自分は現在 自律神経失調症 パニック障害 強迫性障害です。 写経をしたり座禅会に参加したりしてますが 中々自分の感情をコントロールするのが少し難しいです。 少しでも自分の感情をコントロールする方法がありましたらアドバイスいただきたいです。 よろしくお願いいたします。
キリスト教では体が不自由でも障害をもっていても、また病気などによる身体的な理由で体力がなく例えば車いすが必要なひとでも、精神的に思考する能力がある場合、信仰を持ち研鑽を積み牧師になることができます。 仏教の場合、出家をした後の修行が厳しいようですが、仏教僧になるという道はそういった修行ができない身体的弱者には開かれていないということなのでしょうか。 1.例えば麻痺で体の一部がゆっくりしか動かせないひとや、生まれ持って歩けないひとや腕がないひと、声帯に問題があり機械でしか話せないひと、聴覚に問題があるひとなどは、どんなに頭が正常で思考する能力があっても掃除や行ができないため仏教の僧になることはできないのでしょうか? またはがんなどの病気をしたため体力的に限界があり一般にその行をしなければ僧としてみとめられないとされるもの(例えば天台宗なら比叡山での修行など)が体力的な理由でできない場合、それでも出家したいと願う場合、そのひとにはまるで仏教僧になる道は開かれていないのでしょうか。 2.その場合その理由というのは単純に物理的にできないということだけで判断されてしまうのでしょうか?もしもそうならば、それはどう正当化されているのでしょうか?そして、それをかえる動きはあるのでしょうか? よろしくお願いいたします。
初めて利用させていただきます。 わかりにくい日本語かも知れませんが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。 今に始まったことではないですが、 やる気が続かない・努力ができない こんな状態が今まで以上に強くなっています。 やる気が出る時はもちろんあるのですが、短時間です。 すぐ集中が切れ、やらなくてはならないことができなくなってしまいます。 努力ができないなんて、自分次第ですし、そんなの甘えでしかないのはわかってます。 だからこそ、どう足掻いても努力が少ししかできない・自分に甘すぎるような今の自分だったら、 社会に必要ないですし生きる意味もないかなぁと思ってしまいます。 だからといってもちろん自分で生命を絶つ勇気もないです。 要するに、僕自身目標はしっかりしたものを持っているのに、それに向けての努力ができない。もう自分が何がしたいのかわからないし、どうすればいいかもわかりません。 うまく言えませんが、どーすればいいかアドバイスがいただければと思います。何が質問なのか自分でもあやふやになってるので、答えにくいと思いますが誰にもこんなこと言えないですし、このようなとこでしかいうことが出来ないです。よろしくお願いします。
質問させて頂きますハルソラと申します。 仏教の学びから、観音さまの慈悲の心に感銘を受け、慈悲の心を身に付けたいと思っています。 しかしながら現実の私の行動を鑑みるに、慈悲を実行できてるとは到底思えません。 それは慈悲に対して、概念的な理解だけにとどまり、エゴ(自己中心的な考え)を離れる事が出来ないためだと考えています。 とある座禅会に参加した際に、和尚さんにそれを質問したところ 「体験を通して学ぶことです」 という有り難いお言葉を頂きましたが、何をどう体験すれば良いのか分からず進歩がありません。 慈悲の心を身に付けるための体験とはなんでしょう。 また考え方の上の事でも構いません。慈悲を身に付けるためのご教授よろしくお願い致します。
