お坊さんの読経をyoutubeなどで聞かせて頂いています。 自分が観音経などを読経しても、お坊さんの様にいい声で、滑舌良くハッキリと唱えるのが難しいです。 また普通に話している時でも、お坊さんの声は芯があって優しい感じがします。 お坊さんは何かボイストレーニングや滑舌トレーニングの様な事をしていますか? また読経や話す時に意識している事が有れば教えて頂けると嬉しいです。
見つけてくださって、ありがとうございます。 以前、お地蔵様の前掛けについて質問させていただきました。今回は、お地蔵様の前掛けの交換について質問させてください。 以前お地蔵様にお供えした前掛けが、風雨に耐えたためちょっとボロボロになってしまいました。そのため、新しいものと交換しようか、それとも洗おうか(洋服のようにじゃぶじゃぶ)迷っています。 新しいものと交換or洗う、どちらがよろしいのでしょうか。 また、新しいものと交換する際、作法はありますでしょうか(お経を唱える、古い前掛けをお寺にもっていく等) よろしくお願いいたします。
2021年6月28日にペットのぽふちゃん、ハムスターのメスでまだ2歳になっていない子でした その子を衰弱死させてしまいました 世話もせず 水浸しで糞尿も酷く 大丈夫だと思っていました そんなわけないのに 大丈夫だろうと思って 飼育環境の見直しもせずにいました。 もうすぐぽふちゃんの命日です どうか命日にお経を唱えていただきたいです。 お願いします。お願いします。 6日後の6月28日に、どうかぱふちゃんが苦しまないように幸せに過ごせるようにお力を貸してください。お願いします。 可愛い子でした 芸も覚えて いい子で 可愛くて そんな子を殺しました 大事なのに 世話をせず 冷房も効かせていて 冷たかったです。まだ生きてきた。なのに殺しました。冷たい中。最初は餓死かと思って。でも逝かせてしまったあとに寒さが原因だったと思いました。 お湯で暖めたりすればまだ生きてくれていたかもしれない。 どうかぽふちゃんの命日にお経を唱えてください。本当にお願いします。 苦しませて逝かせてしまった 可愛がると約束したのに 軽率な考えだった。 どうかお願いいたします。力を貸してください。本当にお願いします。
今年2月に父が急死しました。父と言っても母の再婚相手で養子縁組などしておらず、戸籍上では他人です。 父は高校卒業後、進学・就職の為家を離れて現在の場所を終の棲家とし、生家よりお仏壇を移動しておりましたが、母には仏事全般に関わらせてなく(再婚した時はお互い50代でご先祖さまは何年も前にお亡くなりになっており、母の性格上自分が関わりたくないことを強く拒絶する傾向にある為) 生前、「お前には迷惑や面倒をかけないから」と良く母に言ってたそうです。 きっと聡明な父は、1人で抱えてやってきたんだと思います。 今までもお仏壇にはお水を供えてお花や果物を供えてはいたようですが、 私が「ご飯やお茶は?」と尋ねると、「今までお水だけでいい!って言われてたから、しなくていい」と言います。 この度、母と一緒に暮すようになった為、今後は出来る限りきちんとしていきたいので、足らない仏具は買い足し、毎朝ご飯とお茶をお供えするようにしました。 私の育った環境が宗教とはほぼ無縁だった為知らないことばかりで、今ネットで調べたりしながら勉強中です。 ご先祖様のお墓も遠方で(車で3時間程の隣県)私は数回お参りに行った程度です。菩提寺には行ったことはありません。母も無いと思います。 父の葬儀も同じ宗派の近くのお寺を探してお願いしました。 今後、父のお墓はどうするか?ご先祖さまのことはどうするか?いろいろありますのでその都度相談させて頂きたいのですが とりあえず、毎日のお供えやお勤めはどうすればよいのでしょか? 調べてみますと、ご飯とお茶とお水の両方という意見もありますし、お茶かお水のどちらかとの意見もあります。 お経本はお寺さんより頂きましたが、今まで触れる機会がなかったので どこをどう唱えればよいかもわかりません。お寺さんに尋ねることを母が嫌がります。(きっと、年齢的にも何も知らないと思われることが嫌なんだと思います) 父を亡くして日も浅いので、母に意見するつもりはありません。母の自尊心を傷付けないようにしながら、私が出来ることからやっていきたいのです。 父方の親戚付き合いもあまり無いので尋ねる事も出来ません。 宗派は真言宗です。 お世話になった父の為これからいろいろ勉強していきたいので、よろしくお願い致します。
