死ぬ直前の悪い想念があの世で延々と続いて、ガキ道や地獄へ落ちてる場合、どういった供養をすべきでしょうか? 朝晩お食事お供えしたりは欠かしてません。 結局、あの世の本人の悟り諦めしかないのでしょうが、どうやって子孫としてサポート出来ますでしょうか? お経は一応毎日あげてます。 感謝の言葉も述べてます。 子孫が出家僧侶となり千日回峰業のようなこの世での荒行するなりで、全ての欲を絶つくらいしないとならないのかなと感じてます。 私は酒タバコギャンブルも一切しませんし、殺生にあたる肉食も止めました。 懺悔文を口語にして、御先祖様の愚かさや貪りから起こしてしまった過ちに詫びてます。 自分の苦しみは自分の業と理解してますが、御先祖様の苦しみ迷い悩みだけは、私の命があるうちに可能なら解消してあげたいと願ってます。 お知恵を拝借出来れば幸甚です。 まあ、今まで通り供養して、この世では明るく感謝の気持ちでがんばって下さいとしか言いようがない質問でしょうが。
現在、京都の佛教大学に通ってます。浄土宗の教義を勉強しております。家の仏壇や大学の礼拝堂で、半年間ほど開経偈から真身観文までの助行と本願念仏を唱えてきました。 しかしながら、阿弥陀仏の浄土の存在と死後浄土へ往生できそうだという手応えを一度も感じることができず、今は念仏をやめてしまいました。 例えば、自転車に乗る練習を何回かすれば乗れる手応え感じるはずです。 しかし、念仏に関してはそれが無いのです。 善導大師や遊蓮坊園照は証覚を得たと言います。私も手応えを得れば、今後の人生を明るく有意義に暮らせるとおもいます。 念仏をされてるお坊さんで、浄土の存在と死後往生できそうだという手応えを得てる方はおられますか?それともやはり、極楽浄土は絵空事のフィクョンなのでしょうか? よろしくお願いします。
コンニチワ。よろしくお願いします。 早速ですが、近現代の日本仏教者で、マザー・テレサ以上に菩薩行を積まれた方はいると思われますか? お坊様方が、「この人は偉い、偉かった」という人がいらしたら、その方の名前を教えてください。(その人の関連書籍があれば読んでみたいので) また、「くらべることではない」といわれるかもしれませんが、そこは、単なる質問ではないことをくみ取っていただきたいです。 宜しくお願い致します。
5月2日に兄が自死しました。 真言宗の自死について調べると、自死は地獄いき決定とでてきました。 これは本当なんでしょうか? 生前、苦しくて辛くて今回に至ったのに、まだ苦しまなくてはいけないということですか? また、供養によって救われる場合との意見もありましたが、実際の供養とはどういったことを言うのでしょうか? 私は妹の立場で、結婚しており遠方に住んでいるのですが、それですと位牌に直接、お経を唱えることができないので無意味なのでしょうか 家庭環境が複雑で兄が苦しんでいるのを知っていたはずの私が助けてあげれなかったのを今でも悔やんでいます。 なので、兄の自死が悪いことだとも思わないですし、なんなら兄は自死じゃない、病死だとも思っています。 何個か質問があります。 真言宗ですど ・自死は理由関係なく地獄いきなのか ・49日までどういった行動を兄は取るのか ・供養は離れた場所からは無意味なのか お聞きしたいです。 よろしくお願い致します。
三回忌法要を自宅で執り行い、お布施を一万円、お車代五千円、お膳料五千円をお坊さんに渡しました。その日の夜に、お布施があと二万円足りないと後請求されました。 そういったことは普通なのでしょうか? 元々お布施がいくらかなど聞いておらず、私なりにGoogleで調べたところ、一周忌より金額を下げてよいと書いていたので、今回は一万円にしました。(一切こちらを気遣う言葉や法話もなく、ただお経あげてすぐ終わる方なので、元々こちらもいい気はしてませんでした) 一周忌の時は、お寺で撮り行わせてもらい、お布施三万円、お膳料を一万円渡しましたが、その際もお寺の使用料が二万円足りないと電話で後請求されました。初めて借りたのですが、事前に使用料のことなど聞いてませんでした。 一周忌の使用料は仕方ないと思いますが、お布施は檀家の気持ちじゃないのでしょうか? 三万円の決まりがあるなら事前に伝えるべきではないのでしょうか? 私が非常識で無知過ぎるのでしょうか?
