「年老いた親の姿は、自分の将来の姿」 某年某月某日、読売新聞の「人生案内」欄で、ある回答者が、こう書いていました。 そうであるならば、もはや私に生きる価値はありません。両親の最期も看取り、さらにその思いは強まりました。 先日、スウェーデンの元パラリンピック選手が、安楽死を選択したというニュースが、流れました。私は、考えさせられました。 11月8日の亡き父、同9日の亡き母の誕生日を前に、墓参りに行きました。お墓に問いかけましたが、答えが得られるわけがないですよね。 「定命」という言葉があります。老醜を晒すのが確実で、生きる価値がないとわかっていても、自ら死期を早めることなく、定命に従うのが筋なのでしょうか?
自死で子供に先立たれた親です。 いのちの集いに参加したい気持ちがありますが、仏教でも宗派には拘らずに出向いていいものでしょうか? 私自身それほど仏教に詳しいわけでもないのですが。 気になりましたので、一応質問させていただきました。 ご回答いただけると助かります。
自分は、親の死が怖く、ついついそのことばかり考えてしまいます。来せいでも会いたい人に会えますか?あと死後の世界はありますか?
この前、臓器移植に関する資料を貰い、家族と考えてみました。 私は死ぬのが怖いです。なので、脳死でもそれを死とは考えられないし、親がそんな状況になっても絶対に死んだとは認めないし、できる限りの延命治療をすると思います。 しかし、臓器移植を待つ方の立場になって考えてみると、それはもう死んでいるのに等しいから、脳死状態でしか手に入らない心臓なんかを譲ってほしいと考えてしまいます。 どっちの立場に立って考えるのもつらくて、頭がいっぱいになってそれ以上考えることができません。死にたくないから、誰かの心臓として生き続けるのもいいし、もしかしたら脳死から回復するかもしれない万一の可能性を信じて、心臓が止まるまで待つのもいい。自分がどうしたらいいのか分かりません。 なんか、脳死とか、死についての捉え方を変えたら自分が納得できる選択肢を選べるのでしょうか。 仏教ではどう死や脳死について捉えているのか、教えてください。
誰にも言えない悩みを聞いてください。 家族との絶縁関係が6年続いています。 私は18年前から独立しています。実家には両親と姉がいます。 絶縁のきっかけは母との電話での喧嘩でした。 些細なことから、私が幼少期から我慢して溜め込んでいた母への不満をぶつけたことがきっかけで、互いに連絡を取らなくなりました。 母は思ったことをそのまま口にしてしまう人のようで、相手の気持ちなど後先考えず発してしまいます。私は幼い頃からずっと傷つき続けてきました。 言ったところで母が変わる訳でもないけれど、このまま母と関わり続けると私自身が壊れそうで言わずにはいられず、ずっと考えて沢山悩んで絶縁を覚悟した上で母にぶつけました。 子供の頃からのことを振り返ると、わかりやすい虐待はありませんでしたが、いわゆる『毒親』の項目に多々当てはまります。 家族に対してだけでなく、母の古くからの友人にも何かしたようで、突然その友人から絶縁されたと言っていましたが本人は無自覚な様子です。 正直なところ、母にはもう接触したくはありません。迂闊に近づけば心がボロボロになります。 しかし、両親も歳を取り、そろそろ介護が必要ではないのか、姉一人に押し付けて良いものかと心配にはなります。 一方で、この7年間姉からも父からも何も言って来ないのは、完全に家族は私を見放したのだとも思い、このまま両親の死を迎えることになるのだと覚悟している部分もあります。 母は3人兄弟の真ん中で、自分の兄・弟とも絶縁しています。そういう家系・因縁なのかもしれないと思いますが、まさか自分も同じ様になるとは思ってもいませんでした。 母をずっと煩わしく思いながら育ったのは事実ですが、本当にこれで良かったのか、今後もこのままで良いのかと思っているのも事実です。 この先どうしたら良いのでしょうか。
死ぬのが怖いです。いつ死ぬのかわからないし,あと何年人生があるのかとかもわからないけど,死が怖いです。死後の世界がどうなっているのかもわからないし,とにかく怖いです。人間はいつかは死ななければならないし,親もいつかは死んでしまうとわかっているのですが、死ぬのが怖いです。自分もいつかは死ぬんだなぁとふと思うことがあって,怖いです。一人で夜泣いてしまいます。死は怖いですか?
