何かと比較して楽そうであると、 「◯◯に比べたら極楽」と言いますが、 私は極楽に行ったことがないので、 楽の概念としての極楽みたいなので、 本当のところは、どうなんだろうと 思いましたが、実際はどうなのでしょうか?
おはようございます。先日、父の仏壇の部屋と居間での供養について教えていただいた者です。あれから、亡くなった人が成仏することについて考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。お暇な時に教えてくださると助かります。 私は今まで、亡くなった父は天国に行ったと思っていました。時々仏壇やお墓のような祈りの場に降りて来るのかな....とも思っていました。 ハスノハに入ったのがきっかけで、成仏という字の意味を考えてそれは仏に成ることだと考えるようになりました。そうか、父は仏さまになるんだ....と思ったけれど、いざ祈ると自分の心の中に生前の人柄のままの父がいて仏さまになった父は想像がつかなくて、今まで仏壇の前で「ねえお父さん」と普通に呼んでいました。もしかしてとても失礼なことをしていたかもしれないですが、仏壇には仏像の絵があり、神様が祀られているんだろうと思いながらもよくわからなくて父にだけお祈りしていました。 本当は、深く考えないで父が安らかでいてくれれば仏でも何でもなっていていいのですが(不謹慎だったらごめんなさい)、亡くなった人の成仏とはどういうことか考え始めたからには知りたいです。でも私にとってはとても難しい部分なので、仏教初心者向けに教えてください。お願いします。
父と母は長年不仲で、ここ数年は別居してました。父の浮気疑いから不仲が決定的となったため、私達子供は母の味方となってしまい、ここ数年、父からの連絡は家族全員で遮断してしまってました。 先日、警察から孤独死の連絡を受け、家族全員で父を拒否していたのだから、こうなる結果は見えていたのに、後悔しかありません。 父は子供たちにとっては優しかったのに、私はそんな父に孫が生まれたことすら知らせず、孫の顔も見せませんでした。最低な娘です。 父の日記には、父の願いが2つ書かれてました。 1つ目は、父の両親のお墓に入りたい。2つ目は、母と住んでいた家に帰りたい。とのことでした。 父の両親のお墓は、父の兄の家族に断られ、入ることはできません。 また、母は父のことを許しておらず、母の家にもお骨を持っていくことはできません。 私は父のささやかな願いを叶えることもできず、どう償えば良いのでしょうか。 また、父は両親のお墓に入れずとも、天国で両親に会えると信じて良いのでしょうか。
看護師をしています。 私は病院で働く中で多くの患者様を見てきました。軽症から重症まで。若い人から超高齢者まで。 その中で、看護師として働くことを諦めるような悩みを抱えました。 ご高齢の方や終末期の方は、死への恐怖というより現在ある痛みや苦しみ、排泄など恥ずかしい部分を他人に見られる羞恥心などから、もう楽にしてくれという方が多くいました。殺してくれとも。 命を救う側の私たちは、目の前の命を救うという責任があります。見捨てることはできません。 しかし、それでも何度も何度も楽になりたい、あちらの世界に生きたい、今自分の意思で生きているのではなく他者に生かされてるだけだと、涙ながらに、そして時には怒りながら訴えられました。 そんな方々を多くみる中で、私は看護師として生きることを諦めないようにお話をする機会もありました。 その中で私は、ここが生き地獄だと思っている人たちを救うことが本当に人のためになるのだろうかと疑問を持ちました。 本人の意思ではないのに、多くの管で繋がれ、ベッドに縛り付けられてまで命を守ることが本当に正しいのだろうかと疑問に思いはじめました。 私はこの疑問に対する自分の中での答えが出ず、看護師を一度完全に辞めました。このような疑問を持つことは、命を救う立場の者としてあってはならないと思ったからです。 世の中には尊厳死や安楽死などの言葉が存在します。尊厳死は、延命治療を無理にせず苦痛を取り除きながら、自然に死を迎えられるようにというものですが、日本の医療の現状としてなかなか行われていないのも事実です。苦痛は痛みだけではありませんし。安楽死などもっての外です。 以上の過程があった上で相談したいことは以下の通りです。 ・生命は大切にしようとよく言われるが、そもそもその考え方はどこから生まれたのでしょうか?生き地獄だったとしても必ず守らなければならないのでしょうか? ・安楽死などの考え方について、仏教の視点からはどのような考えがあるのでしょうか? ・命の大切さという根本的なところが分からなくなっている私は医療従事者として失格でしょうか? 長文で申し訳ありません。 お時間のある際にご回答いただけると幸いです。