祖母は浄土真宗です。 前から『ん?』と思う事があり、先日、祖母が亡くなり話し合いでも色々ありました。 まず、何年か前の法事の時にラジカセ持参で来ました。 もともとボソボソ話し、いつも何を言っているのか聞き取りずらい方なのですが、お経がラジカセでした。勿論お坊さんも読んではいたようですがあまりに小さい声でラジカセからのしか聞こえませんでした。 その場は『ラジカセって…』といった雰囲気でした。 お経ってラジカセでもいいのですか? 後日、叔母から聞いたのですがお布施とは別に袈裟代を二万請求されたと。 袈裟代は個人が払うものなのでしょうか? それと今回の葬儀の打ち合わせの際の事ですが、祖母は菊が大嫌いです。 なので親族は祖母が大好きなかすみ草と色は紫が好きだから紫の花にしようと話していた所、お坊さんが『浄土真宗は菊じゃないとダメです』と言い、こちらがいくら説明しても『菊です』の一点張りでした。 嫌いな花より大好きな花で送ってあげたいのですがやっぱり菊じゃないとダメなのでしょうか? マナーとは関係ないのですが、日程を決める際、こちらとしては早めに納骨をして祖父と一緒にしてあげたいと伝えた所、大した理由もなく『少し考えたいので明後日にお通夜、明明後日に葬儀にします』と言われてしまいました。 何を考えるのかもよく分からないし、挙げ句の果てに『今思い出しましたが、明日は用事があるので』と。 手帳を開いていましたが予定は真っ白でした。 色々と揉めましたがこちらが折れに折れて話し合いは終わりました。 ですが、気分を害したようで親族に挨拶もなくさっさとお帰りになられました。 袈裟の色は黒でそれなりのお歳の方です。 私は宗教などに無知なのですが何かモヤモヤしていまいます。 ラジカセ、袈裟代、仏花はそれが普通なのでしょうか? 宜しくお願い致します。
最愛のひとり息子が亡くなって今日で49日です。 先日、四十九日の法要は済ませましたが、本来なら今日が本当の四十九日です。 息子が大好きだった料理を作ろうと思い買物に出かけましたが、好きだったお菓子やジュースを見かけると涙が止まらなくなりました。 人前で泣く事は我慢して来たのに、涙が溢れて止まりませんでした。 息子と同年代の子供が公園で遊んでいる姿を見て羨ましくて泣けてきたり、桜の花が咲き始めて他人の入学式の事を考えて苦しくなったりします。 綺麗なものを見ても綺麗とは思えず。 テレビを見ても何をしても面白くなく、美味しい物も美味しいとは思えず、このままの自分で苦しみや妬みや喪失感を抱えたまま一生を終えて行くと思うとやりきれません。 いっそ死んでしまおうかと思いましたが、私と同じ思いを身内にさせる訳にもいかず、毎日が生地獄の様です。 何故あの時に。何故あの時に。の後悔ばかりです。 今更 何をどうしても帰って来るわけでもないのに自責の念と後悔の念で心が壊れそうです。 ここで何度か相談に乗って頂いたり、他の方の質問などを見て辛く苦しいのは私1人じゃないと思いながらどうにか頑張っていますが、あの日から変わってしまった自分の心は、もう戻らないのでしょうか? 今は、息子を阿弥陀様のもとに成仏させて頂きたいので、朝、昼、夕と寝る前に辿々しいですが、お経をあげています。 お経も、まだ間違えてばかりですが、どうにか頑張っています。真言も1日1080回あげさせて頂いています。 息子の為に心を込めて供養をやって行こうと思います。 長い長いトンネルの中を、もがきながらどうにか生きています。
極楽浄土に生まれ変わるとありますが、どのような状態で生まれ変わるのでしょうか? 赤ちゃんから生まれるのでしょうか?それとも臨終した際の年齢で生まれ変わるのでしょうか? また阿弥陀如来は極楽浄土へ生まれ変わることを願ったものをどのように導いてくれるのでしょうか? 大学の授業で使いたいため質問させていただきました。 拙い文章で申し訳ございません。 回答の方お待ちしております。
