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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 生きる 死にたい」
検索結果: 8774件
2025/05/01

生きているのが虚しいです

またご相談をお願いしたいです生きているのがむなしいです 子育てが落ち着いてきたせいなのか、年齢のせいなのか分かりませんが そのうち死ぬのに生きていても意味がないしむなしいという気持ちで一杯です 周りの人たちや他の相談サイトで相談しても 「趣味を持とう」とか「目の前の仕事を一生懸命やろう」とか 「限りある人生を後悔せずに生きよう」など言われましたが全然元気がでません だんだん相談する事にも疲れて来ました 親身に相談に乗ってくれているのに申し訳ない気持ちです 最近はやる気が出なくてぼんやりしている事が多いです 楽しい気持ちになってもどうせまた辛い気持ちになるのだと思うとやる気も起きません 生きていたくないけど死にたくもないという気持ちです 生きている苦しみから解放されたいけど死ぬのは怖いという気持ちの板挟みです 最近は時間がたつことにも恐怖を感じて来ました 生きて死ぬ事を受け入れて穏やかに過ごしたいと思いますが苦しいです 安心したいです 子供の頃からうっすらとあった生まれてきてきた事に関する絶望感が強くなってきた気持ちです とりとめもなくなってしまいましたがよろしくお願いいたします 話を聞いてくれてありがとうございます

有り難し有り難し 34
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死ぬ気で頑張る→失敗→死ぬ

母が精神病で虐待されて育ちました。 唯一心を解放できた勉強も母の進学反対により潰され、母の気に入った職場に就職することで自立しましたが、母の職場への干渉に耐えられず、成人したその日に退職。その後は学習塾でアルバイト。 結婚したが、私もあの悪魔のような母親になってしまうのでは?他のママ友とうまくやれるのか?隔世遺伝で子どもが悪魔になるのでは?などの恐怖からノイローゼぎみでした。虐待の連鎖を止めるため、たくさん勉強しました。そんな中で、仏教の「母の愛もまた煩悩」という考えに救われ、母を許すことができました。また、かなり調子がよくなりました。しかし、夫が失業することになり、私の就職活動と妊娠の両方は無理だという恐怖から私が避妊薬をのむようになったこと、また、仏教系の新興宗教に通い出したことから夫から「最初から産む気がなかったんだろ、ダマシタナ」と離婚になりました。 その後は新興宗教に誘われ出家しました。でも、みなさん結構実家から援助してもらっていて、結局「親に感謝」という雰囲気でした。もちろん、私も母には感謝してますが「母=善」という考えには疑問を持ちました。団体の代表者から他の在家の信者さんの悪口を聞かされ、それは構わないのですが、「俺の信者さんからの迷惑と比べたら、あなたのお母さんから受けた苦痛なんてなんともないから(笑)」と言われてプッツリきてしまいました。 宗教団体から出るため就職活動もはじめました。実は九年間かけて取り組んできた通信の大学が、再来月に卒業なんです。大学では哲学や宗教や心理学をやりました。それを活かせればと思いましたがどこもダメ。学習塾でさえも。 もうやる気が全くなく、死にたいです。でも唯一、学習塾には行けています。宗教団体に家賃と活動費と食費を払わないといけないので、。それに教え子はかわいいです。引越を先に考えてますが気力とお金がないです。 実家もだめ、結婚もだめ、出産もだめ、就職もだめ、学業もだめ、趣味もない、友人も一人もいない、出家もだめ、で人生詰んでます。死んだほうがいい人生です。趣味がないので、できるだけ一日仕事をしたいです。学習塾は夕方しかないので... また再出発できるのでしょうか。

