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検索結果: 1709件

主人に優しくできません

1ヶ月程前に主人と些細なことで喧嘩し、ほとんど口を聞いていません。寝る場所は別、食事も別で、洗濯だけは一緒です。 主人はとても優しい人だと思いますが、優しくすることができません。 主人は時々話しかけてくることがありますが、冷たい態度しか取れません。 もう主人に対する愛情がないのだと思います。 主人には私よりもぴったりの人がいるであろうから、その人と結婚した方がいい、浮気してくれていたら楽だ、と嫌味ではなく本気で思ってしまいます。 ただ仕事もしていますし、自分から別れを切り出すのは面倒くさくていまのところしていません。でも何とか嫌われようとここ1ヶ月ご飯も全く作っていないし、掃除も主人のいるところはしていません。 正直、今の会話のない生活も、自由に生活できて楽だと思ってしまいます。 主人が優しい人だと言うことはわかっていながら、本当に嫌がらせのような態度ばかりとってしまうのです。 自分でも性格が悪いなと思っていますが、態度を改めることはできず、離婚することばかり毎日考えています。 好きな人ができたとかいうわけではありません。 客観的にみて、この夫婦関係はどう思いますか? お互いにイライラしながら一緒にいる意味はあるのでしょうか? 私は自ら別れを切り出すべきでしょうか? 支離滅裂で申し訳ありません。 真剣に悩んでいます。 回答いただけたらありがたいです。 よろしくお願いします。

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恨みが消えない、でも良い出会いもあった

かつての上司にやられたことの恨みが消えません。えこひいきされ面白い仕事を回されず、挙げ句トラブルの責任を押しつけられ、最後には希望ではない部署に異動させられてしまいました。 その上司は外面だけよくて、上からの評価はまあまあ悪くはないのです。それが許せず、その上司の職場や、実家、その妻の職場などに嫌がらせ行為をはたらいてしまいました。しかし因果応報なのか、最終的に、その上司は別の不祥事を起こし、閑職に飛ばされました。その点に関してはすっきりしています。 でも、恐らく私が嫌がらせ行為を行ったことは、社内のどこかで噂として広まっているだろうし、また、彼が閑職に追いやられてすっきりした今でも、まだマグマのように怒りがたまっています。 思えば、こうやって過去の恨みにとらわれているのは10代の頃からずっと同じなのです。他人が自分を大切にしてくれなかったとき、その出来事がふとよぎって、仕事に手がつかなくなったり、夜中に眠られなくなったりして、相手への復讐心でいっぱいになり、自分自身が損するにも関わらず攻撃を繰り返してしまうのです。 これからも生きていたら、誰かにぞんざいに扱われたり、ないがしろにされたりすることはしばしばあると思います。そのことに、いちいち恨み、攻撃していては、自分自身が前に進めないことは自分でも分かっています。でも、恨みから抜けられないのです。いつか自分は、人を殺してしまうんじゃないか、という恐怖すら感じます。というか10代の頃、自分はいつ人を殺してもおかしくない、と思っていました。 ちなみに今の上司にはとても恵まれています。自分のことを育てる気もあるし、能力も高く、仕事に対する価値観も近く、思いっきり成長できる千載一遇のチャンスだと思っています。ここで飛躍して、大きくなりたいたいのです。だからこそ、過去にとらわれたくないのです。どうしたらいいでしょうか。 どなたか、私を恨みの地獄から抜け出させてください。

有り難し有り難し 14
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今まで何をしていたのか…これからどう生きていけば良いですか