私は自分の前世がどのようなものだったのかとても知りたいです。 でも、自分の前世を知ってはいけないから、思い出す事が出来ないのかなとも思います。 今の自分が苦手な物や今自分の周りにいる人は前世とも関わっているという話を聞いた時にそれは本当かなと疑問に思いました。 私の一生で前世を知ることは出来るのでしょうか? それとも前世とは、今世から現実逃避したいと願う空想の話なのでしょうか? 支離滅裂な文章で申し訳ありません。 教えて頂けたら幸いです。
いつもお世話になっております。 先日の質問からなるべく親戚とは関わらないよう、父に任せるよう努めております。 ですが、例え関わらなくても父の兄弟や祖母に対する憎悪は消えることはありません。何気ない日常を過ごしていても、頭の片隅ではいなくなってしまえばいいのにという気持ちが湧いてきては消えていく、そんな日々です。 お経をあげている時も消えればいいのに、という思いがこみ上げてきてしまいます。 夢にも出てきます。最近は玄関のドアを無理やり開けようとしたり、土足で踏み込んでくるような夢も見ます。 勿論もうこれ以上余計なことに関わるつもりもありません。 が、どうすればこの憎しみや恨む気持ちを消化できるでしょうか。祖母たちが心の底から今までのことを詫び、母に謝ってさえしてくれれば少しは私の気持ちも楽になるのかな、と思ったのですがきっとそういう機会は訪れないでしょう。 いつも祖母は被害者面。話をしていても自分がいかに苦労し、母がダメだったかという話に切り替わってしまいます。もう年なので真に受けていませんし、受け流してはいるのですが…。 こんな憎しみまみれな日々を送っていることをきっと母は悲しんでいるのかなと思いますし、こんなことを考えても無駄、存在を忘れたほうが幸せなんだと頭でわかっていたとしても、祖母たちの不幸を願ってしまいます。 どうしたら私は変われるでしょうか。
文章が長いところがあります。 私が、仏像を好きになったのは、名古屋のお寺の十一面観世音様がきっかけでした。 同時に、漫画のキャラでは、聖闘士星矢黄金聖闘士の乙女座のシャカがきっかけでもあります。 それから、高校生になって夏休みには、一人旅で京都のお寺に行くため一人旅をしました。 真言宗智山派総本山智積院の護摩経の後に出会った仏様が大日如来様でした。そのときは、初めての京都一人旅だったのかあまりに緊張していて……。でも大日如来様は、すごく綺麗でしたし、美しかったです。 パンフレットにもかっこいい大日如来様のお顔が載っていて嬉しいです(* ´ ▽ ` *) 大日如来様には、お寺にお参りさせていただきました。今もその事は、記憶にあります。高校二年の夏休み最後ら辺も、家族で別行動したとき、大日如来様にあって少し嬉しい気持ちでした。 お寺にお参りすると幸せな気持ちです。 少しお恥ずかしいことですが、大日如来様のお姿の綺麗さに恋をしました(* ´ ▽ ` *) 大日如来様が大好きだという思いが大日如来様に伝わってるか、わかりません。 でも、その思いが本当に伝わるんでしょうか?「きっと伝わる」とは思っているけど、たまに「伝わってるかな…(^.^)」とふと心の中でそう思ったので、お坊さんか尼さんに話に来ました。 迷いながらこの文章をかいてました。
こんばんは。こちらのお坊さん方のお言葉には本当に救われています。ありがとうございます。 今回の質問は、くだらないしょうもないことかもしれませんが、聞いていただけると幸いです。 先程金縛りにあいました。短時間に2回ほど身動きが取れず耳鳴りがしました。何かを見たとかそういうことはありません。脳と体の問題だという説も承知しておりますが、私は霊的なものを信じていないわけではありません。 2回目の金縛り中、心の中で「お寺に連れて行ってあげるからもうやめて」と唱えていました。それで金縛りが緩まったかと言われるとそうではなかったと思います。また、唱えている間、私の息子には何もしないでねみたいな事も考えていたと思います。 以上のことから今日の日中お寺にお参りに行くか迷っています。自分で唱えてしまったので行かないと嘘をつく事になってしまうとも思います。これで息子に何かあったらなど考えすぎだと思いますが、、、自分ではわからなくなってしまいました。行くとしたら祖父のお葬式をしていただいたお寺にしようと思っています。 