先日、祖父が亡くなりました。急なことで気持ちの整理がつかず毎日苦しいです。 元々私は自殺願望があり、今回のことで更に死にたくなりました。祖父の所に行きたい、会いたいと。自殺をすると地獄に堕ちるのでしょうか。ふと疑問に思ったので質問させていただきました。 それと、大切な人が亡くなった時にどのような気持ちを持てば前に進めるのでしょうか。今はもうどうしていいか分からず、優しかった祖父との記憶を思い出し毎日泣いています。本当に大好きでした。私はこれからどうすれば良いのでしょうか。 まとまりのない文章になってしまい申し訳ありません。
私の気持ちを告白させてください。 最近母が亡くなりました。まだ働きざかりであまりにも突然な事でした。 私は生まれつきの病気で辛い治療の末なんとか人並みに働くことができるほどに回復しました。 しかし20歳の頃持病が由来で自分は子供を作れない体質であることがわかりました。 私は親に孫の顔も見せられず、自分の体質を憎もうにも親を責めることもできず、せめて母の誇りに思うような人になろうと努力して来ました。 ですが、母は突然の病気で入院から一ヶ月も経たずに亡くなってしまいました。私は弱っていく母の手を握って恩返しできなくてごめんね、と泣きながら縋り付くことしかできませんでした。 治療の痛みに苦しんでいた自分に、お母さんが代わってあげたいと悲しそうな顔で見つめて手を握ってくれていた母の姿がずっと記憶に焼き付いて離れません。 私は母が欲しがっていた車や好きなものを買ってあげられるように頑張って稼ごうと働いてきました。ですがそれはもう叶わぬ事となってしまいました。 母は病気の私の役に立とうと医療職で働く事を選び、ずっと私の治療に寄り添ってくれました。こんな立派な母は必ず天国に行くのだろうと確信しております。 しかし私は親に孫の顔を見せることもできず充分な親孝行もできずに終わってしまったことを日々悔いて生きております。こんな親不孝な私は地獄に行くのではないか、亡くなってからも母に見せる顔がないと感じてしまいます。 こんな私はやはり母に会う資格は無いのでしょうか。私はこれからどう生きて行くべきなのでしょうか。
私は強迫神経症を持ってこの世に生まれました。強迫神経症とは、強迫観念に囚われ特定行動をしなけれいけないと自身で思い込んでしまう病です。家族と医者のおかげでなんとか症状を大幅に改善でき、日常生活はおくれるようになりました。それまでの人生は業苦でしかありませんでした。 しかし、悲しいことに完治にまでは至りませんでした。まだ頭の中で無性に強迫観念囚われます。常に起きるものなので逃げられません。医者に説明しようにも言葉で表せないので理解して頂けません。おそらく、完治はもう望めないのだと思います。 私には絶望しかありません。この苦しみにずっと付き合わないといけないのだと。誰にも理解されず、ただ1人で悲しく抱え込むしかなく、もがき苦しみ続けて、死ぬだけ。 母は私に言います。「人の苦しみはそれぞれ。あなたもその病気と付き合い方を探せ。」と。世間一般でいう苦しみとは「自分が何に苦しんでいるかわかる」、「人生の一部分に過ぎない」ものですよね?苦しんでる時間もあるかもしれないですけど意識しなくてもいい時間もありますでしょう?その反面私は「思考なので常につきまとい逃げられない」、「苦しみは人生の全部」、「何に苦しんでいるのか具体的に掴めない」、「他者に伝えられない」のです。付き合えという方が無理でしょう。 そんな業苦の中でも私が今生きているのは「苦しみは生きている時だけ。耐えられなくなった時は最悪自殺すれば終わる」という考えがあるからです。1度ナイフで腕を切り、神経を切ってしまったこともありました。何故か助かってしまいました。あそこで死ねれば楽だったかも知れません。 しかし、「自殺すれば地獄以上の苦しみがある」、「全く同じ人生を繰り返す」という話を見ます。これは本当なのでしょうか。私は…苦しみ抜いて死に絶えること以外許されないのでしょうか? 自殺せず全うに生きた場合、私のこの苦しみは現世だけで終えられるのでしょうか?それとも意識として残ってしまうのでしょうか? そして、なぜ私だけこんな目にあって生まれて来なくてはならなかったのでしょうか。人は平等と言いますが私はそうは思いません。そんなものは人を破壊しつくすような苦しみを知らない人の意見。私は人並みに悩み、苦しむ、そんな人生が欲しかった。 神がいるとしたら、何故こんなにも残酷なことを私に強いるのでしょうか。
