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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 悟り 」
検索結果: 1816件

欲がなさすぎる

最近瞑想に励んでおります。 ヴィッパサナー瞑想です。すごく良い意味で自分に変化があり、怒ったり周囲に不満を感じることがなくなりました。 しかし、それと同時に欲というものが全くなくなってしまって、これをどう理解してよいのか戸惑っております。 私は今まで欲がものを言う世界で生きておりました。 競争社会です。誰よりも上手になりたい、誰よりも良い指導者でありたい、出来ないことは克服したい、そういう気持ちがあったからこそここまで来れたのです。 しかし、こういった欲が全くなくなってしまったのです。 むしろ、私はこんなことに時間を費やして一体何をしているのだろうか、と疑問にすら思います。価値観が、まったく逆転してしまったのです。自分が良かれと思ってやってきたことは実は単なる執着であった。 この執着がもたらす苦しみからはなるほど解放されました。 けれど、ダイアモンドだと信じていたものが単なる石だったと気がついたかのように、とてつもない虚無感に襲われています。けれど幸せかと問われれば今までより幸せなのです。 すごく情熱を感じることや、とにかく楽しくてしょうがない感覚が全くありません。逆に嫌だとか嫌悪する気持ちもありません。 このまま同じ仕事を続けられるのかわかりません。 全く違う新しい価値観で向き合うべきなのか、別のものを選ぶべきなのか、迷っております。

有り難し有り難し 11
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勉強すればするほど、阿弥陀仏に疑いを持ってしまう

こんばんは 最近浄土真宗の勉強を始めたのですが、前掲の質問で 「救いから漏れようと願文を読むのでなく、誰をも救おうとするものとして読みましょう。」とご回答されたにも関わらず 「自分は〇〇だから救われない」という読み方ばかりしてしまいます 例を挙げると 1第41願に「他方国土の菩薩は諸根闕陋しない」と書いてある。親鸞聖人は著作のいくつかでは信心決定した人を菩薩と仰っている 「本願を信受するは前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。 即得往生は後念即生なり。即時に必定に入る。また必定の菩薩と名くるなり」と愚禿抄に書いてある 教行信証にも、現代語訳の問題かもしれないが、正定聚を「大乗の菩薩」と訳しているものがあった 浄土真宗の本にも「正定聚の菩薩」という表現がたまに出てくる 信心決定したものは菩薩である。だから信心決定した人は五体満足であるはずだ。自分は将来目が見えなくなるかもしれない だから救われないかもしれない 2正法を謗るものは救われないと18願に書いてある 自分は浄土門は嫌いだと公言していたことがあるし これからももしかしたらするかもしれない だから救われないかもしれない 観無量寿経には五逆や十悪をするものは救われるが、正法を謗るもの については書かれてない気がする下品下生とは正法を謗るものも入るのか  3こんな風に、自分は救われないかもしれないとばかり思ってしまいます 自分は自閉症スペクトラム障害で、言葉を文字通りに受け取ってしまう癖があるので、そのせいかもしれないです 比喩的な解釈を聞いても、”でも”こう書いてるじゃないか。。。となってしまう 勉強すればするほど、疑いが強くなってしまう自分がいます…。けれどもっと浄土真宗のことを勉強したいという思いもあります 法然上人が仰っていたように何も考えずに「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏」していたほうがいいのでしょうか 〇〇だから自分は救われないかもしれない、というのは 間違いなのでしょうか?信心一つで必ず救われるのでしょうか? 矛盾するようでワガママなお願いですが、1と2の誤解(だと思います)を理論的に論破(?)していただいて、3の悩みにも答えていただきたいです

有り難し有り難し 37
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人間は何のために、どこに向かうんですか?

人間は、生まれて死にます。それが子孫を残すことでずーっと何年も続いています。この先もいつまでかは分からないけど、続くんだろうなと思います。 でも人間って、何のためにそれを繰り返してるんですか?みんな当たり前のようにそうやって、生まれて生きて、子孫を残して死んで、をただ繰り返してるけど、これって何のためにやってるんですか? 私が知りたいのは、ひとりの人が何のために生きるかということではなくて、人類全体として、何のために、どこに向かうのかということです。 ずっとこのサイクルを繰り返して、いろんなものが発展して進化する、何か目的があるんですか?目的があるとしたら、何でしょうか。 無いとしたら、何のために存在するんですか。ゴールはなんですか?あるんですか? お坊さんの考えを教えてください。 生きることが嫌になったとかそういうのではなくて、単純に知りたいんです。あと、いま私は19歳なんですが、小学生の頃からずっと考えてます。人にこの話をすると、考えたこと無いし興味無い。言ってる意味がわからない、別に知りたいと思わない、とか言われます。なんで人はみんな、自分もこのサイクルに参加してるのに、このことを疑問に思わないんですか?不思議です。私がおかしいんですか…

有り難し有り難し 139
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自殺した主人は成仏できているでしょうか。

