私は今年1月より職場での異動がありました。新しい職場では戸惑いもありましたが親切な先輩方に囲まれ恵まれた環境で働かせてもらっています。 そんな中、今月4月に先輩職員の突然の訃報がありました。私が異動して4ヶ月が過ぎようとした時の事でした。その先輩とは同じ職場内でも所属している所が別な為、一緒に仕事をすることは数える程しかありませんが親切で優しい先輩です。そんな先輩の突然の訃報。言葉では表現出来ない程とても悲しくて辛いです。亡くなった先輩のことが頭から離れず仕事もなかなか集中できません。また勤務上、葬儀・告別式にも行くことが出来ずとても後悔しています。こんな私に何か出来ることはないでしょうか。 気持ちの切り替えがなかなか出来ず送らせて頂きました。
人生は苦しいのに生きる理由って何ですか? 生きることは苦しいです。たまにちょっとだけいいことがあるぐらいです。 なのに何で頑張ってまで苦しい人生を生きる理由がありますか? 偉業を成すため?金持ちになるため? 頑張って偉くなって歴史に名を残したり、大金を集めて贅沢したからってそれが何なんでしょう? 死を避ける本能から? ただ死にたくないからって理由で苦しみに満ちた一生を続けるのも下らないと思います。 いつか幸せになるため? 感情が満たされたからって何でしょう?それに死ぬまで幸せになれず苦しみに満ちた何十年の人生が残るだけかもしれません。 考えても苦しんでまでも生きるに足る理由が生きることからは見いだせません。 子供っぽい質問かもしれませんがなんでこんなに頑張ってまで苦しみしか与えてくれない人生というゲームをプレイしてるのか分からなくなっています。
現在1人暮らしの20代男です。 飛び込み営業の外回りの仕事をしてます。 いま現在は公園のトイレに逃げています。 怒られるのが怖くて、人目につくのが怖くて、頭痛や腹痛、倦怠感がここ最近は常にあります。 職場では気持ちの問題と上司から言われ、自身でも気持ちの問題。不甲斐ないだけ。情けないだけ。もっと頑張らないと。みんな我慢してるんだといままで言い聞かせてきましたが、今月の初めから体調面、精神的にもおかしくなってきている気がします。 いますぐにでも辞めてしまいたいし、いっそもう終わりにしようかとも思ってます。 でも終わりにしたくない気持ちもあります。 いったいどこから手をつけていけばいいのでしょうか?またこのくらいは皆さん我慢したり気にしないで生きているのでしょうか?私には生きていくのが難しく、苦痛です。
よく、自殺はダメだとか、死後に地獄に行くなどといったことを聞きますが、なぜですか?自分の人生は自分で決める必要があるのだから自殺しようがしまいが本人の勝手ではないのかと思います。 仏教では、人生は魂の修行で、神は越えられない試練を与えないという教えがあったような気がしましたが、何のための修行、試練なのか。 しかも、実際越えられそうにない試練を人に与えていますよね。ウクライナ戦争では、何の罪もない人々の命がプーチンの勝手な欲望の為に失われていく現実にどうしても神が存在するとは思えません。(実はこの状況を見て快楽を覚えるようなサイコパス神だったり) いくら努力しても理不尽な目に合うのであれば生きる意味等ないと思います。 生きていても理不尽な目に合う、そして老いて醜くなっていく容姿と動かなくなっていく体を無理して受け入れていく、というのが私にはとても耐えられそうにないです。ただ、こういった宗教関係の方はどのような回答をされるか気になったので質問しました。 長文失礼致しました。 よろしくお願い致します。
最近、仏教について勉強しています。 座禅の仕方や四法印の意味など、知れば知るほど『なるほど』と、思うことが多く、大変勉強になっています。 私にとって特に影響力があったのが、小池龍之介先生の考えない練習です。 心の扱い方や感覚に意識を向けることなど、試してみたところ集中力ものびたし悩みもずいぶんと減りました。 仏の教えは、心の教育にすごく役立つと思ったのですが、私の個人的な実感としては、今の日本にはあまり広まっていないような気がします。 これは、個人の興味の有無の問題なのですが、仏の教えが伝わりづらい理由は何か別にあるのでしょうか? 先生方の実感としては、どのようなところに伝わりにくさがあると思いますか?
