これまでの私の人生は完膚なきまでに何度も何度も他人に陥れられ、辛く苦しいものでした。 さらに今後も私だけでなく子供達までそんな目にあわされそうです。 私は神様は姿形なく、仏様やキリストやイスラム、世界の神様もみなひとくくりに大きなくくりで「神様」とお呼びして時々心の中でお祈りするのですが、近頃はその祈りの結果が伴わないので理不尽さに対する怒りしか湧いてきません。この感情を処理できないです。誰かに怒りは行きます。それは1番近くにいる子供にかもしれない。今後処理できそうにありません。 もうずいぶん前からお金と人間関係に追い詰められています。 どうすれば。どうすれば。
最近とあるきっかけで曹洞宗のお坊さんの書籍を拝読させていただいたきました。 自分の中で仏教の考え方や生活がとても腑に落ちて仏教徒になりたいと思うようになりました。 ただ自分なりに調べてみたところ、キリスト教徒のように教会に通うだけのような感じではなく、仏教徒になるには仏教に通ずる大学を出たり、出家をしなくてはなれないと伺いました。 現在は会社勤めをしているので出家も現実的ではないし、高校時代に仏教に出会えなかったことを後悔しています。 まだ年齢的には遅くはないと思うのでこれから深く関わっていきたいと思っているのですが、具体的にどう行動に移していくのが良いですか? 大学に通い直したり、出家をして修行することにも興味はありますが、会社勤めなので会社をやめると収入がなくなり生活が厳しいです。 何か良いアドバイスをお願いいたします。
こんにちは。前に日蓮宗からだしているお守り倶生霊神符のことで質問しました。良い答えをいただきました。ありがとうございました。再び質問しますが今は無宗教みたいな感じでクリスチャンではなく時々キリスト教の教会へ行くこともあります。いずれはクリスチャンになるつもりです。もしそうなれば倶生霊神符はいただかない方がいいのですか?お寺の倶生霊神符をいただく盛運祈願会には仕事しているので行ける時行ってます。行けない時は送ってもらっています。クリスチャンになっても倶生霊神符だけはいただきたい気持ちです。長文で失礼しました。
現在、病名は診断されていないのですが心療内科に通い、薬を処方されています。 時々急に不安が襲ってきてどうしようもなくなることがあります。 そんな時、神様などを信じている人たちは祈る対象があっていいなと思ってしまいます。 私自身、浄土真宗の幼稚園に通ったりキリスト系の高校に進学していたりと宗教は割と身近にあり、神様や仏様はほんとにいるのかなあと考えることもあります。 でも一方で、宗教というと新興宗教の勧誘とか事件を起こしたりとか人間を悪い方向に持っていってしまうのではないかと心配になります。 個人的には神様や仏様など心の拠り所がほしいなと思っています。 ちなみに母方の家系は浄土真宗だと聞きました。 こういうことをお坊さんたちはどうお考えなのでしょうか。
いろいろな出来事があって、浄土真宗の本(一般書ですが多数)を2年程度読んでいます。癒されるためには懺悔や祈りはとても大切だと思うのですが、どの本を読んでも阿弥陀様はすでに私たちを助けているため懺悔も祈りもしてはならないような解釈がされています。 私にとって叶わないとしても祈りや懺悔は心を安定させるためにも重要で、最近キリスト教会へ行ってみましたが、やはりご先祖様から続く浄土真宗の門徒でいたい思いもあります。 現状でもう救われているでは諦めのような心境になります。祈りも叶わなければそれが仏様の願いであればよいのですが、祈る必要もないと言われると複雑な心境となります。 私の解釈は間違っているのでしょうか。よろしくお願いいたします。
ここで一度お世話になり、仏門に興味が湧き 元々、下手なりにも書道を趣味としていたのもあって 写経を始めてみようかと思っていました そうした話を友人、知人に話していたら タイトル名のようなことを言われました 知人によると、お経と言うものは修行を積み 徳を重ねた人が唱えることに意味があるのであって 素人がむやみやたらと、お坊さんの真似をするのはやめた方がいい まして写経なんて、なにかおかしなことがあってもおかしく無い程の やってはいけない行為だと言われました 書店では、初めての写経と書かれた本もたくさん見かけます 宗派によって考え方が違うのでしょうか 私の家は曹洞宗のようですが 自分自身、仏教徒ではあると思います。 と言うより、それしか知りません キリスト様より、お地蔵さんの方が気軽に挨拶できます 写経って、やはり辞めておいたほうが良いことでしょうか
