はじめてご相談させて頂きます。 私の実家は 父方の祖父を中心に親戚がよく集まり みんな仲良く楽しく過ごせる家族でした。 そのうちに、祖父母も亡くなり 父も病気で亡くなってしまいました。 その直後 母も病気になり 入院も長くなりとても 悩みました。 それで、母の治療法の事で 悩み色々調べたりしました。 その、治療法の事で 叔母との意見が合わずに大ゲンカになってしまいました。 あまりに腹が立ってしまい 私が 叔母に暴言を吐いてしまい その後疎遠になってしまいました。 その、叔母とのケンカ後 兄も叔母には頭が上がらず 私に実家に来るなと言い。 母も、長男の嫁と言っても 何の発言権もなく、 叔母には 逆らえず兄にも気を使い 兄と同じ様な感じでした。 それ以来、私は 実家での行事や集まりには 一切呼ばれなくなりました。 祖父母の法事や挙句の果てに 父の法事まで 呼ばれなくなり とても悲しい気持ちになりました。 従姉妹や他の叔母で私の事を心配してくれる人もいますが、誰も叔母には逆らえないので 法事があっても 私が呼ばれる事は 今後もないと思います。 叔母との関係修復は、難しいと思うので 実家にも ほとんど帰らなくなって仏壇に手を合わす事も出来ず。 たまに お墓参りは行きますが 祖父母や父の供養の事で いつも このままでいいのかと悩みます。 法事に行けなくても どの様な気持ちでいれば供養が出来ますでしょうか? 宜しくお願い致します。
私は子供の頃から、いつも過去のことばかり考えることが癖になっているようで、それにより鬱になり、今という時間を無駄に過ごしています。 過去は戻らないから今を生きよう、と思っても気がつくと過去のことを考えてばかりで、なぜあんなことをしたんだろう・・・と自分を責めています。 あの時はああするしか仕方なかったんだ、自分が思うほど相手は気にしてないかもしれないから大丈夫だ・・・と思い直すんですが、気がつくと元の絶望感に襲われています。 また、大丈夫だ、解決したと思っても、次は別の恥ずかしい思い出が蘇ってきます。 自意識過剰なんですが、相手が自分の失敗をいつ、どこでも思い出している、相手の頭の中に私の失敗した記憶がずっとあることを考えると、穴があったら入りたくなります。 とにかく一日中、過去の出来事から離れられません。良いことならまだ楽なんですが、思い出すことは自分がしでかした失敗や恥ずかしいことばかりです。
最近たまたま儒教について調べました。 儒教には先祖が自分を助けてくれるから敬い大事にするという教えがあるそうです。 仏教でもお葬式などの際にそのような話をされたような記憶が薄らあるのですが、これはたまたま釈迦の考えと孔子の考えに共通点があったということなんでしょうか? また輪廻転生するのであれば先祖は既に別の生き物としての人生を歩んでいるはずで、助けてくれる先祖と輪廻転生した先祖で2つに別れると言うことなんでしょうか? 先祖が助けてくれる ということと輪廻転生自体が相反することを言ってるいるように感じました。 仏教を否定している訳ではなく単純な疑問なのです。 時代によって少しずつアップデートされたということなのかもしれませんが、この点を現在のお坊さんはどのように解釈しているのでしょうか?
お忙しい中読んでいただきありがとうございます。 現在就活をしている大学4年生です。 公務員試験を受けていましたが最終面接で不合格になってしまいました。 働きながら来年また公務員試験を受けようと思っているのですが、気持ちがうまく切り替えられません。 私は大学受験も失敗しています。周りはうまくいってるのに私だけ失敗し続けている。自分の不甲斐なさに毎日涙が止まりません。 働きながら勉強していけるのか、そもそも働く先が決まるのかそんなことを考えているとあまり寝られず食事をとることもできていません。 運動をしたり誰かに相談するとその時は気持ちが楽になるのですが、時間が経つとまた考え込んでしまい生きていることが辛くなってしまいます。 こんな時はどうしたらいいのでしょうか?
仏教の教えで、なぜ私たちは他人の幸せを気にするべきとありますがなぜですか? また、経典に従えば道徳的な心の改善はできますか?