僧侶の方とご縁があり交際しております。 彼の人柄に惹かれ先のことではありますが将来は結婚もしたいと考えています。 しかし結婚を考える上で私には決定的に信仰心というものが足りないと思います。 実家にはお墓や仏壇はありましたが両親共にほぼ無宗教で何かを信じる、お祈りするということがわかりません。 彼とお付きあいしてから手を合わせたりお経を読むといったことを表面上はできますが彼とは違い、心の底から信じていますと自信をもって言えないのが辛いです。 お坊さんの奥さまは同じ信仰をもっていないとやはり問題でしょうか。 お寺に入れば自然と身に付くものなのでしょうか。
大乗経典はあたかもお釈迦様が直接に説いたかのように書かれた物語的なものが多くあるといわれています。お釈迦様以降に悟られた方が、仏教のすばらしさを広く一般の人まで広げることを目的にしたのでしょうか。 大乗経典には、きらびやかな極楽浄土や荘厳な仏国土、功徳のすばらしさなどなど珠玉の言葉で埋め尽くされているように感じます。 先輩が口をすっぱくしていうことには、「経典に書いてあるからといって、そのまま信じてはいけない。そもそも信じるとは「知らない」ということだ。20メートルの崖から「信じて」飛び降りる人はいない。飛び降りて死ぬということは判り切っているから「信じる」必要がない。「信じる」というのは「知らない・体験がない」ということに他ならない。仏道は「体験」してなんぼのものだ。言葉はすべて方便であり、言葉では表現できない実体験で確認するものだ。坐禅和讃の最後にある「当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり」を体験しなさいということでした。死んでから極楽浄土へ行くのではなく「今ここ」で体験する。因縁によって生まれてきた意味は、体験することだ。」ということでした。 「自灯明・法灯明」の真意は、修行を先行させ法によって確認せよということでしょうか? 体験できるかどうかもあやふやな修行よりも、お念仏によって西方浄土で修行したほうが効率的ではないでしょうか?
お線香のことを教えていただいたばかりなのに間を置かないで、それに長文でごめんなさい。急ぎの相談ではありません。お暇な時にできたら助言をいただけると、とても助かります。 私には少し離れた実家に鬱病の妹がいて母と暮らしています。彼女が自分から病院に行くと言うのを待つか、少し強引でも病院に連れて行くか、どうしたらいいか考えています。本人は病院に行きたがっていないようで、母は見守る考えですが、そうして時間が経っています。もしよかったら、お坊様のお考えを教えてください。 まず彼女の性格と今までの経緯を説明させてください。 彼女は責任感が強くて、先が見えないうちに「失敗してもいいからやってみよう」と進めません。文学が好きで芸術的で、こだわり屋です。努力家で挫折を深く悔やみ、他人にとても気を遣います。 2010年頃、進路等の挫折がきっかけかよくわからないけれど、死にたい願望が出て食事をしなくなって病院に行きました。その後回復したように見えて働きに出たのだけど、2014年頃に仕事を辞めて実家に引きこもりました(職場に性質の悪い人達がいて、日頃からいじめられていたみたい)。 2016年にまた通院しましたが治らないまま止めて、今に至ります。食事量は少ないけど食べていて、外出や掃除はほとんどできない感じです。お酒を飲んで母に「私は不幸だ」「私は何をやってもだめだ」「希望が見えない」と言って泣くらしいです。 私は挫折の度に鞍替えして自分の食料を手に入れることしか考えなかったから自責の念や自己嫌悪もなくて、彼女が長く悩んでいる気持ちがわかりません。気持ちがわからない私が考えたことは当てはまらないかもしれないけれど、このままにしておくとよくない気がします。 本人に任せて見守り続けるか家族が病院に連れて行くかお坊様によって異なると思いますが、ご意見を仰ぎたいと思います。それらはすべて貴重です。
仏教には大日如来、不動明王、観世音菩薩などいろいろな仏様がいますが、仏教の始まりは仏陀が悟りを開いて、それを他の人々に教えたのが始まりですよね。 それならなぜ一神教ではなく、多神教になったのでしょう。仏陀の教えを信仰するなら仏陀一人を信仰するのが自然な流れではないのかな…と考えました。 いろいろな地域に広まるなかでその土地の神様と混ざっていつのまにか増えていったのでしょうか?
