現在56歳。大学卒業後、大手上場企業に就職したものの、39歳の時に倒産。その後零細会社で16年勤めたが、経営者の都合で破産。55歳で仕事を必死に探したが、1件目は前職と同業界の会社で6か月でいじめにより退職、2件目は全く畑違いの会社に正社員で入るも、向いていないといわれ3か月で退職。ハローワークへ通い詰めたが、条件にあう正職は無いですと言われ、6か月前に今の嘱託社員でパートのような賃金で働いてます。まわりは、私と変わらない歳で、絵に描いたような富裕人生をおくっている人がすべて。何万回、どうして自分の人生はと悔いても、何も悪いことせず学生時代もまじめにやって大きな会社に入ったのに、普通なら部課長にはなっていたのに、退職金も企業年金もバラ色の高齢者人生にむかえるはずだったのに、この理不尽さが受け入れがたく絶望がぬぐえず死にたい。となりの芝生は青いなどのレベルではない。夫婦ともだおれで死ぬしかない。神様を信じて過去は信心してきたが、答えは神はいない。理不尽すぎる。人生はどんな人も悪いことと良いことはイコールなんて嘘。苦労せず人生すごせる人はたくさんいる。うかばれず終わる人がいる。死にたい。
一昨年、母の肺癌の事で沢山有難いお言葉を頂いてました。 去年の10月で手術後1年経ち、1年経ったので全身の検査をする様に主治医に言われ検査してみると異常無し! ホッとしていたら「ですが...」 なんと今度は肝臓。 膀胱、腎臓、乳、肺、そして今回は肝臓。 今回は2cm程でまた初期段階で見つけて頂き、カテーテル治療で済みました。(まだ入院中ですが) 肝臓にモヤッと何か映ってるので再検査と言われた時は何事もありません様に...と祈る様な気持ちで結果を聞きに行き「腫瘍が...」言われた時は 毎朝御先祖様にご飯等お供えし、手を合わせお教を唱えてる母から 神も仏も無い!なんてポロリとこぼれてしまったけど 神も仏もあったからまた初期だったんじゃない? じゃなければ今頃お迎えきてんじゃない? と、それ程信仰心の無い私でも(ゴメンなさい!)そう言う励ましの言葉が出ました。 5回初期で発見。1度も抗がん剤治療をした事もありません。 不幸なのか幸いなのか... 治療できる!って事は幸いなんですかね。笑 母はタバコもお酒ものみません。 消化器内科の先生は肺からの転移を疑いましたが、今までの主治医や検査結果で判断した結果ポッと出の肝腫瘍となり不思議だなぁーと。 お母さんには「きっとさー皆の悪いとこ貰ってくれてるかも!だから悪いけど頑張って治して!」 言ったら「お母さんもそー思った!!」と。 今回もハスノハ本を持って入院中です。笑 去年主人の父が入院して3ヶ月もしないで亡くなってしまいした。 人の寿命って本当に不思議です。
今年の秋,うつ病と診断され1ヶ月ほど休職し現在は職場復帰しました。 しかしながら配慮された業務配置で周りにも迷惑をかけている現状で,とてもとても居心地の悪い状態です。(それに関しては自分自身の感情に大したことはありません。元々仕事嫌いなのでいずらいなあと思う程度です。) 先日,会社が提供している社員向けサービスの心理カウンセラーとオンラインでカウンセリングを受けました。その際に「今後どうしていきたいか?どうなりたいか?」と問われました。私は全然わかりませんでしたが,その場しのぎで「穏やかに健康に生きていられればいい」と答えそのカウンセリングは終わりました。 後になって考えてハッとしたのですが,私はもう「どうにもなりたくない」のだと悟りました。復職を果たしても頑張っていかなければならないことはかわらないし,苦痛はその都度やってくるのだと思います。 今まで無理をして生きてきたので,ここらが丁度いい潮時だなと感じています。不思議とこれから自殺することに清々しささえ感じておりやっと終われるんだなと安心しています。 質問というよりは宣言になってしまいましたが,自分の人生に満足し勝手に死ぬことは悪くないなあと思います。今までよい人生でした。幸せでした。