先日祖母が亡くなりました。 三親等内で初めて看取った家族でした。小さい頃から毎日家に来てお風呂に入れてくれたり、公園に散歩に連れて行ってくれたり、アルバムを見るのが好きな私に何度も1枚1枚説明してくれたり、お札でお年玉をもらうと親に回収されるから小銭でほしいと小さい頃に頼んだら成人しても小銭で1万円分くれたり、たくさん思い出があって私も大好きな人でした。 急に亡くなってしまいましたが、お見舞いに行くことは出来てお話もできて気持ちの整理が着いた状態で見送れたと思います。 でも今もふと、祖母が極楽へ行ったらどのような姿で過ごすのか考えてしまいます。亡くなった時の姿でいるのでしょうか?そうであれば私が年老いて亡くなったら私だと気づいて貰えないかもしれません。それとも自分がいたいと思う姿でいるのでしょうか?そうであればきっと私が知ってるよりも若い頃の姿になる祖母に私が気づけないかもしれません。 そのようなことを考えると、私が今死ねれば祖母に確実に気づいてもらえるのにな、とも思ってしまいます。 どのように解釈すればいいのかお教え頂きたいです。
大動脈破裂にて、70歳で父が急死しました ほんの10分程、母が父の側を離れた時に倒れ、帰らぬ人に… でも、顔は穏やかで、納棺師の方からは「体が硬化せずに滑らかです!苦しまなかったと言う証拠ですよ〜」といって頂いたのが何よりの救いです ですが、母には後悔がひどく自分ばかり責めて、どうにかなりそうです。 周りから呆れられるほど、一日中どこに行くのも一緒だったので、ショックも計り知れません。 しかもお店の1つもない田舎で、父にあちこち連れて行ってもらえていて暮らしていたため一人では厳しい…のに、私(娘)や孫と小さい家でも借りて、一緒に住もう!と提案しても、田舎にいるの一点張り!お骨もずっと手元に置きたいというし 現実、墓を買わないと行けませんが、すぐに買える余裕がなく49日には間に合いませんが、どのくらいまで手元に置いても良いものなのでしょうか? そもそも父は、死んだ事に気付いているのでしょうか?(私は若い頃、心肺停止で臨死体験をした際に、暗闇の中から祖父が現れ、付いて行こうとしたら子供が居るんだから!と言われ、ハッ、として戻されました、あの世には、その続きの世界があるのかな?) 日々の生活の中で仏様とは、どう接したら良いのでしょうか? とにかく、私が父と母に出来る事、言ってあげられる事がありましたら、ご指導よろしくお願い致しますm(__)m 初めての仏壇で、日々のルールさえ、あまりわかっていません。父に何をしてあげたら? 仏様が、喜ぶ事、悲しむ事などなんでも教えて頂ければさいわいです お忙しい中恐れいりますが、よろしくお願い致しますm(__)m
自分は長い間1人っ子の1人親で2人暮らしをしていました。 そしてその親の葬儀での事です。 葬儀の日が近くなった時、元々来る予定でなかった、遠縁の家族が参列するとの連絡が入りました。 そして当日になって、その家族が時間に遅れるという連絡が入りました。それ自体は仕方のない事だったので、お坊さんに伝えたところ時間を調整してくださる事になりました。 そしてその家族が到着し、葬儀が始まりました。するとその家族の子供が騒ぎながらあちこちを歩き回り始めました。 子供が来る事は分かっていたし、そちらの親族は大人がかなり多いので自分はそこで面倒をみてくれると勝手に考えていました。実際は子供が騒ぐままにさせて歩き回らせていました。 自分はただでさえ悲しみでいっぱいなのを堪えてきていて、しかも喪主でしたから、ただ子供が大人しくしてくれる事と誰かが面倒をみてくれる事を祈りながら黙って座っていました。子供が仏具にぶつかって倒しかけた時は気が遠くなりました。 自分は人の居ないところで訳も分からず泣く事しかできませんでした。 葬儀がひと段落したところで、そちらの家族に近い親族に、「子供が騒いだけど 〇〇さんの葬儀も語り出してお経止めた人が居たよね」と言われました。ただの世間話だったかもですが、その時の自分はまるで「よくある事だから許してね」と言われたように感じました。自分が悲しんだところでもう味方は居ないような気になりました。 