父の法要の際、ある事情で僧侶を呼んで葬儀を執り行えず、また仏壇の本尊を新調する際、僧侶を呼んで開眼供養を行えませんでした。数年経ってからおかしなことが起こり、非常に今苦しんでおります。 現在の宗派を辞めて、平安時代の伝統仏教に入信して、修行を積んだ僧侶の方に、父の供養を執り行っていただきたいと、切に望んでおります。 しかし、親戚に現在の宗派の盲目的信者がおりまして、やめようとするならば、私ではなく、私の母を責めます。母は、何も悪くありません。 むしろ、献身的に家族、親類に尽くしてくれました。母を苦境に立たせたくありません。 しかし、現状のまま仏壇の本尊を開眼供養せず、亡き父も僧侶に供養していただかないと、あの世で浮かばれずに苦しんでいると、視える方に言われました。 最初は、別の困り事で相談したのですが、何をしても解決せず困り果てて、藁にもすがる思いで偶然相談に乗っていただいた方の話によりますと、原因が本尊の開眼供養をしていない、僧侶を呼んで法要を執り行っていないことなどを告げられ、宗旨変えするしかない状況ですが、親類のからみもあり、うかつに行動に移せません。 私は真言宗に変えたいのですが、ご祈祷で親類と争い事無く、開眼供養のない本尊の危険性を伝え、理解して欲しいのですが、凝り固まってしまって理解させるのは到底無理だと思います。 密教の縁切り術で親類との縁を切ろうかとも思いましたが、母はそれも 心苦しいと縁切りも拒みます。 普通の話し合いが通用する連中ではありません。 父を救うために僧侶の方に供養してもらう、その為には宗旨替えを行う必要があります。 また、本尊の開眼供養を行わないと、様々な問題が起きてくるので早目に手を打ったほうが良いとも言われました。(私はうつ病の手前にいると言われました。) 密教の縁切りに頼る私は親戚に対して薄情で、仏教の慈悲の心から、掛け離れているのでしょうか。考え方が安易なのでしょうか。私なりに半年以上考えぬき、苦しんで考え抜いた結果です。 朝から晩までこの事ばかり考えてしまい、頭がおかしくなりそうです。 できれば、真言宗、天台宗の僧侶の方に、回答して頂きたいと思います。
日本では誰かが亡くなってしまうとお葬式が行われますよね?お葬式をすると仏様の弟子になるんですよね?仏様の弟子は地獄に落ちないのにどうして日本人は大体の人が地獄に落ちると言われているのですか?まず地獄に落ちる人はいないのでは?
こんにちは。 亡くなった人にもう一度会えるの方法が、なにかしらあるのではないかと考えてしまい、検索していましたら、そういう考えは仏教の教えに背くものとありました。 会えないのは当たり前なのに、少し悲しかったです。 やっぱり私が人生を全うするまでは、絶対に会えないのでしょうか。 はすのはでたくさんのお坊さんに助けていただきました。残された子供たちに主人の魂が宿っているというのもわかってます。でも、もう一度会いたいと思ってしまいます。 どうしたらいいのでしょうか。主人の死を受け入れられてないからなのでしょうか。 同じ様な体験をされた方は、どの様に過ごされているのでしょうか。
母が亡くなり約半月が経ちました。 9月上旬に半身の痺れと歩行困難があり病院に行ったところ、末期の癌ですぐに入院。 母が落ち込むかもしれないと思い、年を越すのは難しいことを伝えませんでした。今思うと伝えてあげた方が良かったのかなと思います。突然亡くなり母もびっくりしているのではないかと心配です。 入院してから毎日会いに行きましたが、これは食べちゃだめ、この体勢でいた方がいいよ、とか体調が優れない母に口うるさく言ってしまった事も後悔しています。 周りの人に聞くと、母は子供の頃から今まで幸せだった事は少ないと思います。それなのに最期もこんな病気になり亡くなってしまった。 母はどんなに自分が辛くても病院の看護師さんや私達家族、周りの人全てに感謝を伝える人でした。見習わなくてはなと思います。 産まれてから23年間を母と一緒に過ごせて幸せだった、という気持ちと、心配ばかりかけて、親孝行もできなかった申し訳ない気持ちが交互に押し寄せてきてどうしたらいいのかわかりません。 亡くなる前日まで家族の心配をしていた母が成仏できるのかも心配で心配で、考え出すと止まらなくなり不安です。 まとまらない文章で申し訳ありません。 御意見を頂きたいです。