先日、父が亡くなり親族葬を行いました。 突然の死でしたので残された家族と共にバタバタしながらも、父や列席していただいた方々に失礼のないよう努めてまいったつもりです。 そんな中、お通夜のお焼香の時に一人ずつ順番に出て行ったところ、お坊さんのお経の方が早く終わってしまい席を立たれてしまいました。さすがに退場されることはありませんでしたが、その時にお坊さんが「もっと早く出てこなあかん!お焼香は喋るとこちゃうよ!」とお怒りになられました。 喋るというのは恐らく、親族の方々が順番が来て前後の方と「どうぞ」「ありがとうございます」とやり取りされてたことだと思います(狭い会場でしたがそれ以外に会話は聞こえませんでした)。 たしかにお焼香は一人ずつ席を立たず前の方の後ろに並んで途切れることなくすべきだったのかもしれません。お葬式に不慣れとは言え、お坊さんにとっては無作法で失礼に値することだったのかと反省するところはあります。 しかしながらお通夜にも関わらず高齢の親族へ声を荒げられたお坊さんに対し、憤りを感じてしまったのも事実です。 故人である父はこういう場面だと「皆さん足元気ぃ付けておいでください。」と親族を気遣うような人です。その父に背を向け親族を怒ったことが許せませんし、父の通夜を、列席していただいた皆様の思いを侮辱されたような気分です。 何より喪主である母が「こんなことになってお父さんに申し訳ない」と落ち込んでいるのが辛いです。 いまだに気にしてしまっていること自体、父に失礼なような気もしますし、それよりも父を思う気持ちが大事だということは分かってはいますが、この出来事がなかなか頭から離れません。 我が家はお坊さんのお寺の檀家で、これまでも長く付き合いがあり、これからも顔を合わせることはあると思います。 どうやったら落ち込む母を励まし、またこの出来事を乗り越えて、今後もお坊さんとわだかまりなく付き合えるのでしょうか。
初めまして、さきといいます。 最近、聞き上手や話し上手になる為の本を、書店でたくさん目にします。 それだけ現代人が人間関係に悩んでいる証拠なのかなと思いました。 そういった本とブッダの言葉が書かれた本とでは、書かれている内容がところによっては真逆といってもいいほど違うように思います。 聞き上手になる為には、少しオーバーリアクションになったり、ひどい時には、凄いなと思っていないのに凄いと言うことも、相手を喜ばせて話を引き出す為には良いと書かれている本さえありました。 私的には自分を偽ることが嫌いなので、素直な感想を言うことが多いですが、話を盛り上げる為には、多少のオーバーリアクションも必要だと感じる時があります。 お坊さんたちは、こういった本についてどのようにお考えですか? 是非、ご意見をお聞かせください。お願いします。
以前よりお世話になっています。 ニックネームを変更しました。 家族が他界してから毎日お務め、花、茶水、お供えと自分なりに供養してきました。 これまで5人のお坊様とお世話になりました。(実際にお会いした) それぞれ個人的な考えや思い、派の違いにより仕方がないことかも知れません、違うところが言動にあります。1人のお坊様は色々な勉強を幅広くされたのか、お話はとても立派なのですが、そのお言葉を自ら覆す行動をします。 細かい内容は言えませんが、色々と矛盾を感じ、お寺に伺いにくい状態になり、別のお坊様にも法事に来ていただけない状況です。 今年の法事は菩提寺の住職が他県から来ていただき、なんとか両親、先祖の供養ができました。 仏教とは、御坊さんとは、供養とは…何が本当なのか分からなくなり、段々と仏壇のお務め、供養もいい加減になりつつあります。 最近は若い方も気軽にお寺の門をくぐれルように、お寺カフェや座禅、説法、写経や癒しを求めてお寺巡り、朱印本など流行りつつあり、高野山1300年のPRもよく見かけます。お寺や神社巡りが趣味と言う若い方々もいます。 一方、無信仰だから、山や海に散骨する方、墓仕舞いして樹木葬等、普通に家代々のお墓に入る人も減っているとか。と言うことは檀家さんも減ると言うことですね。 大変失礼ですが、葬式坊主なる葬式業者数社と契約?して、葬式ばかりして儲けるお寺もあると聞きました。 