1か月振りの投稿です。質問の前に雑文だらだらと書かせて頂きます。 誤字等あれば、ご容赦ください。 先の質問で面接すること述べましたが、面接駄目でした。 応援して頂いた方には、なんともいえない気持ちになります。 落ちたときは、ショックで死にたくなったりしました。 hasunohaに相談しようか思いましたが、それすらも億劫な心境でした。 今は若干平静になっています。といっても、どうしてもまだ卑屈ですが…。 落ちてから一か月ですが、結構色々なこと思ったり、あったりしました(^_^:) 『ボクは坊さん』見に行ったら周りが皆年上。 1年以上ぶりに、菩提寺にお墓参り行ったら、軽く住職に幻滅(別に質問する予定) 就職セミナー内で仲良くなった人から、宗教勧誘をうけた(おそらく、顕ナントカさん) 就職活動したら、まさかの宗教活動…。 「南無妙法蓮華経って知ってる?(ニコニコ)」「えー…、ちょっとそういうのは…」 (知ってるよ!つーか俺は日蓮宗だよ!(心の中で突っ込み)) 警察、セミナーの人には連絡済で、キチンと断って逃げました。 こんな1か月でした。なんか仏教関連(?)の思い出が多いです 全部本当ですよ(笑) ようやくここから本題ですが、3週間被災地ボランティアに急ですが行きます。 場所は岩手県です。 どうして行くのかというと、ある事柄をするのにどこでも良かったが、せっかくなのでボランティアをしようと思ったからです(お坊さんは、よければプロフ欄に詳細書いてます。ただ活動団体等に迷惑をかけたくないので、回答ではプロフ欄にのみ書いてることは、絶対に控えてください、お願いします) 岩手は福島よりも、都会から遠いのでボランティアが少ないそうです。 頑張ろうと思っていますが、良くないことも考えてしまいます。 3週間も寒いとこ行きたくない、家でパソコンでもいじってたい。 結局俺って、就職に有利とか、ついででボランティアしようと、してるんだよね。邪な気持ちどこかにあるよね。など。 (ただ主な目的はとある事柄ですが、決め手はボランティアでした。じゃなきゃ、家の近くでその事柄やります) 嫌な気持ちを抱えたまま、ボランティアに取り組んで、いいものでしょうか? こういうこと思ってボランティア活動しなさいなど、あれば参考にしたいと思います。 回答よろしくお願いします。
夫が亡くなってもうすぐ3度目の月命日です。亡くなってしまったばかりの頃よりも寂しく悲しい気持ちが強くなっています。夫はご先祖様方に導かれて心安らかなる所にいるのでしょうか。 夫が極楽浄土へ行けるように、南無阿弥陀を唱えたいと思うのですが、菩提寺が真言宗らしく。南無阿弥陀を唱えてはいけないのでしょうか。 ここに初めての質問で書いた事なのですが、夫には私以外に女性がいた事を亡くなった後で知り、その事で私の心がとても苦しいのです。でも夫を恨んだりする気持ちはなく、事実を知ってからも夫を愛する気持ちは変わりません。夫は私を大切にしてくれていたし優しくしてくれていました。些細な事でお互い嫌な気持ちになる事もありましたが毎日一緒に居てそれが当たり前の幸せでした。 私にも原因があると後悔して自分を責めたり惨めな気持ちになっています。 考えてみればもし生きている時にその事実を私が知ったなら私の心は普通ではいられるはずがなく夫との生活も幸せでいられなくなったと… 夫が私に気づかれないようにしていたのは私に対してのせめてもの優しさだったのだろうと、私の心が惨めに悲しくなってしまう時には自分に都合のいいように考えようとしているのです。事実を隠し続けて夫は心を痛めていたと思います… 夫が心安らかに暖かいところへ行けるように祈る気持ちと夫に会いたい、話したい気持ちが同じくらい強く心にあるのです。 夫のためには私はどうしたらよいのでしょうか。 南無阿弥陀を唱えたら夫は心安らかなる所へ行けるのでしょうか。 私の心の中の夫へのなんでそんな事をしたのか聞きたい思いや後悔、 夫に会いたくて堪らない思いはどうしたらよいのでしょうか。 文章がまとまらず申し訳けありません…
お寺の敷居が高く、なかなか一歩を踏み出せずにいます。 最近、即身成仏に興味を持ち、日本で有名な即身仏を見てきました。博物館を見学する感覚で観に行けたのですが、多くのことを教えていただき、感謝しています。そこから、真言宗に興味を持ち、空海、即身仏になった方にも興味を持ち始めました。 禅にも興味があり、居住地に曹洞宗が多いことから、曹洞宗にも興味があります。 実家の方は日本の多くのところにはない風習で、お墓の形が違います。 明治にはいるまで、正式な日本の統治下になかったためか、菩提寺とか、檀家とか聞いたことがありません。 親からは、「宗教は考え方が偏るから、入るな」、「無宗教の人と結婚しなさい」と言われ、本格的に教えをこうことも難しいと思っています。そのような考え方になった背景に、親戚関係があること、また日本人の宗教観から、親の考えも理解できます。 ただ、もう亡くなってしまった人に対する供養(難しいことではなく、いろいろあったけれど、その人なりに一生懸命生きたことを理解し、今自分が抱えている問題をなくして前に進めるようにすると捉えています)と、自分自身の中で懺悔したいと考えています。 できることはやっていますが、まだ供養や懺悔が足りないように思います。 きちんとした師についてやった方がいいとは思いますが、仏教は宗派が多く、どこに行ったらいいか、手続き等が分かりません。境内の仏像を観て、真似をしてみて、どういう思いになるかということもやってみました。神社は気軽に行けるところが多いので、神社で心身を清めています。(通常はお祓いは受けず、お祈りをするだけです) 仏を拝むのも何か気づくような気がしますし、仏法は本を読めばある程度学べますが、 人との関わりから学ぶこともあるかと思うのです。 私に合う仏教との関わり方はありますか?