私はゲイです。 それゆえに、ヘイトスピーチの攻撃対象にされます。 またご縁があって、複数の在日外国人の友人、顔見知り、同僚がいます。 彼らも聞くに堪えないヘイトに晒されています。 外国人へのヘイトも不愉快ですが、ゲイである私はLGBTがヘイトされると、自分のことなので、その数十倍不愉快です。 なので、LGBT以上にヘイトに晒されている彼らに感情移入してしまい、ひどく不愉快になります。 昔は、「嫌なら見るな」で何とかなったのですが、最近はツイッターを見てもSNSを見ても、ヘイトだらけです。仏教書を買うために本屋に行っても、店頭にひどい本が並んでいます。 政治とは無関係の趣味のサイトですら、「何でこんなところでまで?」とヘイトを見せられることも、しばしばです。 「私たちが一体あなたに何をしたと言うのですか?」と言いたいほど、酷い言葉もぶつけられました。 とても引用できない下品な罵倒もしょっちゅうです。 しばしば彼らと議論もしましたが、彼らをますます怒らせて、憎悪を深めただけでした。 喧嘩腰にならないように注意しながら、フォローを入れながら誤解をとこうとしましたが、まったくの徒労に終わりました。 議論をしても、かえってヘイトを増幅させるだけでは? と最近思うようになりました。 友人には「あいつらに俺達の気持ちなんて永遠に分からない。関わっても傷付けられるだけだ、ほっとけ!」と言う人もいます。 また虹色の旗を振りながら、「根気よく理解を求める」と言う友人もいます。 私はと言いますと、ネットの議論は時間の無駄と考え、我慢するようにしています。 でもたまに我慢できなくなって、つい反論や説得を試みてしまうこともあります。そのたびに酷い言葉をぶつけられ、落ち込みます。 ぼく達マイノリティは、ヘイトにどう対処すべきなのでしょうか? 長年の悩みです。
因果応報という言葉があるように、悪口だったり心ない言葉だったりを言えば、自分も同じことを言われているんだから極力言わないようにと心掛けて来ました。(悪口を言う時に人差し指でその人のことを指さしているとしましょう。中指~小指はどちらを向いていますか?自分ですよね。自分が誰か一人のことを言えば、三人は自分のことを言ってると思いなさいと以前言われたことがあります。) ですが、数年前に知り合った知人なのですが、好き勝手悪口を言ったり、目を覆いたくなるような事件が起きれば、「その犯人、死ねばいいのに」と言ったりします。気持ちは分かりますが、その犯人にも家族があり・・・・と考えると悪いことをした事は別にして、単に一言で死ねばいいと片づけるのは違うのかなと思いますが、その自分の考えが間違っているのか分からなくなります。 そんな知人は、とあるアーティストのファンで、コンサートにも行くのですが、毎回いい席ばかり。偶然なのかと思いましたが、ここ数年ずっと、そこそこいい席ばかりで、それ以外にも偶然が度々重なり何かと巡りあわせが良いことばかりなのです。 一方の私は、あまりいいとは言えない席ばかりだったり、一生懸命やっても上手く理解してもらえなかったりして苦い思いをすることがしょっちゅうです。 普段は巡り合わせのいい知人ですが、いつか因果応報で、他人からあれこれ思われる日が来てしまうのでしょうか?どことなしか、それを待ってしまっている自分にも因果応報で、返ってくるのでしょうか? 何かアドバイス頂けないでしょうか?
仏教をもっと知りたくて、ネットを活用していたところ、 hasunohaさんを知りました。 過去のQ&Aを拝見させて頂くと、 実際の僧侶の方々のお答えの方が難しい言葉を並べた活字より、 私には馴染みやすいような気がします。 (以下はプロフィールと重複しますが) 縁あって(しかもまったく別件で2度)、真言宗に関わるようになり 30年近くになります。 その頃は少しずつ、作法等を教わったのですが、 2年ほどで絶縁したため、基本を知らず、現在に至ります。 昨年、不思議なご縁の下で ホントに自分がやりたい事は何か?を 時間を掛けて自分に問い、 やはりご縁のあった仏道を進みたい。 今世に生まれた意味を知りたい。 そして少しでも人様のお役に立つのなら・・・ まずは 読んでるお経の意味を知るべきよね、 仏教用語的な言葉の意味も知るべきよね、 と、ネットで検索三昧。 そうなるとどんどん拡大してしまって、 真言宗ってそもそも・・・ 父方は浄土真宗でお寺さんもすぐ近く。 浄土真宗ってどんな考え方なの? 大日如来、阿弥陀様やお釈迦様って? などいろいろと知りたいことが増えてしまいました。 言葉が適切かはわかりませんが、 効率的な学び方を教えて頂きたくてこの場をお借り致しました。