5人のお坊様のうち4人にとって私は檀家でなく、業者の紹介やあるお寺の催しで出会っただけで、特に大きな収入源にもならず、どうでも良いのかも知れませんし、中には若いお坊様もいますが、頭でっかちの知識先行型なのかもしれません。 これも私の受け取り方一つなのかもしれません、お坊様に対するイメージが固まっていて、そのイメージと違うから違和感なのかもしれません。 当然、お坊様も人間、修行の身であり完全完璧でないことはわかります。ただ法事で頂いたお経は本当に、亡き家族のためになっているのか、六道の話を伺いましたが、畜生界、地獄に落ちていないか、毎日、お務めすることで両親、先祖のためになっているのか疑問が沸きます。 それまでは完全に仏教を信じ、お務め、供養が仏となった家族のためと信じきっていました。 今は半信半疑、これから供養を続けていく自信が無くなりました。
こんにちは。初めまして。よろしくお願いします。 私は人から「いつも笑顔が絶えない、穏やかでおおらかな人」と思われることが多いのですが、本当は凄く寂しがり屋で、孤独感でいっぱいになるときがあります。けれど、本当の自分を人に見せることができないので、寂しいとき、孤独感でいっぱいになったときはよく写経に行きます。一文字、一文字書きながら、仏様とお話しさせていだいている気持ちになります。 今年もバレンタインデーを一人で過ごすことになってしまい、寂しくて仕方なかく、チョコレート代わりに仏様に恋文を渡す気持ちでお写経に行きました。結果、とても有意義な時間を過ごすことができたのですが、最後の最後で日付(年)を書き間違えてしまいました。係りの人に「日付を間違えたのですがどうすればよいですか」と聞いたら、「斜めの線を引いて正しい文字を横に書いてください」と言われたので、そのとおりにして納経させていただきました。 帰宅後、気になったので調べてみたら、写経の間違いの訂正は斜線ではないようで、誤った方法で提出したことが気になってしまって仕方ありません。 多分、今日はいつも以上に「良縁祈願」の気持ちが強かったからだと思います。確認せずに書いてしまったことに対する後悔、願い事が叶わないかもしれないという不安、こんなことばかりを気にしてしまう自分への怒りが大きく、お写経で得た幸福感がなくなってしまうのが悲しいです。 写経の間違えを斜線で訂正しても大丈夫なのでしょうか。小さなことを気にする自分も嫌でたまりません。
今年の夏に娘が自死しました。 4ヶ月がたち、なかなか起きられず泣き暮らしていたのが、少しずつですが毎日暮らせるようになってきました。 納骨のときのご供養について、お聞きしたいです。 うちは、お墓がなくお寺とのお付き合いがない家でした。私の両親は、宗教で嫌な思いをしているので無宗教、主人の実家はキリスト教です。実家は親戚との付き合いを断っていたこと、主人の実家とも疎遠ということもあります。 葬儀も、音楽葬で行いました。娘が亡くなってから樹木葬でお墓を作り、先日出来上がったと連絡がありました。心の整理がつかないのとまだおうちに置いておきたいこともあり、一周忌に納骨を考えています。 亡くなったのが九州だったため、こちら関西とは勝手が違い、骨拾いもご家族でしてください、こちらは一切口出しできませんと言われ、訳がわからないまま納めて連れて帰ってきたしだいです。 こんな感じの、なんとなくの供養でちゃんと成仏できているのか、娘が望んだ空の上でちゃんと幸せになっているのかが、今の気がかりです。 檀家さんでもなく、お寺とのお付き合いがないので、納骨のときだけお経をあげて頂きたいとお願いすることは、できるのでしょうか?私は、祖父母の家があったそばにあるお寺に、娘が亡くなるまでは何か不安なことがあると手を合わせに行っていました。無宗教で見送って罰当たりかなと今は行けていません。 常識はずれな質問で、本当に申し訳ありません。ただただ娘の幸せをずっと願っていたいです。これから先どのように供養していけばいいでしょうか。 長くなってすみません。どうぞよろしくお願いいたします。
こんにちわ お坊さまに聞きたいのですが、どうして仏教には女性差別的な内容があるのでしょうか? 先日、千葉県の民俗博物館で開催されている『性差の日本史』展に行って来ました そこでは仏教には五障説や罪業観が含まれており、それが女性差別的内容だとはじめて知りました。 なぜそのような内容をブッダは入れたのでしょうか? 信仰にすら性差を出したのは何故でしょうか?