言葉選びが下手で、うまく伝えられず、失礼があったら申し訳ありません。 わたしは一年近く前、自分のせいで愛犬を苦しめ、死なせてしまいました。 私が直接殺したようなものです。 決して殺意や困らせようとしたわけではないのですが、ただただ私の無知、怠慢、愚かさによるものです。 愛犬は数週間苦痛な思いをし、結果亡くなってしまいました。 何故最期に穏やかに逝かせてあげなかったのか、 毎日自分を責め、精神科の薬とお酒を乱用してしまう日々です。 こんな取り返しのつかない罪を犯した私が普通に生きているなんて許されないし、わずかでも愛犬のためになにかできないかと、ハスノハにたどり着きました。 たくさんの質問に真摯に答えてくれるお坊様方の回答、毎日熟読しております。 様々な意見を拝見していると、お坊様方も過去の後悔や抱えているものがあると仰られている方もいます。 仏教の道で修行することで、乗り越えられる、昇華できるのでしょうか? 修行をすれば愛犬に償えるのでしょうか? お坊様や、仏教の道を軽視しているわけでは決してありません。 ただただ、日々苦しく(本当に苦しかったのは私が殺めてしまったあの仔ですが)救いを求めてしまいます。 あの仔のためにできることを知りたいです。 どうかよろしくお願いいたします。
30年前にお付き合いしていた方が亡くなり目の前が真っ暗になり、当時の楽しかった思い出を鮮明に思い出し涙が止まりません。夢にまで見る程です 夢では私の事を心配しているし、いつも側にいて護り、私が人生を生き抜き寿命が来た時には迎えに来ると言っていました。 亡くなった人が夢に出てこの様な事を言うことはあるのでしょうか? 私の心が作り出した夢なのでしょうか 部屋で1人の時に彼が吸っていたタバコのにおいがする時は彼が来ているのでしょうか?私はタバコは吸いません そして彼に対して私が出来る供養はどの様な事がありますか? 今は当時激しい性格だった彼は人の恨みを買ったり、誤解を招いてしまっていたので毎晩彼の為にお香を焚いて彼の業が少なくなるように祈っております。 彼が眠るお墓へ行くことも出来ない、表立った事が出来ない私にどうかお知恵をお与えください。
8年前から施設に入っている祖母が92歳で自殺しました。認知症はないですが、身体が不自由で、施設から這って出て、立ち上がれないから施設の敷地にある低い枝に紐をつけて首を吊ってしまいました。遺書は『おしずかに、おせわになりました』と力強く書かれていました。 ここ2週間で食欲も落ち、血液検査の結果も悪く、病院へ入院する予定の2日前のことでした。 大体3ヶ月に一度くらいはひ孫を連れて会いに行っていた(家から1時間の距離に施設があります)のですが、電話も私からも、祖母からも1ヶ月に一回くらいはしていましたが、私の第二子の妊娠出産(昨年2月に出産)と、その後のコロナ禍の影響で(施設ではコロナで面会禁止が一年続いてました)、1年以上会えていませんでした。 2日後に入院が決まったなら病院の方が施設より面会制限が厳しくないからやっと会えるかも思った矢先の出来事でした。 祖母は若くに夫と息子を亡くし、30年前くらいから死にたいと孫の私にだけこぼしていました。いつもそんなこと言わないでと励ましていました。 ずっと会えてなくて、電話でもすれば良かったのですが、私も二人の子の育児でバタバタして、ワンオペ育児の時も多く、祖母への最後の電話は数ヶ月前でした。母や叔母は週に2回は電話していたようですが。祖母のことを何度も思い出したのに、その時に電話すればよかった、施設玄関の窓越しでも会いに行けばよかった(施設では最近玄関窓越しの面会が許可されたばかりだそうですが、知りませんでした)、と後悔するばかりです。 年賀状に『コロナが落ち着いたら会いに行くから。元気で待っててね!』と書いたのに、待っててはいませんでした。 祖母の携帯は私が契約しました。もう電話しても祖母の声が聞けない、もう会えないのが悲しくてたまりません。自殺を食い止められなかったこと、二人目のひ孫を見せられなかったこと、電話しなかったこと、後悔がつきません。 一連の葬儀で、お坊さんが、四苦八苦、愛別離苦は苦しいもので、お経は生きている人のためにあると言ってました。後悔と寂しさで辛いです。 仏教的な考えで、私は何か救われますか?近所のお寺に駆け込んだら救われたりするのでしょうか?おばあちゃんは幸せだったのでしょうか?今は辛い思いをしていないでしょうか?
