先日、95歳の祖父が自殺してしまいました。 3ヶ月前に祖母が亡くなってしまってからすっかり気落ちしてしまい 痴呆症もひどくなってしまいました。 お父さん、お母さんと一緒に住んでいましたが仕事で昼間はいませんでした。ちょうどグループホームの入所を決めて帰ってきたら 祖父が首を吊って亡くなってしまいました。 みんな大変ショックを受けてしまいました。 おそらく、祖母に会いたかったのだと思います。、早く祖母の所に行きたいと言っていました。 よっぽど会いたかったのでしょう。 それか、祖母が会いたかったのかもしれません。 亡くなってしまったから しょうがないのですが、 気がかりなのは きちんと成仏出来たかどうかと、祖母に会えたかどうかです。 自ら命を絶つと成仏出来ないって 聞いたことがあります。 亡くなってからもなお 苦しんでいたらと思うと 悲しいです。 どうか、祖母と安らかに眠って欲しいと願っております。
いつも大変参考になるお言葉と励ましのお言葉で、少しずつですが成長できております。 今回大きな変化がありました、それは親父の死についてです。 少し前からガンで厳しいという状況は知っており、ここ数日前に訃報を聞きました。 ただ、私の心境的に涙も悲しさは直接的に感じず、「人は死ぬもの」という基本前提と私もどうせいつか死ぬという達観があるからだとは考えております。 そのためか実家でおこなわれる葬式や告別式の話が出た時に私は行きたくないと答えました。親に感謝していない訳ではないのですが、他人の死と同様に捉えてしまい私が行かなくてもいいと判断しております(手続き等は兄貴がしております) 最後くらいとよく言われておりますが、私の人生として成人式等の一度きりのイベント事にそこまで関心がございません。 ただし、ここで質問をしているということは、心の中にしこりのようなものがあるから、私は間違っていないと肯定されたい気持ちがあるとは考えてはいます。 孤独感というのも悲しいことになれてしまい、家族と連絡しなくても幸せに生きれてしまいます。 上記の考えも分かってはいながら葬式に行くことが大人ということなのか、自分が行きたくなくて後悔もしないと確信があるならいかなくてもいいのか、正解がない問題なのでどうしてもお言葉をいただけますと幸いです。 何卒宜しくお願い致します。
身近な人の死が怖く、環境が変化することがとても悲しいです。 人はいずれ老いて亡くなることは、自然なことだと理解はできますが、そのことを考えるだけで辛く悲しく涙が出てしまいます。 今を大切に生き、楽しく生きたいと思いますが、どうしても、いつかいなくなってしまうんだと思う気持ちが強く心を蝕めています。 どうか、少しでも心が軽くなる言葉をいただけたら幸いです。
おととし9才で心臓突然死で亡くなった長男が夢に出てきました。 夢の中では次男と3人で遊園地で遊んでいて、わたしと長男が並んで乗り物に乗っていました。 たぶんミニSLのような乗り物です。 すぐに前の列に次男が1人で乗っていました。 夢の中のわたしは長男が亡くなって居ることを分かっていて 次男に「○○(長男)に抱きついておいた方がいいよ!」と言って まず、自分が長男に抱きつきました。 抱きしめた感覚がリアルでした。 でも抱きしめたら、それまで起きて楽しそうにしていた長男が眠ってしまったのか動かなくなってしまいました。 悲しい気持ちになり目が覚めると深夜2時でした。 長男が亡くなってから夢に出て来たのはこれが3回目です。 1度目は亡くなって2カ月くらいの時に遠くの建物の上の方から心配そうな顔でわたしを見つめていました。 2回目は1年くらい経った頃、大型遊具の中で楽しそうに遊んでいました。 でも、どう頑張っても近づくことは出来ず、かなり遠くから見守るだけでした。 今回は初めてすぐ近くに居てくれました。 でも正面の顔を見ることはできず、隣に座っている横顔と、眠ってしまった顔だけでした。 夢に出て来たのは何か意味があるのでしょうか? 教えてください。