初めてご質問させて頂きます。 お互い子持ちで再婚を考えている彼がいます。 彼は先妻さんと死別。私は前夫と離婚です。 お互いの子供達は成人しております。 タイトルの「後妻」とは私の事です。 私はお相手のお子さん達に嫌われており、亡くなったお母さんと同じお墓に入る事を許されておりません。特にお相手のご長男は将来、父(彼)亡き後、私が死亡した場合、自分が私の喪主になる事に抵抗あるようです(当然と言えば当然です)。 私自身は彼との入籍も諦めかけています。 私はもちろん、彼も二人同じお墓に入る事を希望しております。 お墓は先祖代々の墓ではなく、奥さまが亡くなった時に彼が建てたものです。 そこで質問です。 今考えているのは ❶入籍して居なくても私のお骨がお墓に入れるように遺言書を書く。私の葬儀や法事は私の実子が行う ※私の実子は彼と養子縁組せず実家のお墓を守る立場でもあります。 ❷彼と二人だけの夫婦墓を建てる ※私の実子が抵抗なければ、将来ここに入ってもOK ❸永代供養と言うのでしょうか?お墓のマンションみたいな所に彼と入る と言う事ですが、籍が別々でも可能でしょうか? ちなみに❷が可能だった場合は菩提寺(奥さまと同じお墓の敷地内)でなければダメでしょうか? 彼は前妻さんを今でも大切にしていますが同じお墓に入る事に拘ってはいないようです。 ちなみに、私も彼も真言宗です。 お墓の作法に大変疎く、あまりにも無礼なご質問でしたら申し訳ありません。
母が亡くなって11年経ちました。 母の魂は今苦しんでいるのでしょうか? 重い肺炎を患い、私たちきょうだいに迷惑をかけまいと死を選んだ母。 母は無宗教で戒名つけてほしくない、菩提寺もない、お葬式は好きだった曲を流して親戚だけでお別れ会のように執り行いました。 その後お坊さんとの御縁があり、自殺した人の魂は自然死の魂と違って成仏するのに修行がいったり時間がかかったたりするとお坊さんから聞きました。 そこで高野山に行って母の回向をしていただいてきました。 去年は10年の節目なので、ペット供養でお世話になっている市内のお寺で、母の供養をしていただき、13回忌とのことでそのお経もあげていただきました。 私は母の魂は存在すると思っていますが、宗教に関して全く無知です。もちろん仏壇はありますが、一般的なお線香をあげて祈るくらいのことしかしません。 母の魂は今苦しんでいるのでしょうか? 生きてるときに私たちや他人のために人生を捧げてきた人です。 たくさんの苦しみがあった人です。小さい頃からとてもたくさんの苦労をしてきた母が、死の選択をしてもまだ苦しんでいるのかな…と思うと、今生きている自分に何かできないかなと思っています。お金がないので、お線香をあげたりご飯やお水をあげるだけなんですが、何か母のために今の私ができることがあるんでしょうか? 前に質問させていただいたのを見ていただくとわかるのですが、私自身今気持ちの病のような症状が出ていて、母はこんなときにどうしていたんだろう、こんなに病んでしまった私を見て悲しんでいるのだろうかと思ったり…。 たくさん苦労して、たくさん自分を犠牲にして、そうやって私を育ててくれました。 私も今は辛くて辛くて死にたいときもあります。でも母のおかげでこうして主人と小さな幸せを毎日どうにか見つけているんだと思います。 苦しくて死んでいった母にもう苦労させたくないです。 何か私みたいなのでもできることがありますか? 母は今苦しいですか?