「子供のした事だから」「今後も親戚付き合いがあるから」と感情を抑えながらなんとかその家族達を笑顔で送り出そうとしました。コロナでマスクをしていて本当に良かったと思いました。 この事について謝罪を送ってきたのはその子供の祖母に当たる人だけです。 後で聞いたところ、この家族は遊びに行った帰りに葬儀に参列した過程で遅れて来たそうです。それを聞いたせいでしょうか、親の葬儀をアトラクションの延長にされたような気持ちになりました。 自分はどうするのが正解だったのか分かりません。自分が上手くやっていたらこんな事にはならなかったと自分を責めたくなります。 そしてその家族と、その周囲への怒りも湧いてきます。どうしたら良かったのでしょうか。そしてどうやってこの怒りを消化したら良いですか。 知見をお貸しくださると幸いです。
身近な人との死別を最近意識し始めました。就職という段階を経て自分が徐々に歳をとってきたからです。身近な人の死は数回経験しています。 なんとなく怖い嫌だなという寂しい気持ちとそれを意識したら普段接する時もいつか別れが来るんだなと複雑な気持ちになります。 また、普段通りすべきなのか特別何か意識して接するべきなのか疑問にも思います。 自分が幸せであることが孝行であるのはわかりますが、就職という次のステージを前にして環境に対する不安感がとても大きいです。自立することで不安感を軽減してあげることが孝行だとわかりますが自分の正直な気持ちがわからない、自分がどうやったら幸せ、生きていけるのかわからないという気持ちもあります。(おそらく毎日3食食べていけることが幸せだと思います。) 身近な人の死別を意識し出した際、その恐怖心をどのようにして受け入れ、考えておくべきなのか。孝行を果たすために自分の正直な気持ちをどのように見つけたら良いのか。この二点についてご相談させていただきました。何卒よろしくお願いします。
母が肺癌で闘病中です。ステージ4でリンパ節にも転移しています。 3月中頃から癌がおとなしく、抗がん剤をお休みしていましたが、また癌が活動を初めて腕が浮腫み、腰痛も酷いです。今週の金曜日に受診予定です。 抗がん剤お休みしてたので少し不安でした。 いつ暴れるか判らない、治らない、いつ何があってもおかしくないと思いながら毎日を過ごしてますが、いざ癌が暴れだすと不安で気持ちが落ち着かなくなり何も手につかなくなります。 私が想像も出来ない程…母はもっと不安で死への恐怖も感じてるかもしれないのに…私が支えなければならないのに… 私も2ヶ月も抗がん剤休んだら、また暴れだすと思って理解していたはずなのに気持ちのコントロールが出来ないんです。 母の前ではかろうじて、いつもと変わらないようにしています。 けど、一人になると駄目です。 母が癌と診断された時、手術も出来ない状態でした。治らない事も何年生きられかも判らないけど、何があっても笑顔で支えようと思い、2年の月日が経ってるのに、今は何だか嫌な予感がしてたまらないです。 以前は前向きに考えて行動出来たのに… 命あるものはいつか死を迎える。それが早いか遅いかの違いだけ、親も歳をとりいつか死を迎える。理解しているようで私は理解出来てないのでしょうか… 気持ちを前向きにしたいです。けど、どうしたらいいのか判らなくなってます。 乱文ですみません。よろしくお願い致します。
相談を見て下さり、ありがとうございます。久しぶりに質問失礼します。 私は両親が離婚していて今は義父と実母、弟と犬2匹と暮らしています。 また実の両親は7年前に離婚・別居しており、1年前に今の義父と再婚しております。 私と弟は成り行きで母に着いてきてくれたのですが義父と再婚するまでは小さなアパートで貧しいながらも女手一つで育ててもらいました。義父と再婚してからは義父が新しく建てた家で暮らさせてもらっています。義父と母には感謝しかありません。 また実父も離婚した原因(不倫と聞いています)の張本人ではあるものの、親子の縁は切る事が出来ずたまにパソコンの操作などを教えて貰いに行っております。また、実父の父親(私の祖父)には特に可愛がってもらっていたのでそういう面でも親しくしています。