お坊さん、はじめまして。 表示には10代出てますが20です。 mtf mtx トランスジェンダーの問題も両親の問題もいろいろありすぎて心がパンクしそうです。ここ最近、頭や体にすごい重りをのしかけられたような感じがすごく車の事故が耐えなくて暗闇で勝手に涙がわいてきます。 お仏壇の線香やたばこなどのけむりがうえにあがらず横か下にふたまたにただよう形がつづいてます。両親ができないために私がお経 お供えもつとめてます。家事から女性並みにこなしてます。音がすごく声もわずかにきこえます。 かなりのいろいろな霊さんたちがいるんだなって思ってます。いいことがおこらなくなりました。自殺を頭の中から誘うような直感がします。死にたいです。お坊さんたすけてください。むこうに吸い込まれそうです。
いつも、相談にのっていただきありがとうございます。 ストレートで申し訳ないのですが、キリスト教を信仰するか、仏教を信仰するか、迷っています。 キリスト教の教会は10年ほど前ですが、通っていました。信仰告白もして、あとは洗礼を受けるだけ…という所までいったのですが、別れた主人が浄土真宗のお寺の孫でキリスト教なんてとんでもない!と激怒され、そこから疎遠になってしまいました。 仏教はお経を今、私なりの言葉でわかりやすく訳していて、お釈迦様や阿弥陀如来の智慧に向き合う度に泣くほど感動することもあって、とても心を惹かれています。 幸い、わからないことがあったら聞いてくださいねと言っていただける僧侶の方とも出会うことが出来て、何度か質問もしました。 その僧侶の方の人となりだと思うのですが、終始、仏様を信じられたらいいですね。と言ってくれます。 私は仏様を信じたいと思っていますし、お経から導かれたこのご縁を大事にしたいとも考えています。 ただ、どうしたらいいのかわからないのです。キリスト教の時は日曜日の礼拝から始まり、聖書の勉強会を定期的にすることで 信仰を深めて行くことが出来たのですが、仏教は敷居が高いと言うか、私の住んでいる地域では勉強会もないですし、法話会もこのご時世なのでやっていない所も多く、やっていても都合が合わなかったりでなかなか信仰が深められません。 そんな時にクリスチャンの友人からまた、教会に行かない?と誘われました。 私の気持ちは仏教に傾いているので、教会に行く気持ちはないのですが、正直揺らいでいるのも事実です。 どうしたら、今ご縁がある僧侶の方に仏教を信じたい!仏教の勉強がしたい!という私の気持ちが伝わるのでしょうか? 仏教の勉強が出来るサイトや学校みたいな所も見つけたのですが、お金がそこそこかかるようでカツカツで暮らしている今の現状では厳しく…。 内容が前後して申し訳ないのですが、ご縁があった僧侶の方には信じたいということも、もっと勉強したいということも伝えています。それでも、返ってくる言葉は「信じられたらいいですね〜」という感じで、最近は私と関わってしまったことを面倒臭く感じているのでは?と思うことしきりです。 長文駄文失礼しました。 よろしくお願いします。
先月、こちらで父の死についてご相談させていただき、大変有難いお言葉をいただきお世話になりました。 父の死から一ヶ月過ぎ、間も無く四十九日を迎えようとしています。少しずつ、気持ちも前を向くようになってきました。 時折、自分の身近に起きる自然の出来事、例えば普段見ない小鳥が近くまできてさえずっていたり、空を見上げたら急に晴れ間が広がったり、夜空に光り輝く一つの星が見えたり...そんなことが起きると、あれは父からのメッセージ?などと思えてくることがあります。 まるで歌の「千の風になって」のような...。 5歳の娘も、私がそう言うからか、星を見ては「あれはじいちゃん星だね」なんて話します。 もちろんか科学的にそのようなことはないとは思っていますが、奇遇な出来事に父を感じることをこのまま続けても良いのか、また娘もいつかは大人の考えを持つようになると思いますが、今はこのまま信じさせてあげても良いのかな?など、時々考えることがあります。 このような考えは、お坊様方はどのようにお考えになりますでしょうか? どうか宜しくお願い致します。