以前よりお世話になっています。 ニックネームを変更しました。 家族が他界してから毎日お務め、花、茶水、お供えと自分なりに供養してきました。 これまで5人のお坊様とお世話になりました。(実際にお会いした) それぞれ個人的な考えや思い、派の違いにより仕方がないことかも知れません、違うところが言動にあります。1人のお坊様は色々な勉強を幅広くされたのか、お話はとても立派なのですが、そのお言葉を自ら覆す行動をします。 細かい内容は言えませんが、色々と矛盾を感じ、お寺に伺いにくい状態になり、別のお坊様にも法事に来ていただけない状況です。 今年の法事は菩提寺の住職が他県から来ていただき、なんとか両親、先祖の供養ができました。 仏教とは、御坊さんとは、供養とは…何が本当なのか分からなくなり、段々と仏壇のお務め、供養もいい加減になりつつあります。 最近は若い方も気軽にお寺の門をくぐれルように、お寺カフェや座禅、説法、写経や癒しを求めてお寺巡り、朱印本など流行りつつあり、高野山1300年のPRもよく見かけます。お寺や神社巡りが趣味と言う若い方々もいます。 一方、無信仰だから、山や海に散骨する方、墓仕舞いして樹木葬等、普通に家代々のお墓に入る人も減っているとか。と言うことは檀家さんも減ると言うことですね。 大変失礼ですが、葬式坊主なる葬式業者数社と契約?して、葬式ばかりして儲けるお寺もあると聞きました。 5人のお坊様のうち4人にとって私は檀家でなく、業者の紹介やあるお寺の催しで出会っただけで、特に大きな収入源にもならず、どうでも良いのかも知れませんし、中には若いお坊様もいますが、頭でっかちの知識先行型なのかもしれません。 これも私の受け取り方一つなのかもしれません、お坊様に対するイメージが固まっていて、そのイメージと違うから違和感なのかもしれません。 当然、お坊様も人間、修行の身であり完全完璧でないことはわかります。ただ法事で頂いたお経は本当に、亡き家族のためになっているのか、六道の話を伺いましたが、畜生界、地獄に落ちていないか、毎日、お務めすることで両親、先祖のためになっているのか疑問が沸きます。 それまでは完全に仏教を信じ、お務め、供養が仏となった家族のためと信じきっていました。 今は半信半疑、これから供養を続けていく自信が無くなりました。
質問というより報告になってしまいますが、ご容赦ください。 また、誤字等あれば、ご容赦ください。 先日、「ボランティアに行くんですが…。」というタイトルで投稿した竹丸です。 岩手県にボランティアに行ってきました。不安もある中行ってきましたが、楽しかったです。 離れた場所という事で、周囲を気にせず、昔の自分に戻った感じでした。 3週間でしたが、ふと日数を意識するまでの2週間は、1週間しか経ってない感覚でした。 本当に色んな思い出ができました。何点か述べさせて下さい。 宿泊先で芸術家の人達と仲良くなった。 タイの人達に、適当な日本語で歌った「ヤキイモ」というタイの歌を教えてもらったり(割り勘四個・・・うなぎ重い・・・ヤキ~モ~♪)、虹を書いたり、縦長のカメラで写真撮ってもらった。 ドイツの人には土を紙に丸く塗った絵を見せてもらった(タイトル含め激しく前衛的だった)。 宿泊先近くのお寺にお邪魔し散策、勝手に墓地に入っていいのか解らなかったが(宜しければ回答で教えてください)、最後まで行くと東日本大震災で身元が不明で亡くなった人達のモニュメントとプレート状のお墓があり、合掌した。 元々のボランティアが早く終わり、別のボランティアをすることに。 新たに植える松の苗木を風害などから守るため、周りを囲む竹のすだれの一部工程を担当。 作業中、hasunohaであるお坊さんに教えてもらった「松に古今の色無し 竹に上下の節有り」 を思い出しながら作業。 他にも様々ありましたが、書ききれないので、やめて置きます。 今回何を得たかは、正直わかりません。ただ楽しかったという思い出だけは残った感じでしょうか。 今後も色々不安はありますが、その時は質問させてください。 他にも興味本位で出た質問もさせてください。お願いします。 それと前回、自分の家の菩提寺の住職に幻滅したと書きましたが、幻滅という部分はどうでもよくなりました。 ただ、後日質問するといったので、そこから生まれた興味本位の質問を後日させて頂きたいと思います。 多分、くだらない、小生意気と、その時思われる方もいるかもしれませんが、お付き合い頂けるお坊さんがいてくれたら幸いです。 ボランティア行く前、相談乗ってくれたお坊さん方ありがとうございました。
いつもお世話になっております。先日、大変不思議な 事が私の身に起きたので、共有させてください。 菩提寺の寺庭さんに、話を聴いてくださったお礼をしに 行きました。そして、ふと気が向き、およそ10年ぶりに 私の養育者の骨が埋葬された供養塔の前に立ちました。 すると、突然、何の前触れもなしに滝のように涙が 溢れてきて、墓前にしゃがみ込み、小さい子供の ようにビイビイ泣きました。 不思議でたまらず、きょう、心理士の先生になぜだと思うか 尋ねました。心理士の先生は、反対に 「リケさんはどう思いますか」 と訊いてこられたので 「祖父母はもう浄土で菩薩になっているので、生前のような 蔑みや傲慢さといった人を害する感情を持ちません。なので、 心の底から、甘えることを抑圧されていた『子供の私』が 『大人の私』を押しのけて出てきて、親たちに縋り付いたのだと 分析します」 と答えました。心理士さんは、「なるほど…」と言って聴いて くれました。 来年からは、盆も彼岸もちゃんとやろうと思います。 ちょうど能を教学しているので、家の仏壇の前で三番叟でも 踊ろうかとも思っています。独学ですが… 仏教とスピリチュアルは別物と認識していますが、 とても不思議な体験でした。 きょうは主治医の先生と心理士さんに、 「絶対にありえませんが、もしも、菩薩となった私の祖父母が 今ここに降りてきたら、私に『ごめんね』と言って、先生には 『リケが苦しんでいるのは私たちの責任です、おこがましい ことですが、孫をどうかよろしくお願いします』と言って平身低頭 すると思います」 と伝えました。 本当に不思議な感覚でした。帰りのバスで、感傷に浸り つつも「おもしろいな」と感嘆していました。
