僕は来年僧侶になる予定の高校生です。 お坊さんの戒律の現状に関して皆様の意見を教えてください。 明治以降、国の政策によってお坊さんは肉食、世帯、飲酒、その他諸々の戒律を守らなくてもよいことになりました。 そして国家の規定による持戒は戦後の信仰の自由の徹底化によって可能性はほぼ無くなりその状態は今現在も続いています。 以前こちらでも活躍されている大慈さんの配信で僧侶の肉食、世帯に関する質問をしたのですがその際に ・肉食は栄養の問題で必要だし仏教の教義としても問題ない ・世帯は無条件の良い事では無いが寺を継ぐ後継者を育てていくためにも必要 ・これらの問題は全てを解決できる答えが無いから考え続けることが大事 という様な答えを頂きました。 僕も大慈さんのお考えに感銘を受け、すぐに結論を出さすこの問題に向き合う事にしました。 しかしすぐに結論を出さないという事は問題に向き合う事に消極的になるという事では無く様々な意見、主張を聞き考え続けることだと思います。 そこでここにいらっしゃる僧侶の方々の肉食、世帯に関する意見をお聞かせください。 また、大慈さんは戒律の問題を一括りにはせず肉食と世帯を別の理由でもって語って下さいました。 確かに一つ一つ事情は異なっているので僕も個別に考えようと思います。 そこで肉食、世帯に加えて飲酒や金銭に関する問題もお伺いします。 今現在の僕の意見としては、しょうがない理由のある肉食や世帯と違い嗜好品としてのお酒やお寺を支えるため、生活するため、将来のための貯えを超えた過度な儲けと散財はある程度宗派、教団で規制してもいいんじゃないかと思うのですが皆様はどうお考えですか?
宗教・宗派を超越して、宗教家・僧侶は、決して自殺はしてはいけないと俗人に「説教 説法」しますよね。 否定しません。その通りです。 しかし・・・・・ チベットのラマ僧侶は、中国共産党の悪行に抗議するためと称して、よく焼身自殺しますよね。 軍事政権下にあったビルマ・ミャンマーでも、タイでも、ベトナム戦争時の南ベトナムでも、仏教僧が支配者・独裁者・軍部の悪行に抗議すると称してよく焼身自殺をしていました。 日本では、昔は「生き仏」になると称して、僧侶が穴倉にこもり、すべての飲食を断ち、「御陀仏」するという『挑戦」をしていたこともありましたが、これも自殺ですよね。 僧侶の皆さん、仏教では、仏陀は、自殺を認めている・奨励しているのでしょうか? 俗人の自殺は許されないが、僧侶の自殺は許されるのでしょうか? いかがでしょうか。
こんにちは。いつも楽しく・癒されながら拝読しています。 先日、お彼岸という事で、久しぶりに祖父と祖母のお骨があるお墓にお墓参りに行ってきました。 祖父母のことは大好きで、亡くなって7年くらいたつ今でも家族団欒の席で祖父母の話が持ち上がります。 仕事が忙しくてなかなかお墓参りに行く機会は作れないのですが、お墓の前で手を合わせれば、「おじいちゃん、おばあちゃん、家ではこんなことがあったんだよ」とか、たまには「お母さんがお父さんの所為で滅茶苦茶ふてくされているのでどうにかしてください」とか願ってみたりします。なかなか無茶ぶりをしているかなと自分で思ったりもします(笑) さて、そんなお墓参りですが、このサイトや他のサイトを見ていて、ふと疑問が浮かびました。 宗派によっても異なるのかもしれませんが、亡くなってすぐ、(少なくとも祖父母の場合の7年より前には)ご先祖様は生まれ変わってしまって、もう元々の家族のことは忘れて違う人生を歩んでいるものだという考え方があるのを知りました。 それでは、お墓にいって何かを報告しても、報告しているつもりの相手はそこにいないのでは?と思うのですが、当然一方通行なのでしょうか? それに、私はお盆やお彼岸の機会でもお墓にお参りに行けない時は、せめて仏壇に手を合わせるのですが、その場合仏さまは仏壇とお墓を生きている人が手を合わせる都合に合わせて瞬間移動しなくてはならないのでは…!? 是非その仕組みがどうなっているか教えてください!
