何度もお世話になっております。 昨年3月に主人を亡くし、そんな中でも小学校へ入学し今まで元気に登校していた長男が、ここ最近『学校に行きたくない』と言い出し、休みがちになっています。 理由を尋ねると、 学校に入ってから今までずっと我慢してきた。お父さんがいなくなった時のことを思い出して、泣きたくなっても先生や友達にはわかってもらえないから家にいる方が安心する…お友達が『死ね』『殺す』などの言葉を平気で使う、 それから国語の授業で、大切なペットを亡くしてしまう話を学習する中で色々な思いが揺さぶられてしまったなど、子どもの中で限界がきてしまった様子です。 主人を亡くしてから今まで、私自身も心身の不調が出て涙が突然出たり、子どもの前で気丈に振る舞えてなかったから、自分のせいかなと責めたり 申し訳ない気持ちで沢山です。今でも涙が出る日は数えきれないほどあります。 こんな状況で息子の気持ちが痛いほどわかりますので、今は、息子が大好きな絵を描くことや関心のあることを自由にさせて、あまり干渉せず甘えさせる時間なのかと割り切ってますが…いつまで続くのか? 親の私がしっかりしなきゃいけないのに 頭の中がいっぱいです。 親としての寄り添いかた、何が正解なのでしょうか。
私は黄帝内経(京都の仁和寺に写本所蔵、中医学の祖)にも記させている、陰陽五行説を大切にしています。 日本では科学の発達により味蕾に辛味が反応しないからと、味覚から辛味を排し、代わりにうま味を足した陰陽五行説を謳う栄養学者が後を絶ちません。 黄帝内経は心身一如や医食同源、陰陽五行の関係とバランス、季節等を大切にします。 日本は海に囲まれている為に、陸上のうま味より海産物のうま味(鹹味)に頼っています。 陰陽五行で謂うと鹹味は水や腎に分類し、水剋火で火に属する苦味や心を相剋(抑制)します。逆に、水生木で木に分類される酸味や肝を相生(生み出し)ます。 従って、鹹味のうま味に頼れば鹹味は比和(増幅され)、心は相剋されます。 その為に心を補うか、心の親である肝より相生する必要があります。 例えば、焼き魚やパエリア等に柑橘類を搾る等です。 陰陽五行説を活用すれば様々な組み合わせで、うま味は発生します。 しかし、外食や中食、家庭等の全てがうま味調味料〔味の素、調味料(アミノ酸等)〕に頼り切っています。 近年、精神疾患の増加、世知辛い社会を生んでいるのは上記より、うま味調味料に頼る事により、心を瀉し、相生させる為に肝を多忙にしているからだと考えています。つまり、和食にも要因がある。 元来、和食は大陸より教わったのが、南蛮貿易や文明開化により西洋と交わり発展しました。簡単に言うと、和食の産みの親は中国です。 なのに、陰陽五行を歪曲し、”唯我独尊”の間違った解釈である”自分だけがすぐれていると自負する事”である”自己中心”や”傍若無人”な態度に写ります。 また、『料理芝居(著:北大路魯山)』より、料理屋は下手でも風格がなといけないのはわかりますが、和食やラーメン等の職人の写真は、”実るほど頭を垂れる稲穂かな”と謂うのに、偉そうに腕を組んでいる人ばかりです。 心理学で謂うと、腕組みは不機嫌、守り、怯え等です。 その点で、料理の美味しさの3割は雰囲気と謂われ、雰囲気で美味しかった経験は誰しもあるはずです。 食への感謝は、作る側にもあると自負しています。 故に、傲慢な態度で雰囲気を大切にしないと、美味しいとは言えないのです。 以上より、家庭から和食が廃れ、世界遺産に登録してまで和食を守らないといけなくなったと考えます。 ご見解を、何卒宜しくお願い申し上げます。
長文で失礼します。 下記のような問いを持っており、その考究(あるいは超克)に残る人生を費やしたいと考えております。 現在そのための生活様式を模索中で、出家もひとつの選択肢として考えております。 早速質問ですが、 ①下記のような問いは、仏教の中で取り組むに値するのでしょうか。 ②考究にあたり、仏教はもちろんなのですが、その他の学問の助けも借りたいと思っています。出家した場合それは可能でしょうか。 ご回答いただければ幸いです。 ーーーーー 私は相互作用の世界の中に生きている。それはすなわち、常に他者に対して影響を及ぼしている、ということ。しかし、そのような在り方は自然・当然なこととして無視されてよいものではない、と私には思われる。 私の眼前には生きるか死ぬかの選択肢が平等に与えられており、自覚的にしろ無自覚的にしろ、前者を選んで生きている。裏を返せば、私には自死という、他者への影響を自発的に止められる能力が備わっている。 一般的に生きることは尊いとされ、自身の幸福の追求が当然の権利としてみなされている。しかし私が生きるということには、他者の生や意志を損ねる、負の影響が必ず伴う。 そうであれば、生とは害悪ではなかろうか? その害悪性を無視してまで、この生は礼賛されるべきものなのか? 私はただ、生きたいという自分本意な欲求に盲目的に従っているだけではないのか? 生と死を選択肢として与えられている私が、なお自分を生かし続けるのはなぜなのか? 私が生きようとすることを、私はいかにして是認できるのだろうか?