母が62歳で亡くなりました。 「通夜も告別式も不要」「自分と父(私の祖父)は永代供養にして、祖父のお墓も終わりにする」と今年に入ってから言っており、ご住職にも伝えていたそうです。 母の永代供養については淋しいからと保留にしていて、相談が進まないうちに亡くなってしまいました。 母は金額的な負担とお寺までの距離を気にしていたんだと思います。 ---- ---- 私の気持ちとしては ・母を亡くして淋しい ・お寺が遠いので、頻繁に通うことは出来ない ・永代供養にするとしても、母の遺骨の一部だけ小さな骨壺に入れて、位牌と一緒に家に置いておきたい ・孫の事が好きだったので、私が母としていたように、命日や誕生日、お盆、お彼岸の他、ふと思い立ったタイミングで好きだった物をお供えしたりして身近に感じたい ・母が祖父のお墓参りを小まめに行っているのを見ていたので少しは大好きな母に何かしてあげたい ---- と思っていて…四十九日に母と祖父を永代供養にする前に小さな今風の仏壇の購入を検討しているのですが、以下の質問にお答え頂けないでしょうか。 ※母は浄土宗西山禅林寺派で戒名も頂きました。おそらく数代前からずっと同じお寺にお世話になっています。(母方) 私は長女で兄弟は無く、母の兄はキリスト教になってしまいました。 私の主人は仏教ですが、別宗派だと思います。 (相談できる親戚がおりません) 無知過ぎて、菩提寺の住職に相談前に少しは知識を付けたく。 ---- ・永代供養をした後でも、お家に仏壇と母の位牌、ほんの少しの遺骨を置いておいて良いのでしょうか? ・小さい今風のお仏壇でも、仏壇とお位牌を置くならご本尊は必須ですか?(仏壇のお店で聞いたら無しでも良いのではと言われました。) ・仏壇を置いたらご本尊の有無に関わらず、定期的にご住職をお呼びする必要がありますか? ・ご本尊が無く、母の位牌だけの場合お呼びする必要はないのでしょうか? (むしろご本尊が無いのにお呼びするのは失礼にあたりますか?) ・ご住職をお呼びする場合、お彼岸に亡くなったので毎年の命日とお盆の年2回と思っているのですが、回数が少ないのでお仏壇を置かない方が良いですか? ---- ご住職は仮祭壇しかない状態でしたが、初七日の法要にも着て下さいました。 七日ごとの法要はやめたため、次は四十九日となっています。
長文失礼致します。 ここ1~2ヶ月の間、あることを切っ掛けに特定の宗派のお寺に伺うことが増えました。 その中で、あるお寺のお弟子さんとお話しさせていただいた時に「お坊さんにならないのか」と問われ、その事についてモヤモヤとしています。 何故言われたのかはなんとなく理解できています。 それというのも、縁があり菩提寺とは別の宗派のお坊さんと知り合いになり、そのお坊さんに娘のように可愛がっていただいていました。 そのお坊さんに本当に色々なことを経験させていただき、そのお坊さんがいなければ今の自分は居ないと思うほどです。 亡くなってしまったため今は直接会う事は叶いませんが不思議と淋しいという感情はありません。 このようなことをお弟子さんにお話ししたところ上記のような発言となったのです。 恐らく「経験」の内容が水行等、修行に関することが多かったからなのでしょう。 さらには「そのお坊さんは貴女をお坊さんにしようとしていたのでは」ともお弟子さんに言われました。 しかし上述のとおり、懇意にしていたお坊さんは亡くなってしまったため真相はわかりません。 でもなんとなく私に色々な経験をさせてくれたのは自分で自分を守るためなのではないかと思っています。 いずれにしろ真相は分からないのですが… ここまでであれば私の性格上「こんなこと言われたな」程度で終わるのですが 先に書いたとおり特定の宗派(懇意にしていたお坊さんと同じ宗派)のお寺に伺う機会が増えたと同時に そのそれぞれのお寺でお経が始まる確率がすごく多く 必ずと言って良いほど伺ったお寺でお経を耳にするようになりました。 ちょうど御開帳が始まったり、こんなタイミングあるのか?と不思議に思うほどです。 そして何故かずっと開経偈が頭から離れないのです。 特に今の生活を変えたいとか思ったことはありません。 ただお坊さんになりたくないとも思いません。 行く先にその選択肢があるのなら選ぶ確率はゼロではないと思います。 最後になりましたが ・お坊さんにならないのか聞かれたこと ・お経を耳にすることが急激に増えたこと ・開経偈が頭から離れないこと これらの事は何かを意味しているのでしょうか。 またこれらのことから今私自身がすべき事はなにかありますか。 ご教授いただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。