こんにちは、浄土宗の者です。 僕は前回、ネットで相手を自殺まで追いこんでしまったかもしれませんといった内容をお話しいたしました。 相手は傷がついたかも、僕はいけないことをしてしまった、相手に対して申し訳ない。 僕はある日、ネットでこんなものを目にしました。「善は罪を洗うもの」と。 でも一つ違和感を覚えました。それは、「殺人を犯した者は反省して善行を行っても、果たして地獄に行かずに済むのか?」と、どんな殺人でも地獄行きを避けられるのかと。 ちなみに僕は、ネット内だけではなく、今まで嘘や殺生、盗みもしていました。 それらは、しっかり反省して善行に励めば、地獄行きは回避できるのだと思いますが、殺人を犯した者はどうなのでしょう… でも、反省だけではなく、さっきも書いたように、善行を行う(人のためになる、人助けや、譲りなど)事も大事だと思いました。 無間地獄の事を実はずっと前から恐れていたのですが、もしかしたら行くかもしれない事になるとはと悔やみました。 普通の暮らしがこの状況でできるかどうかが分かりません、その理由は、こんな事しなければいつも通り普通だったのに、と。なので今の自分の心の中は、「晴れ、時々、雨」の状態です。 でも実は一つ神仏様に誓った事があります。それは、「不殺生を守る事と、家族を大事にする事など」です。僕は家族に対して申し訳ない事に、あまり関心がなかったのですが、この期を機会に「家族を守りたい!」と言う思いが強くなりました。 書いてる途中でふと違和感をまた覚えました。「人間って罪(例えば、殺害や盗み、罪他々など、)無しだと大事な事に気付けないのかな?今回ネットで自殺に追いこんでしまったのもその一つかもしれない」と。 少々矛盾を感じますが、実は僕、人間(家族や友達)を大切さをこの期を境に、より深く気付けたんだなぁと思いました。 それからの日は少し、「この世界のみんな(難民や囚人、お坊様や家族、友達などなど)はみんな大切(思いやりで)」と考えるようになりました。 人の健康や幸せを励ましたり助けたり、褒めてあげたいと思うようになりました(悪いことをしたら反省も) それらの事を思えば恐らく僕のような自殺まで追いこんでしまった者でも、仏様は常に善・悪をみてくださっていると思うのでそれらの今書いた善行を行い、今書いた良い事も考えられれば 地獄に行かずに済むと思いました。
仏教では生きることは苦しみであると説いていることは、自分なりに仏教を勉強して少しは分かっているつもりです。しかし、去年は私をかわいがってくれた祖母を亡くして愛別離苦の苦しみを味わい、数年前からは、会社の老害である人物に毎日顔を合わせて怨憎会苦の苦しみを味わい、仕事では待遇に見合わない責任を負わされ心労が絶えません。たまには、楽しいと思う事や、うれしいと思う事もあります。しかし、苦しいと感じる事のほうがはるかに多いと思います。ふと冷静になると、こんなに苦しいことばかりで生きていくのが苦痛で、自分のこれからの将来に絶望してしまうことがあります。まだまだ不勉強でわからないのですが、仏教(釈尊)はこういった悩みにどういった回答をされているのでしょうか。最近、年を取ったせいか(まだ31歳ですが)釈尊や阿弥陀如来様、地蔵菩薩様などのエピソードやそのお慈悲を知り、有難さに涙してしまうことがあります。人間の苦悩に真剣に向き合う宗教は仏教だけだと思っています。ご回答お願い致します。
死ぬ直前の悪い想念があの世で延々と続いて、ガキ道や地獄へ落ちてる場合、どういった供養をすべきでしょうか? 朝晩お食事お供えしたりは欠かしてません。 結局、あの世の本人の悟り諦めしかないのでしょうが、どうやって子孫としてサポート出来ますでしょうか? お経は一応毎日あげてます。 感謝の言葉も述べてます。 子孫が出家僧侶となり千日回峰業のようなこの世での荒行するなりで、全ての欲を絶つくらいしないとならないのかなと感じてます。 私は酒タバコギャンブルも一切しませんし、殺生にあたる肉食も止めました。 懺悔文を口語にして、御先祖様の愚かさや貪りから起こしてしまった過ちに詫びてます。 自分の苦しみは自分の業と理解してますが、御先祖様の苦しみ迷い悩みだけは、私の命があるうちに可能なら解消してあげたいと願ってます。 お知恵を拝借出来れば幸甚です。 まあ、今まで通り供養して、この世では明るく感謝の気持ちでがんばって下さいとしか言いようがない質問でしょうが。