今朝、目覚めてすぐに、 「私は今まで何をして生きてきたのだろう」 と頭を過り焦燥感に襲われました。 こちらに最初に相談させて頂いた時に、今年心折れる事が続きどうすればいいのかとネット内を彷徨う内に、斉藤一人さんや小林正観さん、ホ・オポノポノ等々を知り、そこから派生して、心理カウンセリングやスピリチュアル系の記事を読むようになった事をお伝えしました。 それらに何度も頼りたくなったのですが、完全には信用出来ず、入り込まずに無料メルマガを読むに留まっています。 それらは総じて、「潜在意識が自分の世界を創っている」というもので、その潜在意識を書き換えれば、自分の望む人生を創っていくことが出来るというのです。 ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」という著書が一番の大元なのでしょうか、分かりませんが… 今の自分について言うと、家があり主人が居てお互いに仕事を持ちお金も多少はあり、生きていくには充分に足りている生活をしています。 ただ子供が居ないことについては、長い間、寂しさを消す事が出来ませんでしたが、やっとここ数年で諦めが付いた処です。 子供が居ない分、両親に対して時間やお金を使って喜んでもらえる事が自分の喜びでした。 特に、仲の良かった父とは一緒に居られるだけで楽しく幸せでした。 その父は他界し、母だけとなった今、それまでと同様、母に喜んでもらえる事を考えたり行動したりすることに幸せを感じています。 しかし、そのような幸せとは別に、物質的環境的には事足りているのに、何故か心が満たされません。 特に、スピリチュアル系ジプシーになってからは強く感じるようになってしまい、本末転倒です。 2回ほど、こちらで相談させて頂いた事により、苦悩からは解放されつつあります。 お蔭様で、姑の件は心を落ち着かせることが出来、感謝に堪えません。 以前から薄々感じてはいたのですが、人生を振り返ったとき、自分自身何を残してきたのか何をしてきたのか、という事が見えず愕然となります。 仏教では、「相対の幸福」に対する「絶対の幸福」が「真の幸福」である、というのだそうですが、「絶対の幸福」とは何か、またそれをを得るにはどうすればいいのかご指南頂けますでしょうか。 心の持ちようであり、自分は感謝と幸福に包まれている、というのは頭では理解出来るのですが、正体のない何かが拭えず困惑しています。

有り難し有り難し 29
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手遅れの人生、せめて憂さ晴らししたいが、他にやることは?

利己的な質問です。 最近、何の罪もない子供を殺したくなります。なぜかというと、それが自分に可能な、もっとも世の中を不幸にできる方法だと思うからです。 値打ちのない人生でした。 幼少期は日常的な虐待。親が相手の親に嫌われて、友達もいませんでした。今、故郷に帰っても、思い出話できる人はいません。 中学生の頃に、激化した家庭内暴力の末、両親は離婚。電灯もつかない部屋で貧乏生活をしました。 それでも若い頃は人生をなんとかしたかったので、一応は頑張りました。一流大学にも合格し、仕事も、土日を潰して学んだおかげで、搾取されるばかりの派遣社員になった今でも食うには困りません。 ただ、もともと虚弱だった体はもう、喜びを知りません。苦痛だけがあります。 気がつくと、大切なものは何もありませんでした。友人、家族、恋人、誇れる仕事、実績や思い出。皆無です。 人並みにそれらを大事にしようとして、随分痛い目をみました。時間とお金と健康を犠牲にして、裏切り、搾取が一通り済んで、気付くと周囲には何もありません。 これが自分の本当の姿だったんだ、とわかりました。 もうこの年齢です。未来もありません。富も地位も名誉も愛情も。 人生の敗北はもう確定しました。仮に今から宝くじに当選しても、大して意味がないくらいに。 代わりに恨みだけは山ほどあります。ここに至って気付きました。 私は三つの誤りを犯しました。 生まれたこと。自殺しなかったこと。なんとかしようとしたこと。 努力しようがなんだろうが、私は出来損ないだったのです。 そして、私はこの世界に何の責任もありません。 大事なものは何も残っていない、でもなんとなく腹が立つ、であれば面白半分に壊しても構わないのではないか? そもそも私はもう破滅するしかないのだから、私にとっては世界の終末と同じです。 被害者面などしません。弱いのが悪いのです。なら、私に傷つけられる誰かがいても、その本人が悪いだけでしょう。 あとは苦しみながらゆっくり死んでいくだけ。なら最後に自由を満喫して、思う存分命を嘲って、ちょっとだけサッパリしていこうと思っています。 ただ、他にもっといいプランがありますでしょうか? あればご教示ください。

