解脱は最高の「涅槃」から最低の「浄土」までレベルがあるようですが、日本の仏教は、目指すレベルに従って多宗派に分かれたようですね。 最初日本に齎された仏教は解脱の実践方法だったようです。 仏教の基本は真理の「般若経」、真実の「般若心経」、そして論理の「阿含経」で構成されていると思いますが、「阿含経」は南伝だったので、日本ではなじみが薄かったのでしょう。 これらを基本とする根拠は 金剛般若経の次のような記述に依ります。 説法の本質 「それはなぜか。スプーティよ。如来は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」 ところで、「阿含経」には解脱の処方迄示されています。 有縁 (南伝 相応部経典 12.23. 縁) 前略 比丘たちよ、そのように、無明を条件として行がある。(中略)愛→取。取→生。生→苦。 (ここまでは十二支縁起と同じ) (続けて)苦→信。信→悦。悦→喜。喜→軽安。軽安→楽。楽→三昧。三昧→如実知見。如実知見→厭離。厭離→離貪。離貪→解脱。解脱によって煩悩を滅尽したと知るのである。 後略 如実知見→厭離。厭離→離貪、の意識が芽生えれば、 離貪→解脱、に至ります。 厭離は徳川家康の旗印「厭離穢土 欣求浄土」の事ではないでしょうか? この世が「穢土」であることの認識が重要です。 これによって衆生は「浄土」、菩薩は「涅槃」を求めることになると思います。
私は現在、叔父と祖母の位牌と仏壇を持っています。 お墓はなく、お骨は集合管理してくれる所にあります。 管理費などは曾祖母の息子さんがしていると聞いたことがありますが、10代のころに聞いた話です。 本来は曾祖母から継いで母が持っていた仏壇だったのですが、私が手を合わせたりお花をお供えするのが好きなので、4年前 「それだったらあんたが持ていればいい」 と言われ、私のマンションに来て頂くことになりました。 その矢先、母の部屋が大雨で水浸しになり、仏壇が駄目になり、こちらへ来るのと同時に小さい仏壇を買い、お性根入れをしてもらいました。 その半年後くらいに母と喧嘩をし、一切連絡を取らなくなりました。 プロフィールを読んで頂ければ分かるのですが、現在母・妹・弟とは疎遠になり、一切連絡を取っていない状態です。 そして2年前、私は現在のパートナーと一緒に住む事になり、仏壇と一緒にパートナーの家に引っ越しました。 そして昨年再婚し、名字が変わりました。 これが今までの仏壇の流れです。 ここまでは良いのですが、今後、例えば私が急に倒れて居なくなった時、仏壇の行き場がなくなってしまいます。 旦那は神仏に興味が薄いので、何がなんだか分からないとよく言っています。 いつ何があるか分からないので、今出来ることや、しなければならないことがありましたら教えて頂きたく質問を投稿した次第です。 仏壇の中にある掛け軸の文字から、宗派は浄土真宗大谷派です。 お忙しいとは思いますが、何卒よろしくお願い致します。
こんにちは。お骨の行き先についての相談です。 昨年父、今年母が他界しました。 納骨を二人しておらず、現行日本では手元供養か散骨樹木葬納骨とあるとわかりましたが… 実家には墓があり、祖父母まで納骨しております。 わたしと姉は既婚で子なし、もう一人姉がおり息子がおりますが障害があり県外在住です。 母は生前、墓じまいをして自分は信仰していた別宗派の合葬墓を希望していました。 父の納骨についてはなんと言っていたか記憶がありません。 しかも姑と仲が悪く、私どもとしても同じ墓に入れたくないのですが、 なんだかんだ父とは50年連れ添ったのだし、母だけ別なのもな。 父は変化を嫌う性格で、実家で過ごす人生でした。 なので父を別な所に納めるのも… と、悩んでいます。 菩提寺は急かしてくるし、 『嫁姑不仲なんて生きてる人間の都合』と言いますが、生きていた頃を、もう終わったのだから、と済ませてしまう事も生きてる人間の都合では?と思ってしまいます。 長くなりましたが、父と母のお骨をどうするか。 何かお知恵をお貸しください。
ご相談申し上げます。 私は今年で34歳になりますが いつも自分が不幸を呼び込む存在なのではないかと思い悩んでいます。 過去に所属していた芸能事務所を3社倒産、解散させ お世話になっていた上司の失脚など 自分に関わった人たちの不幸が自分のせいのように思えるのです。 当然、私自身は周りの不幸は望んでいませんし、 幸福になってほしいと思っているのに 私に関わった人は皆不幸になっていくような気がするのです。 最近では周りから 悪霊にとり憑かれているとか 悪魔とか言われるようになり 最初のうち 20代の頃は 気にかけていませんでしたが 30代になり 精神疾患を経験した今では もしかしたら、本当に自分は魔物ではないかと思うようになりました。 周りの友人たちに薦められるがまま、厄払いをし、定期的に神社への参拝 自分の宗派(真宗大谷派)のお寺には頻繁に手を合わせるようにしておりますが 一向に良くなった気がしません。 周りの不幸な話を耳にする度、「またお前のせいだ」と言われ「あぁまた俺のせいかなぁ」と思ってしまいます。 自分さえいなくなれば 自分が死ねば皆が幸せになる そんなことまで考えるようになりました。 私は悪霊に取り憑かれているのでしょうか?