日本には、なんとなく政治と宗教な話は、親しい間でも話しにくいような風潮があると思います。例えば私自身家族の中でも応援している政党が違ったりするとなんとなく気詰まりな感じがします。そういう宗教や政治の話がなかなか気軽にしにくい日本の風潮にお坊さんはどう思いますか? 話は違いますが、うちは曹洞宗ですが、遠くに住んでいる親戚の叔父が韓国の方が教祖のキリスト系の新興宗教を信仰しています。叔父さんはとても元気でタフで明るくて面白くて好きですが、宗教の話をしている時に進化論を否定していることに驚きました。たしかに進化論が正しいかは、私自身教科書でしか教えられておらず、自分で確かめたことはないので、確証や証拠で反駁することはできないのですが。 あと人間だけ霊界があるというその宗教の教えに対しては、全ての生き物が限られた生を命の限り全うするということは同じな世界で、人間にしか霊界が用意されていないという考えがしっくりきませんでした。当然信仰の自由があるので何を信じるかの選択の余地は一人一人あり、全く否定する気はありませんが。その対話をしている時の母がもううんざりといった言動でもう終わりにしてほしいというオーラが全身から漂っていて、とりあえず途中で私が引き下がりました。(こういうところでも宗教の違いを対話するのを嫌がる日本の風潮を感じました。) 比較的歴史の洗礼に耐えて伝統を長く受け継ぐ仏教の宗派のお坊さんは、新興宗教と呼ばれている宗教の特徴や教えについてどういうお考えをお持ちなのか、気になりまります。 お手すきの時にお返事頂けたら嬉しいです。
こんばんは 宜しくお願いします。 人との出逢いは、出逢うべくして出逢うのですか? 間違いな出逢いはあるのでしょうか? 一生添い遂げますと誓いをしたのに別れました そして私の中では純愛ですが世間でいう不倫の末再婚しました。 この棘の道をたどらないと出逢えなかったのなら幸せになってもいいですか? ずっと申し訳ない気持ちでいなければならないでしょうか? 相手側は元々破綻していました。 でも私の存在が無ければ一生添い遂げてたかもしれません。 私に試練を与えて正しい道を選ぶか試されたのでしょうか だとすれば正しくないから一生幸せにはなれないです 教えてください。
先日は相談にお答えいただきありがとうございました。 ところで、皆様にお伺いしたいのですが、仏教系の組織・団体で慈善事業・活動をされているところはあるのでしょうか?また、私のような特定の宗派の門徒・檀家ではない一般人が参加できるような活動をされているところはあるのでしょうか? というのも、現在、とある本の影響で始めたのですが、少額ですが毎月一定額を募金して、貧しい国の子どもたちを支援する、というのやっております。これは、キリスト教系のNGO団体が行っている活動で、かなり昔から行われているとのことで、ここなら信頼出来ると思って始めました。 もちろん、貧しい人、困っている人を少しでも助けられるのであれば、どこの組織だろうと宗教だろうとそんなことは問題ではないとは思います。しかし、自分の宗教観に合う組織を通して募金が出来るのであれば、その方がいいなとも思います。 ちなみに、私は、実家が浄土真宗(本願寺派)の門徒で、個人的にも幼い頃から慣れ親しんだからか、浄土真宗が親しみやすいです。と言っても、これまで何かの活動に参加したという経験は全くありません。毎月、祖父の月命日にお坊さんがお経をあげに来てくださるのを、後ろで正座して聞いていたくらいで、あとは本で詠んだ程度の知識しかありません。 皆様には、特定の組織・団体について発言されるのは、お立場上難しいこともあるかもしれませんが、参考になるサイトなど自分で調べる方法をお教えいただければと思います。よろしくお願い致します。