私は以前から彼女が欲しいと言っていました。 実際に行動しなければ彼女はできないと言われ、それから私は目標の為にとにかく実践することを心がけてきました。 女の子の服を褒めました。その子がその服を着てくることは二度とありませんでした。 何度か旅行に誘いました。声をかけられる程度に仲のいい10人強全員に全て断られました。 私は先日までとある大会に出場する部活に所属していました。 私には目標があったので、その為に賛同者を集め、先輩に挑戦の許可を得、必要な勉強をしました。 学んだことを資料にまとめ、必要な物の販路を新たに開拓しました。 人出が足りないと思ったので友人を誘いました。 行く先々の寺社仏閣で神頼みをし、自腹でお札も買って手を合わせました。 半年を費やした準備の末、仲間に「実は乗り気ではなかった」と言われ、私の挑戦はなかったことになりました。私は部を去りました。 目標達成の為には行動するべきというのはよく分かっています。 しかし私は努力することで成功どころか、自分は疎まれていると知りました。 人生の成功には努力が不可欠ですが、私は努力しても沼に深く沈んでいくだけです。ならば人生うまくいく訳がないではないかと、次第に人生そのものに希望を見出せなくなりました。 今、人生そのものに対する絶望と、人生を諦めたくないという気持ちで潰れそうです。 私はこの状況を嘆けば、本当に努力したのか?足りないんじゃないか?と責められます。 私は努力しても結果を残せないどころか、努力したことを認めてさえ貰えないのかと、とても悲しい気持ちになります。 同時に、努力は報われるものと信じて疑わず、実際に報われている人々にとても嫉妬してしまいます。 私はこれからどうするべきか、全く見えません。 努力しなければうまく行かないが、努力しても上手くいかない。 何度も死のうと思いましたが、人生を諦めたくないという気持ちから思いとどまりました。しかし私は奇跡的に運良く良い事が起こることを期待して惰性で生きていこうとしています。 これで良いはずがないというのは分かりますが、ならばどうすればいいのか、分かりません。私はこれからどう生きていくべきでしょうか。
こんにちは。 質問を見てくださってありがとうございます。 「自分らしく生きよう」 「自分に自信を持とう」 「他人に何を言われても気にせず自分の道を行こう」 「そうすれば幸せになれる」 …そんな言葉を、色々な本の中でよく見かけます。 しかし、現実は厳しいです。 私は学生時代、見た目がよくないことでいじめられてきました。 何もしていないのに殴られたり、暴言を吐かれたりしました。 勉強はそこそこできました。でも私は間違いなく不幸でした。 テレビを見ていても、見た目が良くない人に対しては何をしても良いという暗黙の雰囲気を感じます。 社会に出てからは、仕事も自分のできる範囲で精一杯頑張りました。 しかし周りにもっとすごい人がいると、「お前はあいつに比べてどうしてそんなにできないんだ」という評価をされます。 評価が下がると、給料も下がります。周りからもヒソヒソされます。 それは不幸ではないのでしょうか。 だらだらと書いてしまって申し訳ありません。 私が聞きたいのは、「どんなに綺麗事を言っても、結局現実を見ると「自分らしく」なんて生きられない。理不尽なことばかり。自分の中で精一杯やって、自分なりに頑張っていたとしても、社会では他者からの評価が悪ければそれで終わり。そんな現実とどう向き合っていけばいいのか。」 ということです。 よろしくお願いいたします。