日本のお坊さんがお葬式をするのは、もともとは儒教の影響なんでしょうか。 昔、読んだ中国史関係の本に、孔子は尼山の巫儒(祭祀を執り行う人)の一族の生まれで、巫儒は亡くなった人の魂(鬼神)を沈めるためにお葬式を執り行っていたとありました。孔子の意志とは無関係かもしれませんが、そんな流れで儒教には先祖や目上の人を尊重する思想が組み込まれていったのかも…? 日本は、神道がありながら仏教と儒教を取り入れたことによって文化のごった煮体質になったみたいなことをよく聞きますが、実は神道や仏教より、儒教の影響のほうが大きい気がします。 儀式的なところは神道と仏教だけど、根本的な考え方(○○すべき論とか)は儒教っぽいし。 寺社仏閣はごまんとあるのに、いまいち宗教が根付いてない感がするのは儒教の影響が大きいから、な気がするのは私だけでしょうか。
やることはキチンとやってから自分の好きなことをする。 当たり前ですよね?やることとは例えば主婦なら家事、学生ならお勉強、社会人ならお仕事などです。 私は家事と幼い子どもたちの育児に追われています。 だけどやることやってからでは好きなことを始めるまでに、時間もしくは体力が残っておらず消化不良のまま溜まっていきます。 時間ができてやろうと思ったときには「あれして、これして」攻撃で結局手をつけられず。 自分だけの時間がなかなが持てません。 主人もお仕事が忙しく目に見えて疲れていますし、私の母は他界、義母は遠方に住んでいて頼れる環境もないです。 私が時間の使い方が下手なのでしょうか?それともテキパキ動けていないのでしょうか? そもそも主人も毎日頑張っているのに私だけが好きなことをしようとすること自体厚かましいでしょうか? 溜まっていくストレスと手付かずの趣味たちです。
有難き法縁を最近恵まれて、僧侶になることを考えている者です。仏道に生きることは自分にとって良いだけでなく、それを世に広めることは非常に大きな意味があると思っています。教行信証を読んで、これは広めるべき教えだと深い感慨を得ました。寺族でない者が僧侶になる道もいろいろと調べました。 しかし、私が今まで積んできた学業を捨てて僧侶になることは本当に社会にとって最善なのか、と思いました。(現在、米国の大学に在籍し工学を勉強しています。ちなみに浄土真宗の寺に毎週通うようになったのもこの地です。) もちろん、そこには自分が工学をやりつつ仏教もやるという煩悩もありますが、私がここまで工学の勉学を多額の費用が掛かるにもかかわらず進められてきたのも立派なご縁で様々な人のおかげです。技術者になれば社会に貢献できるとも思います。寺族でない者が別の職業に就きつつ僧侶になり寺を開くことは現実的でしょうか。 親鸞聖人は非僧非俗といいました。関東の農民とともに農作業にも励んだと聞いています。今日でも、別の職業に就き世の荒波に揉まれつつ、僧侶として(例えば、毎週日曜日に自宅をお寺にするなど)人々とともに仏道を歩むのは意味があることだと思うのです。 休日を持たない覚悟はあります。また、通常の寺という形に囚われず、布教所のように小さな形でも仏法を広められるのなら良いと思います。しかし、寺族でない人が別の職を持ちつつ寺を開くケースを拝見したことがありません。実際のところどうなのでしょうか。
人への悪口や批判的な事が自分の中に浮かぶとき、自分の事は棚に上げて、とか何様なんだ、などと自問自答が起きることがあります。 悪口を言いたい瞬間というのはありますが、言う事や言っている自分にやや抵抗を覚えます。 なんだか醜い事をしているような、後ろめたい感情を含んでしまいます。 出来るならばあまり悪口を言わないように、と一応心がけています。 とはいえ、世の中は悪口、愚痴を平気でいう人が多くいるように感じます。 その人達は多少なりともそういった後ろめたさのようなものは感じないのか、と不思議に思います。 そこでお聞きしてみたいのですが お坊さんも他人への悪口を言いますか? また、仏教やお坊さんの立場から見て、悪口、他人を悪く言う事はするべきでないことなのでしょうか?