それに加えて父方の実家がかなり続いているらしく(自慢になりますが私で12代目らしいです)墓を守らなければならないのですが、それを私が途絶えさせるのも罪悪感でいっぱいです。 まぁこんな感じで幸せに暮らせればよかったんですが、私も大学生になり将来のことを考えなければならなくなってきたのですが実父、実母、義父の3人の介護や仕送りのような補助などのことを考えるととても不安になります。 それに、わたしにもし子供が出来た時、実父側と実母・義父側のどちらにつくかを選ばなくてはならないかと思います。実母・義父を選べば実父側の今までを潰すことになりますし、実父を選べば実母や義父を裏切ることになってしまいます。今も生きている父方の祖母、母方の祖父母に相談してもお互い、自分の方を選んで欲しいということになってしまいます。 私は弱気ですしこんな事で悩んでしまうのですが、弟にはこんなに心苦しい重荷を課せたくありません。 長文になってしまい、申し訳ないのですが、お坊さん方からの「第三者」として、そして「仏教視点」でのアドバイスや心構えを教えて頂きたいです。
私は5年ほど前に躁鬱病と診断され、今年の夏には乳ガンと告知をされました。 早期の発見だったため、抗がん剤治療と手術で完治する予定です。しかし、私は完治したくなかった。出来れば転移してくれれば自死を選ばなくても若くで死ぬことが出来たのに、と思うのです。 乳ガンを、見つけた時にはまずお医者さんと思いましたが、これが人間の生への執着なのだなと思いました。 でも、親に心配をかけ、辛い抗がん剤治療をうけながら働き、高額な医療費を払い、こんな事転移してたらやっていられません。 治療拒否も自死と同じ扱いになるのでしょうか?
父の闘病、父の死、一人になった母に何かしてあげたいと思って、自分なりに頑張ってきたつもりでしたが、兄と姉がいれば、私なんかいなくてもいいんじゃないかって思うようになりました。 父は闘病中も死が近づいた時も、兄が来ると一番喜んでいました。 母は、元々姉を頼りにしています。私は、ただ都合いいように利用されているのかって思います。 前に質問した時とは、私もかなり気持ちが変わってしまいました。 でも今が本当の私なのかもしれません。 何かしてあげたいというより、私も兄や姉のように、父や母から必要とされたい、頼りにしてほしいと思うのです。 自分が役立たずと思われているようで腹立たしいのです。 ただ実家に行って、姉に夕食を作ってもらって私も一緒に食べてくる。私も何度か作ったりしたのですが、口に合わないのか、私にはやらせたくないみたいなんです。そういうのは以前からよくあって、私は自信をなくするんです。 姉だって受験生の子供がいて、大変な時です。もうそろそろ交代にして、私と姉が一緒に行かなくてもいいと思うのですが、母は姉には毎日来てほしい気持ちが強いようで。 私の娘が、"おばあちゃんの家に泊まりたい"と言っても、今は人が出入りして落ち着かないからと言って断られました。来客は少ないのに。 手のかかる年齢でもないので、孫でも一緒にいたら寂しくないかなと思ったんですが。 四十九日までと言っていましたが、その後一人でご飯を作って食べるようになるでしょうか。私は何をするわけでもなく、ただ行けばいいんでしょうか。
3度目の質問です。 前回の質問を見て頂けると幸いです。 自分のしたことが受け入れられず。なぜあの時あのような決断をしてしまったのかずっと考えてしまいます。あの時は経済的にも他の事でも不安な事ばかり考えてムリだムリだとばかり考えてました。家族の為にお腹の子を犠牲にするつもりは全くなくて産めばなんとかなるさで産んでどうにもならなかったら?露頭に迷わせてしまったら?苦労させてしまうと思ってました。産み育てる勇気がなくて自分に言い聞かせていたのかもしれません。ホントは産みたいキモチもあったのに蓋をしていました。なぜ大切な命だって妊娠した時点で責任は生じているってあの時分からなかったのだろうと思います。ホルモンバランスが崩れていてつわりもあり1人で1週間で決断しろと言われた中ではそのような決断しかできませんでした。すべて言い訳です。