障害者はいつ救われますか?報われますか? 頑張っても頑張っても、負けて、負けて、負けて 借金が積み重なり、人生破綻、 金と時間と労力を奪われて、 気づけばキモくて金のないおっさん、 アラフォーゴミ障害者です。 発達障害、AGA(若ハゲ)、自律神経失調症 胃痛 胸痛症候群、不眠を併発しています。 金が無く、取り立てにあっています。 父親が母親を日常茶飯事で殴る蹴るのDVを振るう機能不全家庭で育ちました。 私には愛情はありません。 親から愛情を感じたことがないのです。 発達障害もAGA(若ハゲ)は遺伝で、 かつ発達障害の為に人より体力も気力も少なく、出来る仕事も殆ど無く(営業、事務、プログラミング、調理、士業、肉体労働など、ほぼ全て出来ません)、 金が無く、通院や身体へのケアが十分出来ない為、 自律神経失調症も全快せず、発達障害も満足に治療出来ず、ストレスや不安が余計に募り、 身体の倦怠感や疲労が増し、胸痛症候群や胃痛も治らず、不眠がより酷くなり、身体への不調が更に酷くなる悪循環が続いています。 身体を壊したのは過労が原因で、 発達障害もAGA(若ハゲ)もコンプレックスも 全て自責と捉え、仕事に邁進しました。 その結果、もともと身体が弱かったせいもあってか、働き過ぎで自律神経失調症となり、身体を壊して、仕事を辞め、金は底を尽き、借金まみれで、取り立て、差押え間際で、将来の展望も何も無い。破綻した地獄の人生だけが残りました。 私は、自分で言うのもおこがましいですが、もう十分やったとも感じています。 もうあまりこの世に未練はありません。 十分、傷つき、疲れるくらい頑張りました。 報いがなくとも、自分を鼓舞し、やりました。 その結果が、人生の負の代償を払っている救われない今の自分です。 死んで終わりにしたいです。 ただ、死ぬ勇気もありません。 生まれつきの肉体的、精神的ハンデ、自分では選べなかった自分の遺伝子や生得的形質、血筋や生育環境からどれだけやっても逃れられない人間の宿痾、業に疲れました。 もういい、もう幕を閉じたいです。
こんにちは。 前回質問で、輪廻思想がどうも腑に落ちない、と主張した者です。 ただ、輪廻に限らず、事物が「ある」とも「無い」とも断定するのは中道の教えに反すると感じるので、輪廻思想の側からも質問させてください。 輪廻転生があるなら、私は六道あらゆる世界を見て、生きて来た事になりますよね。何しろ仏教の宇宙観は無数劫の時間スケールで成り立ってるのですから。 また、私は、いわゆる地球外生命というものも、必ずどこかの惑星で誕生し生を営んでいると信じています。 そうなると、私の魂(?)は天上界のめくるめく壮麗な世界も体験して来たし、地獄の底の恐ろしい責め苦も受けて来た事になりますよね? また想像を絶するような異星の光景も目の当たりにしてきたのではないでしょうか? 輪廻転生が教えているものって、 「そういう一切合切の有情は、別個に生きているのでなく、過去、現在通して、物質から魂のレベルまで、密接に繋がって生きてるんや。天人も地獄の衆生も、あらゆる命も決して他人事じゃおまへんで。なにせアンタがそれ自身だったんだからな。」 と言っているようにも思えるんです。なぜか関西弁ですが。 そういう所から、いわゆる慈悲って生まれるのでは無いでしょうか? 生前や死後を無記とするのは「智慧」ですが、また輪廻をわが事として受け止めるのは「慈悲」の根源なのかな?とも思います。 この2つの考えは矛盾するものではないとも、私には思えます。 お坊様方は輪廻と言うものをどのように受け止めてるのか、気になったので再び質問させて頂きます。 お考えを聞かせて頂ければ嬉しいです。
24歳頃、地元で配達のアルバイトをしていました。 そんな時、町中で見知らぬ女子学生に大声で罵倒されるということがあり、一体何が起こったのか理解できないまま、周囲の人たちから好奇の視線を向けられる恐怖に震えることになりました。 その後、その女子学生には、二度ほど遭遇することになり、一方的に罵声を浴びせて逃げていかれることの繰り返しだったために反論すらできず、いつしか私は病院から追い出されるような経験もしました。 何もしていないのに、どこの誰かも分からない人間の言葉を否定するすべもないということは、人生を壊されたまま、不当な苦しみに耐えて一生を送らなければならないことなのです。 私は、もう疲れてしまいました。 