有り難し有り難し 96
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2023/08/03

死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 14
回答数回答 3

「死にたい」という娘について

タイトル通りです。 20歳の娘の希死念慮(死にたいという気持ち)や自己破壊的な行動に悩まされています。娘は幼少期からあまり人前で話すことがなくまた早生まれもあってか何事も少し遅れていました。初めての子ということもあり周りと違う娘に対し常に「このままでは駄目だ」「もっと話せるようにしないと」などと厳しく育ててしまいました。そして私は知らずしらずのうちに娘を否定するような言葉を投げ掛けていました(これは後に娘から言われ分かりました。私は所謂「毒親」なんだと思います。)そんな中でも成績はいつもビリから数えた方が早かったですが真面目ではあったしなんとか高3まではとくに問題もなくやってきたのですがクラスメイトとのいざこざをきっかけに娘の言動が少しずつ違和感のあるものになっていきました。クラスで孤立し突然教室で泣き出したり廊下で暴れてみたり、、スクールカウンセラーにお世話になっていた時期もありました。発達障害の検査もしましたが結果はグレーゾーンとも言い切れないという感じでとくに治療などはせずにそのまま卒業、進学先は県外で専門学校。ところがその専門学校でも半年経たずに女同士のいざこざからまた孤立し学校も休みがちになりました。見た目もかなり変わり一人暮らしの部屋は片付けることもなく荒れ放題、、夜中に電話をしてきて「もう駄目だわ、何もうまくいかない」と言ってきたこともありました。そしていつの間にか娘はキャバクラで働くようになりました。男の方が一緒にいて楽だという娘は男性とばかり一緒にいるようなりました。でもすぐに飽きられて捨てられる、、何もかも信じられない人間不信になったと言いもう自分なんてどうでもいいんだ、と親に隠れて風俗で働くようになりどんどん生活は荒みました。今年の夏にアパートを引払い家に戻らせましたが数日前に部屋で死のうとしました。夫と私と娘と救急で精神科に行きました。ひとまず落ち着いた様子ですが次の受診日に果たして受診してくれるのかそれまで生きていてくれるのか不安や心配や不甲斐なさや複雑な気持ちで押し潰されそうになってます。医師には診断をつけられはしませんでしたが「複雑性PTSD」の話はされました。今後、私は子供の為に何が出来るのか、子供は回復するのか不安で堪らない半面自分のメンタルが崩壊しないかとも正直思っています。自分の育て方が悪かったことは子供に謝りました。

有り難し有り難し 7
回答数回答 1
2023/02/20

死ぬのが怖いです。

初めてこのサイトで質問をする中学生です。 私は幼い頃、意味もなく虫を殺してしまったことがあります。また、人からお借りしたものを無くしてしまったこともあります。そのことを深く後悔し、捕まえた虫は逃し、精一杯人に親切にするように心がけていますが、今も毎日歩くたびに、手を洗うたびに、息をするたびに、たくさんの微生物を殺し、食事のたびにたくさんの動物の命をいただいて生きています。人に悲しい思いをさせてしまうこともあります。 最近、こんな自分が世界一の悪人であるように思え、命を脅かされることもなく幸せに暮らしていることが心苦しくて仕方なくなりました。すると、死後に罰を受けないはずが無いと思い、何をしていても死の恐怖が頭から離れなくなってしまいました。今この瞬間も生き物を殺してしまっているのだと思うと、心臓がバクバクして、辛くてたまらなくなります。それでも、罰を受けたく無い、死にたくないと思ってしまいます。幸せを実感するたびに、申し訳なさと、死の恐怖で頭がいっぱいになります。自分勝手なことだとわかっていますが、死後もずっと今のように家族や友達と笑い合って、今のように平穏で幸せな暮らしをしたいと思ってしまいます。死によって今の幸せに終わりが来るのが怖いです。 私はやはり地獄へ行くのでしょうか。死んだら、もう二度と大切な人たちと暮らせないのでしょうか。めちゃくちゃな文章でごめんなさい。回答をいただけると幸いです。

有り難し有り難し 6
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死ぬ間際の人間のありかた。

人は、死ぬ間際、どういう心持ちでいたら良いのでしょうか。 死ぬ瞬間。 浄土系の教えでは、弥陀来迎を信じ、弥陀にお任せして、心穏やかに 最後の時を迎える事だと思います。 死の間際、恐怖なく安穏で居る事は並大抵じゃない。 高度な仏教哲学も、「自分が成っていないと」生老病死の苦しみに対する、屁の突っ張りでしかない。 「成った事」すら、無明を前にして、自覚出来ない気がします。 だとしたら、方便でも、心穏やかに最期を迎えられる、浄土系の教えは、在俗の者に有効なのかなと思いました。 学究であり、優れた人格の法然上人の、庶民への優しさかなと思いました。 しかし、究極の真理は、「自浄其意」だと思います。 しかし、禅宗にも一抹の疑問が涌きました。 「六道輪廻は生きる人間の心の有り様。」と、輪廻思想を切り捨てると、 「而今」の真理から言えば正しいですが、施餓鬼等、自身が行っている事も否定してしまう。  正自覚者である釈尊が、見通した世界。インド土着の世界観等々と切り捨ててはいけない気がするんです。 だとすると、死の間際の心の有り様は重要なのではないでしょうか。 人生に一度しか経験しない、最大恐怖の死。 生老病死の最大恐怖。 何かすがるものがなくても、灯明の如く寂滅できるものでしょうか。 お坊様方は、人は死の直前、間際、どのような状態に居るのが理想と思われますか? 何もかも放下して、消え行く中。 どんな気持ちでいるべきなのでしょうか。 最大の疑問です。 どうぞ、ご教示くださいますよう、お願い致します。

有り難し有り難し 10
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