ご相談させていただきます。 私は結婚していているのですが、事情があり実家から持って来た仏壇を自分で供養しています。 自分の実の親族、家族などとはとても縁が薄い状態です。 これからも永遠に連絡を取り合う事はありません。 仏壇には先祖と祖父母の位牌が入っています。 本家ではありません。 先日、急な高熱が出て、PCR検査の結果コロナではなかったのですが、持病があり、もし自分に何かあったら残してしまった仏壇が、現在結婚している親族に対して迷惑になってしまうのではないかと大変気になりました。 私には子供もなくこの先、この仏壇を供養してくれる人もおりません。 主人と義母とは、私の生きているうちにとの話しで持ってきています。 今回の体験で、仏壇を閉じようかと思ったのですが、守って貰っていると感じていたし、寂しい気持ちがあります。 ただ、私は望まれた子供ではなく、小さい頃から存在することすら大変嫌われていたので祖母からしたら私に供養されても嬉しくないとも思います。しかし、私はその祖母のおかげで育つ事ができたので感謝しています。 祖母が亡くなったのが64歳で私も遺伝で同じ病気を持っているため、60歳までは自分で供養しようと決めていました。私は現在49歳です。 このタイミングで仏壇を閉じてしまって良いのかとても迷い、悩んでいます。 宗派は真言宗です。 文章が稚拙で伝わりにくいと思いますが、何かお言葉をいただきたいのです。 どうかよろしくお願いいたします。
こんにちは。 もう3年程前の冬に、奈良の真言宗のお寺(もしかするとそのお坊さんの特定が出来てしまうかもしれないので、お寺は伏せます)に行った時のことです。 境内がとても広く、小道がとても綺麗で、私ははしゃいで歩き回っていました。 すると、目の前からお坊さんが歩いてこられて、目があった私に、合掌し軽くお辞儀をしながら「こんにちは。」と声をかけてくださいました。 でも、その時は今ほど仏教のことを知らず、悪い気はしませんでしたが、とてもびっくりしてしまい、3秒ほど固まったあと、小さい声で「こんにちは…」と言うしかできませんでした。 私が固まったのは、びっくりしただけじゃなく、そのお坊さんが纏っていたオーラに圧巻されたのもありました。 すごく綺麗な茶色のお着物に、オレンジ色の大きな?(裾まで隠れる大きさの)袈裟を着ていらして、通り過ぎたときにお線香のとても良い香りがしました。 家でお線香を焚くと、ふと思い出します。 私の知っている、黒い衣のお坊さんと全く違い、絵画や彫刻でしか見たことないようなお着物で、お顔つきも、本当に仏様のようで、とても穏やかな雰囲気の方でした。 失礼ながら、別次元の方のように思えるほどでした。 もう3年前の事ですが、そのお坊さんの出会いが、私にとって強烈な体験で、今でも忘れられません。 またどこかで出会えたら良いなぁと思います。 ここにご質問させて頂いたのは、この話を誰かに聞いてほしかったのと、どういう方だったのか、なぜそのお寺にいらしたのか、推測できる範囲で教えていただきたく、投稿しました。 袈裟の色や形によって何か立場や宗派が異なるのですか?そのお寺のお坊さんかもしれませんが、袈裟を着たまま他のお寺にお参りすることはありますか? ご回答お待ちしています。
いつもお世話になっております。 医師の勧めで、毎日、祈願寺の写経道場に 通っています。 その後、護摩でお経を上げ帰宅します。 祈願寺は距離もあるので、規則正しい生活 の基盤、また学びの機会にもなっており、 色々な人も来るので、軽い訓練にもなって いる…気がします。 医学的にも、写経行には集中力を高め、 認知症の予防にも…と聞きますが。 そこで数点疑問が生じました。 写経には大きな功徳が…と聞きますが、 そう言われても、いまだピンときません。 また、我が祈願寺の宗派は実践的な修行に 力を注いでおり、 本山には信徒向けの水行、登拝行、断食行 などのプログラムまで存在します。 まさに、「道場」といったところです。 ご詠歌もあった気が。私もたまに参加 しています。個人的にもやりたいので、 道具を揃えるか思案中です。 とくに断食行に関しては、 「治療目的での入堂はお断りします」 と注意書きがあります。 写経や信徒参列型の護摩と、断食行は やることが根本的に違う、また、前者には 治療云々…の記述はありませんが、 私の場合、認識のズレから誤解を生じ、 お坊さんから顰蹙を買っていないか不安に なってきました。 今までも、あらゆる場面で認識のズレから トラブルを作っていたので…。 関連して、最近になって、お坊さんから 行儀に関して指摘される事が増えました。 たとえば、 「トイレに入る前に輪袈裟を外して」 など…引き締めを図る時期が来たか? とも思います。 ほんとうに、無知で申し訳ない…。