初めての質問で、読みづらい文章になってしまっていたら申し訳ありません。 どうぞよろしくお願い致します。 私は現在大学4年生で、就職活動を行っております。解禁前ですが、世間でいう大手の企業と、アルバイト先のベンチャー企業から内々定を頂けました。 ですが、実は私には密かに取りたい資格(職に通ずる)と職業があるんです。 私は夢を実現するため、まずは企業に就職し親から自立。資金を貯め、資格を取り、新しい職へ転職しようと思っております。 アルバイト先は非常に人数も少ないのですが、私の将来の夢へも理解を示してくれると思っています。 資格の勉強や転職もしやすいのではないか、と考えており、気持ちがこちらに傾いています。 しかし、両親は少しでも大企業に入社して欲しいという思いがあるようです。 それに、2人とも大手の企業に勤めていたこと・中学から大学まで私立に入れてくれたこと から私自身、アルバイト先への就職は2人を裏切ってしまうことになるのではないか。と悩むようになってしまいました。 生きたいように生きるべきか、両親を裏切らないよう、悲しませないように生きるか。どちらにするか決めるのは自分だということは分かっているのですが、どうか助言を頂きたいです。 よろしくお願い致します。
つい先日、闘病中でした義父が残念な事に亡くなりました。とても辛い闘病だったと思います。本当によくがんばりました。生き抜いてくれました。私の子供達には初めての人間の死の姿でした。義父が身をもって人間の死を勉強させてくれたのだと感謝しきれない思いでございます。 そして、先週の金曜日に初七日を迎え、ふと初七日頃からはあの世ではどうなるのだろうと思い調べてみました。そこには、初七日で最初の修行が伝えられ(三途の川云々と)そこから7日毎に修行が与えられると書いておりました。 確か私が記憶していたのは、この世が実は修行だという事でした。欲のあるこの世の中でたくさん修行し、そして修行が終わり、あの世に行くと。 なので、義父が亡くなった時には「お義父さん、この世の修行大変お疲れ様でした。あの世で楽しく暮らしていただきたいです」とお送りしたのですが… あの世も修行、この世も修行なのでしょうか? どちらにせよ、優しかったお義父さんが病気の苦しみから開放され、お元気にあの世に逝かれたと信じたい思いです。 よろしくお願い致します。
私は発達障害の傾向があり、やりすぎたりコミュニケーションがうまくとれなかったり気が散って集中できないなど、色々困難を抱えています なので普通の人みたいに働けなくて、家のパン屋の手伝いをしています。 夜に好きなことをし出すと止まらないし常に考えごとをしていて自分のやりたいようにやらないと気が済まないです その様子は自分で言うのもなんですが、普通ではなくかなり常軌を逸しています この化け物のような衝動で他人とは違う自分を隠したいがために人を避けて生きてきました 私は周りの人と価値観も考えていることも 違うため、しばしば気味悪がられたり拒絶されてきました、親にも友達にも受け入れられないような部分があります 人間らしくなろうとなるべく親切に、道徳をよく学ぶようにして良い人間になろうと努めてはいますが、どうしても異様な、異質な何かがわたしの中にあります 天才だと人に言われることもありますが、なにかしらの成果をあげることができません この衝動を画才に生かせたらと日本画を勉強しているのですが、頭がうまく動かなくて継続的な集中がむつかしいです 結果も出せず、欲しいものばかりを貪っているような気持ちになります 浮世離れしている感じが否めず人に馴染めません どこにいっても人から困惑され拒絶されるような態度をとられるので、他人のテリトリーに入りたくありません 家しか居場所がないのではないかと思っています 私のように社会に適合できない人間はどのように生きていったらいいのか良い考えがあれば教えて頂きたいです
私は俳優になるのが夢でした。 通信制高校から系列の専門学校に通うつもりでしたが、家が生活保護を受けているので学費の不安や自分でアルバイトなり努力して夢を追うのを躊躇い、就職しました。 それから3年経ち、好きな舞台が出来たことでまた俳優を目指したいと思うようになりました。ですがなんの特技も技術も無いまま20歳を過ぎ、しかもうつ病と診断され毎日生きるのが辛い状態です。 毎日、学生時代に勉強や他の習い事を頑張らなかったこと、諦めずにがむしゃらに夢を追いかけなかったことを後悔しています。 今ではもう新しい世界に入り込むことも怖く、落ち着いた生活を崩してしまうのが恐ろしいです。 また、オーディションに受かっても結局何年もギリギリの生活を続けながら大成するかも分からない夢を追いかけないといけないという現実に怯えてしまいます。 それでも輝かしい世界に憧れて縋り付いてしまう自分がどうしようもなくて、成功した人たちを羨ましく思う自分が大嫌いです。 このままだと自分の支えになってる好きな舞台まで見れなくなりそうで怖くて、この先死ぬまで夢を叶えられなかった私を抱えて生きないといけないのが辛いです。 どうしたらキッパリ夢を諦められるのでしょうか。