少し話はそれますが、私は生まれつき色白で、日に焼けても赤くなるだけで、すぐに元に戻るのですが、そんな私の顔を見て多くの若い人が「キモい」といいます。 実にお手軽な言葉ですね。 人の心を思いやることもなく、自分の気分次第で他人を踏みにじっては悦に入る。 醜い心をさらけ出すような言葉を吐きかけながら、恋だの愛だのを貪欲に求める姿は、果たして人間と言えるのでしょうか? 私は、そのような人達を「通り魔」と呼んでいます。 私が心を切り裂かれたあのとき、確かに心は血を流していたように思えたのですから。 今の私は、何とかして親にお金を返すことだけを願って日々を暮らしています。 仕事には就けず、情けないことに賭け事や宝くじ等です、愚かすぎて泣けてきます。 守株待兎でしたか、私のような愚か者を表す言葉がありましたね、でも私は責められるべき人間なのでしょうか? 最近の私は、体の不調にさいなまれ、一層愚かな行為を繰り返すようになってしまいました。 パチスロなどの馬鹿なことをして、何とか日々の糧を得ようとしてはいますが、もとからあのようなことで金を得られるわけもなく、どんどん追い詰められてきています。 私は、自分がもう長くは生きられないのではないかと思っています。 体の不調はもとより、薬を飲み続けることにも疲れ、障害を隠しても仕事に就けないことで収入もなく、心も疲れはてました。 私は死んだらきっと地獄に堕ちるでしょう。 私がいくらかでも早く地獄から抜け出せるように拝んでいただけましたら幸いです。 長々と駄文を連ねましたことをお詫びいたします。
病的かつ分かりにくい文章で申し訳ございません。 私は、自業自得な出来事で精神的な健康を損ねたことをきっかけに、地元の神社仏閣に通うようになった20代の女です。 最近は、学業や進路の大切な場面などでお参りをさせていただき、心を落ち着かせています。(昨年は人生に関わる大切な願い事が叶い、信心が一層深まりました。) 神社仏閣は私にとって安らげる、大切で大好きな場所です。 しかし、最近私の中の強迫的な心的傾向あるいは筋金入りの天邪鬼が原因で、「お参り中に全く本心では無い言葉が頭の中にチラつく」という悩みに苦しんでおります。(今年の初詣では、大好きな神社でお参り中にふと「地獄に落ちますように」という言葉が浮かんできて動揺してしまいました。直ぐに参拝しなおしましたが、今も心にその出来事が引っかかっています。) これはどうやら「縁起強迫」という強迫性障害?の一種のようですが(間違っているかも)、日常生活には全く支障がないので特に病院などにはかかっていません。 そして、その「地獄」の参拝の後しばらくして、大好きな祖母が心臓発作で急逝しました。 本当に、なんの前触れもなく、今思い出しても涙が止まりません。 そして今、精神的にも経済的にも私のことを厚く支援してくれた祖母を亡くした悲しみの中で、「あの時の「地獄」を神様仏様が「叶え」られたのだろうか」と不安に思っています。 以上のことからお聞きしたいことは、 ・神さま仏さまは、私が「縁起強迫」で願ってしまった恐ろしい「願い事」を「叶え」られるのでしょうか。訂正の参拝は無駄でしょうか。 「縁起強迫」で訳の分からない願い事をしてしまっても、訂正すれば神さま仏さまは分かってくださるのでしょうか。 ・祖母が安らかに逝くためには、私はどうすれば良いのでしょうか。
ご質問させて頂きますハルソラと申します。 私は現在、30代ですが未だに親子の関係について悩んでおります。 どの様な悩みか端的に申しますと「私が小さな時から親の愛情を感じなかった」という事に尽きます。 その事で私は小さな時から自身の存在価値など感じられず、学生時代は無気力で勉強や人付き合いも苦手で、社会に出てからはうつ病に苦しむ事もありました。 しかし私も何も努力しなかった訳ではありません。 社会に出てから自分の弱さを克服するために格闘技を始め、更には仏教神道の学びを得た事で、とっくに自殺か引きこもりになっていておかしくない人生を仕事、スポーツ、勉強に尽力して生きています。 でもまだまだ苦しいのです。いっそ死にたいくらいです。 先日、母親と話す機会がありその思いをぶつけました。 私はこう言いました。 「生んでくれって頼んだ訳じゃないのに生まれて来て、生きて散々に苦しんで生きる事は地獄だった。 あなたから愛情を感じなかったのが原因だ。だからせめてこれから少しでも愛情ある態度をしてくれたらいいんじゃないの?」 …という内容です。 母親とは10年以上に渡り、この議論が展開されておりそれでもいまだに理解されません。 母親はちゃんと育てたつもりになっているのです。私から言わせれば、私は最低限「生かされていた」だけでした。 ちなみに父親とはコミュニケーション不能です。生まれて未だかつて父親とまともに会話した事はありません。 もし親から 「それでもお前が生まれて来てくれて良かったよ。愛しているんだよ」 という言葉があれば報われるし、これが正確だと思います。 しかし母親から出た言葉は 「次があったら(来世の事?)絶対に子供なんて作らない」 という無理解な傷付く言葉でした。 私は生まれたくもなかったのに。生きていて地獄なのに何故それでも生きなければならないのでしょう? 私は30代の成人ですが、親子関係の問題に年齢は関係ないと思います。 どうしたら良好な関係を築き、私と親とが共に幸せになれるのですか? お坊さまのご回答よろしくお願い致します。
目蓮さんの最期は、過去生の悪行為の報いで壮絶なリンチだったという話は有名ですよね。 前の生は地獄に落ち、その期間が終わって、目蓮さんとして生まれて お釈迦様の弟子になる人生を生き。 地獄に行ってすら刈り取りが完了していない業があったから、リンチを受け、亡くなったのですよね? 前の人生で淫に耽り親を殺して(他の説あり)、地獄にまでいくほどの存在が、地獄での期間を終えたとはいえ、 地獄の次の人生がいきなりバラモン生まれのお釈迦様の二大弟子ですか?!と、驚いてしまいました。 よほどの凄い善因もどこかの過去生で 作っておられたということでしょうか? 2、地獄がらみで疑問に思ったこととして 別の話ですが、このサイトの問答で、或るお坊さんが、ご自身の来世は地獄だと述べておられるのを目にしました。 何ゆえにでしょうか? ご謙遜で、自分は地獄行きと仰っておられるのでしょうか? 熱心に仏道を学び、智慧と福徳の修積に努めておられるご様子なのに、それほどの生き方をして、来世が地獄だとは…。 特に悩んでいるわけではないのですが、 もし教えてくださる方いましたら、宜しくお願い致します🙇
なぜ生きないといけないのでしょうか?そしてなぜ生まれてきたのでしょうか?
いつもお世話になります。 実は、近ごろ気がついたことが、あります。 それは、人間の醜さです。 いじめ 殺人 盗み 性犯罪 子供の虐待 詐欺 セクハラ パワハラ 悪口 ネットの炎上 戦争 独裁者 カルト宗教 弱肉強食の世界 近ごろこんな事ばかりが、頭をよぎるようになりました。 正直 人間の醜さに嫌気がさしてしまいました。 そして人間は死後全員地獄に落ちて然るべきなのではないか?と考えてしまいました。 むしろ人間は、死んだら醜い人間として生まれた罪を背負うべきなのではないか?と考えてしまいました。 現に私のこの書き込みをみてバカにしたり蔑む人がいるかもしれない それが確かな例でしょう。 ちなみに私も醜い部分をたくさん持ってます。 仏教では、この人間の醜さとどう向き合うのでしょうか?
私は今、不倫をしています。自分が苦しむ事は覚悟していました。何度も別れようと思いました。でも彼の事が何より大事で彼と離れる事が出来ません。自分は、どんなに非難されても彼から離れられません!今の私にとって彼は生きる源です。どんなに愛しても結ばれる事は無いです。分かっていても彼を忘れる事は出来ません。彼を思うだけで苦しみがあり、でも、それ以上に幸せなのです。こんなに全てをかけて愛せるのは彼だけです。このまま進めば生き地獄、死んでも地獄にしか行けないでしょう。お坊さん達から見たら救いのない人間ですよね!
母が難病になりそれを苦に自殺をしました。 本当に苦しんだ結果の事でした。 亡くなった母の顔は苦しんだ様子もなく本当に安らかな顔でした。その顔を見た時に母は苦しみから解放されたのだ。と思うのですが、よく聞く話では自殺すると地獄に行くと聞くのです。 そんな事はない。とは思うのですが考えてしまいます。母の事を思い、日々過ごしていく事が供養になると私は思うのですが、どうしても気にしてしまいます。
最近思ったことがあります 前に質問した時に地獄はあるかというした時に 精神状態で決まるて聞いた時思ったことがあります 病んでる人は地獄に行ってしまうんではないか と思った時もありました それはどうなんでしょ? ケアすると大丈夫なのでしょうか?