先日、叔母が他界し、菩提のお寺は曹洞宗でしたが、喪主の長男が、無知のため、真言宗の形式で葬儀を行ってしまいました。 来週49日が来るのですが、 その後、菩提寺に相談するどころか、葬儀社から紹介された、自宅の近所にある、曹洞宗の寺院に相談に行き、結果的に、他宗派で法事を執り行なってしまったこと、菩提寺がある、という当然な事より、49日、100日法要は断られ、故人は曹洞宗を信仰していましたが、お経を上げてくれる和尚様とはご縁がなく、49日法要は、喪主が一人で、心を込めて行うと言われました。 菩提寺に相談するという選択肢がなく、具体的な理由もないようでした。葬儀社に依頼しきりで、他人任せなのも垣間見えました。 墓地管理規則も無視した行為ですので、ご縁がなくなるのは当然です。 そして、この行為により、いずれ墓地そのものも撤去されると思うと、今までろくに墓参りもした事のない喪主に、故人に頼まれて、先祖代々の墓を守ってきた私としては、先祖を敬う心を抉られる様な、許せない気持ちで頭の中が混乱しています。 49日、100日、1周忌…と法要がありますが、呼べるお寺様もないため、喪主が一人で行うというのはいかがなものか、ご意見をいただきたく存じます。 よろしくお願いいたします。
三年前に自死した長男(享年23歳)を納骨しないで 長男の使ってた部屋で手元供養という形をとってます。 お墓は、目と鼻の先にあり、金銭的な理由で 納骨できないという 状況ではありません。 先日 近所に住む義母から、もう三年経ったのだから いい加減 納骨したらどうかと言われました。 どういった宗派のお坊さんなのか分りませんが、 「納骨しないと、魂は迷い 人に霊が憑りつくから 三年も経ったのだから 納骨しなければならない」 と言われたらしいです。 義母は、「人に憑りつくから」を繰り返して言ってきて とても傷つけられました。 私は はっきりと「納骨しないし 手放さない」と伝えました。 夫も同じ考えでいます。 義母は、自分たちの考えが正しいと思い込めば あらゆる人を使って 自分の思いを通そうというところがあります。 私たちは こうしたい いう事があっても まぁ~ 親だから言うことを聞いておくか・・・と 今までは、尊重してきました。 ですが、この納骨しなさいということだけは 絶対に聞けません。 実家と 現在も 浄土真宗ですが どちらのお寺のご住職も、納骨しないのは 悪いことではないと 言ってくださいます。 本人を目の前にして 非常識と言えなくて 本当のところ 私は非常識なことをしているのですか? まず一番 大切な息子のためにならないことをしているのですか? どうか ご意見 お願いいたします。
実父が今年1月、手術の為の入院中、容態が急変し家族に見守られることなく病室で亡くなりました。その後の葬儀は、父に信仰心がなく無宗派、生前から戒名もお坊さんも必要ないと兄に話していたこともあり、本当に家族のみで祭壇を囲みお別れをしました。私の中にモヤモヤする物はありましたが、兄が簡素ながらも葬儀を取り仕切り、母は憔悴し兄に一任していたので、嫁いだ私は黙っていました。 落ち着いた頃母は「やっぱり気持ち的にねぇ…」と言い、小さな仏壇を購入し、入魂などはせずに位牌が無いので写真とお花を飾り、普通に毎日線香を立てて御りんを鳴らしています。自分でお経を読む練習もしていたり。供養は気持ち…と私も思いますが、このような形でいいものなのかと今も考えます。 今年初盆ですが、来年春まで納骨はせず、仏壇横に安置しています。初盆も提灯を飾ってあげたいと購入しました。誠に都合良し…ではありますが、普段の供養は仏式風に小さな孫達も気持ちを込めて手を合わせています。 母が納得していれば、このような形でも父への供養になっているのでしょうか。非常に苦しい闘病の中、一人で旅立たせてしまった父は成仏できているのでしょうか…。 兄は良く言えば、形ではなく気持ちの問題と考えているようです。 ご回答よろしくお願いいたします。
