このような気持ちでは周りの友人や親戚に心配をかけてしまう… でも、とても辛く、涙が所構わず溢れそうになります。 文章がまとまっておらず、大変申し訳ありません。 もし助言をいただけるのであれば、皆様の意見をお聞きしたく、質問させていただきました。 是非よろしくお願い申し上げます。
人のこれからの運命というのは変えられるものだと思っていたのですがそうではないのでしょうか? きっかけは軽い気持ちで地元で有名な霊視鑑定に行ったことから始まったんですが、その方に父親が死んだ理由は先祖の因縁のせいであり、このままいけば私自身も30代か40代で死ぬ。 それから私には夢や目標があり、それに向かって進む為これから、外国に留学や地元から出る準備をしていたのですが、それに関しても地元から出るべきではない。出れば運気が下がる。(こちらから出るとは話してません。否定されるのが嫌だったので。けれど向こうからいきなり地元から出るなと言ってきました)などと散々言われました。 今は世の中の状況も大変です。私としては今は出るための準備期間という感じで地道に頑張っていたのですが、全否定されたのでなんとも言えない怒りがずっとあります。夢や目標を追いかけると言うのは生きているうちにしかすることが出来ません。タイミング、と言うのならまだ分かりますが出るなというのは理解しかねます。 お寺に行き仏様によくこのお話もしています。ですがやっぱりずっと考えてしまうのです。最近では、私もいつか父のように自殺してしまうのではないか?とまで考え始めました。私らしくないといつも思っているのですがどうしても頭の片隅にあるのです。 全ての物事は変わりゆくものだと思っていたのですが、今回どうしてもご相談したかったので質問させていたきました。
私が仏教に興味を持ったのは、ある落語家兼尼さんの著書で仏教と法華経の解説を読んだからです。 私はそれまで大乗非仏説を支持していたのですが、この方の著書を読んで考えが180度変わりました。 ところが、私は不思議とお題目を唱える気にはなりませんでした。天台宗で法華経が顕教だけではなく、密教の経典としても扱われていることを知り、すぐにご真言に興味を持ちました。 ある時、法華経に「一称南無仏 皆已成仏道」と書いてあるのを知り、私はこれをお念仏の教えと解釈し、今度はお念仏に興味を持ちました。 大無量寿経を読むと、お釈迦様が「私が死んでも阿弥陀如来に関する教えがなくなることはない」というようなことをおっしゃっていて、お釈迦様の最後の教えである法華経とも矛盾しておらず、何だか嬉しくなりました。 しかも私は統合失調症という精神病を、軽くですが患っておりまして、「厳しい修行やなんやかんやは無理やけど、阿弥陀さまを信じてお念仏を唱えるだけでいいなんて、なんと大きなお慈悲なんだろう!」ととても感激いたしました。 更に、法華経で「法華経の説く清浄な意根を持っていれば、他の宗教や信条を信じていてもお釈迦様の教えに通じている」と説かれていることから、大乗仏教の裾野の広さ、寛容さを実感し、「みんなで幸せになれる!」とまたまた嬉しくなりました。 長くなりましたが、これって「阿弥陀さまに仏縁をいただいた」と認識しても問題ないですかね? 法華経の解釈とかあくまで自分の解釈なので、勝手な思いあがりかと思い少し心配になりました。
私は今精神面の問題で休職中で働いていません。そんな自分に罪悪感があります。 しかし精神科の先生に働いていない自分も含めて生きていていいと思わないとうまくいかないと言われました。 しかし、私はそんな風に思えません。 家族が働きに出ている間私は…と思ってしまいます。働いていない自分をありのまま受け入れるにはどうしたらいいでしょうか。 よろしくお願いします。
どんなに貧しくとも共同体を作ることで人は一定の満足を得て過ごすことが出来ます。仏教のサンガがもう一度日本民衆の支えとなれる存在になってほしいのです。孤独死なんてどう考えてもおかしい。なんで偉い人や頭のいい人が一生懸命議論していろいろな法制度を整えたのにこうなっているのでしょうか?アマゾンやアフリカの部族のほうがそんなシステム化しなくてもよっぽど上手に回っているのに。 私はもう分かりません。勉強したからって救われるのでしょうか?文明人が進歩だと思ってやってきたことは正しかったのでしょうか?基本的には人間は群れを作って初めて生き延びられる動物で本質はアフリカで人間が誕生した時から変わっていないのではないでしょうか?群れのために尽くす事と生きがいを一致させたら群れがどんな方向に向かっていくかなんて悩まなくてもとっくに人は救われているのではないでしょうか? ちょっと混乱しています。意味が分からないことを言ってすいません。自分でも道を追求しているつもりで様々な哲学・思想書に手を出しましたが、何だか盆栽をいじくり回して結局何も手を加えなかった方が立派だった様に感じて自分がちんけな存在に思えるのです。
浮かばれないというのは なぜですか