正直と善行のどちらをまず取るべきなのか悩んでいます。 まず、善行とは誰か自分以外の人のためになることをすることだと思っています。これは同時に、自分以外の人を傷つけることはしてはならないということだと思います。 しかし善なる本心のついてこない善行は偽善に過ぎず、結局は背後にある虚無的思考や悪い意図が露呈して失敗するから、まずは自分の思いに正直であり、正直な状態で自然と善行を行うようになるまで待つべきなのではないか、というふうに考えることがあります。 一方で同時に、自分が正直にあると暗く冷たく幼く醜く、共感に乏しい人間にしかならないので、嘘でも善行を行なって本心がそれについてくるのを待つべきなのではないか、というふうに考えることもあります。 共感に乏しい自分の正直な本心では、善行を行うことはできないと思うので、正直であると同時に善行を行うというのは考え難いです。 仏教について何も勉強しておらず、要領を得ないうえ何の文脈も踏まえていない駄文となってしまったかもしれませんが、宜しければお知恵をお貸しください。お坊さんが何を善行と考えるかについても、もし宜しければお教えいただければ幸いです。
観音経と延命十句観音経の違いを詳しく教えてください。
最近、死についての質問をいくつかさせていただきましたが、今度は来世の不安が出てしまいました。 私としては、来世は親に会って子孫や世界を見守りたいですがそれは可能なのでしょうか。 もし、それが叶わないのであれば私は生まれ変わり、魚や犬、そして人などの違う命としてまた生きなければならないのでしょうか。 私は食べられる魚や牛などの生まれ変わりになることが怖くて仕方がありません、もちろん、このことが愚かで生命に対して無礼だと承知です。 ですがやはり不安で仕方がありません。このように考える私は外道なのでしょうか。長文で愚かな質問で申し訳ありません。ごめんなさい
私は昔から落ち着きがありません。 じっとしてるのが苦手で、 テストの時とか困りました。 中学の時 一人すごく落ち着きがない人がいるんだよね〜 カンニングみたいに見えちャうんだよね〜 本人は気づいていないみたいだけど〜 と、みんなの前で話されて 先生と目があったことが忘れられません。 私は昔から落ち着きがなくて いつも不安でたまりません。 ずっとこうなんじゃないかと思うと苦しいです。 悟って楽になりたいです。
お釈迦様の決めた五戒について詳しく教えてください。 ネットであるんですがお坊さんの知ってることをしっかり知りたいです。
こんにちは。 色々な寺院の大般若会へ参加させていただきました。 ありがとうございました。 最近は、経本の内容や意味も細かく知りたいと思うように なり詳しくお話し聴きたいです。 いつもではないですがとても気になり頭から離れません。 これも煩悩。(?)
(編集部より。規約により一部を変更しています) いつもお世話になっております。 感謝申し上げます。 もう一人凡夫成仏している人をみつけました。 凡夫成仏していると思われるコメントは以下の通りです。 神さまという宇宙的な意識と人とをつないでいる媒介者から「メッセージ」が発せられていのだと私は思います。 心の中に直接メッセージが伝わってくるという感覚です。 Q1.神さまと向き合うにあたって,どのような心的構えが重要なのでしょうか。 無理に礼拝を行う必要はない。 Q2.神さまはどこにいらっしゃるのでしょうか。 万物が神。この世界が神。この世の中にあるものすべてが神の顕れである。自然(宇宙)が神である。お前は神の中に生きている。お前の心の中にも神はいる。霊界も,神界も,仏界もすべては自分の心の内側にある。 Q3.偶像や神話は本当のことなのでしょうか。 神仏の偶像や神話は人間が勝手に作り上げたものである。 後世の歪曲や改竄が甚だしく,事実関係を反映しているとは限らない。人の意識が神のイメージを作り上げ,人間の行いを正当化するように神話は作り上げられた。 Q4.神社やお寺に神様や仏様はいらっしゃるのでしょうか。 神社,寺院に神仏がいるのではなく,自分の意識が映し出され神仏の働きを感じ取りやすい場所が神社や仏閣だ。本来は自分がどこにいても神仏との交信は可能である。また,神具や仏具がないと神仏を拝む気になれないのは,信仰としてはまだまだ未熟である。 Q5.神仏との交信はどうすればできるようになるのでしょうか。 意識状態を変えることで誰でも神仏意識を感じることができる。 お前たちが勝手に作り上げた偶像や逸話が神仏と一体化できない障壁である。天界,地界,人界。神仏と人,これらは本来1つである。 神が色々なものに姿を変えて現れるというのもも同じである。 Q7.罪と罰についてどう考えれば? 罰とは人間の恐怖心罪の意識が罰となって生じる。神は罰を当てない。自分で自分に罰を当てているだけ。人間の社会で悪行を積み人々から怒りや憎しみを買っているのになぜ罰が当たらないのか。善良な者の身に不幸事が襲うのはなぜだろうか。 神は全てのものへ平等に光を放つ。どんな悪人にも光は降り注ぐ。その光を遮るのは本人の意志である。