そこで、お寺に行くべきか行かないべきか、お寺に行く場合お経をお願いしたほうが良いのか、お参りだけで良いのか、またお寺やお墓に赤ちゃんを連れて行ってもいいのかをお答えいただければと思います。 自分は深く考えすぎだなと思うこともたくさんありまして、本当にくだらないことだとは自分でも思いますが、、、。よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。 医師の勧めで、毎日、祈願寺の写経道場に 通っています。 その後、護摩でお経を上げ帰宅します。 祈願寺は距離もあるので、規則正しい生活 の基盤、また学びの機会にもなっており、 色々な人も来るので、軽い訓練にもなって いる…気がします。 医学的にも、写経行には集中力を高め、 認知症の予防にも…と聞きますが。 そこで数点疑問が生じました。 写経には大きな功徳が…と聞きますが、 そう言われても、いまだピンときません。 また、我が祈願寺の宗派は実践的な修行に 力を注いでおり、 本山には信徒向けの水行、登拝行、断食行 などのプログラムまで存在します。 まさに、「道場」といったところです。 ご詠歌もあった気が。私もたまに参加 しています。個人的にもやりたいので、 道具を揃えるか思案中です。 とくに断食行に関しては、 「治療目的での入堂はお断りします」 と注意書きがあります。 写経や信徒参列型の護摩と、断食行は やることが根本的に違う、また、前者には 治療云々…の記述はありませんが、 私の場合、認識のズレから誤解を生じ、 お坊さんから顰蹙を買っていないか不安に なってきました。 今までも、あらゆる場面で認識のズレから トラブルを作っていたので…。 関連して、最近になって、お坊さんから 行儀に関して指摘される事が増えました。 たとえば、 「トイレに入る前に輪袈裟を外して」 など…引き締めを図る時期が来たか? とも思います。 ほんとうに、無知で申し訳ない…。
はじめて利用させていただきます。 写経のタイミングにつき、ご教示頂きたく質問させて頂きます。 現在92歳になる祖母がいます。 昨年膀胱がんが発覚し、手術したものの取り切れず、闘病しながら生活しています。 とはいえ病の影響はなく、足腰も丈夫で、ゆっくりではありますが自分で歩いて出かけることも出来るし、飲食にも支障なく、至って元気に過ごしています。 わたしが生まれた時から同居しており、共働きだった両親に代わり、ほとんど祖父母に育てられたわたしにとっては祖母以上に大切なひとはいません。 両親は昔から不仲でいまだに喧嘩が絶えず、仲裁するわたしとは反対に逃げてばかりの妹とは仲の良くないわたしは、常に祖母と一緒でした。 祖父は18年ほど前に亡くなっており、以降ずっと祖母に寄り添い生きてきました。 今でもどこに行くにも一緒で、お互いが一番の理解者です。 いまは祖母も病の影響も少なく元気ですが、やはり年齢のせいで身体的に弱っているのは目に見えてわかります。 祖母が亡くなったらわたしは生きていかれないかもしれない、そう友人にも心配されるほどとても仲が良いです。 だからこそ、亡くなってからわたしは自分に何が出来るかわかりません。 本当に何も手につかなくなってしまうのではないかと思っています。 けれど、わたしから出来ることは最期の瞬間までしてあげたいと思っています。 数年前、祖母の姉が亡くなった際に、写経したものを親族が棺に納めていました。 祖母の姉も信心深い人で、その人に倣い、わたしの祖母も朝晩毎日親族の供養に読経しています。 そこでわたしも同様に祖母の棺には自身で写経したものを納めたいと考えています。 けれど、それほど依存していた存在が亡くなってから、火葬するまでの短い時間ではとても手につかない気がしています。 かといって早いタイミングでそのような意図で写経をするのは死を待っているようで良くないのではないか、とも考えました。 このような意図で写経をする場合、いったいいつのタイミングで行えば良いものなのでしょうか? 写経会などに参加すると、納経を行うとあり、納経してしまうと棺に入れてあげられないため、納経せずに持ち帰るということは出来るのでしょうか? それとも、こういった際には自宅で写経するのが良いのでしょうか?
