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問答一覧
検索結果: 396件

お釈迦様って実在したの?について

お釈迦様って本当にいたんですか。という問いについて、お坊さんはどうお答えしますか。 自己完結している問題なため、わざわざ投稿すると同調を求めているみたいでいやらしい……と思い控え、しかしやはりお坊さんのお考えが気になる……とうろうろしているうちにこんな時間に。 短く内容をまとめるのが苦手なため、事の発端から書かせて頂きます。 私は友人から相談をされると、自分の意見を伝えながら過去にとても納得した誰かの意見を交えて返答することがあります。 「いい考えだね」と言われたりすると、正直に「これはお釈迦様の言葉だよ」と伝えるわけです。 すると、「でもお釈迦様って本当にいた人?」と聞かれることがあります。 実在したかどうかもわからない人の言葉など信用ならないのだと。 私はその言葉にとても疑問を感じるのです。 自分がいい考えだと思ったのなら、お釈迦様がいるいないって関係なくない?と。 そんなことはいいから事実を答えろと言われても困ります。 だって大昔の人の存在をどうやって確認するんでしょう。 お釈迦様はいつでもあなたの心の中に……と哲学的な意味で考えたら、あなたも私も会ったことがあるでしょう。 キリストでは「本当に血を飲めば病気が治るの?」と言われたことがあります。 実は、私はキリストの血を飲んだことがないので、病気が治るかわかりません。 今度飲んだら教えます。 誰の言葉か、誰の作品か、それが説得力という重要な要素であることはわかります。 私もモップはダイソンのものを買います。 しかしその言葉が自分にとって解決策となるなら出所は関係ないと思うのです。 私はお釈迦様関連、哲学、聖書などの本を持っていますが、彼らの生い立ちなど知りません。 数分前までマリアの夫をヨハネという名前だと思っていました。本当の名前はヨ……忘れました。ヨハネでなかったことは確かです。 生い立ちを知らないと言いましたが、お釈迦様の映画は見たことがあります。お釈迦様が生まれた時、木々は喜び、草花は歌っていました。 私にとってマリアの夫の名前がヨ……であったか、お釈迦様が生まれた時本当に草木が歌っていたかなど何でもいいことです。 彼らの残した言葉には力があり、私を救うことには変わりありません。 お坊さんは「お釈迦様っていたの?」に、どうお答えになるのでしょうか。普通にいるよってお答えしますか?

有り難し有り難し 47
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2022/01/10

阿弥陀如来とイエス?阿弥陀仏の信じ方。

仏教、特に最近では浄土真宗に関心がある者なのですが、「阿弥陀如来とは何か」「(阿弥陀仏を)信じるとはどういうことか」という疑問が拭えず、調べていくと、こういう文章に出逢いました。 〈親鸞聖人のおすすめ下さる信心は、「思い込み疑わないこと」という意味ではなく、「疑いがなくなって帰依する」という意味であります。「疑いがなくなる」とは「明らかになる」ということです。 では、何が明らかになるのかと言いますと、縁にふれたら、どちらへ転んで行くか解からないような危なっかしい自分の相が明らかになると共に、「あなたがどちらに転んで行こうがほっておく事はありません」と、私をしっかり抱きしめて下さる確かな阿弥陀如来のお心が、明らかになるのです。〉 阿弥陀仏が他の宗教でいう絶対神(創造神)ではないことは聞いたことがありますが、こういった文章を読むと、多分にそういった要素があると感じてしまいます。上記引用の阿弥陀如来をイエスに置き換えればそのままキリスト教ではないでしょうか? 仏教は、釈迦が無記を説いたように、形而上のことは判断しないとする極めて理知的な宗教だと思うのですが、浄土真宗のお坊様方はは、いつも傍らにいて下さるイエス様を信じるように、阿弥陀仏を信じておられるのでしょうか。そうでないならば、どのような形で阿弥陀仏を信じておられるのでしょうか。 不躾な質問の仕方になってしまい大変恐縮ですが、御回答いただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 48
回答数回答 4

仏教の「助け合い」

先日、大学の授業で教授が「福祉の考え方は西洋から日本に入ってきた。ヨーロッパやアメリカはキリスト教の隣人愛の精神にのっとって助け合う心が人々にあるから福祉が充実しているけれど日本ではキリスト教がメジャーではないからなかなか助け合いや福祉の精神が広まっていない。」と話していました。私は宗教についてあまり詳しい方ではありませんが隣人愛という言葉は知っていますし、確かにキリスト教を信仰する人が多い国で福祉の心が根付いているというのは何となく納得が出来ます。 でも、日本人にも助け合うという考えはあるはずだと思います。熊本の地震があった際も、火事場泥棒などひどいことをする人もいるようですが現地にボランティアに行ったり募金などの支援をしたり、困っている人を助ける動きがあるという話もたくさん聞きました。なので、教授の「キリスト教が浸透していない国では福祉の考えも浸透しない」といった話を聞いて何だかもやもやしてしまいました。 そこでお聞きしたいのですが、仏教においてもキリスト教でいう隣人愛のような、誰かと助け合う、支え合うという教えはあるのでしょうか。無宗教だという人も多いので何も宗教の考えだけが人の助け合いのベースではないと思いますが、日本は仏教が身近という人も多いと思うので、仏教にもそういった教え、精神があればぜひ教えてください。