私は仏教哲学を勉強し始めたばかりの凡夫でありますが、仏教の縁起説に関して一つ疑問に思うところが有ります。 もちろん、縁起説の欠点だとかそういう物ではありません。 仏教には時間的生起を認める「此縁性縁起」と、時間や空間を論理的に関係づける「相依性縁起」の二つが代表的だと聞きます。 主に前者は釈尊の説かれた縁起とされ、後者は龍樹大師の説かれた縁起とされていますが、これらは学者によって意見が真っ二つであることを、最近本で知りました。 例を挙げるならば松本史朗博士が「龍樹は此縁性縁起を説いた」といった感じですね。 1.果たして今現在の仏教界(?)のこれらに対する見解の主流はどうなっているのでしょうか? 2.また、以下の二つのリンクに対するご感想を伺っても宜しいでしょうか? ネットの意見を鵜呑みにするのもどうかとは思いますが、個人的にはこの方の縁起説は大変興味深いものだと思われます。 http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku02.html http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku03.html
職場うつからよくなりかけた矢先、身内を亡くしそこから何もできず時間だけがたち何もやりたいことがなくなりました。自分の能力の限界もみえ、どうせやってもうまくいくわけない、できることなんてしれてるからやっても仕方ないと年数たつごとそう思えて気力もなくなりました。フルタイムで働いてた時も大きな会社だったので自分一人いなくなっても誰も困らないしと思いました、それに安月給だったので生活はかわらず職場うつに。 今はまだ特に健康害してないのが幸いなだけで、何を目標にいきてけばいいかわかりません。興味あったことにも興味もてず何年も時間だけがすぎてく日々。周りは結婚や転職でかわってくのに私だけずっととまったままです。 将来考えたら真っ暗、希望もありません。 いずれフルタイムの仕事に戻っても安月給のまま。とりたい資格の勉強も何年もできないまま、これは多分、資格とって仕事に直結したものがなかなかないからというのもあります、とっておけばいつか役立つ程度。 やりたいこととやれることの違いがわかると自分のできることなんてしれてるとわかるので気力もなくなります。そういうこと考えずにできた20代が1番よかったです。 これからどうやって生きてけばいいですか。 人生1度しかないのに全然楽しくないです。
私は先月再婚しました。ですが、娘が2歳旦那さんが21歳のときから19年間一緒に生活していました。 その娘のことなんですが。 友達は多く、愛想も良く外では申し分のない子なんです。 ただ、家の中では会話はなく、必要事項だけって感じなんです。 何一つとして手伝うことはなく、私が具合わるくても洗濯物ひとついれるわけでもなく、買い物頼んでもめんどくさいと行ってくれません。 ほんとに子育て失敗だと思ってしまいます。 娘は勉強ができ、運動もできる子だったので、いかなる時も娘中心で生活していました。 大学に入り、金銭面でも周りのひとはもっと親が出してるとか言ってきます。 細かい話ですが、うちの車を使って遠出してるのに、 ガソリン代も高速代も他の親は出してるのが普通だと言ってくるんです。 本当に苦痛で喧嘩になり出ていけと言ってしまいます。 本当に嫌いになってしまうんです。 ほんとに親に対して思いやりもなく、感謝の気持ちもありません。 使わな損みたいな感じでいろいろ言ってきます。 私の育て方がわるかったので感謝の気持ちや思いやりがないのでしょうか?