こんにちは。 私は、家の宗派は真言宗なんですが、実は法華経も好きです。 先日、鴨川に出掛ける機会があり、縁あって日蓮宗の 誕生寺にお参りさせて頂きました。 参拝時は流儀に従い「南無妙法蓮華経」とお唱えし、 法華経について色々と考えさせられるきっかけとなりました。 「観音経」として知られる二十五品や有名な「自我偈」を含む十六品など、 どれも素晴らしいのですが、私が特に好きなのは 仏の命が永遠と知って全世界(全宇宙?)の菩薩が歓喜し、 曼荼羅華が降り注ぎ、天には妙なる音色が響くと言う、 壮麗な仏国土が現前する十七品(分別功徳品)です。 「如是等衆生・聞仏寿長遠・得無量無漏・清浄之果報」 の所が特に好きで、正直この部分を紙に書いて お守りとして身につけたいくらいです。 この世の誰をも救ってあげよう!って大らかさとパワフルさが 法華経の魅力だと思うし、そんな法華経の魅力が結実している 一文だと考えてます。 で、ふと思ったんですが法華経の十六品や十七品で言及されてる 久遠実成は、永遠性や普遍性といった性格が大日如来と共通している のではないでしょうか? 上述の十七品は「仏国土は遠い彼方にあるものではなく、仏の永遠性を 信じれば、この現世こそが仏国土と知れる。」 と主張してるように思えますが、これは大日如来を中心とする 密教の思想にも通じていると感じるのですが如何でしょうか? 私にとって仏様と言えば、実家の仏壇に鎮座する、 きらびやかな衣装をまとった大日如来様です。 子供の時から手を合わせている大日如来様が、 法華経の久遠実成と相通じているなら 何と素晴らしい事か、と考えてしまいます。 厳密な意味での同体ではないにしても、 根底で通じているのではないでしょうか? 少なくとも相反するものではないと思うのですが如何でしょうか? ご意見をお聞かせ頂ければ幸いです。
お忙しいところ有難うございます 私自身(40代)の病気が少しずつ進み 終活をしなければ、と思います どこから手をつければよいのか 分からず、不安です 両親は離婚した事もあり、子どもの頃 お墓参りはほとんど記憶になく。 結婚して、婚家はきちんとお墓があり 初めてお墓参りや法事をさせて 頂けるようになりました その宗派は浄土真宗で、葬儀やお経を 聞いて、拒否的な感情はなく ごく自然な気持ちで受け入れられました 私が自分の終活をするのに、 残される夫の負担を少しでも 減らしておきたいと思います 長男ではないので、新たにお墓を 購入する必要があること、 葬儀の形、宗派、お仏壇などについて 少し決めておきたいと考えました 何となく、というだけで宗派は 選んでも良いのでしょうか? 結婚した嫁ぎ先の宗派になるのが 自然なのでしょうか? 婚家のお墓は私営大型霊園で、法事の たびにお坊さんをお呼びしています 特定のお寺さんなど相談できる場所が なくて悩みました 私が亡くなったら、子どもたちや夫が 時々お墓に会いに来てくれて お仏壇に話しかけてくれるといいな と思います 負担にならないように、でも話したい 時に話せるようにモノの形があれば 安心できるのかな、と感じています 分からないことばかりですみません 教えていただけると嬉しいです
どうしても叶えたい夢があって、長い時間必死で努力してきたけど、いくら頑張っても、叶わない。 ということがわかりました。 なので、きっぱり諦めようとしたら、大事な人に、許してもらえませんでした。 (夢を叶えるには、大事な人の協力がなければ叶いません) 努力することをやめて、諦めるなら、自分との関わりもこれで終わりと言われました。 私の気持ちを知ってるのに何故、拒絶するようなことを言うのでしょうか。 私の人生をどうしたいのか、聞いてもはぐらかされます。 洗脳されちゃう? うまく説明できないですし、詳しく言えません