「地獄の裁き」の「地獄」とは、仏教の考え方における最下層の世界のことで、罪を犯した者が死後に生まれ変わる場所です。人間は死ぬと、この世とあの世を 分ける三途の川を渡り、そこで閻魔と呼ばれる大王の裁きを受けます。裁きによる罪の重さによって、落とされる地獄が決定します。地獄には罪の重さに応じて 段階があります。 地獄の思想は、浄土思想や平安時代の末法思想の広まりとともに人々に定着し、民間信仰となりました。お経の功徳によって地獄に落ちることを防げることから、当時の人々は熱心にお経をとなえるなどの信仰活動を行っていました。 こちらの文章はとあるサイトの一文をコピーさせていただいてます。 https://biz.trans-suite.jp/20492 ←こちらのサイト様です と書かれていますが、人間が死んだら行くべき所は、もうすでに固定されているという事でいいんでしょうか? 天国地獄どちらかに行くというものは、そもそもなかったんでしょうか。 不安です。 というか、どれだけいいことをしても無意味ってことですかね。 人に優しくしたり、色々あると思いますが・・。 自分の行くべき場所はもう決まってる訳ですから・・・ 生きてるのもしんどくなりますね。
3回忌を自宅で行うのですがいくらくらいのお布施が相場ですか? ネットで調べると1万~5万位と交通費ですが 実際のところどのくらい必要ですか?
仏教では生きることは苦しみであると説いていることは、自分なりに仏教を勉強して少しは分かっているつもりです。しかし、去年は私をかわいがってくれた祖母を亡くして愛別離苦の苦しみを味わい、数年前からは、会社の老害である人物に毎日顔を合わせて怨憎会苦の苦しみを味わい、仕事では待遇に見合わない責任を負わされ心労が絶えません。たまには、楽しいと思う事や、うれしいと思う事もあります。しかし、苦しいと感じる事のほうがはるかに多いと思います。ふと冷静になると、こんなに苦しいことばかりで生きていくのが苦痛で、自分のこれからの将来に絶望してしまうことがあります。まだまだ不勉強でわからないのですが、仏教(釈尊)はこういった悩みにどういった回答をされているのでしょうか。最近、年を取ったせいか(まだ31歳ですが)釈尊や阿弥陀如来様、地蔵菩薩様などのエピソードやそのお慈悲を知り、有難さに涙してしまうことがあります。人間の苦悩に真剣に向き合う宗教は仏教だけだと思っています。ご回答お願い致します。
こんばんは。 私事ですが、質問させていただきます。 つい2ヶ月前にも、愛犬の事故死を乗り越えられない…という悩みでこちらに質問させていただきました。 その時はありがたいお言葉を多数いただきまして、なんとか前を向いて家族皆で頑張って行こうと歩み始めようとしておりました。 ですが最近になって、残されたもう一匹の方の愛犬が…急に病を患い、最悪もって10日の命と言われました。 どうしてなのでしょうか。私はなにか悪いことをしたのでしょうか。 もう心に負荷をかけすぎて、立ち上がれそうにありません。 明日なんて来なくてもいいとすら思います。 諦めるのはまだ早いと、愛犬はまだ生きていると、自分でも思うのですが、 あまりにも辛い出来事のスパンが短すぎて…もう心が壊れそうなのです。 これからどうこの気持ちと付き合っていけば良いのでしょうか。 負の連鎖を断ち切り、苦しみから解放されたいです。 そして悲しみに満ちた世界だとしても、生きていく、その意味を教えてください。 長々と申し訳ありません。 お忙しいとは存じますが、 どうかアドバイスなど頂けたらありがたく思います。 よろしくお願いいたします。