自分が弱かったからです。誰でも中絶は駄目なことってわかるのに追い詰められたらどんなひどい事もできてしまうのかって自分はサイコパスなのかひどい人間なのかって思います。バチがあたるとか人一倍思う方なのに性格的にも絶対に耐えられないってなぜあの時わからなかったのでしょうか?結局失わなければ気付けなかったいい年して愚かで浅はかな人間だったんですよね。 今は失って傷ついてその後ずっと考えてきたからもっとああしていればこうしていればもっとポジティブに全力で頑張ればなんとかなったんじゃって分かるけどあの時は追い詰められていてそうするしかないってそうとしか考えられなかったんだと思います。 でも今のわたしはずっと自分を許せなくてずっと自分を責めてしまいます。 この事で私が心を病んで働けなくなったら家族が不幸になったらこの事はなんだったろうと思って今カウンセリングを受けたり安定剤を飲んだりして必死に生きています。 子供達に罪はないけど、私はこんな罪深い事をしておいて自分は生きる為に必死に薬飲んだりしているって何なんだろうって思ったりします。 自分で自分が分かりません。
自殺しようと思います。というより、しなければなりません。しかし、臆病者の私はいまだに自殺できないでいます。どうか、その勇気を出せる御言葉をください。 私はきっと生きていてはいけない人間です。自分を1人の人間であると思うことすらもおこがましいと思っています。これ以上迷惑をかけないためにも、死をもって償いたいです。 親のお金で大学に通わせてもらっているのに留年し、迷惑をかけました。親の貯蓄も、大学に通わせてくれた厚意も踏みにじった最低な男です。 犯罪に手を染めました。1度だけではなく、2度3度と繰り返し、親の財布から金を抜き取るという愚行にも走りました。 親からの期待を裏切り、約束も破りました。このまま生きていても、また期待を裏切り、約束を破り、親に不快な思いをさせ迷惑をかけてしまいそうです。 大切な親友にも多大な迷惑をかけました。不快な思いをさせました。自分のようなごみのような存在と親友でいてくれたのに、申し訳なさでいっぱいです。 仕事もまともにできません。いつも上司の方々に迷惑をかけてしまい、イライラさせてしまい、不快な思いをさせてしまいます。自分はその職場にいない方が良いのは分かっているのですが、親の圧力もあって辞めることもできません。 無力で何もできないくせに、死ぬのが恐いからと言って生きて、多くの人に迷惑をかけました。この先も、どんなに頑張っても迷惑をかけてしまうだけのようにしか思えません。 なので、死をもって償いたいです。頑張って生きて償えと言われても、自分が生きていたところでまた迷惑をかけて、罪を重ねるだけなので、それでは償うことができません。 私が自殺することで親に迷惑がかかるかもしれないということは分かっているつもりです。ですが、このまま生きてこの先何十年と迷惑をかけ続けるよりは、大きな迷惑をかけてでもそれで全て終わりにしてしまった方が良いと思います。 どうせ誰にも愛されない、嫌われ者で無力な、微塵の価値もない命ですから、大切なものでもありません。そんなものは捨ててしまって、償いたいです。 全て自業自得なんです。自分で招いた結果です。自分が犯してきた罪です。どうか、私に償いができる勇気をください。お願いします。
高校生です 私は中学生の頃からずっと死ぬのが怖いです 私はこれまでの短い人生の中でも色々と悪いことをしてきました。嘘もつきましたし、人を傷つけたこともあります また、幼い頃(幼稚園生頃)にお店で量り売りとして売っていたチョコレートを一粒こっそり食べてしまったことがあります。あの事をずっと後悔しています 沢山悪いことをしてきたと思います 私はきっと、死んだら地獄に落ちてしまうことでしょう。祖母は「絶対天国に行けるからね」と言ってくれますが、それでも確証がありません いえ、地獄に落ちるかもしれない、それ以上に怖いことがあります それは、死んだら“私”が無くなってしまうのではないかということです 私は、私がこれまで積み上げてきた物を失うことが、自我が無くなってしまうことが怖いです 今、こうして悩み、悲しみ、笑い、怒り。