主人が2月に自殺しました。前夜に私と揉め、朝、首を吊っていました。原因は幾つかあります。 ・1月に息子が離婚して1歳の娘を引き取って戻ってきました。主人、私、息子(3人共仕事しています)の3人で協力して子育てをしていくことになりましたが、家にいる時間の長い主人に一番負担をかけていました。 ・息子が夜勤に替えた為、6時に家を出てから夜、私が帰宅(21時前後)するまで主人が1人で育児していました。 ・主人曰く、息子に寝る時間を削ってでも夕方早く起きて家事の協力をしてほしい。そのことを3日程続けて注意していた。 ・息子曰く、言われたことはやっている。 自殺する前日の夕方、息子は体調が悪いながら保育園に迎えに行き、娘をそばに置いて部屋で横になっていた所に仕事から帰った主人が「何やってるんだ」と責めてきたため、カッとなって主人に手を出し取っ組み合いになり、主人はあと10秒遅かったら息子を殺してた。と言っていました。この辺の状況は2人共すべてを話さない為、2人にしかわかりません。ただ、息子は主人に謝ったそうです。 主人から「出て行かす」とメールをもらい、帰宅後何があったのかと聞いても私にも怒りながら、親に手を出したことばかりを強く言われ話になりませんでした。 私が息子に聞くと、どんな理由であれ親に手を出した自分が100%悪い。だけどそこまでした理由がある。と言うのです。 主人にその事を話すと、息子可愛いなら息子と生きていけばいい。俺は無理だから家を出る。と言われ、もうこれ以上の話をするのは今日はやめよう。と思い話さないでいると「殴られたところが心配じゃないのか!」と責められ、私もつい「それ位で死なないから大丈夫」と言ってしまったんです。実際、若い頃、私は主人に殴られあちこち腫らしていたことがありますから。 その後、寝るよ。と声を掛け寝ましたが、下でガタガタ物にあたっている音がしていました。 朝、起きてみると布団に姿がなく、トイレのドアノブに首を吊っていました。 走り書きした雑誌には「私が気遣ってくれなかった」「○○(息子)を殺さなくて良かった」あとは孫のこと、自分がやりたかったことが書かれていました。私の気遣いが足りなかったんです。 私は主人の心を思うと一生背負っていく覚悟です。 ただ、死んで分からせるようなことも言っていたので、安らかに成仏できているのかが心配です。

有り難し有り難し 22
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幸せになるのが怖いです。

こんばんは。 イモムシと申します。 以前「自分は不幸だという思い込みがある」ことについて、相談させて頂きました。 そこで頂いた回答のおかげで、自分の幸せに目を向けることが出来ました。 しかし、もっと根本的な問題がある事に気付きました。 私は幸せになるのが怖いのです。 私の幸せは数えればいくらでもありました。 ・優しい家族がいる ・自分を理解してくれる友達がいる ・毎日ご飯が食べられる ・かわいいペットを飼っている ・あたたかい布団がある ・ホワイトな会社に勤めている ・優しい恋人がいる ・スマホを使えている…等々 これだけ恵まれているのに、 「もう生きていたくない!幸せになんかなりたくない!」と、幸せを拒否してしまいます。 自分でもおかしいと思います…。 不幸だと思う原因も、幸せになる方法も分かっているのに、幸せになるのが怖いです。 原因はおそらく、不幸な方が頑張らない言い訳ができるからです。(我ながらクズです…) 自分を不幸だと思えば、“言い訳”という鎧を着ていられます。 逆に幸せになるという事は、鎧を全部脱いで、剥き出しの自分で人生を受け止めることのように思います。それがとても怖いです。 甘えていると、自分でも思います…。 それでも深刻に悩んでいます。 こんなにも恵まれているのに、鬱になったり、自殺衝動に駆られてしまいます。 幸せを受け入れるにはどうすれば良いのでしょうか? 宜しければアドバイスをお願い致します。

有り難し有り難し 11
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仏教の新興宗教って

友人の誘いで仏教系の新興宗教?に顔を出しています。 宗教といっても、軽いサークルのような所です。 それは置いておいて。 今ある環境が私はとても苦しく大変だなと感じているんですが、これもお釈迦様の計らいというものでしょうか? 私を成長させるために仕向けたものなのですかね。そんな感じで言われたのですが。 最初は納得するのですが後で本当かなぁとちょっと疑ってしまいます。 教えを聞いて、納得して、疑問に思っての繰り返しです。 相手を変えないで自分が変わる、親や先祖を大事に。感謝。 人としての基本だと思うことを教えていただいて、実践しています。 ただ、私が若いせいか、親や親戚が宗教=危ない という考え方でちょっと探るために知り合いが宗教を〜と話すとやってはいけないと言われます。 なので通っていることは秘密です。 そこは生活の制限など何かをしてはいけないというのは全くないので、たまに顔出して色んな人の悩みを聞かせていただいています。 色んな宗教があって、中には危ない場所もありますが全部が全部悪いわけじゃないですよね。若い私たちは、安全な宗教とそうじゃない所を見極める必要がありますが。 しかし宗教をやってない人には言えないこの罪悪感はなんなのでしょうか。

有り難し有り難し 70
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「赦す」ということについての質問

宗教・宗派を超えて、聖職者・宗教指導者は異口同音に「人を赦せ」といいますよね。 私も、ここで別件で質問させていただいた際、御回答いただいた師から、やはり加害者を赦すようにと御指導いただきました。 理論上・理屈上、理解できますし、私に御指導していただいた師の御指導道理に努力します。 しかし・・・・・ ふと思いました。 犯罪・不正・いじめ・暴力・嫌がらせとかをやったヤカラを赦した際、これらのヤカラが、自身が課外をやった被害者から赦されたことによって、自分のやった悪行を自覚し、悔い改め、反省し、更生するのであれば、赦し甲斐があり、赦す意義があるというものでしょうが、反省もすることなく、まだ悪行を続けている場合は、いったいどうなんでしょうか? 仏陀は、赦しを受けても悪行を続けるガンダダ(『クモの糸」に登場する悪人」)みたいなヤカラを、どう御覧になっているのでしょうか? 以前別件で相談させていただいた、私に三年間にわたって嫌がらせ・侮辱し続けたヤカラは、いまだに私に対して一切謝罪・弁解・弁明も30年経ってもしてきませんが。 私の件はさておき、赦してやった者が、悪行を続けているということを、僧侶の師の各位は、仏教的・宗教家的見地から、いかがご覧になられているのでしょうか?

有り難し有り難し 56
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