祖父母が病気や認知症になることが、最近立て続けに起きました。 その度、どうして人は忘れていってしまうのか。残される方はどんな心構えで生きていけばよいのか。残されたら悲しいのかな。もし自分だったら、もし自分の夫が......と、悲しい未来を想像してしまいます。 死が怖いです。忘却が怖いです。でも、必ず訪れる死や忘却を恐れてばかりで、今を生きられないのは嫌です。しっかり今を生きたいです。 死ぬことや、死に向かう事を、どんなふうに捉えるのが良いでしょうか。不安に思いすぎない心構えを知りたいです。
自分のせいでインコを死なせてしまいました。 1週間ほど前、インコのケージの掃除中にインコを放鳥しつつ同じ部屋で飼育してるラットも遊ばせていました。 ラットがインコに近づいたりしたら止めていたのですが、「まあ危なくなってもインコなら飛んで回避するだろう」と思っていたのですが目を離した一瞬のすきにラットにインコが襲われてしまい、噛み跡が胸2箇所、目の下、背中に1箇所と大怪我を負ってしまいました。 襲われたのは夜だったので次の日の朝に病院に行き診てもらったのですが、ここ数日で様子が悪くなりそのまま亡くなってしまいました。 亡くなったその日にも病院に診てもらったりしたのですが、どうしてもあの一瞬の後悔がずっと胸の中にあり息が詰まって苦しくなります。 私のせいでまだ数年あった寿命を消してしまったこと、ケガをしてから羽ばたくこともなく亡くなったことや体重がとても減ってしまって胸骨がわかるくらいに痩せてしまったことなど考えだすとキリがありません。 ケータイの中の元気な姿をみると本当に申し訳なさでいっぱいになります。 どうすればこの気持ちを飲み込むことができますでしょうか?
つい先日に従姉妹の母親が亡くなり葬儀の手伝いとしてお通夜から告別式通して身内の死を考えながら過ごして自分で感じたことがあります。 それは悲しく無いことです、まぁ従姉妹の母親とは面識はあり幼い頃にお世話になって成人後は数年に一度会うぐらいでしたので思い入れが少なくそこまで悲しくはならないのかな?と思ってましたが。 仮に自身の親兄弟が亡くなった場合を想像した場合でも悲しい想像もできないのです、普段からは家族間の仲は悪くは無いですが亡くなった場合淡々と葬儀を終えてすぐ日常に戻れる事しか想像できません。 こういった人が居るというのは聞いたことがありますがどういった人がなりやすいのでしょうか?また、悲しく無いのは悪いことでしょうか?
ただ生きていくだけのことが難しいです。今まで何度も何度も生きるか死ぬかの地獄みたいな場面に遭遇してきました。 そのたびに「死にたい」と人に言って人から見た"死にそうな自分"をイメージすることで、なんとか生き延びてきました。 人に死にたいと言うとたいてい2パターンの答えが返ってきます。 「死ねよ」系か「死んだら悲しい」系です。どちらにも心はこもっていませんでした。面倒くさそうでした。 死ねよ系の中に私が社会で生きていると「社会やすべての人にとって迷惑だから自殺してね。約束だからね」といったものがありました。これは真だと思います。(私は生活保護を受給していますし、精神障碍者です。誰かの力を借りてもただ生きていくだけのこともできません。)一方死んだら悲しい系の中に「他の動物の命を奪って生きているのにその自分が自殺することは悪だから地獄に行き、未来永劫苦しむ」といったものがありました。これも真かと思います。 この二つは矛盾すると思うのですが、私がこのまま社会に迷惑をかけ続けながら生きていくのと、自殺すること。どちらが悪なのでしょうか。仏教的な答えをご教示いただけたら幸いです。
初めまして。 タイトルの通り、先月祖母が亡くなったのに、未だに泣けないでおります。 祖母には私が幼い頃から本当に可愛がってもらいました。 朗らかで穏やかで優しい人で、一度も怒ったところを見た事がありません。そんな性格だったので周囲の人にとても好かれ、葬儀の時は皆涙に暮れる、といった様子でした。 祖父が十年前に亡くなってからは病気がちになり、実家に戻り出来る限り祖母を介護しました。 介護を一度も苦痛とは思いませんでしたが、祖母はいつも「申し訳ない」と謝っていました。 この一年ほどは病院と施設を行ったり来たりでした。