先日質問をさせて頂きました。 今回はお盆にあった事と、つい最近あった事についての質問です。 私は曹洞宗です。今年亡くなった祖母は禅宗から浄土真宗になりました。(祖父が浄土真宗だったからです) 祖母の新盆があり、お寺にお参りしてきました。 納骨堂には祖母の遺影を置いてきました。 広場でお経をあげられた後、お坊さんから精霊馬を置いている人は居ないかと聞かれ、皆さん手をあげず、私は自宅では飾って居ますが、手をあげませんでした。 その際、皆さんよく勉強されている、浄土真宗では飾らない、また、故人はお盆には帰ってこない、何故ならもう成仏しているから。と喜々として語られていました。 ちょっとショックでした。 確かに浄土真宗教義ではそうなのですが 言い方を変えると二度亡くなった感じに感じました。 曹洞宗の私は成仏した成仏してないに関わらず、お盆とはそう言う物だと思って居たからです。本来の教義からすると離れるのかもしれませんが、こちらから成仏した成仏してないの確認は出来ませんので、一律に帰ってくるものだと思うようにしていました。 正直今後宗派が違う祖母のお寺のお盆参りには行かない方が良いのかとすら悩みました。 先日祖母の月命日があり、お寺にてお経をあげてもらったそうです。こちらからお願いして頂いたそうです。祖母の納骨堂の前でお経を貰ったそうです。 既に成仏していると言う考えなのであれば、納骨堂の前でするのではなく、本堂の阿弥陀如来の仏像の前でするのではないのか?と思いました。 浄土真宗では納骨堂に意味があるのでしょうか?そこに居ないで阿弥陀如来に手を合わせるのであれば意味が無いのかと思ってしまいます。 そしてそのお寺では死後の菩提寺が無い人に対して浄土真宗になればうちのお寺で対応すると言うような手法を使われているそうなのですが、こういう事は良くあることなのでしょうか? あまり祖父母が浄土真宗としてのお参りなどをこれまでしてきていなかった事と、子供の頃から曹洞宗のお盆で慣れて居た事もあり、面食らって居ます。
複雑な状況を抱えてしまい、何年か悩んでいます。詳しくはなしても分かりにくい、のと話したくない気持ちと話さない方がよいともアドバイスいただいたこともあります。自分の言ったことが原因で、人のうわさ話が原因ですが、それだけが問題ではありませんが、地域中にひろまり、仕事場にも影響を及ぼすようになり、うまくいかなくなり、悪意や馬鹿にされるだけでは終わらず、、嫉妬、妬みまでもかい、支障をきたすようになって困っています。 真実を打ち明けようと思っても、逆に悪くまわる可能性があるのと意味のないことに終わりそうなので、やめています。問題を解決するために般若心経や般若経などに興味をもち、無や空を行ずるようにこころがけています。しかし、無や空について、知識があまりなく、どう考えていってよいか分からず悩んででいます。以前、宗教に入っており、この世は現象世界だから、すべては実体のないものと教えていただきましたが、いざ問題がおこってしまうと現象としてほっといておいてよいはずがなく、どういう風に手をつけて解決しておいていいか分からずこまっています。現象を空と感じるとそこにいろいろな神様の守護がうけれるようなことを般若経には書いてありました。それから空を行ずることによって得られる功徳はかぎりないものだということも書いてありました。私も空を行して現象をすこしでもよいものにしていきたいのです。現実界で講じれる手段はしつくしたように感じることもあります。というかする手立てがあまりないのです。下手にかかわるとよけいひどく非難を受けたり、都合の悪い結果を招きそうな気がしています。自分を変えていきたいという願いも含めて、無と空をぎょうじていきたいです。 また、私は護摩をお寺にお願いしてやっていただいたこともあります。神社仏閣に参ることも好きで頻繁ではありませんが、参っています。困ったときには神社に参ってたよったこともあります。信仰を志したいとかもおもったことがあります。 般若経や般若心経に詳しいお坊さんがおられたらご回答をおねがいしたいです。無や空についてしりたいです。