ずーっと、ずーっと、お坊さんに聞いてみたかったのですが、内容が内容なだけに反応を目の前で見るのが怖くて聞けずにいるんです。 質問は、【生身で(現実の毎日)感じる“地獄”と、自ら命を絶ったら堕ちるとされる“地獄”】どちらが辛いのでしょう? 以前、自分がどうしようもなくドン底で辛かったとき、こんなことを考えていました。今でも時々考えてみますが【辛い】と感じる“心”があるかぎりは現実の方がよりシンドク感じます。 では、【辛さ】を感じないように心を閉ざし、感覚を断ち毎日を過ごそうとすると【死んだように生きるのは死んでいるのと同じ】という考えになってしまって、【じゃあ、もぅ、(死んでも)いいよね。】となってしまいます。 亡くなった後の世界、“地獄”は本や文献、掛軸などで知るのみで信仰が違えばまた各々違った世界なのでしょうか? 実際に在るのかも今、現世に居る以上はわかり得ないですし、、。 お坊様でしたら、こんな質問を投げ掛けられたらどのように応えられますか?
こんばんは(⁎⁍̴̆Ɛ⁍̴̆⁎) 以前 親戚のお葬式に行った際に もし、自分が亡くなったら 何人くらいの人が 見送ってくれるんだろうか?とふと思った事がありました。私は あまり 友達とか 作らないので 人に合わせる事が苦手で 耳も悪いので 会話をするのが 辛い時があるんです。 耳鼻科の先生に何でか 聞き取り間違えで 偉く叱られてから 会話する事に自信が もてなくなってしまって テレビも 字幕で見ると 内容が把握できるんですが なので 電話も苦手で メールなど 文字で会話する 方が楽だし 会話を楽しむ事ができるので いい世の中になったなと思いました こんな私なので 亡くなっても 親戚くらいしか きてもらえないだろうなと思ったんですが この広い世の中で たまたま偶然 お知り合いになれた 広い空の如く 皆様との縁がございますように
海外で死んだらその魂は何処へ行くのでしょうか 仏教徒であれば海外で死んでも極楽へ行くのでしょうか
主人は新興宗教でした。私は浄土真宗です。 両親は、離婚し、私の姉も離婚しています。 主人は私の苗字になっていますが、墓は、主人の父のところに入っています。(○○家、とは入ってません) 葬式?は新興宗教のやり方でして、その後の供養は私はその会には行きたくないので行かず、特にお経もあげていません。毎日の線香、お水、毎月の墓参りはしてます。仏壇は返して新しく買ったけど、本尊?はその宗教のものです。夫の一家は(おそらくかなり前から)新興宗教であり、その会?には行っているとの事。 先日、和尚さんのお悩み相談会(モールのイベント)で、『新興宗教で主人方が続いているなら、主人の家の先祖供養が出来ていない。元の宗派を探して、先祖供養をしてもらうほうがいい。ご主人の思いを大切にしたのだろうが、新興宗教では供養できない。墓も名前が変わっているのに、その墓に入るのはおかしい。両親の両親からのいざこざや離婚のこともあり、因縁がある。このままでは、子供で家が断絶してしまう。仏壇も変えて(私の名前に変わっているのだから)浄土真宗のご本尊様をまつるべきで、浄土真宗で供養してもらうべき。』 というような事を言われました。 私は主人に対して懺悔の気持ちが強くあり、主人が信じたことを大切にしたいと思います。が、私は新興宗教を信じる気にはなれません。 形ある、供養をしたい気持ちもありますが、新興宗教では、できません。私は信者ではないので。(母方父方共に、しっかりと色々としていたのを見てたのもある) お墓は、義母が亡くなったら、その2人は新興宗教のお墓に入れるつもりです。 法要、墓、仏壇、日々の供養、私はどうしたらいいのでしょうか。 主人が、一番望む事をできる範囲でしたつもりでしたがどうしたら、一番いいのでしょうか。子どもに何かあるのは困ります。 どうぞよきアドバイスをお願い致します。
私は身寄りがいません。天涯孤独です。以前地獄に行きたくないという相談をさせてもらいました。身寄りがいなく誰からにも供養してくれなかったら地獄に行く可能性があるのでしょうか?ネットでたまたま読んでしまったので。供養してくれる人がいれば地獄行きは免れるみたいな事も目にしました。それも心配なのですが私が死んだら供養してくれる人がいないので身寄りがいなくても供養してくれる所はありますか?私は30代なのですが死んだ後の事も心配になり相談させていただきました。