有り難し有り難し 22
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輪廻転生はあるのでしょうか

こんにちは。 私は数年前から一人暮らしをしており、1人の時間も長くなると考え事をする時がしばしばあります。 その中で昔の嫌な記憶を思い出すことがよくあり、思い出した嫌悪感に我慢できずにたまに泣いてしまいます。 自分の性格や人間性のダメな部分に嫌気がさして自己嫌悪に陥るのですが、ああしてこうして育ててくれればこんな人間にはならなかったのに、と親のせいにしてしまう自分に何より腹が立ち、情けなくなります。 もちろん四六時中こうして悩んでいるわけではなく、仕事ができるありがたさや趣味に打ち込める楽しさもあり、普段はポジティブに生活しています。 ですが、人間いつか死ぬのなら、できるだけ早く死にたいなとも考えています。 自分で言うのもなんですが、感受性が豊かな自分にとっては家族も含め人付き合いに疲れてしまい、早く楽になりたいんだと思います(叱られるかもしれませんが… 死後の話でよく『輪廻転生』と耳にします。 私は現時点で20数年しか生きていませんが、もし人間として生まれ変わるのなら、またこんな人生を送らなければならないのならないのは御免だなと思います。 やはり死後の魂は何かに形を変えて生まれ変わるのでしょうか?だとしたら魂の数には限りがあるのでしょうか? もう一度生き物に転生せずに済むのなら、魂ごと消えてしまいたいです。

有り難し有り難し 38
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独りぼっちです

結局いつも同じです。私はここに依存していると思います。いい歳をして情けないと思います。 久々に会社の飲み会に行きましたが、同僚が結婚を発表しました。とうとう私の周りで独身は私一人になってしまいました。 私の本音は高齢の独身者を軽蔑していました。一方で自分はそんな軽蔑をされるほどひどい人間ではないと思っていました。努力すればいつかは恋人も結婚もできると。そうすれば、思う存分単身者を軽蔑してやろうと、恐ろしいですがこれが自分の本心かなと思います。 しかし、30代のころ50人はお見合いをしたと思いますが、本当に誰一人としておつきあいに発展することはありませんでした。心はボロボロになって婚活をやめました。そして、それ以来再開するきっかけもなく鬱々と日々を過ごしています。 自分が軽蔑していた人に自らなってしまったのです。 できた人であれば自分にとってどんなにつらいことでも、ぐっとこらえて相手にお祝いを言うと思います。けど、今の私にはその気持ちはなく、ただみすぼらしい自分を憎悪するのみです。 今まで頑張って生きてきましたが、最近色々と生きる元気がなくなってきました。会社でもパフォーマンスを出せておらず出世もできていません。自分の将来に悲観的で、単身高齢者として先細りの人生だろうと思います。 どうしたらこの気持ちから立ち直れるでしょうか?と本来であれば思わないといけないと思います。 自分よりも幸せな人たちがみんな憎いです。自分以外の人が全て憎いです。

有り難し有り難し 24
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2023/12/05

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

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三縁の慈悲

おはようございます。先日、慈悲について教えていただいた者です。あの時初めて聞いた仏教の慈悲の種類 - 衆生縁、法縁、無所縁の慈悲について、ずっと考えていました。これでちゃんと理解できたか(勘違いしていないか)、よかったらお暇な時に教えてください。あれこれ訊いてごめんなさい。 衆生縁の慈悲 - 自分の身の回りの人への慈悲、友達への思いやりとかでしょうか。 法縁の慈悲 - わからないです…ご説明お願いします。できれば今回3つの慈悲を一緒に理解したいんです。 無所縁(無縁?)の慈悲 - 対象がないと言われているところがわかりにくいのだけど、縁がないということは全然知らない人に対する慈悲、相手を選ばなくて無償で無限という意味でしょうか。これが仏様の慈悲かなと思います。 ハスノハで初めて仏教を知ったのは先月、仏教は神に奇跡を祈ったりするものではなくて苦しみを減らす考え方を学ぶものなのかな、と何となくわかってきました。少し前まで私は大きな大仏の神様がいて仏教徒の人達はその神様に祈っていると思っていましたが、この世に生きているうちに法則に気づいた人(お釈迦さま)が説いた教えが仏教だったのですね。それなら菩薩とか如来と呼ばれている神様達は何だろうとか、もっと知りたい欲求が出て来て煩悩が増えてしまった気もするけれど、仏教を知ることができてよかったと思います。

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