誤字等あれば、ご容赦ください。 今回は、先日感じたことについて、色々なお坊さんの意見を聞いてみたいと思い、投稿しました。 聞きにくい事ですが、勇気をもって質問させて頂きます。 お付き合い頂けるお坊さんがいてくれたら幸いです。 自分は先日、菩提寺に行った時に、住職の車が外車なのを知りました。 よく回答して頂いているお坊さんなどはご存知だと思いますが、その時精神的に沈んでて、「外車かよ…」と悪く思ってしまいました。 というのも車整備のバイトをしたこともあり、日本の車道にはやはり日本車があっていること知っていて、実用面よりブランドで選んだ、執着しまくりじゃんと思ってしまいました。 今振り返ると、大人気ないです(-_-;) ただし、お坊さん達は、お坊さん達が上等なものを持つという事に対して、どういう考えをお持ちなのかは、ふと気になることがあります。 「お坊さんだって好きなもの欲しい」「お金があるならいいだろう」というお坊さんもいると思いますし、自分もある程度はいいと思います。 ですが仮に、全うに稼いだお金が潤沢にある一僧侶や一寺院が、ロールス・ロイスやリムジンを持ったとしても、同じことが言えますか?と考えてしまいます。 例えば、超貧乏な檀家さんを前にして。 テレビに良く出演されているある方は、ある宗派の本山の金文字入ったキャデラックに、追い越される際、全身土埃浴びせられ、追いついた際「あなた達の開祖は貧乏な人々に寄り添い、信仰を集め広めていったのに、弟子であるあなた達はなんなんですか、そのヤクザみたいな金文字入った高級車は必要なんですか」と問い詰めたそうです。 清貧であるべき、節度があれば、自身の金なら無問題など、それぞれに仏教的回答があると思いますし、正解があるのかもわかりません。 多分お坊さんによっても考えが違うのではと思います。 ただ、だからこそ現在に生きるお坊さん一人一人の考えを聞いてみたいと思いました。 そもそも、あなた人を金だけで見ないようにでも結構です。 可能な範囲で結構ですので、回答頂けると嬉しいです。 よろしくお願いします。
母が急死して1年になろうとしています。 1年前もここでお世話になり「母が許せない」と吐露してしまいました。 母にとって私は「感情のごみ箱」でした。気に入らないことがあると怒鳴ったり、暴力もありました。亡くなる直前まで近所の人にも私を悪く言っていたらしく、鵜呑みにした近所の人に電話で抗議されたこともありました。 母は父とも不仲で、そして私の兄も気に入らないことがあると警察のお世話になることをしてしまうので(軽度の知的障害)捌け口がなかったのだと思います。 今も許していません。でも気持ちの変化はありました。今考えると母は全てに余裕が無かったのだと思います。なぜそう思ったかと言いますと更年期障害とコロナが教えてくれました。 私は難病を患い癌の経験もあります。きっとそう長くはないでしょう。その上、最近、更年期障害の症状が出てきました。さすがに辛いです。年齢を勘案すると母が私に最高潮に酷い仕打ちをしたのが今の私の年齢ぐらいです。想像するに心身共に辛かったのかなと思います。 コロナの件ですが、見えない敵の前では人は体は勿論のこと、時には心も冷静さを失ってしまう。私は難病を罹患して3年後、癌になり死が現実化したときに自分の弱さに愕然としましたが、私以外の方も「当たり前の日常」が当たり前でなくなったとき、自分の弱さに向き合えず苦しむ方もおられることに気づき、普通の夫と息子じゃなかった母も苦しかったんだろうなと思いました。 そのことに気づいたとき霊を慰めてあげたいなと思うようになりました。 でも出来ないのです。私は実家側に味方が1人もいません。親戚・近所・菩提寺の住職にも「お母さんとお兄ちゃんを苦しめた悪魔」で知られてるらしいですから。←はっきり言われました。 それに兄の成年後見人さんには私の病気のことや、兄が私にしてきたことを理解してもらえず、兄のことを任せようとしてくるので1年前「相続放棄」の書類と「今後私は兄に関わりません」と一筆書いて送ってしまったので、実家には近寄れません。 命日の日の出ギリギリに実家の近くまで行こうかなと思いましたが、自分の身体が頑張れる自信がありません。私が出来ることは「辛かったね。ゆっくり休んでね。」と母の写真に手を合わせることぐらいです。これぐらいで母は浮かばれませんよね。私はどうしたら良いと思われますか?教えてください。
いつもお世話になっております。先日は、。運営様、読者様に 多大なるご迷惑をおかけしましたこと、ご不快なお気持ちにさせて しまったこと、深くお詫び申し上げます。 私の祈願寺のブログには、弘法大師の法語などが現代語訳され 掲載されています。 「大きな目標を達成するには、小さな努力が必要」 という訳の法語がありました。私の目標は、「A型就労」という、 障害者専用の就労です。主に工場や喫茶店で働き、同僚は 全員障害者です。現場監督者は、福祉の資格を持った職員さんです。 ですが私は、自分も障害者でありながら、障害者に対して 強い苦手意識があります。トラウマがあり、怖いのです。 視線、話し声、話の内容、動作…すべてが苦手です。 しかし、私はどうしても働きたいのです。乗り越えなければなり ません。 現在は通っている精神病院の訓練に参加していますが、最近 夏風邪の病み上がりで訓練に参加したら、翌日まで疲労が残って しまいました。 訓練中は、深呼吸をしたり、恋しいお不動様の梵字が入った 指輪を薬指にはめた左手を握りしめたり、緊急用の鎮静剤を 飲んだりして頑張りました。 