僧侶になりたいです。さまざまな宗派のことは概論しか知りません。 まず、僧侶になれるチャンスはあるかという事です。 佛教大学があるのは知ってます。 御坊様宜しくご教示してくださいませ。
私は、病院に勤務しながら、看護学校に通っています。看護の道を志した理由は、病院が学費を負担するからと進められたからです。(お礼奉公があるので卒業後は何年かはその病院で勤務することが条件でした。) 今、学校では実習に向けての授業が始まりました。(看護計画をたてる練習や技術演習など) 看護計画の練習は、仮想の患者様を想定して、どうやって看護を行うかというものです。 みんなは、看護の道を志を持って入学してきた方が多くいるので、やる気が自分とは違うのです。そんななかにいる私はむなしくなってきています。(クラスの人は、いい人ばかりでいつも励まされています。) なかなか気持ちがそちらに向けません。 すすめられた時は、何かの縁なのかなと思っていました。 ですが、今はこの道で正しかったのかといつも自問自答しています。 自分のこれからのヒントを授けていただけたらと思います。 よろしくお願いいたします。
空とは無分別だと聞きました(100分で名著・維摩経)、番組内では大乗仏教を代表する理念、二項対立を解体する手立て、縁起を発展したものと説明されてましたが、色々な表現があって素人にはポカ〜ンとする話しです。色即是空、空即是色、有るけど無い無いけど有る、五蘊は空、幻、実態が無い、一切皆空。 聖と俗、浄と不浄、善と悪、生と死、二項対立は苦の原因。……救いどころか何を頼ればいいのか虚無感を感じていました。 hasunoha内では弱者の味方や弱者に寄り添うと言った言葉をお坊さんがよく使われるのを見て思ったんですが、「正義の味方」と言ってしまうと正義面した私(自我)が立ち、無意識に相手を悪にして二項対立を勝手に作りその悪を叩き下手すりゃ喜ぶ、でも弱者の味方ならそこに善悪の隔てがないし煩わしい私(自我)を立てる必要が無く目的を見失うこともない。自我や善悪を解体していく空の実践のような話しなのかな〜と思いました。 嫁さんも子供も仕事も家も自分のものなど何も無い期待もしない、虚無と感じるのはご都合主義の自我を立てるから、悩み苦しみリアルな課題が無くなることもない全ては縁起し空、私は私として生きるだけ一歩引いて願うだけ、無我とは心の自由に感じれるようになった気がします。 話しを広げすぎかもしれませんが、どんな生きざまでも死にざまでも関係ない、念仏すれば阿弥陀様が救ってくれるとどなたか仰っていましたが、念仏の導きも同じ作用(心の自由)な気がするんですが検討違いですかね。 空(念仏)→無分別→自我の解体→無我→心の自由→空(念仏)…?