最近、充分に生きたと思ってしまうんです。 職場の人からは年齢的にも早すぎるよと言われてしまいましたが 両親には恵まれ、親戚にも可愛がられ、友達は1人しかいませんがかけがえのない親友で、尊敬できる恩師にも出会えました。 30代には去年には別れてしまいましたが初めて彼女が出来て本当に恵まれていると思っています。 別れた彼女には他に好きな人が出来たと言われて別れてしまいましたがこんな自分を愛してくれた人だからとても感謝してるし自分に魅力がなかったから離れてしまったと思っていて凄く後悔をしています。 彼女を幸せにできなかった自分の無力さや両親の癌など重なって時々虚しさを感じます。 最近は、物欲もなく人の為に行きたいやお世話になっている人にお金を使って、いかに徳を積んで死んでいけたらと考える毎日です。 30代でそう言う考えに達するのはおかしいでしょうか? 本当に最近充分に生きたし、幸せだったと思ってしまうんです
最近たまたま儒教について調べました。 儒教には先祖が自分を助けてくれるから敬い大事にするという教えがあるそうです。 仏教でもお葬式などの際にそのような話をされたような記憶が薄らあるのですが、これはたまたま釈迦の考えと孔子の考えに共通点があったということなんでしょうか? また輪廻転生するのであれば先祖は既に別の生き物としての人生を歩んでいるはずで、助けてくれる先祖と輪廻転生した先祖で2つに別れると言うことなんでしょうか? 先祖が助けてくれる ということと輪廻転生自体が相反することを言ってるいるように感じました。 仏教を否定している訳ではなく単純な疑問なのです。 時代によって少しずつアップデートされたということなのかもしれませんが、この点を現在のお坊さんはどのように解釈しているのでしょうか?
生きている時の怒りや苦しみ、辛さは、あの世にいっても続くのでしょうか? 私は父が生存中に、酷いこともしました。 やられたら、やり返す。そういう感じです。 父の死後もその事に悔いが残っています。 思いついた時や毎朝、仏壇の中の父に「ごめんなさい」と思ったり、手を合わせています。 けして許してもらおうとは思ってはいません。恨んでいるなら、それでいいし、どんな天罰も構いません。 ただ、父が死後の世界、あの世で穏やかにいてほしい。そんな想いで質問をさせていただきました。 お忙しい中、大変恐縮ですがご回答をお待ちしております。 よろしくお願い致します。
お坊さんの煩悩とは何ですか? 煩悩が生じた時にそれをどう対処されますか? 失礼過ぎてすみません。
ご覧いただきまして、有難うございます。 早速、質問させていただきます。 私はご先祖様と亡くなったペットの御供養の為に読経をしたいと思っているのですが、どの宗派のお経を読めばいいのでしょうか? 私の両親はそれぞれ宗派が異なり、両親は離婚しています。 しかし、私は父親の苗字を名乗っています。 その場合、父親の宗派のお経を唱えた方が良いのでしょうか? 私は父方のご先祖様も、母方のご先祖様も御供養したいので、どちらの宗派のお経にすれば良いのか迷っております。 ちなみに最近は某現役僧侶の般若心経の本を読んでいるのですが、宗派に関係なく般若心経でも良いのですか? 今は読経なしで、毎朝お供え物と挨拶をして、毎晩仏壇の前で手を合わせご先祖様には『今日も1日有難うございました。安心して安らかにお眠りください…』、神様には『ご先祖様たちが安らかな気持ちで成仏されますように…』と心で唱えております。 その他、御供養にまつわる作法などございましたら、教えていただけますと幸いです。 宜しくお願い致します。