有り難し有り難し 243
回答数回答 7
2022/12/21

父を殺してしまったかもしれません(再)

先日も「父を殺したかもしれない」と相談をさせていただいたのですが、それについて再度思うことがあり、また質問させていただきます。 なのでこの質問の一つ前の質問を見てからお答えいただけると幸いです。 さて、私が父を押し倒した際、心の中で「頭を打って死んでしまってもいいや」「むしろ死んでしまえ」と考えていたとしたら、それこそ殺人を私は犯してしまったのではないでしょうか? ただ心の中でそう考える前に「頭を打ったら死んでしまう。危ない」と考え、押し倒すのを止めるはずであり、実際に押し倒してしまったということは、単純に腹が立って押し倒してしまっただけで、それによって「父が死ぬ」とは考えていなかったとも考えました。 しかし今度は「危ない」と考えた上で、その後に「父が頭を打って死んでもいいか」「死んでしまえ」と考えたのではないかとも考えてしまいました。 私はこれといった宗教に入っているわけではないのですが、「悪いことをしたら地獄に落ちる」と考えることが多く、キリスト教やイスラム教、仏教などでの地獄を想像して、自分が父を殺した人殺しとしてその地獄に行くのではないかと毎日不安に怯えています。 ならばどこかの宗教に入ればいいとも考えたのですが、一つの宗教に入ってそれが間違いで、別の宗教が正しかった場合、やはり自分は地獄に落ちるのだと思い一つの宗教を選べません。 私は強迫性障害という障害を患っており、人に対して過剰に加害妄想をすることがあります。 今回のこともわたしの妄想なのでしょうか? また宗教はどのように選べばいいのでしょうか?仏教とキリスト教を同時に信じるようなこともしていいのでしょうか?

有り難し有り難し 23
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「死後の裁き」の恐怖がつきまといます。

15歳の頃からキリスト教会に通っていましたが、30半ばで鬱を患い「天国を目指して迫害にも耐える信仰を持つ」というあり方についていけなくなり、仏教に心の平安を求めました。 高野山の宿坊に泊まったり、近所のお寺で座禅を組むうちに、それまでひどいときは数分ごとに波のように押し寄せてきていた攻撃的な苦しみが和らいできました。 それからも落ち込んだり、辛いことは多々ありましたが、苦しみが襲ってきて一晩中眠れないようなことはなくなりました。 相談というのは、思春期に受けた洗脳のような教えがまだ恐怖として根深く残っていることです。 ほとんどは健全なキリスト教会なのかもしれませんが、私の通っていたところでは、「伝道しないことは人殺しに等しい」「教会に来ないと悪い事が起こる」と、今思えば子供だましのようなことでも、当時の私にとってはありありと描写される死後の裁きの事や、来るべき世の終わりに大きな艱難が起こり、迫害を受けるのだという恐怖がしっかり植え付けられてしまいました。 それでいまだに教会に行かなくてはならないという強迫観念から抜けられないのです。本当に行きたくて行くのなら問題はありませんが、根底に恐怖があるのです。 実際にまた教会に行き始めたところ、また心がざわついて、イライラしたり、不安で眠れなくなったりしてしまうのです。 教会自体には問題はなくても私の抱えているトラウマが重くて、まともなメッセージも恐怖のフィルターを通して見てしまうのかもしれません。 教会に行くにせよやめるにせよ、恐怖から解放されて正しい判断をしたいのです。座禅をして心に平安を得ても、これでいいのかと罪悪感のようなものを覚えてしまいます。 仏教にしろ、キリスト教にしろ、どちらが正しいとか、教義的な事とかはわかりません。どちらにしても心がざわついたままでは一生迷いを抱えて生きていくことになりそうです。 とりとめのない質問になり申し訳ありません。 恐怖から解放され冷静な判断ができるアドバイスをいただきたいのです。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 18
回答数回答 1
2023/05/20