よろしくお願いします。前に飲みの席で、彼女いない歴=年齢だと話したら、かなり引かれてしまいました。元々コンプレックスだったのがさらに傷に。 自分は最初見た目では興味を持ってもらえるようなのですが、どんどん質問され採点が始まってしまい、そして彼女がいたことがないというのが決定打になり、勝手にガッカリされ、女性の興味が去っていきます。 本当の自分は愛される価値がないんだなと思います。 仮にもし彼女ができたとしても、女子が憧れ思い描くようなデートをしてあげられる自信が僕にはありません。 どこに連れていったらいいのか、どんなお店に入ったらいいのか、どんな話をすればいいのか、分かりません。 男性がリードするものだと期待されていると思いますが、それに応えられません。 なので好意を寄せてくれる女性がいても、デートが怖い(=ガッカリされるのが怖い)ので、それとなく興味がないことを伝え、回避してます。 自分はよく休日に竹芝桟橋やみなとみらいのほうに散歩しにいくのが好きなのですが、最近はカップルが気になって素直に楽しめません。 自分からは、自信がないのでかなり苦痛。 相手からは、嬉しいですが、ガッカリされないかが怖いです。 でも彼女がほしい。 そして男としての自信もほしい! ・・・こんな状態です 女慣れをしようと風俗にも行きました。でも元々少し潔癖症なのと、やはり愛がないので、自分には少し苦痛でした。女性の身体は最初生で見れた時は感動しましたが、愛する人のものではないので途中肉の塊にしか見えませんでした。(別に太ってる人ではなかったのですが) 今は修行の時期、仕事に打ち込もう!と思うのですが後になって若い頃もっと遊んでおけばなと後悔するのかなと思うと、なかなか集中できません。 最近はレンタル彼女というサービスがあるらしく、今度それで土日にデートの練習をしようと考えて始めています。 ですが、 なんでも金で解決しようとしている自分への嫌悪感と、僕自身好きでもない女性とデートしたりエッチなことをしてもあまり楽しくない(=そのためにあまり頑張ろうと思えない)ということに気づいたので、自分はどうしたらいいのか分からなくなっています。 こんな人はどうしたらいいのでしょうか? 教えてください。 あとお坊さんに風俗行ったとかこんな話をしてしまってごめんなさい。
大学生ですが人生に悩んでいます。 大学への進路の際に、親と大喧嘩して行きたくなかった学部に行かされました。当時は自分で稼げるだけのお金もなく仕方なくでしたが、その代わりに大好きな野球を続けることができそこで頑張ろうと思っていました。 ところが野球部の中心メンバーとそりがあわず、途中でやめてしまい、更には行きたくなかった学部だったこともあり、学部内では完全に孤立しており、本当に友達がいない状況になりました。毎日進学の際に親に逆らってでも希望の進路に行くべきだったなとと後悔する日々で、野球が好きかどうかも分からなくなり、やりたいことも見つからず、相談できる相手もおらず、日々スマホを眺めるだけの時間を過ごしておりこのままでいいのかと思いながらも過ごしております。 人生に意味を見出せなくなってしまいました。どうしたらいいでしょうか。
人生で過去に3人の行者に出家したいと相談しました。3人目の行者は本物の対応を下さいました。 私は生命懸けで真剣に申しており、それに応えて下さいました。 その人は、人生相談から自己の体験談をお話下さり「修行しても、徳がなければ反動が来ること」「自分の場合は、やりたくて修行したわけではない」など・・・ 写経200枚書いて送るように言われ、20枚くらい書いたところで感得するところがあり、それをそのままメールで送ると「そのことに気づいてほしかった」返ってきました。 要諦は「日々の生活が修行だと分からずに修行すると、修行に溺れ、慢心する可能性がある」ということです。 日々の生活が修行だという気付きは得たのですが、この頃どうも無気力です。がんばれません。 重度の社会不適合者です。 幼い頃から身体が弱く、13歳の頃に精神病になりました。親に責められ、大人にフリースクール、カウンセリング、医療機関などのたらい回しに合う中で、世の中への恨みを募らせて育ちました。 閉鎖病棟に数ヶ月入ったこともあります。 ふつうに働こうとするとノイローゼになるのですが、不思議と読経や祝詞をあげると楽になります。宗教的、修行的なことに対しては、ものすごく適応してしまいます。 仏教や神道の教えが大好きです。 今は、とある先達につきながら、勉強させていただいています。(今度お山に登拝させていただきます。) 先達も「生活が第一」と言っています。 お山やお滝に入り、世の中にお返しする為にも、アルバイトで生計を立てていきたいというのが私の本心です。 ですが、社会不適合すぎて、労働が辛くてかなわんのです。 集団から疎外されて育ち、適切なケアも受けられなかったせいもあるのでしょうが、人への恐怖や劣等感も強いです。 どうしたら、もっと精神を自由に、当たり前の毎日に、感謝し、心を強くする修行ができますか? 私は真剣に求道し道を極めたいと思っております。 よろしくお願いいたします。