私は医師なので数えきれないほどの死を見ており、祖母もいつどうなってもおかしくない状態という事は理解しておりましたし、覚悟もしているつもりでした。 ただ、祖母が亡くなったら自分は生きていけないのではないか、と不安に思っていました。 ところが、先月祖母が亡くなった時から今まで少しも涙が出ず、それどころか悲しいという感情すらありません。 時折「寂しいな」と思う事はあります。しかし持続しないというか、考えないようにしてしまうのです。 葬儀の際、周囲の方から口々に「おばあちゃんはいつもあなたの事を話していた、本当に感謝していた」と言われました。 涙も出ない冷酷な私が、祖母に感謝してもらう権利はあるのかと思います。 泣けない、悲しいと思わない事は異常だと分かっていますが、自分でも自分の心理が全く分かりません。 こんな薄情な孫を祖母は悲しんでいないか、とても気がかりです。
先月祖母が急逝しました。 倒れたと連絡があり病院に着くと、医師からの『死亡確認をお願いします』との言葉。急性の病だったためまったく予期しない死でした。先日49日法要が終わり、若干気持ちは落ち着いてきましたがいつになったら日常の心に戻れるのだろうと考えてしまいます。たまに夢にも出てきます。49日を迎える日には、夢の中で寝ている自分の右隣に既に亡くなった祖母がいると目を閉じてる状態で感じ号泣しているタイミングで目が覚めました。起きた自分の目にも涙がひとすじ流れており、これは始めての経験でした。今まで夢に出てきた祖母は生きていたので、初めて夢の中でも亡くなった祖母を認識していて、脳では整理できているのかなとは感じます。ただ心がなかなか追いつきません。3年前にも父方の祖母が亡くなりましたが、そこまで頻繁に会っていなかったのもあり悲しいながら立ち直るのは早かったです。しかし今回は初めてまともにダメージを受けているため対処の仕方がわかりません。死を受け入れるためにどう日々を過ごせばいいのでしょうか。どうすればはやく心の平穏は訪れるのでしょうか。教えていただけると幸いです。
私は学生なのですが、小さい頃から、親が共働きで、祖父母の家で過ごす時間が多くなりました。しかし中学に入ってから、自分の家で過ごすようになり、祖父母と関わることは少なくなりました。祖父母は小さい頃から面倒を見てもらい、大好きな人たちです。ですが人間いつかは死にます。私は、もし祖父母が死んでしまったら立ち直れる自身もないし、どのような心境になるかもわかりません。最近そのようなことを、考えるようになりました。もし祖父母が死んでしまった場合、どのような立ち直りをしたら良いでしょうか?
とても死は友人とは思えません。死が美しいとは思えません 死が怖いんです。人が死ぬことに意味はあるのですか?死に意味はあるのですか?
先日母方の祖父が突然亡くなりました。病死ではなく、一般的に事故死と呼ばれる亡くなり方でした。 母方の祖父なので一緒に過ごした日々は少ないし、ここ近年は正月盆に顔を合わせても会話もないような関係でした。 でも訃報を聞いた今、悲しくて悲しくて涙が止まりません。泣いて泣いて気付けば朝です。 最近流行しているコロナとは無関係のためお葬式はできるそうですが、感染拡大防止のため、離れて暮らしている私は葬儀には出席できません。お別れが出来ないことが悲しいです。 そして、訃報を伝えるために電話してきた母の涙を押し殺したような声が忘れられません。母にとっては父親ですし、いずれ死の瞬間を傍で看取ることを考えていたのでしょうから、1人で逝ってしまった祖父の最期を嘆くのは当然だとおもいます。そんな苦しい心境であろう母の傍にいてあげられないことも辛いです。 突然すぎで私自身祖父の死をどう受け入れたらいいのかわかりません。漠然と悲しい気持ちだけがあって涙が止まらないです。遠方の祖父の死を受け入れるためにはどうしたらいいのでしょう。 また、私が離れた地で祖父や母にしてあげられることは何かあるのでしょうか。 混乱していてお見苦しい文章になっていると思われますが、ご回答頂けますと幸いです。