そんな感情を抱いている私が消滅するかもしれないということが、本当に怖くてたまりません この恐怖は一年に五回程度湧き上がってきては私を悩ませます。怖くて怖くて、死後のことを思うと私は涙が止まらなくなります ですが、周りの大人は私のこの悩みを「くだらない」「大人になればそんな悩み薄れる」と言ってまともに取り合ってくれません。私は“今”の対策が知りたいのです。大人になってから、なんて待てません 死ぬのが怖いと言いながら、不老不死になりたいかと聞かれると困ります。永遠の命なんて寂しいですから この悩みの解決策がわからないままです 今も苦しみを堪えながらこの文をうっています 誰か、私を助けてください カテゴリー等、間違えていたら申し訳ありません
上の子の発達障害のサポート、下の子の入園、同居での義父母との関係性、職探し、季節の変わり目と一気に色んな変化があり、精神面での調子を悪くしてしまい精神科に通っております。 はじめの頃はお薬を毎日決まった分飲んでいればとても調子が良かったのですが、日常とイレギュラーな事があった時(学校行事など)、前もって分かっていたはずなのに自分にとっては大きなストレスとなっていたようで、その出来事の前後に悪夢を見たり眠れなかったり、気晴らしのつもりで出掛けた先でパニック発作を起こしてしまいました。 その都度お医者さまに相談をしてお薬を追加してもらってはいるのですが、パニック発作や強い不安感を持っている時間はとても辛く、耐え難いものでいっそこのまま死んでしまいたいと思い、死に場所を探し回ったり、とにかく手首を切りたいと思ってしまいます。 発作が落ち着きなんとか日常生活に戻ると死にたい気持ちは消えるのですが、少し油断するとまたあの恐ろしい時間がやってくるのではないかと思ってしまったり、耐えきれず突発的に自殺行為を起こしてしまうのではと思います。 自殺は、後に遺された人たちをどれだけ苦しめ悲しませる事なのかということは分かっています。 だけれど今の自分の精神状態が正常ではないので死にたいと思うときに何かしでかしてしまうのではないかと不安でたまりません。 仏様は何と仰るのか分からないのですが、神様は乗り越えられない人にはそういった難しい試練は与えないと聞きます。それが本当だとしたら、私は自分のこういう体質を試練として乗り越えて自殺という形で投げ出すことはせず、生涯を全うすることができるということなのでしょうか?
私は幼稚園の時からただ漠然と死にたいと願っています。今までは本当にただ漠然とした願いでしたが最近になり、うたた寝をするような穏やかな死を望むようになってきました。 ただこんな願いは家族には到底打ち明けることはできませんし、万が一打ち明けたとしても怒られるだけです。怒られないにしろ、まだろくに人生歩んでないからそんなことが言えるんだといわれて終わることでしょう。 私は死というもの事態避けようのない終着点であり、そこまで悲観するものではないと思っているため、余計にそう願っているのでしょうが、皆様方は死についてどのように思われていますか?
このサイトに出会い、死のことを考える(死の恐怖を考える)のを少しずつですがやめることができた者です。 お坊さんのありがたいお言葉をいただき、今を全力で生きることに集中しています。 ただ、一つもやもやしたものがあります。 子供を産むことです。(男なので産むは適当ではないかもしれませんが便宜上) 近い将来、結婚する予定であり、これまでは漠然と子供も欲しいなあなんて思っていました。 ただ、改めて死のことなどを考えた時、自分の子供にその恐怖や苦しみを与えることになるのだと気づき、子供を産むことは酷いことではないかと思い始めました。 仮に子供が死というものを考えず、前向きに人生を過ごしてくれたとしても、最後は辛く悲しい死という結末を迎えます。 いつか死ぬ存在を自らが産み出すのは、恐ろしいことではないか、そう感じて仕方がありません。 極論、人類繁栄の放棄につながるので危険な考えだとは思うのですが、やはり個人という存在に目を向けた時、上記の考えが捨てられません。何かよい発想の転換はないでしょうか。