いつも読ませて頂いております。 いくつもいくつも聞きたいことがありますが、今度は自殺についてお訪ねします。 身近な人が、自殺しました。 あれから10年近く経ちますが、未だに時々思いだしては泣けてしまいます。 何故自殺したのか。 いくつか原因は思い当たることがあります。 あくまで想像になってしまいますが、体のこと、お金のことです。 何かしてあげられなかったのかなといまだに悔やまれます。 今更ですよね。 でも、ずっとずっと考えてしまいます。 自殺した人は、成仏できないと言いますよね。 この世で生きるというのは、修行だと。 それを自らの手で終わらせるというのは、仏教の考えでは罪になるのでしょうか。 また、自殺した人に対して私はどう考えていけば良いのでしょうか。 あの人が自殺したあの日あの時間から、時が止まっているように感じるときがあって、思い出したらその瞬間に引き戻されるような悲しみに襲われるときがあって、苦しいです。
凡夫の浅はかな疑問で有りますが、皆さんのお知恵を拝借させて頂いても宜しいでしょうか? 釈尊は「人間が認識出来る範囲の世界に於いては、一切が諸行無常であり、恒常不変なるアートマンは見当たら無い」 と仰られただけで、 人間には認識出来無い、凡そ形而上学的な範疇(死後の世界)に於けるアートマンを否定された訳ではない、 というのは本当なのでしょうか? 確かに釈尊は霊的な事物に関して肯定も否定もされておらず、さながらヴィトゲンシュタインのように 「語りえぬ物には沈黙を守る」という態度を一貫されていらっしゃいます。 その事も踏まえると、釈尊が「ātmanを肯定も否定もされていない。」と云う説には一理あるように思えるのです。 ここで一つの疑問が小生の頭に沸いて出てきたのであります。 後世の仏教(中観派)に於いては明確に「全てが無相であり、何処の世界にもātmanは存在しない。」と定義されております。 龍樹は「無我は釈尊の教えである」という前提に従って、 形而上学的な存在の実在を説いてきた仏教の各宗派をことごとく論破されていきました。 畏れ多い事でありますが、小生には龍樹が「語り得ぬものには沈黙を守る」という釈尊の態度に反しているように見えます。 もちろん形而上学的な不変の存在を仮定した当時の仏教は、なおさら釈尊の態度から逸脱しておりますが、 はたして龍樹の「中観思想」が釈尊の考えから逸脱しているのかどうかは、小生のような凡夫にとって図り難い問題であります。 そこで皆様に質問させて頂きます。 形而上学的な範囲におけるātmanに対して釈尊が不可知説の態度を取られていた場合、 形而上学的な範囲におけるātmanを否定された龍樹の思想は、果たして釈尊の教えから逸脱しているのでしょうか? それとも補完しているのでしょうか? 宜しくお願い致します。
仏教では生きることは苦しみであると説いていることは、自分なりに仏教を勉強して少しは分かっているつもりです。しかし、去年は私をかわいがってくれた祖母を亡くして愛別離苦の苦しみを味わい、数年前からは、会社の老害である人物に毎日顔を合わせて怨憎会苦の苦しみを味わい、仕事では待遇に見合わない責任を負わされ心労が絶えません。たまには、楽しいと思う事や、うれしいと思う事もあります。しかし、苦しいと感じる事のほうがはるかに多いと思います。ふと冷静になると、こんなに苦しいことばかりで生きていくのが苦痛で、自分のこれからの将来に絶望してしまうことがあります。まだまだ不勉強でわからないのですが、仏教(釈尊)はこういった悩みにどういった回答をされているのでしょうか。最近、年を取ったせいか(まだ31歳ですが)釈尊や阿弥陀如来様、地蔵菩薩様などのエピソードやそのお慈悲を知り、有難さに涙してしまうことがあります。人間の苦悩に真剣に向き合う宗教は仏教だけだと思っています。ご回答お願い致します。
道元禅師様について書かれた本を読んでいました。 そこに「本来本法性 天然自性身」と教典にあるのに、なぜ修行をしなければならないのか、と道元禅師様は当初疑問に思っていたとありました。 その疑問から、如浄禅師の「坐禅はすべからく身心脱落なるべし」という言葉で解き放たれた。とありました。 そこで... ①なぜ修行をするのでしょうか ②修行とはなんでしょうか ③修行の目的はなんでしょうか ④なぜ道元禅師は如浄禅師のその言葉で、この疑問から解放されたのでしょうか。 曹洞宗の和尚様はもちろん、いろんな宗派の、いろんな方のご意見を聞いてみたいです。 私は強がっていますが、精神的に弱く、心が不安定になりやすいです。 いろんな方に支えられ、助けられて生きていると実感しています。 常に100%の心ではなくて、上下することの少ない、安定した心を持てるようになりたいです。