はじめまして。 現在1年半お付き合いをしているアメリカ人の男性がいます。 お互い結婚をしたいのですが、宗教で問題があります。 彼はイスラム教、私はクリスマスを祝い、初詣に行き、厄払いをする普通の日本人です。 イスラム教では結婚相手は、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教とだけ許されます。 彼は、最低いずれかの宗教に入って神様を信じて欲しいといわれています。 私は正直この3つの宗教に入信するのは抵抗があります。 私は日本人としてのこの独特な宗教感を捨てれません。 お墓参りや七五三など日本人としての宗教的行事はしたいです。 神様の存在は否定しませんが、肯定もしません。 私が、彼のようにすんなり信じれればと思い、イスラム教を必死で勉強しましたが、 やはり私の本心を変えるのは無理だと思いました。 私は、宗教は元を辿れば最初は一つだったのだから みんな仲良くするべきだ思ってしまいます。 彼は神様の言われている事を逆らえないだけで その他はとっても優しくて思いやりのある素敵な彼です。 できれば大好きな彼と結婚したいのですが、 宗教の壁が大きすぎて悩んでいます。 何か彼を説得できる仏教の教えなどありますでしょうか? それとも別れるべきでしょうか? よろしくお願いいたします。
最近,自分の心がとても貧しくなっているような気がしてなりません。 大学3年生になりました。 私は人から必要とされていたいくせに,人づきあいを面倒臭がってしまいます。 キリスト教の学校に通っているのですが,主イエス・キリストが掲げ る利他行動がどうしても実行できないのです。もしもかえってこなかったら損をしていると考えてしまいます。何かに対して確実な見返りを心が求めてしまうのです。自分の行動に対する対価が欲しいのです。ただ,それを口に出したこともありません。そのくせ,人に見返りを求められると煩わしく感じてしまいます。 人と人との関係をギブアンドテイクでしか考えられません。更に言うなれば常に人から与えられてられて生きていきたいとさえ考えてしまいます。みんな損して私だけ得をすればいい。そんな私の心情を知ってか知らずか,回りの人間は冷たくなったように感じます。いえ,もともと私のことを助けてくれる友人などいなかったのかもしれません。 大学3年間かけてつくった友人が今私に優しくないなんて,こんなの時間の無駄だったと考えてしまいます。被害妄想かもしれません。私に優しくないやつらみんな不幸になればいい,こういう考えが大半を占めてしまい,自分は貧しい人間だなあと哀しくなってしまいます。 人間不信もいよいよ極まってきました。このような匿名の場でしか悩みを吐露することができないのです。人に話すことが怖いのです。私の悩みなんて人に話してなにになるのか。 理解されないことがたまらなくこわいのです。 そして,人に相談しないくせに一人で解決できないことに不甲斐なさを感じます。 心の貧しい私は,どうしたら豊かな人間になれるのでしょうか。私のような物が社会的生物に生まれてしまったことがそもそもの間違いなのでしょうか。 自分の考えの整理もつかないまま書きなぐってしまい,たいへん読みづらくて申し訳ありません。
こんにちは、お坊さん。早速質問なのですが、ずっとやる気が起きずに困っております。原因は去年の夏にとっていた悪徳NPOでのインターンです。当初私の身の回りで不幸があったため、私は職務経験として一度でいいから世の中のために貢献してみたい、恵まれない人達に愛を与えたい、と思っていました。そんな事で、ある日学校で知り合った人を通してインターンが決まりました。その人はそのNPO法人の活動目的を教えてくれました。「アフリカの内戦で傷ついた人を助け、子供に教育を受けさせ、彼らのために清潔な水を補給してあげられるように井戸を掘る」と。しかし、実際にインターンを始めると幾つもの疑問点が湧いて来ました。第一に、誰もアフリカには行かないこと。第二に、募金のお金の行き先をはっきりさせないこと。第三に、何を質問してもイエスキリストの話しかしないこと、などなど。私は自分で言うのもなんですが、そこそこの大学に行っています。しかし、インターンは高卒程度の仕事しか任されませんでした。ある日、募金活動をしていると、親切な通りすがりの女性と仲良くなりました。そして彼女とランチに行くと、「そこのNPO法人はビジネス目的でお金を集めているだけだから辞めた方がいい」とアドバイスを受けました。私も何となく腑に落ちない所があったので、上司に募金の行き先を尋ねると、「あなたはそんなことは知らなくていい。もし誰かに募金の使い道を聞かれたら、ホームページを見てくれ、と言え。」と言われました。しかしホームページにも募金の行き先は載っていませんでした。上司の仕事内容を聞くと、どうやら政治家などにインタビューをして、それをビデオに収め上映会を開いて募金を集めるのが彼らの仕事だったようです。そして必ず、イエスキリストの話で活動内容を誤魔化すのです。私は逃げるように辞めましたが、こんなことに携わってしまった屈辱と罪悪感で鬱を起こし、授業にもついていけず、人間関係がうまく行かなくなってしまいました。だいぶ良くなった今でも、まだ、就職活動をする力もありません。どうすれば、今の状況を打破出来るのか教えて頂きたいです。