私には母方父方の両祖父母は他界している為おりません。 母方のお墓は母自身が5人兄弟の為 お墓当番を決め兄弟でローテーションし、お墓を見ています。 こちらの仏壇は母方の兄弟の長男が持って行ったようです。 父方の仏壇は最近まで父と連絡を取っていなかった為不明です。 現在父とはいつでも会える状況ではありますが仏壇はないらしく、御墓参りも「お金がなく行けない」と父に言われました。 私はたまにですが父方の御墓参りに行っています。 ただ私には車がなく、娘も小さい為なかなか頻度高く行けないのが気にかかっています。 本当ならお墓を綺麗に保ちたいのですが…。 そこで小さな仏壇の購入を考えたのですが 位牌などもありませんし、一つの仏壇に両家入れるのは不可能なのか等、何もわかりません。 さらに両家の位牌を揃えようにも母がいい顔をしません。 また細かな宗派?みたいな事も私は勉強不足で全くわかりません。 どのようにしたらきちんと拝むことが出来る仏壇が持てるのでしょうか? 家庭環境が複雑な為、私以外誰も仏壇に向かうことはないものにしたいのです。
まず始めに閲覧ありがとうございます。 先月始めに、疎遠だった父が去年亡くなっていた事を知って遺骨を遠方の行政から受け取り合同の納骨塚に納骨を済ませてきました。 うちはマンションで母と義理の父と一緒に暮らして居るんですが、自室に実の父の写真を置き、その隣には真言律宗のお寺で購入した辰年の守り神の仏様が入った数珠を置き、蝋燭と線香と水を毎日あげて南無阿弥陀仏を唱えています。 けれど最近父側の宗派が曹洞宗だったのがわかったため、このまま南無阿弥陀仏を唱えててもいいのだろうか?と疑問に思いました。 なので今朝は南無阿弥陀仏を十念してから般若心経の録音されたものを流して拝んでいました。 この場合はどちらが良いのでしょうか?また、写真立てや線香や蝋燭以外にも置いた方がいいものはあるのでしょうか?位牌を検討しているのですが、私自身現在財布に余裕がないので今すぐに位牌を作り戒名を作ってもらうことも出来ません。 親不孝な娘ですが、父が大好きだったので父が安らぐことをしてあげたいです。 よければご意見お聞かせ頂けると大変ありがたく思います。
今まで素敵な格言や著名な方の教訓を探すことが好きで行っておりました。 このような言葉を見ていると、ヤル気が湧いたり、助けになっておりました。 ただ、モチベーションや救いは一時的には持続するのですが、これらの言葉は、当然、自分が導き出したものではないでの、「理想」だという前提があり、自分の人生にその教えを定着させることができていないように思います。 (意識しているつもりですが・・・) そこで、皆様はどのような方法で一般の方もこのような言葉を人生に活用できるようになるとお考えですか? 特に最近救われたのが、星雲大師の『星雲法語』にある「人生の最もたるもの(一)」です。 (宗派等は関係なく偶然出会ったものです) 第一、人生最大の敵は、自分自身である 第二、人生最大の病は、自分勝手である 第三、人生最大の悲哀は、無知無明である 第四、人生最大のあやまちは、邪見をもつことである 第五、人生最大の失敗は、驕慢になることである 上記5つの教訓を日々の生活に組み込めたら、家族・職場・友人等の私自身の悩みが解決するのですが、1~5を頭に入れて生活していても、分かっていながら見事に行動に移っておらず、苦しいです。 よろしくお願いいたします。