私は阿弥陀如来様が大好きです。 毎日救っていただくことへの感謝として念仏を唱えています。ハスノハでもたくさんの問答を見るのが楽しみです。 ところが、先日、ハスノハで真宗のお坊様が「極楽浄土があると信じていない」人への解答で、「阿弥陀如来様や浄土というのは働きのことで、実際亡くなった人が浄土という場所で生まれ変わるということではないのだろう。だから浄土とはこの世での働きのことで、死後の世界としてあるわけではないと思う」「仏様というおとぎ話を使って今生での安寧を得るのだ。だから阿弥陀如来様が実在するか否かはどうでもよい」「自分も科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」 という旨のことを仰っているのを拝見しました。一人ではなく何人かのお坊様がそういったことを仰っているのを見ました。 誤解していただきたくないのですが私はハスノハのお坊様方のことを尊敬しております。ですが少なからずショックでした。私は今生で死んだら、阿弥陀さまに迎えに来ていただいて極楽浄土に生まれ、そこで仏となる修行をできることを嬉しく思っていたからです。 また、何があっても阿弥陀如来さまがいつも一緒にいてくださることが喜びであり、心の支えです。 法話を聞いたりしていると、「阿弥陀如来様という素晴らしい仏様がいらっしゃる(=阿弥陀如来は実在する)」「死んだら極楽浄土にいき仏になる(=極楽浄土は実在する)」とお経も親鸞様もハッキリ仰っているように思います。 阿弥陀如来様や極楽浄土の存在を確信するのが、浄土真宗ではないのですか? 私が、元はキリスト教を学んでいたこともあって、阿弥陀如来様や極楽浄土への解釈が違うのではないかと不安です。 (極楽浄土と天国は、極楽浄土は阿弥陀如来様の国(他の仏様もそれぞれ浄土をもっていらっしゃる)。という違いだと理解しています) 私はこれからも阿弥陀様といつも一緒だと思っていても良いですか?
夫との会話が不快でストレスです。 夫が箸で皿を引き寄せたので、行儀が悪いよ、子供が真似するからやめて、と伝えたら「そんなに箸のマナーを言うなら、箸置き買ってきてきちんとしたらいいんじゃない?」だって。 外から帰ってきても玄関の鍵を閉めないので、物騒だから閉めてと言ったら「自分の家は鍵を閉める習慣がなかった。寝る前に玄関を見て戸締りはしている」ですって。 他にもママ友が旦那さんに苦労していてかわいそうなんだ、と言えば「でも向こうの旦那の言い分は聞いてないからわかんないじゃん」。 二言目には屁理屈、否定、「俺は」「俺の時代は」…、そして武勇伝語り。 私は冗談や面白いことが好きなので、そんな話も振ったりした時期もありましたが、何が面白いのかわからない、みたいな人を見下した態度。つまんない男と鼻で笑ってますが。 いちいち不快になるので、自衛のために会話をやめました。夫は在宅で家におり、昼食はほぼ会話なし。ストレスでしかありません。 私に話しかけにくいのか、子供を通してなんか伝えようとしてきます。直接言えよとイライラします。 とにかく不快です。でもこのままではいけないとモヤモヤもします。子供もいるし。 たわいのない冗談を言い合い、笑いの絶えないご家庭が羨ましい。 出会った頃は何時間も電話で話したりしてたのに。いったい何を話してたんだっけ? どうしたらいいですか。
お寺の住職が近所の神社まで宮司の仕事もしてます 掛け持ちしてもいいのですか