うまくいきません。 時間もあるので、心のストレッチの為に、 読書をして教養を高めたいと思いますが、 何か良い本があったら、教えて頂けると大変助かります。 よろしくお願いします
たびたびご相談させていただいております。 いつも有難うございます。 なんとなく気分が鬱ぎ、疲れて毎日まいにち食事の献立に悩み 反抗的な娘にイライラし、目の前でだらしなく太った旦那にウンザリしながら 「どいつもこいつも居なくなればいいのに 何もかも捨ててヒトリになりたい 」 と思ってしまいます。 自分の気持ちがひどくささくれだっているという自覚があり、これではいけない とも思うのですが やっぱり行きつく考えが 誰の世話もしたくない ヒトリになりたい …何とかならないものでしょうか? 今ははっきり言って家族が煩わしい 酷い母親です。最悪な妻です。
私は20歳になったら母に臓器移植をしたいと思っています。 今日、移植についてどのような意思があるか聞いてみたところ、様々なことを考慮し、あまり移植については考えてなかったように見えました。 母はこれから、新たな治療をするための準備をしていきます。 いつもあまり弱音を吐かない母が、その治療が始まった後の生活を心配しているような話をしたり、落ち込んでいる姿を見ると涙が出ます。 母は私が生まれてからすぐに病気になりました。その時からずっと辛い日々を過ごしていると思います。 苦しみから緩和させてあげたい気持ちと、少しでも長く元気に生きていて欲しいという気持ちから、私は移植をしたいと思いました。 しかし、まだその意思を伝えることが出来ません。言った後にどのような返答がくるか母の気持ちを考えると怖くなってしまうからです。 また、心のどこかで私自身、移植について怖いという意識もあるのかもしれません。 私が今考えていることが母の負担になったり、本当にこの考えが正解なのか考えれば考えるほど分からなくなってしまいました。 誰にも相談できず、今回こちらで相談させていただきました。回答していただけると幸いです。 最後まで読んで頂きありがとうございました。
初めて質問します。 こどもの頃から1つの理想がありました。家族がいて、持ち家があり、仕事をしている自分がいる。誰に言われたわけでもなく、ただ強い意志を持ってそこを目指してきました。 ありがたいことに、20代後半で叶いました。同じような価値観を持った幼なじみがいるのですが、私たちが思い描いた理想を叶えることの難しさ(特に結婚・出産関連)について話すことも多いです。思ったより早くに実現できたなと思いつつ、簡単だったとは思いません。結構大変でした。 問題はここからです。 理想を目指して生きてきました。そしてそれが叶いました。でも、この後どうしたらいいのかわからず困っています。正確には、毎日本当になんとなく生きています。これまで理想を目指して生きてきた身としては、この「なんとなく生きる」ということが非常に後ろめたいです。理想を掲げて生きている人たちのことを羨み・妬んでいます。 何か新しい理想を見つけられればと思いますが、見つかりません。では見つからないまま何となく生きていけばいいのではと思いましたが、そんな選択をする自分も嫌です。結局、ただ時間を浪費をする毎日です。 人生に満足した後、どう生きていくのがよいのでしょうか。 何卒宜しくお願い致します。