父と母のお墓参り(階段を何段も上がった山のような場所で、区画にはお墓が20ほどです)の帰り、ふと目に入ったお墓とその隣のお地蔵様のような(恐らく子どもをまつっている?)が雑草で隠れているような状態になっていました。造花がいけてあったのですが、それも朽ちかけており、お水を入れるところには苔が生え線香立ても倒れていました。恐らく長い間なんらかの事情でお参りされていない状態だと思い、よかれと思い、もしかしたら宗派とか違ったりあるだろうけど、私には今時間があるのでお掃除させて下さいとお墓に伝えて草をむしり、お水を替え、自宅用に買ってあったお花を造花が入っていない方の筒にお供えしました(回収も責任を持ってしようと思っています)。そして、線香を立てて帰ってきました。 その後、ネットで調べたり友人から聞いて他人のお墓を参っても掃除してもいけないものだと知り、余計なことをしてしまったのではないかと反省しています。もし、そのお墓に眠っておられる仏様が寝ている子を起こされたような気持ちになったり、憤慨されていたらどうしようかと心配になっています。もし、このことが相応しくなかったことであれば、今後一切しないでおこうと思いますが、してしまったことに対してどのようにしたらよいのでしょうか。
こんにちは。初めて書き込みさせていただきます。 私は現在仏教徒としての道を歩んでいきたいと考えております。 きっかけとして仕事などが原因でどのような生き方をすべきか悩んだり、死への恐怖について不安になったりした時、いつも自分を助けてくれたのは仏教の教えでした。 先日母からうちが新興宗教の元信者だったことを知らされました。 母は所謂二世だったのですが、今は脱会しており仏教(真言宗)へと改宗しています。 私は母親の告白から真言宗について興味を持ち、調べていくうちに大日如来様や弘法大師様の御心に惹かれ、真言宗の信徒として歩んでいきたいと考えました。 しかしどのように学んでいけばいいのかいまいち分かりません。 仏教はキリスト教やイスラム教のように洗礼を受ける必要がないと聞きました。母が真言宗なので私も真言宗という考えでいいのでしょうか。(父は多分別の宗派だと思いますが) また、仏壇を購入するなどして形から入るべきなのだろうかとも考えましたが、何が正しいのか分からないので、とにかく今は仏教に関する本や記事をたくさん読んでいるところです。 何から始めればいいのか、どうすればいいのか教えていただければと存じます。ご回答のほどよろしくお願いいたします。
先日、祖父を亡くしたので通夜・告別式に親族として参列してきました。 ちなみに、うちは浄土真宗なので、できれば同じ宗派の方の回答を 希望します。 私は発達障害の為に人より神経が過敏という病気があり、普段は 頻回にトイレを気にして席を立つことがあります。 通夜は1時間ほどで済んだので、式の前に1回トイレを済ませてからは 式の終わりまで席を立つことはありませんでした。 しかし、翌日の葬儀では普段とは違う状況に緊張したのか、式前に2回ほど トイレに行ったにもかかわらず、30分ほどして読経中に無性にトイレに 行きたくなりました。 もちろん、読経中に席を立つのは失礼だろうと思って式の間しばらく がまんをしていましたが、耐え切れず後半の“親族お別れの儀”の タイミングで席を立ちました。 事前に葬儀場のスタッフさんに確認した時には「いつでも自由に立たれても 構いませんよ。」とのお返事をいただいていたのですが、やっぱりどうしても 読経中に1人だけ席を外すと周りから白い目で見られることが怖く、 なかなか行動を起こせませんでした。 自然現象である排泄や、途中で気分が悪くなったときは、読経中や 式の間でも、周りを気にせず席を立ってもいいんでしょうか? それとも、やっぱり僧侶の方は、いくら親族でも途中で席を離れられるのは 気分を害されますか? 一応、周りからのアドバイスを受けたうえで、今後は迷惑にならない席に 座ったり、タイミングを見てこっそり席を立ってみようと思っています。
自分の先祖の菩提寺が知りたいです。 過去帳で原戸籍以前のご先祖にどんな人がいたのか知ったり、当時何があったかわかる範囲で調べたいと思っております。 今まで、私の祖父は父の顔を見る前に亡くなったと聞かされており父方のご先祖に関する情報はほとんどありませんでした。 父本人も、祖母方の親戚筋ももうおりません。 戸籍の取り寄せで天保年間生まれの曽祖父まで辿れたのですが、それより昔の人のことや歴史上何があったか知るには菩提寺の過去帳を調べて頂いたり口伝で伝わっていることを教えて頂くことだと聞きました。 宗派もわからないのですが、ご先祖の本籍地の周辺のお寺にしらみつぶしにお手紙を書くしかないでしょうか。 現在あるお寺が新しいと意味がないし、逆にお寺がなくなっていることも考えられますよね? アタリをつけるにはどうするのがいちばんよいのでしょうか? ちなみに、途中で分家の際に苗字が変わっているものの、いちばん古い戸籍の戸主の父母の苗字もあり、「ご先祖さまはどこかの村長さんだった」とも聞いた覚えがあるので、過去帳や郷土資料に名前が残っている可能性は大きいと思います。 アドバイスが頂ければ幸いです。