プロフィール通りの誇張なしに本当に何も持っていない人間で、生来なにかを競ったなどがが心底面倒です。夢を持ったことがないのでその過程である努力もどうすれば努力になるのかなどもわかりません。焦ったこともありませんし、開き直ったこともないです。 良いことまたは華やかな記憶や、他の人がしてきたであろう青春や(大きな失敗や成功を含めた)体験が有りません。 スポーツ選手に限りませんが、生活が充実している人などのインタビューを聞いたりすると、〇歳までに△を……など仔細に決められており実行に移しているようで、自分の能力や可能性を信じ、努力をしているだけで遠い世界の人だなと感じます。 本題ですが、自分の好き嫌いや得手不得手が分からないため仕事を探すのに苦労しています。よしんば見つけたとしても、覚えが悪く、人間関係も上手く築けないことも手伝ってか長続きしません。ちなみに正社員経験は無しで、働くこと自体が怖いです(初めてのバイトの面接で、君みたいな奴の代わりはいくらでも居るから帰っていいよと言われたのが原因だと思います。周囲に相談したら鼻で笑われました。) 気分の浮き沈みが激しく、夜の間にきまぐれに湧いた興味や好奇心で応募するも、翌朝や面接の直前になるとどうせ受からないのになにを応募しているのかと自分を責め、それを理由に断り、逃げてを繰り返しています。 実家住まいで甘えているからだと考え、一人暮らしも選択肢の一つとして思い浮かびましたが、資格も職歴もない自身では家賃だけで精一杯の収入になりそうで二の足を踏んでいます。 夜寝ている間にスーッと死ねないかなと思う日々です。偉人の名言や説法などを聞いて奮起しようとしても、ふーん、程度の感想しか出て来ない状態で自分で自分にお手上げ状態です。 とにかく昼夜逆転を戻すことがスタートラインでしょうが、どうしたら良いかわかりません。 纏まらない文章で申し訳ございません。 あ、最後の一文で思い出しました。身に覚えの無いことで罵詈雑言をは吐かれたりサンドバッグになるのは慣れているので特に苦になりません。一日に二、三回程度までなら根拠なく死ねと言われても問題ありません。こんな私の人生に使い道はありますか。
「明日死んでも悔いのないように生きる」 という考え方と 「目標にむかってコツコツ努力する」 という行動が、どうしても矛盾してしまうように思います。 1日で達成できない目標がある場合、その過程で死んでしまったら悔いが残るように思えて、コツコツ努力できない自分がいます。 もし本当に明日死んでしまうのであれば、1日でやりきれる楽しいことを選んでしまうのが普通ではないでしょうか? 目標に向かって進んでいれば、道半ばで死んでしまっても救われるのですか? 教えて下さい。
即身仏はお寺で祀られておりますが、祀られているということは仏像扱いなのでしょうか?もし仏像扱いなのであれば、日本にある即身仏は、如来・菩薩・明王・天の中で何に当てはまりますか?理由と共に教えて頂きたいです。またもし即身仏が仏像扱いでないのであれば、それはなぜでしょうか? 数年前から即身仏に興味を持ち、そこから仏教に興味が湧くようになり、自分でも色々調べてはおりますが、一人で知るにはとても難しいので、ぜひ教えて頂きたいです。よろしくお願いいたします。
私はバツイチです。子供はいません。 結婚が許される宗派、許されていない宗派、色々あるかと存じ上げます。それに個人的な解釈もあるかと思います。その上で多様な意見を頂きたいです。 相談です。 子供がいない事で、自分の両親に対する申し訳ないという罪悪感はあれど、結婚も子供も未だ望む気持ちがありません。 将来的には幸せな家庭への憧れはありますが、このままずるずると年齢を重ね、孤独に死んでいくのではないだろうかという予想もしています。その考えに悲観的でもありません。 結婚とは、社会的な信用や身内の喜びの他に意味はあるのでしょうか。もちろん、自身が満たされる事もあるでしょうが、上記の通り、私は一度失敗している身であり自分の性分が結婚に満たされる物だとは思っておりません。憧れは手元に無いが故の幻想だと割り切って考えるからこそ浮かぶ気持ちなのではと思案しています。 どうして、結婚という容があるのか、今の時代に則しているのか。拘る必要はないのか。 結婚観をご教授下さい。
