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hasunoha 問答検索結果 : 「私 あの世 」
検索結果: 730件

昨年の11月24日に愛犬を亡くしました。

様々な事を回想して思う事は いくら考えても真実はわからないんだと。 一生わからないとどこかでわかっている確信のない自信があります。 生前、変な話ですがここ数年アルは人間みたいと周りの人に言われる事が何度もありました。 僕自身そう思う事もあり、むしろ神々しさすら感じていました。 アルは具合が悪くなってから1週間で亡くなりました。 それまで大きな病気もせず、丈夫で我慢強く、本当に我が家の宝物でした。 しかし、それは自分のエゴで、アルにとっては違かったなと気づきました。 亡くなった後、違う対処をしていれば、もっと生きれたんじゃないか、生きたかったんじゃないか、、。と後悔ばかり。 しかし、それがどうであれアルはもう戻って来ません。 アルは全てを受け入れたんだと、 そう選択させてしまった事が申し訳なくて申し訳なくて、、、、。 アルが亡くなって数日後、夜の散歩中に流れ星を見ました。 また幸せに生まれ変わったら会おう!また出会えたらもっと大切にするから!と願う事も出来ました。 アルが亡くなって数日は不思議な事があり、でも全然違和感もありませんでした。 今はアルと過ごした全てが、アルが準備したものだと強く感じます。 アルは色々な事を教えてくれました。 今はそれを胸に生きています。 世の中の見え方が変わり、世間の人の見方までも変わりました。 それでもやはり、アルとまた暮らしたいと強く思い、悲しみや寂しさに押しつぶされそうになります。 行き場のないこの気持ちを供養や成仏という形で先人の方々は整理してきたのかなとも思います。 胸には悲しみと寂しさの静寂があり日々をいつものように過ごしています。 自分であって自分は変わったと実感しています。 それが良いのか悪いのかもわかりません。 今の自分がずっと変わらないのか、変わってしまうのかもわかりません。 ただ命あるものに対して気持ちの変化はあります。 大切に丁寧にと。 有限なものには精一杯。 無限なものには希望を。 損得なしにただ生きているそんな状態です。 支離滅裂な文章で申し訳ありません。

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愛猫を亡くしました

先日16歳の愛猫を亡くしました。 心臓と肺の病気で病院に連れて行った時には余命僅かな状態でした。 病院の先生のおすすめで酸素ハウスをレンタルし、自宅で看取ることにしました。 最後の4日間は呼吸が苦しく寝たきりで全く動けなくなり、ケージから出られず、排泄物で身体が汚れてしまいました。 猫が食欲無いのに無理矢理薬を飲ませてしまいました。 ベッドで腕枕をして寝るのが大好きな子だったのですごく辛かっただろうなと思い胸が苦しいです。 私が自宅で看取ると決めた事で、猫が余計に長く苦しんだのではないか、 猫の為を思うなら安楽死させてあげるべきだったのではないか、という考えが頭から離れません。 一度、あまりにも猫が苦しそうだったので安楽死の相談に行ったのですが、死なせる為に病院へ連れて行く事を想像したら急に怖くなり、辞めてしまいました。 また、苦しそうな猫を見ているのがとても辛くて、まだ生きている猫の前で何度も泣いてしまいました。 猫に「もう頑張らなくていいよ」「早く楽になりますように」とも言ってしまいました。 猫からしたら「早く死ねって事か?」と感じたかもしれません。 苦しくて辛いのは猫なのに、自分の不安が抑えられませんでした。 少しでも猫を安心させてあげられるような態度が取れませんでした。 猫は人の考えている事が分かる、と言う人もいます。 普段私が泣いていると寄り添って慰めてくれるような優しい子でした。 私が「いっそ早く楽になってほしい」と思った事が、最後の数日間で伝わってしまったかもしれません。 身体も動かせず日々呼吸が出来なくなる中で、絶望させてしまったのではないかと思うととても申し訳なくて悲しいです。 私の生きてきた人生の半分を一緒に過ごし、本当に大好きで大切な子だったのに、最後にひどい事をしてしまったのではないか、とても気がかりで心残りで申し訳ないです。