訓練後は、発散しようとして、病院近くの蕎麦屋さんでおいしい お料理を頂きました。ですが、病み上がりだったのがいけなかったの です。翌日動けませんでした。主治医からも、「病み上がりは休む ように」と指導を受けました。 病み上がりでなくても、障害者の中にいるのが、時に泣きたく なるほど苦痛です。 菩提寺の住職は、 「嫌な事から逃げていては、人として成長しない。とは言えど、 嫌な事を『楽しい』と思うのも無理な話。だから、嫌な事を 終えた後のご褒美を用意して」 と助言してくれました。蕎麦屋で…のくだりは、「ご褒美」です。 私が尊敬する、科学ライターの「くられ先生」も、努力の大切さ を説いています。宗教に対しても、 「カルト宗教は、努力や勉強をしようとしない人間を甘やかし、 特権意識を植え付けて搾取する」 と説いています。そして、搾取の末、教団から命を奪われることも あります。 話がそれましたが、こんな私がすべき「努力」は何でしょうか? 障害者と接するたびに体調を崩していては、何もできません。
はじめまして、よろしくお願い致します。 . 先日の大雨で、実家である母の家が水浸しになりました。 その際、小さな仏壇ではありますが、一番下にある引き出しが浸水し、雨漏りもあったため仏壇を買い替えなければならないということでした。 その話の時、母はお位牌を持ってきました。 12歳で脳腫瘍で亡くなった母の弟と、48歳で過労・心労で亡くなった母のお母さんのお位牌です。 . 調べたところ、ご本尊様が阿弥陀如来様であること、左右の掛け軸が文字であることから、真宗大谷派だと思います。 しかし、菩提寺があるかどうかが分かりません。 現在は私の家にお位牌があります。 ご本尊様はない状態です。 お位牌を並べて、お水と仏飯をお供えして手を合わせています。 . 私と母は2人とも精神疾患を持っており、生活保護でくらしています。 同居が当たり前なのですが、母と私の間には何かと柵があり、互いの主治医の許可が下りず、目と鼻の先ですが別々に住んでいます。 お訊ねしたいことは . ①母が新しい新居に引っ越しても、来年頃に再婚が控えているため、新居にほぼおりません。 仏壇をお相手の家に置いてもよいのでしょうか。 ②私の弟が長男ですが、母は長女である私に仏壇を継いで欲しいと言っています。 私はとても嬉しく思いますが、それでいいのでしょうか。 ③生活保護で金銭的に厳しい場合、閉眼供養や開眼供養はどうしたらよいのでしょうか。 . ということです。 あと、これは関連づけるつもりはないのですが、不思議なことに何かの節目で、連日亡くなった人達が出てくる夢を見ます。 その際、皆苦しそうな顔をしており、シチュエーションは葬儀や神社・仏閣です。 その夢を見なくなったら事態が好転することが多いのです。 今回も連日その夢を見ていて、母がお位牌を持ってきた日から夢を見なくなりました。 何となく「これだったのかな」と感じました。 . ご教示頂けることがありましたらどうぞよろしくお願い致します。
梵字を習うことに関して質問いたします。 先日ご縁があって児玉義隆師の著書「梵字入門」を手にする機会に恵まれました。それをきっかけに悉曇文字、サンスクリット語を学びたいと思っています。 しかしこのまま自ら書いて習ってよいものかと思い始めました。 私は在家で、在家である自分が梵字を書き、習うことは越法に当たるのではないかという疑問が湧いたのです。 実家の菩提寺などご縁があるお寺やお坊さんに聞いてみましたが、別宗門なので詳しくはわからないとのことでした。 また現在海外住まいのため、直接真言宗や真言律宗のお寺に伺うこともできず、こちらで質問いたしました。 大雑把に、梵字を書くことの在家への制限は越三昧耶罪にあり、その根拠は大日経疏にあると薄い知識ながら理解しているのですが、根拠となる原典を知る機会はありません。 しかし一方で、日本全国で僧侶の方による梵字教室が一般向けに開かれている現状もあり、僧籍を持たれる高野山大学の名誉教授が在家者に梵字の教本と自習を推奨されてもいます。 児玉師の教本には、お袈裟・衣をつけずに梵字を書いてはならないとの心構えの解説がありました。 これを僧侶の方への訓戒と受け取るべきなのか「在家には梵字を書くこと自体許されない」ととるべきなのか判断がつきません。ましてその解説が一般向けの教本に書かれているのですからますますわかりません。 そういったことで、在家でありながら悉曇文字あるいはサンスクリット語を学びまた書くことは功徳になるのか、密教の戒律に詳しい僧侶のかたにご意見を伺いたく思っております。 教条主義的になるのも良くないのでしょうが、独りよがりになることを避けたく、ご意見を賜りたくご連絡いたしました。 もし知識のあるかたから見て問題がなければ、日本に伝わっている素晴らしい文化ですし、悉曇文字を勉強したいと思っています。 僧侶の皆様、お忙しい中見ず知らずの者から長々と恐れ入ります。ご教授いただければ大変幸いです。