はじめまして。お忙しい中、この質問を見てくださってありがとうございます。 表題の通り、「なぜ死ぬことが悪いのか」ということを教えて頂きたいです。 決して、今から死ぬということではありません。ただ、「いつ死のうかな。早く死にたいな」と思って生きています。思い上がりかもしれませんが、私が死んで悲しんでくれる婚約者や姉兄がいるのは知っています。それでもどうしても死ぬことを考えてしまいます。考えないように「命は尊い」と思い込もうとするのですが、イマイチぴんときません。 私が初めて死のうと思ったのは5歳の時でした。物心ついた時から両親の怒鳴り声の絶えない家庭でした。親のことはあまり思い出せませんが(理由はプロフィールに簡単に記載しております)、父親は私が言うことをきかないと決まって「じゃあお父さん今から死ぬわ。お前が言うこと聞かないから死ぬ。お前のせいで死ぬ」と目の前で自分の首を絞める振りをしたりしていました。幼稚園に入るか入らないかくらいの年齢だった私は、本能的に「死ぬ」ということがとても怖いことだと思って泣きながら謝っていました。 そのせいなのか、気付いたら私の中の「命の価値」は相手に言うことをきかせるためのトレード品程度になってしまいました。 5歳の時に死のうと思ったのは確か、家族の誰かと喧嘩をしたので自分の言うことをきかせるためだったと思います。そして少しばかり「お前のせいで私が死ぬんだぞ、責任を感じろよ」と思っていました。 大人になった今でも、どうしてもわかりません。「神から授かった命」とか「地球より重い」とか言われても全く頷けないのです。自分の命は交渉材料でしかありません。私が今死んでいないのは今まで自殺に失敗してしまった経験から二の足を踏んでいるためです。「生きたい」と思えません。死にたいとこぼすとそんなこと言うな!と頭ごなしに叱られますが、結局どうして死ぬことは悪いのでしょうか? 自分なりに考えても答えが出なかったので、皆様のお考えをご教授いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
何度も質問させていただいております。 毎回丁寧な回答をいただいて感謝しております。 さて、私は今までキリスト教の学校を卒業し、イスラム教の国に住み、特に宗教は持たずに全ての宗教は知識として学んできた程度でした。 元々追求すること、考えること、科学的にものを見る質なので現実的にに世の中を見てきました。 そして最近行き着いた答えは、科学と神秘、宇宙と人間は皆同じなのだということです。 バレエに人生のほとんどを費やしていますが、これはほぼ稽古、修行、メディテーションです。これを通していろいろなことを学んでいます。 そこでたまたま仏教について読んだところ、正に宗教という概念もなく実践してきたことそのものだったのです。 どんな贈り物よりも嬉しい発見でした。 それから毎日、宗派や教えを調べましたが、困ったことに『そう言われればそうかもしれない』という教えの違いばかりなのです。結局のところ、一つの目的をもって正しく生きることを遂行すれば宗派など問題ないのでは?と思うのですが、現実問題いかがなものでしょうか。 今後真剣に仏教を学びたいと思ったときに、どのようにして適切な宗派を選ぶべきなのでしょうか。
日本では誰かが亡くなってしまうとお葬式が行われますよね?お葬式をすると仏様の弟子になるんですよね?仏様の弟子は地獄に落ちないのにどうして日本人は大体の人が地獄に落ちると言われているのですか?まず地獄に落ちる人はいないのでは?
先日、長年可愛がっていた愛猫が突然亡くなりました。突然の死をなかなか受け入れられず、仕事中は忘れていても家に帰ると涙が止まりません。体調の異変を感じてから30分ほどで静かに息を引き取りました。 物凄く苦しんでいたので体をさすってあげたりして、落ち着いたら病院に連れて行こうと思っていた矢先に急変して死んでしまいました。 もっと早く連れて行けば~と悔やんでいます。 この子は幸せだったかな~と考えてしまう毎日です。
具体的に涅槃に達した人はどんな雰囲気なのか知りたいです。 誰かいますでしょうか?