何度か相談しています。優しい回答も頂き、少しずつ苦しみの真相に近づいてる感じがしています。 ヒルティと言う偉人さんの幸福論という本に、書物や人との出会いは導き、と書いてありました。良い事も沢山書いてある本でしたので、それらも合わせて信じてしまいました。当時出会った女性が導きの人だと信じて結婚しましたが、内心ではタイプの方では無く、苦しくなって直ぐに離婚しました。彼女を傷付けた事に私も大変苦しみました。神の導きに従った筈なのに、何故こんな事に?と神も信じられなくなりました。最近は、その偉人さんが間違っている事を書いていたんだな、と少しずつ理解しています。キリスト教も間違いを含んでいるな、とも思っています。必死に生きています、、辛いです。 ブッダの言葉で、修行者の行も誤って行うと地獄に引きずり落とす、とあるのはこの事だと思います。宗教の本でも誤った事を平気で書いてある事に気付いて来ました。
痛ましい心揺さぶられる事件が起きて動揺しています。多少違いますが似ていたからです。17年間も精神疾患があって暴れるからと娘を監禁した事件です。たった2畳の冷暖房のない部屋で凍死させられた娘さん。簡易トイレも不衛生で臭いもしたと思うし両親とはインターホンで会話(会話と言えるのかな?)、食事は一日1回。恥ずかしいから外にだせなかったそうですが。わたし的にはこれは殺人事件だと思っています。 この事件を知った時、私と同じめに殺された娘さんは合っていたのだなと悲しくなりました。私も、私をコントロールし思い通りにしようとした二親の仕打ちを思い出しました。でも二親によって命を絶たれてしまった娘さんですが天国にいったのです。今は幸せです。羨ましいです。今は天国(仏教では何と言うのですか?天国ってキリスト教の言葉ですよね)にいる娘さんが羨ましいです。 どうか、私の為にお祈り下さい。おこがましいお願いですが、百も承知しています。
キリスト教では体が不自由でも障害をもっていても、また病気などによる身体的な理由で体力がなく例えば車いすが必要なひとでも、精神的に思考する能力がある場合、信仰を持ち研鑽を積み牧師になることができます。 仏教の場合、出家をした後の修行が厳しいようですが、仏教僧になるという道はそういった修行ができない身体的弱者には開かれていないということなのでしょうか。 1.例えば麻痺で体の一部がゆっくりしか動かせないひとや、生まれ持って歩けないひとや腕がないひと、声帯に問題があり機械でしか話せないひと、聴覚に問題があるひとなどは、どんなに頭が正常で思考する能力があっても掃除や行ができないため仏教の僧になることはできないのでしょうか? またはがんなどの病気をしたため体力的に限界があり一般にその行をしなければ僧としてみとめられないとされるもの(例えば天台宗なら比叡山での修行など)が体力的な理由でできない場合、それでも出家したいと願う場合、そのひとにはまるで仏教僧になる道は開かれていないのでしょうか。 2.その場合その理由というのは単純に物理的にできないということだけで判断されてしまうのでしょうか?もしもそうならば、それはどう正当化されているのでしょうか?そして、それをかえる動きはあるのでしょうか? よろしくお願いいたします。
私は浄土真宗の檀家です。しかしいくらか私のしている霊的ワークと食い違う面があるようなのです。 1 毎日全ての命が永遠に幸せに暮らせる浄土の到来を1日何十回と祈る →浄土真宗に祈りの習慣は無い 2 敬愛する阿弥陀さまを参拝する →「阿弥陀如来なんて死後しか助けてくれないから自分の死期を早めるだけだよ」と言う人が居る(主に創○学○など) 3 信徒として、マントラでもお題目でもいいから何か功徳を積みたい(「見返り無く人を愛することは当たり前」というポリシーが強いて言えばそれらしきものです) →「ただ阿弥陀さまを信じるだけで浄土に永住できるから何もしなくていいんだよ」と、キリスト教の一部のプロテスタントのような意見がある (浄土永住に向けた生きる道での修練を知りたい) 4 仏壇の仏像には曹洞宗のお坊さんに開眼供養してもらった →浄土真宗に開眼供養は無い ↑それじゃただのインテリアになってしまうのでは… これらについて深掘り解説をお願い致します。ここまで読んでくださった方も永遠に幸福でありますように