先代猫の命日が近づき、気鬱になっています。私は彼女にたくさん救われたのに、最期には癌闘病でとても苦しい思いをさせてしまったと今でも後悔してもしきれません。 特定の宗派、懇意にしているお寺などはないのですが、数年前から命日にお寺で写経をしています。そのお寺はふらりと誰でも寄ってよいところで気が楽でした。 命日の写経のお陰か、悲しみや後悔が毎日毎晩続くのではなく命日前だけになり、この命日をどう過ごすかで一年のメンタルが変わる大切な日になりました。 ですが今年は疫病でどのお寺もしまっており、どのように気持ちの整理をつけてよいのかわかりません。自宅ではまだ元気でやんちゃな猫もおり、写経などとてもできる環境ではありません。 疫病で法要など延期している方々がいるのも重々承知の上で、それでも何か区切りをつけないと今年も前に進めません。最善作を考えてもわからず堂々巡りでとても苦しいです。 このような時に檀家であれば何か策があるのかもしれませんが、ふらふらとさまよってここにたどり着きました。今の私には何ができ、どう乗り越えるべきなのでしょうか。判りません。
実家の話です。 以前、階段から落ちて亡くなった人がいる家を買いました。 その家の天井裏に何かの御札が貼ってあり、気持ち悪がった姉がはがして捨ててしまいました。 霊感のある兄は、この家にいると家族が病気になると言っていました。 その後、母は脳梗塞の後遺症や片目失明、 御札をはがした姉は40代で癌になり死亡、 私も30代で精神疾患で一時は寝たきりで入院、 兄も脳梗塞と心筋梗塞になりました。 兄や私は霊感が強く、よく家の中で同じ霊をみます。感じ方?見え方は違うのですが、共通しています。 ただ、毎回違う霊の場合が多いです。 霊が住んでいるのか、呼びやすい家なのかもしれません。 これ以上、家族の健康被害がでるのを防ぎたいです。 あの御札の正体はなんだったのでしょうか? 本当に御札と家族の体調不良は影響ありますか? 新しい御札をもらうとしたら、どんな宗派やお寺がおすすめですか? 東京に住んでいます。
こんにちは。 会社の上司が亡くなりました。元々病気だったわけではなく、脳梗塞で突然のことでした。 上司とは6年間隣の席で、仕事以外でも大変お世話になりました。人生の良き先輩に出会えたな、と実感した矢先に突然のお別れです。このご時世で会社は皆テレワークをしており、会社へ行くのは月に2回程度。お別れの実感がないまま、机にお花を手向けております。 さて、ここからが質問です。 上司は直葬だったそうです。生前の世間話の中で菩提寺は聞いたことがあったのですが、ご家族の方がそちらに納骨される様子がなさそうです。 この場合、菩提寺に私がお参りに行っても納骨されてないので供養にはならないのでしょうか。 上司は曹洞宗で、信仰心のあつい方でした。そのような方が直葬かと思うと、私は宗派は違うのですが、悲しく切ない気持ちになります。 もし、供養となる方法があればご教授ください。 今は上司とご先祖様にむけて、般若心経を読む日々です。お経によって少しでも灯がともされていれば良いのですが。
亡くなったあとはあの世での意識的なものはあるのでしょうか 例えば、「ああ、自分は亡くなってしまったんだ」と思うようになるのでしょうか? よく、亡くなった方は自分が亡くなったことに気づかないとおききしたものでご質問させていただきました。