自分の理想が高すぎるのか、自分の力を過信しすぎているのか、とにかく妥協が下手です。 私は趣味で同人誌を書いています。 しかし、話を作る段階ででいつも1か月以上躓いてしまいます。拙作を読んでくださった方々からご感想をいただくことはそれなりにあるので、発想が貧困というわけではないと思います。 ただ私が、「私ならもっと良い話が思いつくはず」と、延々修正を繰り返してしまうためです。 正直、私の絵は人並み程度で、話が上手いと言われても絵が上手いと言われることはあまりありません。私自身、実際本になった自分の作品を読むと、頭の中で考えていたときは面白かった話が、稚拙な絵のせいで微妙に思えてしまいます。 なので、どれだけ自分が頑張って時間をかけて良い話を考えても、どうせ本になったときこの程度のレベルまで落ちるのだから、キリのよいところで妥協しなければと考えました。でなければ、私の今の作業ペースではとても締め切りに間に合いません。 絵に関しては、何度書き直したって下手なのはわかっているのだから、時間を優先して適当にキリをつけようという諦めが出来てきました。しかし「話」に関してはその諦めが付けられない状態です。 私ならもっと良い話が思いつくはず、私ならもっと書ける、という過信が邪魔をします。 交通費や同人誌頒布会の参加費を既に支払っていることからも、時間をかけて作品を練って今回は見送るということはしたくないです。 自己評価に実力が追いついていない私に、どうか妥協の仕方を教えてください。
いつもお世話になっております。 まずは先に、お詫びとお願いを申し上げます。 この質問の題名および趣旨が私の見当違いであった場合は、平にご容赦くださいますようお願い申し上げます。 ご縁を新たにして以来、今のところは具合が順調に落ち着いております。ですが、あらたなお寺も件の寺と同じ新義真言宗の寺院です。 件の寺では、しゃべり好きのおじいちゃんが若いお客様に一生懸命お寺のルーツや住職さんの経歴を聞かせてあげていたのをカウンターの寺務員さんが集団でにらみつけていたり、 祈祷の後のお話でお坊さんが「ちょっと指導を受けただけで退職や中退してしまうような弱いお子さんに育ててはだめですよ…」などと言っておられたり… そこで、ご質問させていただきます。 真言密教、おもに新義真言宗では自分で覚りを開く能力のない障害者や病人、そしていわゆる「弱い人」は、 救済や極楽往生の対象ではないのでしょうか。地獄や畜生道、餓鬼道などに落ちてしまってもかまうな、という教えなのでしょうか。 私は平日の昼間に出歩くなど頻繁なので、次のお寺様とご縁が切れてしまったり、大好きな仏さまと疎遠になってしまうのは悲しいです。 私たちは、真言宗さんにお参りしても本当にいいんですか? 見当違いな質問だったら大変申し訳ございません。 これからも様々な仏様とのご縁を大切にしていきたいので、 どうかご教授願います。
高専の吹奏楽部でサックスを担当しているのですが、あるときから楽器を持つと息が苦しくなり、目の前が真っ暗になるような感覚に襲われ、演奏ができなくなってしまいました。 それでも、部活そのものがとても好きでやめたくはないと部長に希望し、今は演奏ではなくマネージャーとして活動に関わらせてもらっています。ただ、演奏できないのに部活にい続けることに対して、本当に価値があるんだろうか、いつまでこのままなんだろう、もしかしてずっとなのかな、などと悩んでいます。 また、マネージャーという立場を選んだのは、吹けなくなったことから目を背けたかった気持ちもあり、まだ自分ときちんと向き合えていないままです。 普段話を聞いてもらっているカウンセラーさんがいるのですが、このことをどうしても話したくなくて、最近はカウンセリングへ行けていません。 自分と向き合っていかないといけないことはわかっています。ただ、どう向き合っていけばいいのか分かりません。こんな聞き方で申し訳ありませんが、私はどうしていくのがいいのでしょうか。
こんにちは。 空即是色等に言われる空ですが、 なんとなくでの感覚ではわかるのですが、 こういうものだ、というものがはっきり言葉にできません。 言葉にするとどのようなものでしょうか? 何卒、御教示お願い致します。
無明の人と、無明じゃない人って、どう違うのですか? どうして自分は無明になってしまったのか、 なにが原因だったのか、なにがいけなかったのか、よくわかりません。 無明に陥ることがない人もいるのですか?