以前より、死の恐怖についてご相談させていただいております。いつもありがとうございます。 今年から仕事をはじめ、毎日必死に慣れない仕事をこなしています。以前と違って少なくなった休日は、友人との交友や趣味を詰め込んでいます。 そのような生活をしばらく続けていましたら、以前悩んでいた「死の恐怖」について悩む物理的な時間が殆どなくなっている事に気が付きました。 しかし、死の恐怖がなくなった訳ではなく、今でも偶に恐怖で叫び出してしまう事はありますし、将来のこと(今後のキャリアやライフプラン)について考える時にも、「死ぬ時、恐怖に震えながら死ぬのだろう」ととても悲しく、またとても恐ろしくなります。 これは、「今を生きている」のでしょうか?確かに、目の前のことに必死で、死について考える時間がないので精神は健全です。以前より充実していると思います。 ですが、人生の本質のようなものを蔑ろにしている気もします。今の生活はなんとなく、さまざまな問題から逃げている現実逃避のように感じます。人生は死からの逃避、という言葉をどこかでみました。私の人生は今、逃避なのでしょうか。 そこで、「今を生きること」と「現実逃避」の違い、「今を生きること」と「何かに夢中になり、悩む余裕がない」ことの違いが知りたいです。 また私の今の様な生活は、仏教やお坊さんのお考えからはどのように思われますか? 死に怯えるだけだった過去から、今の生活になったことは進歩でしょうか?これは、私の望む「死は悪くない、怖くないと安心して死ぬこと」に近付いていますでしょうか? お忙しいところ恐れ入りますが、知恵をお貸しいただけますと幸いです。よろしくお願い致します。
今年の1月に実母が病気で亡くなりました。 もうすぐ亡くなって1年がたつのですが、今でも病室で苦しそうにしていた母の様子を思いだし、悲しくなってしまいます。 病室にお見舞いに行く度に、衰弱してゆく母の様子を見るのは辛かったです。 きっと母は、そんな辛い病気の時のことよりも、楽しい想い出を思い出して欲しいのではないかなと、勝手に思っているのですが、 夜中に目が覚めてしまった時などに、いつも病室の苦しそうな母を思い出してしまいます。 時々、今でもとても悲しくなってしまいます。 私はどう過ごせば良いのでしょうか? よろしくお願いします。
初めて投稿します。 よろしくお願いします。 私は今29歳で4歳のときに母が自殺しました。 自殺した理由は父の遊び癖がひどく、それに病んでアルコール依存症になり自殺してしまいました。 幼少期はお母さんは絶対近くにいる!と思いながら過ごしてきましたが、父が私に暴力を振る のでなんでお母さんじゃなく、お父さんが死ねばよかったのに。お母さんも助けてくれない。と思ったりもしてました。 そこから何だかんだで私も結婚し、娘が産まれてよく娘の自分を重ね、母を思い出してしまうようになりました。 今でも母の楽しかった記憶や喧嘩したり怒られたりした記憶を思い出し子供のように泣いてしまう事があります。 幽霊でもいいから母に会いたいです。 自殺すると、天国には行けないと聞いた事があります。 私の母は天国に行けたのでしょうか。 私とはまだ繋がっているのでしょうか。
今日、祖父の姉の葬式がありました。 離れたところに住んでおり最後に会ってから10年近く経っていますが、小さい頃遊んでもらってお世話になった人なので、最後の機会だと思い向かいました。 棺に花を入れる時や火葬では涙が出そうになりましたが、悲しいよりも、もらい泣き、雰囲気につられているだけだと思いました。 ところが葬式が終わり、帰ってきてから夜。 もし自分の子供が死んでしまったら… もし夫が死んでしまったら… と考えると涙が止まりません。 事故、事件など最悪の可能性を想像してしまいます。 少しですが、自分も死んだらどうなる?と子供みたいな事を考えてしまいます。 1度考え出すと止まらず心がぐちゃぐちゃです。 葬式に行かなければよかったとすら思います。 こんなに心がボロボロになるなら、もっと近い人の死で自分がどうなってしまうか怖いのです。 その人がいなくなって悲しいのに加え、お見送りをした後も、こんなにも怯えなくてはならないのでしょうか。 こう考えてしまうのは普通ですか? 亡くなった人だけの事を考えないのは薄情ですか? 検索しても、近しい人の死後のメンタルを労る記述があっても、私とは違い相談できるのがここしかありませんでした。 今後あるであろう死の度、これではとても心が持たないと思い どう思えば前向きに見送ることができるのか、 大きすぎる不安を感じなくていいのか 教えていただきたいです。