神仏への信仰心がとても篤かった医療人のお話です。 その人は幼き時に難病で視力を失い、家督を譲って琵琶法師と鍼師のどちらかを選ぶときに医の道を選んだそうです。親には「二度と家の敷居をまたぐでないぞ」と突き出され、入門先の師匠は「素足に埃が付いたら掃除やり直し」覚えも良くなく、ある日鍼を持たせてもらった時には、患者さんが痛さで悲鳴と怒号のクレーム続出…ことごとく破門。 後がなく生死をかけ岩屋に篭もって断食修行、無我の境地で空腹に転び手にした松葉(鍼のような)と、くるまった落葉を元に、のちの管鍼法を発案。「これなら患者さんも痛がらずに下手な自分でも施せる」心の清らかな和一さん、あれよあれよと出世し果ては将軍の病まで治癒。「よくやった和一よ、褒美を与える。何でも申せ」と将軍、ところが見返りを求めなかった和一先生、儲けは要らんと一旦断るも、当時の上下関係では言語道断。お互いにプライドがゆるさず譲り合わなかった末(流石の将軍もこれで諦めるであろうと、盲目の自分に)「ひとつ、目が欲しゅうございます」と頓智を効かせたところ「わかった」と将軍は引き下がり、しばらくして江戸の一ツ目という地名の土地に、「盲目と老体が遠方まで行かずともお参りできるように」と江ノ島の弁財天様を勧請、老いても尚熱心に参詣を怠らぬ和一検校を自分のケアスタッフとして「そばに置いておきたかった」のもあり、治療院のみならず弟子の養成所と神社まで併設、そして今も残るそうです ハンデがあっても自立して生きていける術を磨く、世界初の視覚障害者用職業養成機関は、実は江戸時代に「盲目となり家を出され、師弟関係も破門され…住むところもお金もなく、仕事のセンスにも恵まれず…只管に神仏に手を合わせ続けた」信仰篤き偉人の苦労の先に日本で生まれた逸話、私は大好きです! 話が長くなりましたが、私も勉強をし指圧師となって施術をしたいと毎日仕事に明け暮れています。元ヤン僧侶さんは「目標が半端ねぇ。もっと効率的にガッツリ考えろ」と喝を入れてくださいました(笑)息を吸うように朝日が昇れば仕事が入ってきて、6月は休みなしで母の日から連勤達成更新中です。今の仕事も好きですが、やっぱり指圧を専門学校で学びたい。 先日お寺でふと仏様から「前へ。只管に進みなさい」と声が聴こえた氣が…私の指圧を喜んでくれた母の為にも入学が叶うようエールをいただけますか。
私は現在19歳フリーターです。 去年大学に一年間だけ通っていました。アルバイトを掛け持ちし通っていましたが、母子家庭という事もあり経済的に通う事が厳しくなってしまい、今年の4月に大学を中期退学をしました。ですが私としてはこのようになった事をマイナスには捉えていません。というのも母はほとんど寝ずに社員の仕事と深夜のパートで働いてくれていて少しでも力になりたいと思っていたし、それに下に妹弟が2人いるので、私が働く事で、下2人が大学進学したいのであれば望む所に行けるように、サポートできるのであればより良いのではないかと思ったからです。 そして現在、アルバイトと派遣をしている毎日ですが、自分の将来について悩んでいます。 このままアルバイト生活を続けるのか、それとも社員さんになり少しでも安定した職につくのか。やりたいこと、好きなことはたくさんあります。いろんな国をめぐり、多文化を学んでみたいという目標もあります。そのために海外の方と関わる機会がたくさんあるアルバイトをしています。 ですが私にははっきりとした夢はありません。 なりたい職業はあります。でもなれるのかを考えた時、やってもいないのに自分に自信をなくし、また迷い、考え、また自信をなくすの繰り返しです。 私はあと2ヶ月で20歳を迎えます。 10代のうちに決意でも行動でも何か自分の中でアクションを起こしたいと思っています。 私はどうするべきなのでしょうか。 長文にもかかわらず 最後までお読みいただきましてありがとうございました。