般若心経の意味と般若心経を仏壇等に対して唱える意味を教えて下さい。
現実的な幸せと、非現実的な幸せをどちらも求めてしまい、私の欲求は両者の間をグラグラしているなぁと自分で思っています。 そして私は目的と行動は一致していなければならないと考えるのですが、どちらも求めてしまうため、どのように行動すればいいのか分からなくなってしまうときがあります。 目的に向かって行動するためには、現実的な幸せか、非現実的な幸せ、どちらかを選ばなければならないのでしょうか。
いつも相談に乗っていただきありがとうございます。自分の相談へのご回答のみならず、他の方へのお坊様がたのご回答を拝見しては、納得、感心し、癒される日々を送っております。心より感謝と尊敬をお伝えさせてください。 自分もお坊さんになる、とまでは行かないのですが、日常を心健やかに過ごし、他者を元気づけるために、仏教の考えを学びたいと思っています。巷にはたくさんの書籍がありますが、初心者にも学びやすい本があれば教えていただけないでしょうか? 本屋さんで眺めてみたのですが、なかなかピンと来るものがなく。一朝一夕には身につかないものと承知しておりますが、もし何かおすすめの書籍や学びはじめの方法(お寺の法話に行ってみるとか?)がありましたら教えていただけると幸いです。
ときどき病気や死の不安、現実のむなしさに押しつぶされそうになり、酒に逃げ日常生活に支障がでるときがあります。 この状態から脱しようと以前から興味のあった般若心経、歎異抄、仏陀の本を読みました。 そのお陰か禁酒に成功したり(三か月間ですが)規則正しい生活を送るれる時期もありました。 しかし、継続することが難しくどうしようもない不安に襲われるとまた酒を飲んで紛らわすということの繰り返しです。 現実の不快さのまえではどんな言葉も心に響かず、飲めばすぐに忘れられる快楽に抗うことができません。 修行僧の方であれば、修行によって救われることがあるかもしれません。 私のように家庭をもち普通に仕事をして、仏陀のいうような愛するものを持つなという言葉を実践することも不可能、親鸞のように阿弥陀仏の救いを信じ切ることもできないものに救いの道というのはあるのでしょうか? 大層なことを書きましたが本当のところは、ただ苦痛から逃れたいだけで、そのためなら酒でも仏教でもなんでもいい、という本心があるのです。 駄文、散文失礼しました。
いつもお世話になっております。 最近うまくいかないことばかりで、漠然と考えていた人生を終わりにしたいという気持ちがより鮮やかになり、恐ろしくなって問答をお願いしております。 幼い頃は人よりも大人びていて、知識も落ち着きもある模範的な生徒でした。なんでも上手くいくし、人間的に自分はこれからどんどん素敵に成長すると思っていました。 今は大学も、アルバイトも、人間関係も、全てが人より劣っています。 友達付き合いは下手で、その上気付かぬうちに酷い事を言ってしまいどんどん人は離れていきます。アルバイトも人並みにできず、大学でもとうとう出来損ないの烙印を押されました。才能のある後輩は私よりもどんどん成果を上げて、自分など足元にも及びません。周りは私を、頑張っても人並みに上手くやれない可哀想な子だと思っています。 加えてADHDの持病付きです。失敗の原因に先天性の要素が含まれていると考えて、自信がめっきりなくなりました。きっとこれから先、仕事をして人と暮らし、老後になっても何も上手くいかないような気がします。 これ以上できないことばかりを抱えたまま、出来損ないの人間であると日々感じながら生きていくことが、使命なのでしょうか。 私は何も残せず上手くいかないまま、死んでいくのでしょうか。ならばいつ終わっても構わないのではないでしょうか。 「そんな事はない」と思いたいのですが、私の全てが生きていても価値がないと思わせるに充分なのです。もう自分の力では、自分を愛してやることができません。 昼間にポジティブな気持ちでいたとしても、ふとこうした考えがよぎります。
私は霊媒体質で、何回か、質問させて頂いております。小さなころから般若心経を祖母ととなえて、お寺さまの禅宗のつどいの先生役もいたしました。 それで、いつしか、般若心経から離れてはいたのですが、介護施設で働いていて、肩こりが治らなかったおばあちゃんがなんか肩にのっているのがわかり祓ったげました。そのあと、私の体に来たのですが、治り、施設入居者の方に500円でうってる般若心経お守りをさしあげました。般若心経は空にする力が強く、悪魔、天魔も祓うまた、供養と、災厄祓う、自分自身を空にするお経と思っています。そのあと、神社に、お祓いはいったのですが、般若心経がなぜか唱えれない自分に気づきました。般若心経が怖くて仕方ないのです。また、般若心経を調べると浮遊霊をよぶだのそんな情報ばかりくるのです、数日たってから訪問介護先で、セクハラにあいました、そのときに、お守りとして、観音経25と、咄嗟に不動明王さまの真言でした。お不動さまたすけて、神様、仏さま助けて! と念じた瞬間相手の力が弱まりすぐ、車に避難。大事にはならなかったです そのあとお友達が、私の通いつけの神社に、つれてってくれて感謝しました。そのあと、急に父が般若心経の経本がほしいといいプレゼントすることにしたのですが、神道でも唱える般若心経を慣れ親しんだ私は何故唱えなくなったのだろう?と内観しました。江原さんの本に憑依されるのは自分自身が、原因とかいてあったし。おかしいな、、と。そして私は天魔に騙されてる自分に気づきました。危ない危ない、、仏恩感謝、神恩感謝。般若心経をまた、唱えたいと思いました。合掌