父が亡くなり、戒名と法名についてのご相談です。 4年前に兄を亡くし、現在は父の故郷に父が購入した浄土真宗の納骨堂にお骨を納めております。 そして、そちらのお寺さんで法名をいただいております。 つい最近、父が亡くなりました。 父は我が家に近い納骨堂を私が購入し、納骨する予定です。 父が生前、娘の近くが良い…と言っていた為、つい最近、我が家に近い納骨堂を購入したばかりでした。 こちらの納骨堂は宗派問わずですが、管理をされているお寺さんが真言宗です。 葬儀の際は家族葬にした為、葬儀屋さんに手配していただいた真言宗のお坊さまに火葬場でお経を読んでいただき、戒名や法名はいただきませんでした。 やはり戒名や法名は今後、いただいた方がよろしいでしょうか? 四十九日法要の後、納骨する予定です。 その際に、納骨堂を管理しているお寺のお坊さまに四十九日開眼納骨法要をしていただこうと考えております。 そこで戒名をいただくか…。 俗名のままにするか迷っています。 いずれ兄のお骨も分骨して、こちらの納骨堂へも持ってきたいと考えています。 その場合、法名の入った過去帳を入れても良いものでしょうか? 過去帳には私の祖父母の名前も入っています。 それとも、兄も分骨の際に戒名をまたいただいた方がよろしいのでしょうか? 何が良い方法なのかご教示いただけると幸いです。 どうぞよろしくお願いいたします。
私の実家の菩提寺との関係にについてご相談です。 昨年末に実父が亡くなり葬儀を行いましたが、お布施の金額や住職の振る舞いが納得できるものではなく、離檀を考えております。 お布施の金額についてお伺いをたてたところ、60万円。お車代2万円×2人分を請求されました。お布施とは、そもそもお気持ちであり、金額を提示されるものなのでしょうか、また葬儀は30人ほどの小規模のものでしたが、脇導師もいらっしゃいました。菩提寺ではない近隣の寺からいらしたようです。2人必要なのでしょか? 戒名は一番下のランクで葬儀社の方も驚いていました。実家周辺の同じ宗派の寺の中でもかなり高額とのことです。 今までにも、年期法要など毎回、かなり多くのお布施を要求されています。お布施をお渡ししたときに私たちの目の前で、お布施の中身を数え確かめたこともありました。 住職として信頼できないこと、菩提寺には墓がないこと(自宅近くの公共の墓地に墓はあります)今後、これからもかかるであろう高額な費用を捻出することも難しいので離檀を考えています。 離檀の際にお気持ちはお支払いしますが、離檀料として30万円もの金額を支払う必要はありますか? (先日、49日の相談をした際に〝今後のお付き合〟と書かれた用紙を渡され)盆暮れの付け届け○〇円、年季法要お布施〇〇円 等と書かれている用紙に離檀料25~30万円との記載がありました。 嫁ぎ先もたまたま同じ宗派ですが、もっとこちらの話に耳を傾けてくださいます。地域が違えば色々と違ってくるとは思うのですが、どうなのでしょうか
はじめまして どうにも苦しく誰かに教えて欲しいと思い質問致します。文章を書くのは苦手ですが回答を頂けると嬉しいです。 先月の初めに大好きな彼がなくなりました。転落したそうで、短いものでしたが私とご両親宛に手紙がありました。 直前まで一緒にいて、その後もいつも通りに会えると信じて疑わなかったので、どうして何も気付けなかったのだろうと後悔するばかりです。 原因も未だにはっきりしたことは分からなくて、何か困らせてたのかな、私がカウンセリングに通っていたから悩みを話せなかったのかな、他の人と交際していれば今も彼は幸せに過ごしていたのではないかと考えてしまいます。 彼のご家族がとても親切にして下さりお通夜もお葬式も荼毘の時もとても近くでたくさんお別れをさせてくれたのですが、1ヶ月半たった今も全て夢なのではないか、またすぐ会えるのではないかとなかなか受け入れることができません。 