こんばんは。先日は私の質問に真摯にご回答下さりまして、誠にありがとうございました。こちらで質問させていただいて、お坊さま方の回答から今後の生活のヒントになることを沢山学ぶことができました。本日は、さらに質問したいことがございますので、ご迷惑かとは存じますがご回答頂けますと幸いです。 私は、仏教について勉強していく中で、日本では仏教と神道が結びついて独自の文化を形成してきたということを学びました。それは、ヨーロッパのような激しい宗教対立ではなく、大乗仏教の柔軟な教えがあったがゆえに土着の信仰を包摂できた結果生まれたものであり、世界の中でも珍しい信仰体系であると思います。 しかし、仏教の教えと神道の教えは相容れない所があるようにも思い、そこが自分の中で考えの整理がつかない点でもあります。例えば、先祖崇拝はもともと仏教の教えには無かったと学びましたし、神道の荒魂・和魂といった概念も仏教の教えとは異なるもののように感じます。この両者の教えの違いをお坊さまはどう整理されているのでしょうか。 なぜ、このようなことを申し上げたかと言いますと、私の実家の信仰と上記の問題が関連しているためです。私の実家の宗旨は浄土真宗なのですが、仏壇の他に神棚もありますし、両親は仏壇の他にも調理場や庭石などにお供えをしています。また、お寺にも神社にもお参りに行きますし、お墓へもお参りに行きます。これまではこれらを当たり前のこととして受け取っていたのですが、仏教を勉強していくうちにこれらの習俗に対して疑問が湧いてきてしまいました。 浄土真宗を信仰する家庭では、神棚は基本的には置かないと伺っております。また、死んだら即成仏という考え方であるため、位牌も必要ないと聞いております。しかし、私の実家には神棚もありますし、黒塗りの位牌もあります。この両者の間の矛盾をどう整理すれば良いのでしょうか。菩提寺の住職様に質問はしてみたのですが、曖昧な答えで納得のいくものではありませんでした。私は、人生を生きていく上で道標となるものを得たいと思い、仏教の勉強をしてきたのですが、現実の生活に活かせるように整理しようとすると、矛盾点が多く悩みはむしろ以前に比べて増えてしまっているような気がします。 お忙しいと思いますが、お坊さま方のご意見を伺えましたら幸いです。よろしくお願いします。
先日、舅が他界しました。 舅には大変申し訳ないですが、覚悟は出来ていたので主人と葬儀等のことを話し合っていました。 私は今、普段でも普通の40代の生活は送れておらず、休み休み生活しています。 だから応対とか無理なので最小限にさせて頂こうと決めていました。 近い親戚にも伝えてありました。 しかし舅他界→隣に住む親戚に伝える→親戚が組の人に連絡→組の人が家に集まる→(舅はあまり人づきあいがないのに)町全体に知らせる→私は家で応対 そして遺族の意思はそっちのけで通夜・葬儀は決まりました。 そしてキャパを超える人に来て頂き、食事・お菓子が足らなくなり、なぜか主人が親戚から叱られ、私は通夜の晩、一睡も出来ませんでした。こんなこと怖くて主治医の先生に言えません。 火葬場ではめまいがして倒れそうになりました。 なにより悼む暇もなく舅は骨になってしまいました(涙) 少し話はそれますが、菩提寺のご住職様に枕経に来て頂いたとき、枕経が終わって、ほぼ間もなくご住職様から「お布施は」「脇導師は4人で」とか言われたことも驚きました。 私は葬儀が不要と言っているのではありません。 むしろ大切で難病と言われた私は自分の葬儀を自分で決めて死にたいなと思っているぐらいです。 実は3月に猫を亡くした時、お経をあげて頂いたお坊さんは優しく「大丈夫ですか?良かったら(猫)ちゃんに家でも手を合わせて下さいね。きっと喜ぶから」と悲しみに寄り添って頂いたとき、人間と一緒にしてはいけないだろうけど悼み、供養していくのは遺された者のためなんだなぁとしみじみ思いました。 ただ遺族に見合った形で故人を見送ることがそんなに許されないことかと主人に言ったら、普段は温厚な主人が「葬儀はな、所詮世間体でするもんなんや!」と怒ってきました。 だから冷静に伝えておきました。「私の葬儀を世間体でしたら必ず化けて出ますから」と…。 世間体で出した葬儀で私は死にかけたんですけど…。 まっ、難病=怠け病って言う人もいるぐらいで理解され辛いので仕方ないなと思うこともありますが。 完全アウェーの状態だったので第三者の方のご意見が聞いてみたかったのです。やっぱり私が変なのでしょうか? 体だけじゃなく頭もおかしくなったのか不安なのです。 後回しで構わないのでお時間があるときに回答下さい。お願いします。
いつもお世話になっております。実は、故あって、訓練を長いこと 休んでおります。 先日、それに関連する担当者会議が、私抜きで病院で開かれました。 結果は、「次の診察で私から伝える」との主治医の結びで終わり ました。 そして、きょう。訓練なんだけどね…と始まり、 「もうしばらく、休んだほうがいい」 と言い渡されました。 「訓練所からは、除籍ですか」 と尋ねると、 「除籍じゃないよ、中断」 と返ってきました。 「まだ中断ですか。早く復帰したいです。いつまでお休み すればいいんですか」 と重ねて尋ねると、 「いつまで、とは明言できない」 とのこと。 きょうの診察の結果を保健師さんに電話で伝えることに なっていたので、保健師さんにこの通り申し上げると、 「先生は、『退所(つまり除籍)』と言っていたよ」 と…私は、泣いてしまいました。 以前、別の訓練所に行っていたときも同様の事があり、 その時は入院でした。今の先生とは別の方だったのですが、 「退院したら、訓練に復帰できる」と言われて安心して入院。 退院してみたら、除籍…大泣きしました。 現在、保健師さんと、病院のソーシャルワーカーさんが 事実確認をしてくださっています。お返事は週明けになるとの ことでした。 