はじめまして。いつもお坊様のご解答を拝見しお勉強させて頂いております。 沢山のお悩みの方がいらっしゃるのに私が…という気持ちがありましたので今まで投稿を躊躇っていたのですが、お時間がありましたらお答え頂けますと幸いです。 プロフィールに記してある通り、私はモラハラが原因で体調を崩し数ヶ月休職しておりました。 その際に訪れた天台宗のお寺での不思議な体験をきっかけに、真言宗のお寺でも同様の事が起き、更に仏具屋さんの店頭の観音様にまで同様の事が起き大変驚きました。写真まで見る事が出来なくなりました。(妄りに口にしてはいけない気がしましたので、詳細はお坊様のみの公開で申し訳ございません) ご住職にお訊ねしようか迷ったのですが、ご住職にどう思われるか…また自分自身に疚しい事があり仏様が怒ってらっしゃるのでは?と考えてしまい聞くことが出来ませんでした。 そこでインターネットで検索していたところ、さるご住職のブログで納得の行く記述を拝見し、自分なりに仏様が何を伝えようとしていたのか考え答えが出掛けた瞬間、ぱたりと不思議な事は起きなくなりました。 ほんの短い間の出来事でしたが、本当に様々な事を考えさせられました。 悩みの解決の糸口を見付け、今は少しずつ社会復帰に励んでおります。何よりお見守り頂いているのかもしれないという事が大変心強かったです。 前置きが長くなってしまい申し訳ございません。 ここからがお訊ねしたい事なのですが、私はインターネットの情報の断片を手前勝手に「きっと御慈悲を下さったのだ」と都合よく解釈してしまいましたが、ハスノハのお坊様はどうお考えになられますでしょうか。 また密教寺院でのご縁でしたので、御真言を覚えて自宅やお寺で唱えたり(とても穏やかになれます)しているのですが、御真言は素人でも唱えても差し支えないとハスノハで学びましたので安心しているのですが、お経はどうなのでしょうか? インターネットで調べますと沢山「低級霊を呼び寄せる」「般若心経は特に危険」等の事が出て来て困惑しております。 件の阿弥陀様にどうしてもお礼をしたく、御前で根本陀羅尼を拙いものですが感謝の気持ちを込めて読み上げたのですが、失礼にあたる事でしたでしょうか? お聞きしたい事が多く乱雑な文章で大変申し訳ございません。 もし宜しければお答え頂けますと幸いです。
私が別れを告げた翌日に彼が自死しました。 当然ですが、彼の家族からは拒否られ、彼の家にある私の荷物は全て処分するから家には来ないでほしいと言われました。 彼の家族に嫌われるのは当然のことだと思います。 私のせいで亡くなったようなものですから。 ご家族の恨みを背負って生きていく覚悟です。 こんな状態なので、お葬式に参列することもできず、彼にお線香ひとつあげることができませんでした。 彼にしてあげられることはないかと考え、自分でお線香立てとお線香を買って毎日朝と夜、彼のことを想いながらお線香をたいています。 これで彼への供養になっているのかも分からないのですが、何かしないといられなくて…。 仏壇があるわけでも、お経を唱えるわけでもありませんが、彼への供養になりますか?
先日父が亡くなり、借金があることがわかりました。 父と母は25年前に離婚し、私は母とともに家を出ました。 一人っ子、長女で、その後遠方に嫁ぎ、父とは疎遠でした。 借金は夫の給料と私のパート代で返済できる額ではないと判断し、相続放棄をしようと思うのですが、そうすると父の思い出の品や愛用品まで債権者へ引き渡すことになります。 両親の離婚時に、私が母に着くと決めた事だけでも父は寂しかったはずなのに、亡くなったら形見さえ受け取らず相続放棄をするなんて、父からしたら冷たい娘以外の何者でもなく、どうしても心に引っかかっています。 父は無念に思うでしょうから、成仏して安らかに眠ってもらえるのか心配です。 亡くなった人には、どんなお経を読み、どう詫びれば安心してもらえますか。
何かのテレビ番組で、お寺さんを粗末にあつかうと、孫の代に悪いことがおきると。 私の姑は、とにかくお寺の住職が嫌いで、口癖がお金泥棒です。月命日にお経をあげに来られるのも断り、お寺さんに納めるお金も、払わないと直談判に行く。もし、自分がなくなったら、そこら辺の坊さんにお葬式をしてもらえばいい。との考え方。その為、私達もお寺さんとは疎遠になっている状態です。しかしながら、テレビ番組の話が本当なら、私達に起こっている災難、悲しみとの関係性を疑わずにはいられません。 実際のところ、どうなんでしょうか?