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赤ちゃんの戒名(位牌)について※長文です

初めて質問させていただきます。 3週間前に愛娘が病気で亡くなりました。生後6ヶ月の赤ちゃんです。悲しみに浸るまもなく、あれよあれよと葬儀を終え、来月四十九日の法要をする予定です。 本位牌を手配するため戒名の意味など調べておりました。 義実家の菩提寺は天台宗で、普段よりお付き合いは全くなく、私はこの度初めてそのお寺の存在を知りました。そちらで書いていただいた仮のお位牌 では「満6ヶ月」と「数貮歳」の2つの表記があり、私に数え年の知識が無かったものですから、「なぜ2歳なのか?」ととても気になりました。電話をかけてご住職に伺いましたところ、数え年について説明もいただき、本位牌には両方入れてもどちらかだけでも良いとの回答をいただきました。自分でも数え年についていろいろ調べ、2つ書いていただいた意味も理解できましたが、本位牌には「満6ヶ月」だけにしたいと思いました。なぜなら私の感覚では娘は0歳の赤ちゃんで、病気のため身体も新生児ほどの大きさしかなかったのに、2歳という言葉(年齢)はあまりに違和感があるからです。 さらに戒名自体については、主に1歳くらいまでの赤ちゃんには「嬰女」、2~3歳くらいには「孩女」という位号をつけることが多いと言われているそうですが、うちの子は「孩女」とつけていただいていました。おそらく数え年で2歳だからなのかと思ったのですが、ここでも物凄く違和感を感じてしまい、なんだかモヤモヤしています。一瞬、「嬰女」に変えていただきたいとすら思いましたが、再度お電話差し上げる勇気もないですし、つけていただいた戒名に難癖つけたいわけでもないです。ただ、数え年を使う意味やメリットには、宗教的な考えもあるでしょうが、昔の時代背景による簡便化といったことばかりが出てきて、この戒名にちっとも納得出来ません。私は無宗教ですし。数え年で戒名をつくることに、少しでもプラスに考えられるようなお話があれば是非お聞かせ願いたいです。「昔は面倒臭かったから」なんてことではない理由が知りたくて調べているのに、調べれば調べるほど墓穴を掘ります。2歳の戒名でも良いんだと思えるようなお話をお願いします。可愛い可愛い愛してやまない娘です。モヤモヤしたまま位牌は作れないです。どうぞよろしくお願いします。

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昔、体験した不可解な体験について

私が霊の存在を信じる原因になった小学生の頃にUSJ近くのとあるホテルで体験した不可解な体験です。 私は家族旅行でそこに泊まる事になったのですが深夜に目が覚めました。私はふと、浴室の方の明かりが点いていたのが気になりました。 浴室には誰かが入っているようでシャワーの音がしていたのです。その時は母親が入っていると思いました。しかし、横を見ると両親は寝ていました。 私はその時点で怖かったのですが浴室から目が離せませんでした。しばらくすると、浴室の扉が開き中からバスローブ?を身にまとった女性が出てきました。女性はゆっくりと私達の寝ている部屋へと入ってきます。まだ幼かった私はその女性を(あれはお母さんだ。あれはお母さんだ)と頭の中で必死に唱えて現実逃避をしました。しかしその女性は私のベットの後部まで来たので私は目を瞑りました。 でも、やはり気になるものでして目を開けてしまったんです。その女性はもう、私の枕元に立っていました。 もうそこまで来ると目線をそらせませんでした。そして、女性はゆっくりと前屈みになって私の顔を覗き込んできたのです。その女性の顔は母親の顔ではなく目の部分はポッカリと穴が開いたように真っ暗で見えませんでした。 そこで、私の意識は無くなり翌朝、目が覚め母親に夜に風呂に入っていたかと質問しましたが答えはNOでした。 この一件後私は霊の存在を信じるようになったのですが今でもこの体験は私の頭から離れません・・・。 私を覗き込んできた時の女性の顔は今でも鮮明に思い出せます。 一言でこの体験を言い表すなら恐怖です。 霊の存在を信じさせてくれた面では今思えば体験できて良かったと思ってはいますがやはり怖いです。 そこでお坊さんの皆様にお聞きしたいです。 この女性は何故、私の目の前に現れたのでしょうか・・・? 何かがしたかったのか?何か伝えたかった事があったのでしょうか?この体験自体なぜ体験したのか今だに分からず考えてしまうのです。 どうかお坊さんのお考えを教えてください。

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どうしてそう考えちゃうの?