初めてこの場所を使うので慣れず間違ってるかもしれません、初めに伝えておきます、すいません。 なぜこの考え方に行き着いたかハッキリとは分からないけれど、自分の親友の付き合っていた彼女が16.17歳の時に自殺で亡くなり、それにとても責任があると重く考えた自分の親友が鬱病と診断されました、毎日死にたい死にたいと悩んでいました、その度に自分は何度も何度も励まし慰めて 男2人一緒にクリスマスも過ごしたりしました笑、しかしどれだけ一緒に遊んで楽しんでも彼の思い(決意?)は変わらないように思えました、それでも変わらずにいたのですが、その数ヶ月後に彼女と同じ死に方を選び自殺をしてしまいました。彼の母親から連絡を貰った時は何故か冷静でいれました。それはやっぱり自分が19年間生き てきた中で1番分かり合えた人間だった からかも知れません。 そんなことがあってから 死とは何か、生きるとは何か、特に自殺とは何かを考えるようになりました、でも、まだまだ未熟な自分には分かりっこありません。しかし時間が経つにつれて自分の中にあった死にたいがまた現れ始めました。 自分はハッキリとは覚えてないけど、小学校低学年の頃から行きたい願望はなく死にたい欲?がありました。 小学2年生の時に、喉の手術を受け数ヶ月?入院しましたその頃から勉強に全くついていけず、宿題に手をつけませんでした そのせいなのか元々そうだったのかは覚えていないんですけど宿題をしないと義理の父親が怒って何回も何回も殴られた記憶があります、怒っている時に目をちょっとでも逸らすと殴られた。 また兄弟で楽しく遊んではしゃいでいる時もうるさいと言われ殴られまくりました、 母親が止めてくれた覚えは全然なく家では自分の居場所がなく思えていました。 学校でも自分が太っていた為その事で虐められたりハブられたりされて、本当に死にたかったです、毎日毎日マンションのベランダに立ち飛び降りようか泣きながら悩みました、けど、そんな醜い人間のために自分が死ぬのはおかしいと思い踏みとどまって今まで数十年生きてきました。 けれどもう我慢の限界なのかも知れません 自称大人や人間が大嫌いな自分が唯一分かり合えた親友も居なくなり耐えれ無くなってきました。どうすればいいのでしょうか、分かりません、もうそろそろ1000文字になっちゃうのでやめようと思います。長文失礼しました。
質問させて頂きますハルソラと申します。 仏教の学びから、観音さまの慈悲の心に感銘を受け、慈悲の心を身に付けたいと思っています。 しかしながら現実の私の行動を鑑みるに、慈悲を実行できてるとは到底思えません。 それは慈悲に対して、概念的な理解だけにとどまり、エゴ(自己中心的な考え)を離れる事が出来ないためだと考えています。 とある座禅会に参加した際に、和尚さんにそれを質問したところ 「体験を通して学ぶことです」 という有り難いお言葉を頂きましたが、何をどう体験すれば良いのか分からず進歩がありません。 慈悲の心を身に付けるための体験とはなんでしょう。 また考え方の上の事でも構いません。慈悲を身に付けるためのご教授よろしくお願い致します。
最近、死についての質問をいくつかさせていただきましたが、今度は来世の不安が出てしまいました。 私としては、来世は親に会って子孫や世界を見守りたいですがそれは可能なのでしょうか。 もし、それが叶わないのであれば私は生まれ変わり、魚や犬、そして人などの違う命としてまた生きなければならないのでしょうか。 私は食べられる魚や牛などの生まれ変わりになることが怖くて仕方がありません、もちろん、このことが愚かで生命に対して無礼だと承知です。 ですがやはり不安で仕方がありません。このように考える私は外道なのでしょうか。長文で愚かな質問で申し訳ありません。ごめんなさい
初めて質問します。よろしくお願いします。 私の人生で、上手くいっていないことがあると、必ず身近にその理想の道をゆく人達が現れます。 この現象はどのように捉えるべきなのかがわからず、ご意見をいただきたいです。 例えば、私は過去に両親の敷いたレールに沿って生きており、本当は保育士さんになりたかったけれど、本心を言えずに両親の理想通りの職業に就きました。 すると、今私の周りには、なぜか保育士さんの友人や親族が沢山います。 また、私は3歳の子供が1人おりますが、結婚当初の理想は子供を3人もつことでした。 ですが、育児があまりに大変で、精神的にも病んでしまい、2人目以降の子どもを持つことが考えづらくなっています。 そんな状況で、3人目の子どもをもつ友人や親族がどんどん増えてきました。 これらの状況は、総じて、「自分が弱くて出来なかったこと」と捉えています。だからこそ、私の理想を叶えている人たちがすごく羨ましいし、別世界を生きる人たちのようにも思えます。 自分は自分だから、と考えることもありますが、なぜ私には出来ないのかなと落ち込む気持ちが出てきてしまいます。 どうして、私の人生の定番のように、毎回、わざわざ理想とするものを持っている人が、自分の周りに集まるのでしょうか? 何か私に学びとして必要なことだから、起こる出来事なのでしょうか? 気にせず自分の道をゆけということなのか...それともその人たちのように生きてみなさいということなのか... どのように捉えるべきかわからず、ご意見を伺いたいです。 よろしくお願いします。
僕は、ある怖い話をきいたのですが、 その中に、「あんた長生きできないよ」と言われる内容があるのですが、それはある呪物をみてしまったからもう長生きできないという事です。 実際の画像があったので見たくなくてもみてしまい、僕は、「見ちゃった」って不安になり怖くなりました。これで自分の寿命もそうなったのかと。 なるべく気にしないように「こんなの嘘だ、ありえない、信じない」と言い聞かせて努力はしているのですがやはり不安はこみあげてくるときもありました。見えない事ほど怖いです 結構洒落にならないのですが本当に嘘ですよね。嘘であってほしいです。