彼はいつも他人の事を思いやって自分のことよりも人のことを考えるようなとても優しい人で私の事も何度も助けてくれました。 彼があの世に行って苦しむ事なく幸せに過ごして欲しいのですが、そのために何か私が出来ることを教えて頂きたいのです。 今住んでいる所と彼の実家が離れているため頻繁には行くことが出来ないのですが遠くにいても出来ることを教えて下さい。 また、とても良くして下さった彼のご家族にも負担を少しでも減らすために何か出来ることはないでしょうか。 最後に私の実家が代々お世話になっている曹洞宗の和尚様にお話に行きお経を教えて頂きました。彼のお葬式は日蓮宗の和尚様が行なって下さったのですが、そのお経をへたくそな素人なのですがこれからも読んで大丈夫でしょうか。宗派が違うので心配になってしまって… 長くなってしまい申し訳ありません。回答よろしくお願い致します。
主人の祖父が亡くなって、今年で丸3年になります。 お墓にはお彼岸とお盆の年に三回、主人の両親が必ず行っています。私たち家族は、予定が合えば行く。と言う感じでした。場所は車で1時間かかり、お寺さんからお墓にいる時間帯のハガキが来るので、それに合わせて出かけて行く。と言う感じです。 主人がいなくても、私と子供達で義両親について行くこともありました。 今年のお盆は私が妊娠中という事と、下の子が体調不良という事で、主人が上の子を連れて義両親と出かけました。 私と下の子はこのお盆、仏壇にさえ手を合わせていません。 義実家は歩いて数十歩と近くにあります。 宗派は真宗大谷派ですが、お墓参り以外、特に何かをするということもありません。 なので、義両親の予定も考えて、一般的なお盆のと言われる明日、お供えを持ってお参りに行こうと思っていました。 ですが、私の実家では今日の夕方送り火をする。と聞き、宗派は違えど明日では遅いのかな?と思いました。 今日は義両親は出かけており、終日不在です。帰りも遅いと思います。 主人は「俺が墓参り行ってるんだし、そんな事は気持ちの問題。」という感じで、深くは考えてはいません。 お寺さんもどちらかと言うと「気持ちの問題」と、おっしゃるタイプですし、義両親もだからと言って何かを言う事はなく、「私達が出来るうちは別にいいよ」と言う感じです。 こんなに近くに住んでいるのに、嫁いで来た身でお参り一つ出来ないなんて、恥ずかしい事なのでは…。と言う自分勝手な考えがないわけではありません。でも、少しの間でも私と子供達によくしてくれた義祖父に、お盆と言う期間中にまともに手も合わせないなんて、申し訳ない気持ちがあります。近場という事で、頻繁に顔は出すので気がつきたときは手を合わせるようにはしていますが、 世間的に送る日に当たる明日に、お盆としてのお参りする事がご先祖様に失礼なことにならないでしょうか?
疲れと怒りで自分の心をコントロールできなくなりました。 最近では「今から僧侶になったら仕事はありますか?」と俗人として尋ねたとき 「僧侶は職業ではなく、仏様を拠り所として生きる生き方です」 と立派な返答がありました。 しかしその方自身は寺を生業に豊かに生活し、立派な返答とは異なる子育て話や美容室代はどこから?と思うほど綺麗に飾っていました。 仏教でビジネスをなさっての言葉で、説得力がありません。 不審感が爆発しそうに感じました。 人の心は小さなきっかけで歪みが生じてしまいますが、半分救われ改善しては半分傷ついてしまう。心が転んでしまう。 苦しんで生きていても人の幸せは喜べます。 