私には母がいません。 なので家事はばあちゃんがやってくれています。 家事をすることは大変なことは、よく分かっています。 だから手伝ってあげなきゃって。 でもばあちゃんは手伝っても、少しでも嫌なことがあると「手伝ってくれない」「何にもしないで」と言い出します。 そんなとき私はムカついてしまいます。 ばあちゃんは、お父さんとお兄ちゃんには甘く何でもしてあげます。 でも私には嫌なことがあると「もう自分で洗濯して」と言い出します。 私が「じゃあ、みんなも自分でやらせたら」と言うと、みんなは働いてんだからって言ってやってあげます。 妹も私と同じことを言われましたが、今はもぅばあちゃんがやってあげてます。 なのに私のだけやってくれません。 そういうことがいろいろな場面であると私は感じてしまうのです。 きっと、私は何でも維持を張ってしまうし、意地っ張りなところがあるので、ばあちゃんとは性格が合わないからだと思います。 でも私は考えすぎてしまいます。 どうせ私だけやってくれないんでしょ どうせ私だけ何でしょ など 私の勘違いですか 考えすぎですか それとも意図的にですか 大変なときもあることが分かるからこそ 心が痛くなるときもあります。 でも↑のことがあると、考えるだけ損だなと思ってしまいます。 何でいろいろ考えちゃうんですか? 何で素直に出来ないんですか? 何で比較しちゃうんですか? 教えてください!! 文章書くの苦手でぐちゃぐちゃですが、お願いします。

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四十九日が済んでも気持ちが落ち着かない

お早うございます。 先月末、父の四十九日が終わり、一つの大きな区切りを迎えたはずなのに、どうしても、どんなに頑張っても、父が旅立った悲しみ、淋しさから抜け出せません。 四十九日を迎えて、もう気持ちの整理がつく頃なのに…。未だに夢にまで出て来て、気持ちの整理がつく所か、更に悲しみが増えました。父の生前と比べて、明らかに笑顔が激減しています。テレビを見ていて、「面白い」とは思っていても、笑う事も出来ず、ただ時間だけが過ぎて行きます。 道を行く車を見ていても、「昔お父さんが元気だった頃、車で色んな所に遊びに行ったよね」と思ったり、家の中のあらゆる物を見ては「これを買った日、お父さんと、こんな会話したよね」等々、どうしても父と結び付けてしまいます。 今でもまだ、ふとした瞬間に父が居そうな気がして、私が仕事から帰って来て、玄関を開けたら、そこに座っているんじゃ無いか、また母と些細な事で、言い争っているんじゃ無いか等々、考えるときりが有りません。毎日毎日、溜息ばかりです。 本膳も四十九日までは、初七日に始まり、1週間ごとにしていました。然し父は、煮物や漬物が大好きだったし、それ以前に食べる事が大好きだったので、今月からは毎月、月命日に本膳をたこうかと思うのですが、こんなに悲しいなら、止めといた方が良いのかな?とも思います。 本当に、どうしたら良いか判らず困っています。

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愛を気持ち悪いと思ってしまう

色々な映画や小説で純愛や恋について扱われますが、いつも不思議に感じます。 正直気持ち悪いなと思います。人間醜いものなのに美化して、悦に入ってるなと。愛する人と他の女性との違いはあるのか。一夫多妻制が当たり前の時代だったら、当然のように他の女性に興味を持つのではないか。そう思ってしまいます。 自分は女性を特別好きだと思ったことがありません。不純で最低ですが可愛いな、綺麗だな、やりたいなと常に女性を見るたびに思います。自意識が行き過ぎて少し話しかけられただけで自分のことが気になっているのでは?と色々な妄想をしてしまいます。 そんな女性を性的な目でしか見れない自分のことを気持ち悪いし、最低だと自覚しているので女性には自分から話しかける事はありません。というか、自意識が邪魔して話しかけられません。性的な目で見るなと言われても無理です。考えるより前に見てしまうので。 でも、それとは裏腹に日々性欲は増していき、どうにか女性と親しくなりたい、付き合いたいと思ってしまいます。このジレンマで悩まされています。 仏教では悟りを得るために性欲を抑制しますよね。どうにか性欲を抑える方法はないでしょうか。 これに加えて家族愛も気持ち悪いなと思います。出産とは自分が描いた理想的な家庭像をなぞるためのもので、幸せになるためのツール、エゴでしかないと思っています。産むも産まないも産む人の判断です。ペットショップで高額なペットを飼うのと一緒です。人間に遊ばれるためだけに交配させられ、生まれてきます。 自分が不登校になった時の親の反応を見てそう感じました。息子の感情を度外視して、世間体を気にするあたりです。親というのは息子が理想の優等生だった時と劣等生になった時でこうも対応が変わるのかと驚きました。 とはいえ、人間関係が嫌いなわけではなく、息が合う友人と話す時間は心地良いです。お互いに尊重し、お互い心地良い、でも少し互いに見下しあっているという引いた距離感も好きです。 仏教では愛についてどう考えているのでしょうか?また、人間関係(主に恋愛関係)においてどう考えていけばいいでしょうか?もしくは、性欲を抑える方法などあるのでしょうか?

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