私の憶測としては、訓練復帰云々の話になる前に最近の近況報告 をした際に、休んでいた期間落ち着いて過ごせている、と先生が ご判断し、 「やっぱり除籍はやめにして、いつか復帰させてあげようかな…」 とお考えになったのだろうと思います。そう思いたいです。 以前こちらで、「支援者さんを信じなさい。あなたは疑いすぎ」 とご指導を賜りました。頑張って信じました。そのうち、頑張ら なくても信じられるようになりました。 でも、また信じられなくなりそうです。私の中のマーラが 囁きます。 「信じたら、また裏切られるぞ。支援者の連中に誠意なんか ないんだ」と。 菩提寺のくそ坊主の、 「精神科なんて儲け主義。医者ごときに人の性格がわかるか(笑)」 との言葉も思い出します。 しかし、私は、誠実な支援者さんにもたくさん出会いました。 また、繰り返すのでしょうか。私は、裏切られ続けるの でしょうか。 先生方のご高見、拝聴したく存じます。
初めてご相談させていただきます。 禅寺の住職と結婚し、数年の内に寺族安名式と寺族研修を修めております。 ですが私の性格上(向き不向き)、どうしても寺の嫁として期待される作務で日々を過ごす・働くのは窮屈に感じてしまいます。 一般企業で就職し、会社の駒でいるほうがずっと働きがいを感じられます。 ですが、結婚を機に引っ越したお寺は田舎で周りに会社が少なく、また菩提寺として檀家さんからのお布施でつつましくも兼業が必要のない所です。 なので周囲も義家族も夫も私に対して「あなたは当然お庫裏さんでしょう」の感覚を当たり前のように押し付けてきます。 もちろん結婚前に夫の言う「大丈夫、難しいことなんてないよ。できるよ」を深慮せずに、大好きな人との結婚に舞いあがってた私に責任が無いとは言いません。 ですが在家のイメージと寺育ちのイメージの乖離にお互いが気付くには、結婚前だと中々難しいものがあると思います。 檀家さんとお寺を護っていこうとする夫や義両親の姿勢は尊敬していますが、結婚して一緒に過ごせば過ごすほど私にはできない、したくない、寺族としては関わりたくないという気持ちが、強く固まってきています。 もちろん人付き合いはしますが寺の嫁と見られますし、狭い田舎なのでとにかく身元が筒抜けなのも気持ち悪いです。日常の買い物ですら監視されている気分ですし、大げさに言えば清く正しく慎ましくあって当然、すばらしい義母に導かれ良き寺嫁になってくださいね。と重圧すら感じます。 婚姻届に寺族の誓約書でも付いていたっけ?と思うほどに信教と職業選択の自由を奪われています。 夫が住職なんだから当たり前でしょ、と言われますが、例えば自衛官の妻に国防の意識を強制しますか…? 仏教だから疑問に思われにくいだけで、義家族と夫の行う宗教マインドに染まりましょう、というのは私からすれば新興宗教の勧誘と変わりないのではと思うようになりました。 頼まれた時に手が空いていれば留守番や片付けくらいはします。ただ毎朝本堂へ手を合わせに来いだとか、夕方の鐘をつく役割をしてほしいとか、寺族の勤めを促してくるのはやめてほしいです。 長くなりましたが私だけは、在家・OLのように過ごしたいと思っていることを どのように伝えればいいでしょうか。相手の人生を否定する気はないのですが、私の❲生きやすさ❳は否定されそうで悩んでいます。
昨年11月に8年連れ添った夫が病死しました。 葬儀は住まいと勤務先の有る自宅近くで行いました。(北日本) 当然、埋葬(納骨)もこちらのお寺にするものと考えていたのですが、葬儀の打ち合わせ時に、夫の実家の菩提寺(関東)に埋葬すると義両親より伝えられました。 何とかこちらの気持ちを組んで頂くよう話し合い分骨して貰ったのですが、張りきって(語弊はあるのですが)遺骨を持っていった割には、祭壇に御供膳やお団子などお供えするわけではなく、終いには、前日の残りご飯で良いかね〜などと言う状態。 息子を連れて帰りたい気持ちはよくよく分かるのですが、日々の供養に対して温度差がある様で私としては腑に落ちない気持ちでモヤモヤしています。 (陰膳として仏壇にご先祖様の位牌があり、長く供養をしています。) 地域差が有るのは重々承知しておりますが、私としては嫁に取られた息子を取り返したとしか見えなくて…残念です。 かと言って、私と息子で遺骨を抱えてしまっても、これから先の人生で何があるか分からないとも考え、義両親が健在のうちは供養をお願いしようと決めたのですが。 分骨したので、私と息子の思うように供養はしており、この先もしていくつもりです。 が、このモヤモヤした気持ちのまま、義両親と今後も付き合いを続けていく事にとても抵抗感を持ってしまいました。 しかし、義両親にしてみたら息子(孫)が一族の跡取りで(初孫で男の子、他に孫はいない)、かなりの期待が今から鼻息荒く見えています。 四十九日を前にして「母親が子供が居るのに女に成ってはいけない」と釘を刺される始末。 息子のことを思うと、父親の存在は避けて通れない事。亡くなった夫を忘れさせる必要は有りませんが、成長していく上で何かの形で父親としての存在が必要になるはずではないかと考えます。 私が踏ん張って母親と父親の二役をやれば良いのでしょうが、私も人間。心が折れることもあることでしょう。 この先、自分はどうあるべきなのか… 考えれば考えるほど思考が停止して、頭の中が白紙となってしまいます。 今後の義両親との付き合い、息子にとっての父親、自分の人生、、、 どれも重くて、簡単に答えを出してはいけないと思い、余計に自分が苦しくなってしまいます。 何か良いアドバイスを頂けると、この先の道標になるかと思います。宜しくお願い致します。