しかし僧侶で結婚しても良いけれど、子育てママアピールをしながら、普通の人より派手な生活をしつつ人に説法をする僧侶は苦手です。 違和感があって近づきたくありません。 反対にその浄土真宗は、先進的な経営を全面に自ら堂々と公表して多くの信者の心を獲得しました。 その方が清々しく爽やかで好きです。 他宗派ですが、宗派を変えようと一瞬でも思うほど新しいビジネスモデルの素晴らしさを尊敬しています。正直、先進的な考えを受け入れて時代に発信した僧侶の方々を大好きになりました。 どこも生き残りをかけて頑張っているのなら、中途が僧侶になっても仕事はない可能性が高い点は綺麗な言葉ではなく正直に言えばよいと思いました。 「僧侶は職業ではなく、仏様を拠り所として生きる生き方です」と僧侶を仕事にして豊かな生活をしている方が言うと、檀家離れが起きる気がします。 自分は僧侶を職業とするだけでなく、ママアピールし、YouTube発信で広告を出し、他の質問者にヤフー知恵袋並みのタメ口で近所のおばさんレベルのアドバイスで自分を宣伝する人からの一言ゆえに、人間とは何か、また僧侶の個々人の違いを感じ、墓と先祖を持つ俗人は不安を感じました。私は病気のため死が隣にあります。 苦しんでいるからこそ、悲しいのです。
今日亡くなった母の四十九日でした 母が良いところに行けるには自分は何をすべきでしょうか? 高齢の母をしばらく実家に一人で住まわせて申し訳ないという思いが ありました 母にあまりなにも出来ずに病気で亡くなってしまいました やはり自分が至らないのだろうと思います かわいそうな事をしたと思います これから母はつらい所へ行くのでしょうか? さみしくないように 苦しまないように願いますが 残された自分に出来ることを教えてください
仏門で日々、心身を鍛錬なさっておられる皆様へぜひお力添え頂きたくご質問致します。 私は20代前半男性の勤め人です。 父母が入信していた神道系新興宗派へ物心つく前から入り、12歳まで信徒をしておりました。 その間、私が10歳の時に父は病で鬼籍に入りました。 それから母と暮らしていましたが、専業主婦をしていた母に子を養う事は難しく、段々困窮していく中で余裕が消え、それまで信仰していた宗教とは全く異なる神道系新興宗教へ母子共に改宗しました。 しかしそんな生活が続くはずもなく、私が14歳の時に家賃滞納を苦に母は蒸発してしまい、その後数年間行方は分からずじまいでした。 そして私は児童相談所を介して、これまた上記2つとは全く異なる神道系宗教が運営している中学校へ単身転校し教理の専門教育を受けました。 卒業後は環境の変化を重ねがらも細々と暮らしています。 これまでの人生で失ったもの、得たものへの無念、執着はありません。 難しい環境の中で悩む友人に寄り添い、共に支え合える関係を築けるようになりましたし、母と改めて対面した際には申し開きを冷静に聴き、母なりの苦しみを受け入れ許す事が出来ました。 これらは今までの積み重ね無くしてできない事だと思っており、成長として実感しています。 しかし根底にはやはり私欲の幸せを求める心があり、長く寄り添い互いに与え合える関係のパートナーを探すべく、6年ほど励んで参りましたが一度も叶う事はありませんでした。 悩む中で、私の今世は失いながらも人へ与え続ける事が使命なのだと結論付け、現在は良縁を求める友人達の仲人役が生きがいになっています。 長い時間の中で今世の使命をやっと理解できたというのに、俗気を消しきれず時たま空虚な気分になります。 私心を完全に消し、利他の精神を貫徹するにはどうすれば良いでしょうか? 宗派が違う3つの神道を経て尚も利他へ徹しきれない私に、仏教の観点からご教授をお願い申し上げます。