先日、小さい頃からお世話になっていた伯父の四十九日の法要を行いました すると、お経を上げてもらい始めたら頃から頭がぼーとなり、なんとも言えないような気持ちが込み上げてきてしまい涙がぽろぽろ止まらなくなりました もしかして、亡くなった伯父が伯母を心配して何かを言いたいのかと思っていました 法要が終わり席を立つと感情が抑えられなくなり嗚咽を吐いて泣いてしまいました ここからはあまり覚えていませんが周りにいた子供と伯母の話で 伯母に抱きつき離れたくない、おばあちゃんと言って泣いていて お坊さんに話をしましょうと言われ お坊さんのところに連れて行かれてお経を上げたり話をしていただいたみたいです その間私は泣きじゃくり時々助けてとか叫んだりしていたようです 名前を聞かれたけど言わず「ハシ」とか言ったみたいで橋から身投げしたものかもとか… 私はその間、苦しくて時々、少しだけ、どうしたらよいかわからないが そこから脱出したいような気持ちになったいたことは覚えています お坊さんの話では私の心に魔が差した時に何かが入り取り憑いたというか心に住んでる?いてる?これは何者かわからないが多分とだいぶ前からいてて、なかなかとるのも時間がかかるかもしれないとのこと、もしとりたいなら修行から帰ってきたところのお坊さんを紹介するので これから色々身体が悪くなってきても大変なのでとってもらいなさい 今日はお坊さんが来てお経をあげたので、でてきたとのことでした 子供も伯母も主人も驚いていて怖い思いをさせてしまいました 昔、自分の父親の四十九日の時もこのようになったことがあります 今はみんなの前で普通にでき出来るだけ明るく過ごしています 今、普通にできているのに自分でも信じられないのと、伯父の大事な四十九日に何故こんな事になってしまったのかととても悔やんでしまいます 本当にお祓いをした方が良いのか また四十九日に出席した時に同じようになってしまうのではないかと どうすればよいのかわかりません どうかよろしくお願いします
気味悪がられるので口にしないだけで私のような人間はよくいるのでしょうか? 私には信仰深い母がいて、幼い頃から母との出かける先の半数は寺社でした。 遠出した先でたまたま見つけた寺院や高野山の金剛峯寺、厳島神社。参拝する先は様々ですが参拝中にちょうど読経をしていることがたまにあって母はお経を聞くのが好きなので私は母に付き合ってお経を聞くのですが、それを聞いていると次第に頭がぼーっとしてソワソワし始め、首を絞められるような感覚に見舞われ、立っていられなくなり吐き気がして酷い時はそのまま嘔吐します。 寺社によってはお経を聞かなくても嘔吐や下痢、疲労感やなんとなくその場から離れたくてソワソワします。 普段は健康優良児で、人より体は強いくらいなので自分でも少し気味が悪いです。 寺社で気分が悪くなる様子を見せられる家族は私以上に気味悪そうにしています。 それと関連するかは分かりませんが、昔から飼っている動物が(特に体の小さいものほど)平均寿命より早く急死か原因不明の死を迎えます。道を歩いていると何もない空から鳩が落ちてきたこともありました。植物もちゃんと世話をしても枯れないか育ちません。電子機器も電気屋さんや修理業者さんが首を傾げるくらい突然不思議な壊れ方をすることが多々あります。 それと実際には起こったことのない、妙に鮮明な記憶がたくさんあります。家族は記憶を捏造する癖がある、と言うのですがあまりに記憶が鮮明すぎて私には家族や周囲が何かおかしいようにすら感じます。 モヤモヤしますしどこに相談していいかも分からないのであまり人には言わないのですが、やはり私が変なのでしょうか?というか呪いの類なのでしょうか?