性善と仏性、性悪と救い

ずっと日蓮聖人と法然上人、親鸞上人のことが頭から離れず、キリスト教を勉強しながらも反芻していました。 人の本質を仏性とすることを日蓮聖人は言われてたと思うし、窮地に追い込まれても 法華経を支持する神仏を信じることで内に起こる恐怖や不安からくるお気持ちと闘われたと思います。法然上人、親鸞上人は、法華経を目指しても自分の力ではなれない悪人と悟ることで仏の光が差し、念仏によって阿弥陀様に救われる。とされた気持ちもわかります。 悩んだあげくキリスト教を勉強し始め、生きる軸としようと生きています。 キリスト教は、自分の悪を知り、弱さを知り、懺悔を、神の御心とキリストを通して贖罪をし、罪を作らない知恵を学び祈りとするのだと思います。父が学会員だったり、祖父が浄土真宗ということで里心があるのかもしれません。地獄は人間が作った観念だと思います。神仏は地獄を作ってないと思います。時々、御布施や献金のお願いばかりして、本当に神仏を必要とした老後や病気や貧困になった時は自己責任と見放すのがお寺や教会かなって思い、まあ神仏は見放しませんよって説かれても そうだよねって思う。ちょっと信仰心も冷静になる。書いてる内に落ち着いてきました。結局、介護士になり、人の生き死に寄り添いケアをする仕事に神仏をおき、自分の命をつなげるお金をいただいていることに感謝と献身することを神仏に導かれたと思います。いろいろ悩んでいた頃の以前の履歴を恥ずかしく懐かしく想いながら、自己の命と介護させて頂く命が神仏に救われていくように祈り、頑張りたいと思います。相談したかったことは、私は許され生きていけるのかということでした。 大失恋をしたような気持ちでしたが書いている内に救われていると思えてきました。ありがとうございました。

有り難し有り難し 9
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正しい先祖供養の仕方わからない、、

父方のご先祖さま、母方のご先祖さまが過去帳に記載されてなくてわからないご先祖さまがいます。 私は父方祖母が小さいころから般若心経となえて仏前に備えてから朝も夕も食事しなさいとゆう家でした。 しかし、あるとき介護施設で働いてたときに職員からの強姦未遂、親族からの性的虐待を四年間うけて自殺未遂くりかえしましたその親族はクリスチャンでしたそのあと、私自身心ボロボロで占いにはまってしまいその占い師さんにご先祖さまは地獄にいると言われたことや、般若心経を毎日書いて、聖書を読みなさいとかセミナーや、自宅につれてかれたことがありました。自分でも占いをしてしまいました憑依もおこりました。 そこからキリスト教にいけば救われるのかとその占い師さんに洗脳されたまま もう自分がわからない状態で、 占い師と縁をきりちゃんとしたキリスト教で洗礼をうけました しかし、洗礼をうけてもよくならず、逆に霊感は増しました教会にいってませんそのあと首吊り未遂をしてしまいお父さんにおろしてもらいました そのあと、子供のころいった曹洞宗の寺にいって座禅をしました。 それでも洗脳はまだ根っこにあってお寺をさりました断食癖も抜けてませんでした しかし、最近なって介護していると、必ずご先祖さま墓参りいきなさい、 般若心経がいいと、いろんな人から聞いてもう一度反省してみました。 なんで般若心経をとなえなくなったんだろう?となんでキリスト教にいったんだろ?と そこで数日たってみて今度は、曹洞宗のお寺に通っていた利用者さまが私に、あなたにはね、手の届くとこにね仏さまいなさるよといわれました。 その意味を考えてみたところ救いは外にはありませんで内側にありました自分はなんにも無力で小さいと思いました般若心経また、となえてます。 父方の、母方の、先祖供養は、名前もわからないのですが、お写経でどのようにかいたらいいでしょうか お墓参りにも近いうちいきます また、お寺にまたかようことにしました。 私は天国にいけないと思います、、 あと私のご先祖さまは地獄にいるんですか? あと、本屋や、ネットで、調べたけど スピリチュアル本が本当に正しいかわからないし。 天然石も、気休めでしたし。 精神安定剤も一時的です 私の霊感は、なんのためにあるのですか?

有り難し有り難し 10
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2024/01/14

父の三回忌を教会でしたいと義姉が言います

質問させていただきます。 お寺にお墓のある人の法事を、教会で行うというのはお坊さんから見てどうなのでしょうか? また、義姉と折り合いをつけるにはどうすればよいでしょうか。 . 私の父は2年前に亡くなり、この度3回忌を行うこととなりました。 そこで私の兄のお嫁さん(以下義姉)が「キリスト教の教会で三回忌をしたい」と言って揉めています。 義姉は2年ほど前にキリスト教になり、教会へ通っています。普段会っても勧誘や説教はされなかったので今回突然のことに驚いています。 . 父が熱心な仏教徒であったわけではないのですが、父の墓は浄土真宗のお寺にあります。わざわざ教会に死んだ父を呼びつけて法事を行うというのは違和感です…。 . そのため それはおかしいのではないか、と義姉を諭すと泣いて癇癪を起こしてしまいました。 義姉の言い分は「教会の方が安く済ませられる」「お寺は家から遠い」「自分の信じていないものにお布施をしたくない」「教会の神父さんにももう頼んでしまったので後には引けない」などです。 . それならお金は払わなくていいし来なくていいとも伝えましたが、そういう問題ではないそうで。 兄は家庭を大事にしており、義姉には強くものを言えません。私も兄の家庭には平和であってほしいです。 しかし今回の話があまりにも平行線であるため、本職の方の意見をお伺いしたく書き込みました。 . 最後に重複となりますが、「お寺にお墓のある人の法事を教会で行う」というのはお坊さんから見てどうなのでしょうか? 義姉と折り合いをつける方法はありますでしょうか? 私としては先祖を改宗させるような行為はバチ当たりなのではと思ってしまいます…よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 18
回答数回答 2

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