はじめまして。お忙しいと思いますがよろしくお願いいたします。 義両親は熱心にある宗派を信仰しております。 毎週お寺にお経を聞きに行ったり、行事があるときはお手伝いをしたり、毎日家でお経を読んだりしています。 私たちへは、 ・毎月お守りを届けにくる(私は身に付けていません) ・何かとお寺の話に繋がる。(先日は妊娠報告したら、赤ちゃんは菩薩だからうんぬんと言われる) ・私の母は亡くなっているのですが、こちらでも供養?お盆?をしたいと言われる。 私はお盆をしたりお墓参りに行ったりしますが信仰心がないこともあり違和感、嫌悪感すら感じます。本当は私たちにも毎週寺にいってほしいようですが私が旦那に拒否反応を示しているため行っていません。 別件で金銭的に迷惑を掛けられていること、会えばこういう親になってほしい、こういう家庭にしてほしいなどと言われること、私の家族(実家)の心配をしていると言われることも嫌で、たまに我が家に手料理を持ってくることすら嫌気がさすようになってしまいました。 義両親のことを考えると、とにかくイライラして仕方なく旦那のことも嫌いになりそうで悩んでいます。
はじめまして。 宗派は伏せますが、田舎のお寺の住職をしております。 住職の身でありながら、次の後継者問題について、こちらにご相談させていただくこと、どうかご了承下さい。 私は現在30代後半独身ですが、一般家庭で育ちました。 15歳で高校中退→バイトや契約社員→実家(元々祖父と父がやっていた)のお寺を継ぐべく得度、本山で修行、僧籍取得→自坊に戻り、登記も済ませ住職任命→現在に至る・・・。 このような半生でしたが、現在独身の姉(30代後半)と父(60代後半でまだお寺の仕事はできるので何かあればお願いしてます)と一緒にお寺で生活しております。 母は父とお見合い結婚し、仕事を辞めて一般から寺に嫁いできましたが、寺の生活や慣れない檀家付き合い、祖父母との関係がどうやら合わず、数年で私らも連れて4人で寺を出て、別の場所に家を建てそこで生活してました。 継いだ実家のお寺は田舎で、近所との付き合い(今は希薄化)もあり、自坊の他、数件お寺を代務(近隣の寺に居住していた前住職が遷化したあと、子供はいましたが、継いでも生活できないので誰もやらないため)しております。 それらの代務寺院含め、私がほとんど継承した形になります。 檀家数は全て合わせて400前後、専業で生活できております。 私は寺の仕事担当、姉は裏方で主婦のような感じ、父はどうしても無理な時だけお寺の仕事を・・・と、協力してやってきました。 今後、母はもうお寺に戻ることはないので、いずれ私の父が亡くなった後、これから姉と二人だけでお寺を守っていくことになりますが、先が心配でなりません。 正直な話、私は昔から人と関わるのがかなり苦手です。 葬儀や法事が入る度、毎回緊張して顔を真っ赤にして心臓が破裂しそうながらもなんとかやってきました。 性格もコミュ障で、一部の檀家とうまく行かなく、姉も私も今までの異性関係は皆無で、いわゆる処女と童貞で年齢的にも40近く、もう結婚は難しいと思ってます。 近くの住職は20代、30代で恋愛やお見合い結婚して皆家庭を持っており、子供もおり、得度させて継いでもらうようです。 私も姉も、お寺はとりあえず継いだけどという形で、最終的には早めに本山や責任役(近隣住職)や檀家に説明して他の住職に来て住んで継いでもらう予定です。 その場合、私は還俗して寺を出たいと思ってます。可能なのでしょうか?