先月、病気療養中だった母を自宅で看取りました。 訪問看護や訪問診療 周りの方に支えられ最後まで自宅で過ごすことができ、母は「私は、幸せ者だ。ありがとう」と言ってくれました。 今は寂しくて仕方ありませんが、あの世があるならまた私の母になってもらえるように、笑顔で会ってもらえるように、今後一生懸命生きて天寿を全うしたら、私はまた母に会うことができますか? 誰もあの世を見た人はいません。わかってはいますが、お坊さんの きっとまた会えるよの言葉が欲しいです。
回転寿司が大好きで週に一度は食べに行っています。 そこで、hasunohaの左上のロゴの類似であるホッキ貝より、味は赤にし貝、歯ごたえはつぶ貝が好きだなと気づきました。 気付いたんですが、ホッキ貝も食べますし、赤にし貝やつぶ貝のみ食べるという事をしませんでした。 そして回転するベルトコンベアを見て、自分の輪廻からの解脱は本当に難しいなと感じました。 今回の『輪廻』の定義は死んだ後の話ではなく、 『執着する限り何度でも苦が繰り返される、因果応報としての輪廻』です。 (本を見たりネットで調べたり人に聞いたりしたわけではなく、毎日自問自答しているうちに『生きているうちにも輪廻している』と気づきましたので、これは仏教やブッディズムでいう輪廻ではない、というご意見もあろうかと思いますが、その場合は正しい言葉を教えていただければ有り難いです) 気付いてもなかなかやめられない、そして心に余裕がなくなったら外的要因のせいにしている自分の心がいます。 ダンマパダや七仏通誡偈の中に、 諸悪莫作(サッバパーパッサアカラナン) 衆善奉行(クサラッサウパサンパダー) 自浄其意(サチッタパリヨーダパナン) 是諸仏教(エータンブッダーナサーサナン) がありますが、白楽天に言った道林禅師の『3歳の子供でも分かるが80歳の老人にもできない』という偈に自分の経験を当てはめて痛感しております。 僧侶の皆様は忘れてしまったらしょうがないのですが、忘れてしまいそうなときはどのようにして忘れないようにしていますか。 (忘れてしまいそうなときは忘れていないから、忘れることはない、という答えもあるでしょうが) 苦の輪廻を寿司で例えると味にアクセントを与えるワサビ(たまに多くつけすぎたり少なくつけたりして苦しむがちょうどよい辛さを探している)だと、勘違いしている自分がいるのかな? と迷ってしまっています。 いや、違う。ただ何も考えてないだけですね。
実家の父が亡くなったときのことです。無事にお葬式を終えた晩のことだったと思います。 寝室を暗くしたあと、なかなか寝付けずにいました。 やっと、うとうとしてきたときに、押し入れから「チャリン....チャリン...」と金属音がするのです。驚いて意識がはっきりした後も数回聞こえました。 そんなことが2日程続きましたが、どういう意味なのでしょうか? 押し入れには布団しか入っておらず、金属製の物なんて入っていません。 私は勝手に亡くなった父が6問銭を鳴らしていると思ってしまいましたが、なにしろ深夜のことでしたので怖かったです。 我が家は浄土真宗なのに葬儀屋さんの言われるままに、旅装束を着させてしまったから怒って現れたのでしょうか?それとも、逆に感謝してくれたのでしょうか?それとも、何か他に心配事があったのでしょうか? と言いますのも、実は母が亡くなり、これからお葬式をしなければなりません。 今度は旅装束を着させないつもりですが、金属製の6問銭や護り刀をどうすべきか悩んでしまいます。 ※参考までに、ですが...父のお通夜から49日まで、透明な煙のようなものが鏡越しにみえたり、家鳴りなどの物音がよくしたりしていました。不思議なことに49日が過ぎたら、その様なことは起こらなくなりましたが....。
ちびまる子ちゃんのような姉妹が、50代になっても続いておりました。 そのまま年を取り、旅行や山登り等したいことが沢山ありました。 その姉が突然私の目の前で、脳出血の為倒れ5日後息を引き取りました。元気そのものの姉が・・あまりにも突然過ぎて、まだ信じられません。死亡手続きやお葬式の準備等淡々としておりましたが、現実ではないという思いが強く心の整理が出来ません。 意識不明になった時、又、今姉はどう思っているのかを知りたいのです。 これから、私はどう生きていこうかと模索する日々です。 どうか、この押しつぶされそうな胸の内をお察しください。 姉をこんなにも慕っていたのだと、改めて感じております。