僕の家族は少し複雑で父と離れて暮らしています。昔、色々とあって僕の母の兄は父のことが大嫌いです。お母さんはその母の兄の会社で今働いています。 いつも月に1回ほど父に会いに行っているのですが、母の会社は土曜日もありそして 僕や妹の学校の関係で、お母さんが土曜日仕事を休んで行かなければなりません。 でも、正直に父に会いに行くから休むと母の兄に伝えると絶対に休ませて貰えずさらにお母さんが責められるのは聞くまでもなく分かります。 なのでいつも母は、嘘の理由で休んでいます。嘘をつくと地獄に落ちるなどと言いますが母は地獄に落ちてしまうのでしょうか?母はとても優しく僕は大好きです。 僕は母に幸せになって欲しいし、死後地獄になんて行って欲しくないです。 でもこれからも嘘をついて休むことになると思います。 僕も学校を精神的な理由や行きたくないという感情で休んでしまうことがよくあります、その時母は、熱があるとなくてもそう言ってくれたりします このような嘘をついたりしている僕たちは地獄に落ちてしまうのですか?
お世話になっております。前回、死ぬ時の苦痛が怖いと質問させていただきましたが、もうひとつ死んだ後自分はさ迷うのか、地獄に行くのか、消滅するのか、あるいは霊界みたいなところに行くのか 等考えていると不安と恐怖にさいなまれます。別に悪い事はしていないので地獄行きはないと思いたいですが。私には子供がいませんので私の家系は私で完全に終わります。なので私を供養してくれる人もいません。なので現世をさ迷うのでしょうか?実際死んだら人間はどういう風になるのでしょうか?詳しく教えてください。信仰心はありますが100パーセントではなく30パーセントぐらい疑っているようなところがありますが、信仰心と死んだ後の処遇は関係性がありますでしょうか?
以前、1月9日にもこちらにご相談させていただいた者です。質問が混み合っているという事で、個別相談を先週金曜日に増田住職様に個別相談させていただきました。増田住職様は親身に私の話を聞いて下さいました。その時間は本当にありがたく、苦痛も和らいだ気がしました。とても感謝しております。 でも、やはり、1分、1秒も生きていることへの罪悪と恐怖はなくなりません。ステージの進んでしまった癌に罹ってしまい、腰の骨に転移した癌の痛みと精神的ストレスに耐えられなくなり、仕事を辞めてしまった事。夫と私は家のローンを確実に返して維持できるほど安定していた訳ではないのに、夫の実家に何の相談もせず、私の実母から、頭金の一部を都合してもらえるという事に甘えて飛びついてしまい、家を購入してしまった事。そんな不安定な立場にも関わらず、自分は癌保険はおろか、まともな医療保険や死亡保険に入っていなかった事。そして、保険云々よりも、もっと、毎年癌検診や人間ドックなどを受けていたら、ここまでの事態を防げたかも知れなかった事。それは夫に対しても同じでした。お互い、そういう検診を進めてくれるような良い会社に勤めていなかった。そして、夫も何処かに癌と疑われるほど、飲酒も食事も毎日大量に摂っていても痩せすぎている事。夫の家系は元々そんなに健康な家系でもないのに、毎日の飲酒で、もっと、健康を気にしてあげないといけなかったにも関わらず、管理できていなかった事。私の家系は逆で、両親も今まで大病した事がなく、身近な親族に癌で亡くなった人がいなかった為、自分には関係ない事のように思ってしまった事。健康管理が全く出来ていないのに、大丈夫と思ってただただ毎日生きてしまった事。その結果、私はこうして、癌になり、お金の事ばかり考えて、そして、治らない癌に罹って、迷惑かけたくないと、死ぬ事ばかり考えるようになり、何度か自殺を試みましたが、死ねませんでした。今ここで死んでしまえば、家は事故物件になってしまう。夫もまともではなく、癌かも知れないのに、娘は生きていけないだろう。そう思って死ねなかったのと、人間死にたいと思っても苦しいと出来ないものなのだという事を知りました。生きてても迷惑、死んでも迷惑な存在。そして、生きてても地獄、死んでも地獄な自分。この苦しみを乗り越える方法はあるのでしょうか。