お世話になっています。浄土真宗についての質問ですが、浄土というのは死後の世界だと解釈しているのですが、どうも死後の世界ではないと解釈している人もいるようです。浄土真宗は、この「浄土」というのが大前提の教えなので、この「浄土」が分からなければ教えが根底から変わってしまうのですね。そこが悩みところです。 浄土真宗の教義について僕の一連の解釈を書きます。 1本願に疑い無くなるのが信心 2しかし、本願を信じられない 3信じられないのは煩悩があるからだ 4阿弥陀仏は煩悩ある者こそ救う 5そこで、「自分にできることはなかった」と自覚する(機) 6阿弥陀仏の浄土に救うという「働き」(本願)のみがある(法) これが一連の僕の理解です。僕は「異安心」なのでしょうか?すごく不安です。これはあくまで「死後」を前提にした解釈です。 浄土真宗の救いは、「自分の姿が明らかになることだけだ」と言う人もいますが、それだけだと何のメリットもなく、ただただ自分に失望するだけだと思うのです。しかし、自分の姿を知り、「だからこそ、死後、阿弥陀仏に救われるのだ」と解釈すれば、煩悩を受け入れることができ、様々なメリットがあると思うのです。 僕が浄土を死後の世界と解釈する理由は、浄土が死後の世界じゃないと、死後の解決にはなりませんよね。 自然の理法(仮の阿弥陀仏の解釈)におまかせするのも、解決になるのではないかとも考えましたが、それは「死の解決」であって「死後の解決」にはなりません。だいいち、自然は何をするのか分かりません。地震を起こしたり、コロナを起こしたり、そんな自然におまかせするのは、余計恐怖でしかないように思います。 ただ、死後の解決には死後の世界は必要なのですが、仏教には「無記」というものがありますよね。死後があるのかないのかは人間には分からないから、今を生きなさい。という内容だと解釈していますが、これも一理あると思っていて、浄土の教えは死後を説いているのか、いないのか、どちらでもないのか、分からないのです。これは、浄土真宗の一番重要なものだと思うのです。皆さんは「浄土」をどのように解釈しているのか気になって書きました。詳しい方、回答していただけると有難いです。 南無阿弥陀仏
仏像の開眼について2つご質問させてください。 仏壇のご本尊とは別に、旅先でも拝めるように、携帯用の香合仏の阿弥陀様を頂きました。 そこでご質問なのですが、やはり仏像は開眼をしなければ、部屋のインテリアや玩具のフィギュア同様、ただの人形なのでしょうか? もう一つは仏壇のご本尊なのですが、私の檀家のお寺は遠方にあり、しかも年末年始のお寺様も忙しい時期にしか帰省出来ません。 それでやむなく、東京の同じ宗派のお寺様で開眼していただきました。 (開眼が必須でしたら、こちらのお寺にまたお願いしようと思います)。 ですが将来、新しく脇侍の仏様も入れたく、いずれ機会がありましたら、実家の檀家のお寺様で開眼したいと思うのですが、ご本尊は既に東京のお寺で開眼済みです。 この場合、ご本尊様と脇侍様を一緒に開眼すれば、ご本尊様を2回開眼することになりますが、問題は無いでしょうか? よろしくお願い致します。
仏教も各宗派も、成立も発展も、ずいぶん昔からの歴史あるものですので、現代的な価値観と相容れないものもあるかと思います。 良く言われるところでは女性蔑視だとか。障害や病気を因果応報で説明される事だとか。 お坊様たちは、そういう教義と、現代的な価値観とどのように折り合いをつけておられますか? 私自身女性ですので、どのように考えて行けば良いのかわからないところがあります。 「その時代の人にもわかるように説明しただけ、方便」だとか 「解釈が間違っていただけ、仏様の本意ではない」みたいに言うのも、なんか都合が良すぎるような…。 たとえばある経典や説話集などを、全体としては採用し信仰したり説明に用いながら、特定の部分を現代の価値でジャッジして、美味しいところだけをつまみ食いするようなやり方、本当に正しいのかな、と。 お坊様たちはどうお考えですか? 考えるヒントをくだされば幸いです
父の11年目の命日が2/27にきて、病院を出ることの出来ない私はYouTubeでお経動画を探し、それを聴きながら十念を唱えつつ過ごしました。 父のことを思い出しては泣いて、流石に疲れました。 いてもたってもいられず父のお墓のあるお寺さんにお電話させてもらい奥さんとお話した時に思い出すのも供養ですよといってもらえましたが、そうなのでしょうか。 父の仏壇には分骨した遺骨と共に父の作った仏像と一緒に位牌を入れてあります。分骨の理由は、父が帰りたいと言った故郷のお墓は遠いので近くにいてほしかったのと、せめて最後に家に帰らせてあげたかったからです。 家の宗派自体は浄土宗なのだそうですが仏具や仏壇にどのように配置するかは不勉強で合っているのか分かりません。 (父の作った仏像を中心に一段左下に骨壷右下に位牌があります)父が亡くなって11年、遺骨が手元にあるわけですが、ちゃんと父は成仏できたでしょうか。そして供養はこれで良かったのでしょうか