こんにちは。先日、友達が帰らぬ人となってしまいました。突然の死でした。 とても悲しいです。奥様も、幼い赤ちゃんも、気の毒で胸が痛くなります。 その人は私のとても好きな人でした。私も彼も家庭はあるけれど、お互いに、結婚する前から数年前から惹かれ合っていたと思います。ずっと友達のままでしたが、とても好きでした。今年彼の奥様に赤ちゃんが産まれたから、彼のことはもう忘れよう、忘れなきゃと努力して、ちゃんと忘れられたつもりでいました。でも、忘れられない人になってしまいました。今でもとても好きです。 また会いたいです。またどこかで、会えますか?天国や来世でまた会うことは出来ますか?何か方法があれば教えて頂きたいです。 まだまだ若いのに突然の死を迎えてしまった彼が悲しくて悔しくて彷徨っているのではないかと心配です。何か彼のために出来ることがあれば良いなと思います。
毎日「死にたい」と思ってしまう… でも、死は怖いです。 でも、自分より先に大事な人たちがいなくなるのはもっと怖いです。 でも、生きてるのが辛いです。 子どもたちが居るからなんとか踏み止まっているけど… 毎日が辛いんです。 私なんかより大変な思い、嫌な思い、辛い思いしてる人がいると思います。 でも、私も毎日1日1日過ごすのが苦しくて、辛いです。 母が居ないから悲しくて… おばあちゃんがいなくなってしまって悲しくて… 前の会社の上司の言葉(罵倒された)が忘れられなくて苦しくて…急にその人の顔、声、言われたことを思い出すと怒りが来て、そして苦しくなります。 前の仕事を続けたかったのに…悔しくて… 信頼してた人に裏切られて、人が信じらられなくて… こんな自分が母親なんて子どもがかわいそうで… こんな状況逃げ出したいと思ってるけど…どうにも出来なくて… ただ毎日辛いです。 もうどうしていいかわからないんです。 助けてください。
いつもお世話になっております。 以前から死の恐怖について相談させていただいておりました。 最近は仕事もプライベートもそれなりに忙しく充実しております。体力的にも時間的にも死の恐怖に囚われている時間は少なくなり、心安らかに過ごしていました。 ですがふと、 やっぱりこの世は諸行無常で、今の幸せや充実もいつか無になり、私は私を自覚できなくなり、死んだあとは未知でしかなく、「死」という未来が待っている以上この先の人生のエンディングは絶対的な絶望なのだ、と 以前と同じ恐怖が強くよみがえりました。 日々の幸せに夢中で死を考えなくなり、「まあでも、これが今の私なりの死への向き合い方なのだろう」と甘く捉えていましたが、 結局、恐怖は忘れていただけで、死ぬ事実も絶望感も変わらずに私の中に存在します。 たくさんのお坊さんにご回答をいただき積極的に「心安らかに死んでいける心持ち」を探し求めても、知識だけが増え頭でっかちなまま、結局は恐怖も絶望感も拭えぬまま、不安な心のままです。 お坊さん方の視点から、私は今後、どのように死と向き合ってゆくのが良いと思われますか。 積極的に怖さに向き合い死を学ぶショック療法のような形か(ただ、もう死の恐怖に面と向かって辛い思いはしたくないという甘えも自分の中に今はあります)、 それとも自然の流れに身を任せて死を忘れたような日々を過ごすのか(そのうち死を自然と受け入れられると信じて)、 はたまた仏様に全てを任せ不安な心持ちのまま生きてゆくならば、まだ心の底から仏様を信じられない愚かな私の、実在する「不安な気持ち」をその都度「大丈夫」と躱していけばそのうち信心が得られるのか、など。 もちろん最終的に何を選択するのかは私が決めるべき問題と思っておりますが、 なんだかもう、自分でもどうしたら良いのか分からなくなってしまったため、アドバイスをいただけたらと思います。 お忙しいところ大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。