30代で最愛の妻と死別し、子育て中の40代男性です。自宅で2人暮らしです。 自分の子と一緒に映画を見るのは大丈夫だが、子を親族に預けて1人で映画を見るのは、ものすごい罪悪感があり楽しめそうにもないので、結局行けない。 自分の子と外食に行くのは大丈夫だが、子を親族に預けて、私の友達や同僚と飲み会に行くのは、ものすごい罪悪感があり楽しめそうにないので、結局行けない。 ちなみに親族との関係は極めて良好で、子を預けるとしたら快くOKしてくれる。 この罪悪感は「妻はもう楽しめないのに、自分だけ楽しんで申し訳ない」ということから発生してると自分は思ってます。科学的な根拠が無いことは理解しています。 この罪悪感で自分の行動が制約されているという自覚はあります。それと同時に、私がいろんな事を我慢というか、結果的にしなかったから、子は健康的に日々成長してるんではないかという思いもあります。 究極的にはこの罪悪感から解放されて、もっと私個人の行動の制約を取り払いたいんですが、急にできるわけもないので、徐々にでも罪悪感を軽減していきたいです。 妻は私個人だけがすごく楽しい事をすることに対して、どう感じるでしょうか。 可能であれば、男性女性双方の立場からの意見をお聞きしたいです。 ちなみに私の家の宗派は浄土真宗です。
死後の世界はわからないものだとこちらでも他質問でいくつか拝読いたしました。 現代では亡き親族の供養の仕方は様々かと思います。いろんな考え方があって当たり前だと思うのに、いざ自分のことになると気持ちがついていきません。 私は名家出身とかでは全くないですが、両親はあるお寺の檀家として必要だと思うことはやってきておりました。父は亡くなっております。 私自身、それが普通だと思って生きてきまして、嫁いだら私の実家のお墓に入れなくても、宗派は違えども、嫁ぎ先のお墓・御先祖を大切にし、供養や法要等やるものだと思っていました。 しかし、主人の実家では檀家などの概念がありません。そのような考えがない方も現代にはいらっしゃると分かってはいます。 こちらでも、葬儀は必要なのか、法要は必要なのか、お墓は必要なのか、、、などと、類似の質問はあるかと思います。 ただ、義祖父の亡き後、葬儀はお坊さん宅配便…法要は最低限…。なんだか寂しいような、理解できない気持ちになってしまいました。 ですが、そのときに来ていただいた和尚さまには私としては感謝しかありません。 私自身、正直仏教について詳しく存じている訳では全くありませんのでこのような質問をさせていただくこともどうかとは思うところもあります。 ただ、気持ちの置き所をどうしたら良いのかわかりません。厳しいお言葉でも構いません。何かお示しいただけたら幸いと思い、質問をさせていただいました。よろしくお願いいたします。
こんばんは 今回ご相談したい事なんですが、遠方に住む母と挙式の話題になり、職場近くの今時なとこで出来るならと言ったら、ダメダメ!無駄に金かかるばかりよ!そんなとこより◯×神社(彼親がそこで式してて、彼氏もそこでやりたそうにする事もあった)にしなさいよ!安いし!と頭ごなしに否定されました。 元々本願寺でやりたかったのを彼氏から宗派違いで却下され、自分の中で無理矢理諦めつけてここでやりたいってボンヤリ思ったとこも実母に否定され(親族の平均年齢も高く、料理が合わないのでは、そんなとこに使うより祝儀なんかは貯蓄に回すべき。その分ハネムーンに当てれば?の事)なんでやりたいのとは違うとこで挙げなきゃいけないんだろうってモヤモヤしてしまいます…(決して彼親と一緒のとこが嫌!とか神前式やその神社を否定する訳ではないですが…) (鎌倉時代に創建され、歴史上の人物にまつわる伝説があったのもあって厳かさがすごくあります。母が強く推してくる理由も分かります。ただ悉く希望を否定される事に疲れました。) どうしたら気持ちに折り合い付けることができますか?