真言宗の信者です。新興宗教は全く信じないものです。死ぬ、これは誰にも与えられたものですが、親よりも先に逝こうと考えてます。仕事の事とか、経営している店の事とかで、もう、手一杯でにっちもさっちも行かない状態で。死ねば楽になる、なんて思っても見たりしてます。小さい頃から仏教には興味があり普通の人には地獄、天国など信じ難いものかも知れませんが結構、気にして生きて来ました。今では般若心経、幾多のお経も唱えられます。自分が死ぬ事(自死)にあたり、お経を唱えながら死ねば極楽浄土と言いませんが、成仏出来るのでしょうか。若い頃は霊感とかもありましたが、歳を取るごとに全く無くなって来ました。今ではあの霊的出来事も嘘の世界とか思ってもみたりします。誰しもが、死んだ後はどうなるか、なんて具体的に答えられる方は誰一人いません。こうやって書いて自分を慰める事自体、自慰行為の何者でもない事は分かっています。ついでかどうかはわかりませんが、鬱病で大学病院に通院してます。鬱の薬は自分では麻薬の様なもの、と思っています。家内が薬の量を調節してくれて、今ではかなりの量を減らす事が出来ました。それまでは手のひら一杯、ラムネの如くてんこ盛りで飲んでいた時期がありました。病気と自殺願望は切っても切れないものと思います。やはり自分の意思が弱いのでしょうか。それともわたしの意としていない、何か(誰か霊的な物)がそうさせているのでしょうか。就寝前には大体、毎日とは言えませんが般若心経、一通りのお経を唱えて寝てます。勿論、先祖供養とかその他の供養とかですが。私自身、信心深いと言えばそうかも知れませんが、神、仏、信じられない時があります。何故、ここまで試練を与えられるのか、とか。私自身、家内を2度(二人)も自死で亡くしております。普通にこんな苦しい思いをしてる人って居ませんよね。どうか、助けて下さい。お願いします。
先日より色々と質問にご回答頂きありがとうございます。 この夏に母の初盆を迎えます。父は十数年前に他界し、父の古里の香川県の先祖代々のお墓(真言宗のお寺様の)に納骨しています。 母は生前に知らない遠い土地のお墓に入るのは嫌だと言っており、しかし、父とは離れたくないようでした。私は次男です、兄はお墓のことも供養も何も考えていないようですし、お墓を移す金銭的余裕も無いようです。色々あり、兄とは絶縁状態です。お盆も納骨も一周忌も私一人で行うつもりです。 そこで、ネットで永代供養で合祀されないものを探したところ、数十万でお墓を建て、供養料が10万弱、他費用なしのお墓を見つけ、電話で確認したところ、今はいっぱいで年末に数百基増設されるそうです。 それを購入し、母の納骨、父のお骨の移動し、後は私が入る予定でと考えています。月一回、曹洞宗のお坊様が供養してくださるようです。 香川のお墓は兄が継ぐはずですし、そのまま兄に任せようと思うのですが、気になるのは、宗派の違うお坊様のお経を頂くことと、ご先祖と別のお墓に両親のお骨を埋葬することです。 以前、お盆の質問で、誰がお経を上げても気持ちという回答を頂いて、宗派の違うお坊様でもお経を頂けるだけありがたいと言う気もしますが、 ご意見いただけないでしょうか? それと、そのお墓の募集が始まる頃は年末で、それからお墓を建て、手続き等で、10月の一周忌を何ヶ月も過ぎてしまい、仏壇でお祀りしたままでも良いですか? それと、初盆は別にお祀りの棚を用意しますが、お骨もそこにお祀りしてよいよでしょうか?