お忙しいところ閲覧してくださり、ありがとうございます。 常日頃から不思議に思うことがあります。 現代でも崇められている、お釈迦さま、空海さま、キリストさま… のような存在は、現代では新規に現れることはないのでしょうか? 例えば空海さまは、1000年以上も21日に「お大師さまの日」として 民間でも催しが行われたりしますよね。 平成生まれの方だと馴染みが薄れてきているのかも知れませんが、 30代後半の私の祖父母や親の年代の方を見ていると、 まだまだ大衆的に馴染みがあるのかな、と思います。 そのように、一般的にも認知度が高く偉大な存在が、 明治、大正、昭和、平成の世に現れていない?ような気がします。 (無知なだけでしたら申し訳ありません。) ・現代では一般人の信仰心や目に見えないものを 信じる心?が失われてしまったため、現れなくなったのか? ・決め打ち(摂理や何某かの力により)なのでもう現れることはない? ・たまたまここ数百年現れていないだけ? などと考えを巡らせています。 長文失礼いたしました。 また、もし失礼にあたる質問でしたら申し訳ありません。。
御覧頂きありがとうございます。 カテゴリー違いでしたらすみません。よろしくお願いいたします 映画、ドラマ、アニメ漫画、小説から芸術作品まで、何にしても、見る人の感性や価値観によって大きく感想や印象、好き嫌いが変わると思います。 そこで世間、いわゆる俗世間から離れ、「一般的」とは価値観の変わった御坊さんはどんな作品のどんなところが好きなのかな?と気になりました。 絵画や写真ならまだしも、映画などストーリーのあるものとなると、やっぱり仏教観が影響してくるのではないかなと思うのです。 多くの人がたいして注目していない部分にも「すばらしい、いいね!」と感じたり、またその逆などが起こるのでは?と。 それとも、そこは特に影響しないでしょうか。 普通の作品でも、宗教ものの作品でもありがたいです。好きな作品やその作品のどんなところが好きかお教え下さい。よろしくお願いいたします (ちなみに、セイントお兄さんという仏陀とイエスの友人漫画のクチコミが、キリスト教徒からの高評価ばかりで仏教徒からのレビューはみあたりませんでした(笑)。教徒のそれぞれの宗教観の違いか、教徒の母数の問題かわかりませんが。)
私はどこの宗派に属しているわけでもありませんが、色々な書物を読むことが好きで、高校大学がカトリック系列であったため、聖書やキリスト教関係のものも少し読みました。祖父母は浄土真宗なので、般若心経も小さい頃から暗記するくらい読んで唱えて、大学院では国文学としての密教も少し学びました。どの教えも尊く、かつ興味深いのですが、中でもキリスト教の教えに「思うだけでも罪である」というのがありました。ここでの「思う」は、悪いこと、憎しみを思うことを指します。 確かに、「思う」だけで心におさめられることもありますが、「思」へば、それを実行してやろう(例えば、機会があったら悪口を言ってやろうとか。)という気にもなります。仏教(宗派は忘れてしまいました)にも似たような教えがあって、「良いことも悪いことも、思えばエネルギーがそちらに動いて、そのとおりに物事が進むようになる」とも。 ですので、何かマイナスの考えが浮かぶと「あー、ダメダメ。そういうこと思うのやめよ」と、なるべく自分に言い聞かせますが、なかなか思考はコントロールできないですよね。やはり、悪く思ってしまうこともあります。お坊様方は、自身の心の在り方を、どのように受け止めていらっしゃるのか、修行などによって、我々凡人よりも少し克服できるものなのか、伺ってみたいと思いました。
ここ数年、親族が相次いで亡くなっています。 亡くなった大叔母は先祖代々浄土真宗本願寺派で、ご住職とも懇意になさっていました。けれど、跡継ぎの息子さんはキリスト教徒でした。 その大叔母亡き後、葬儀もお墓もキリスト教式でした。 お墓も先祖代々の墓を墓じまいし、他のお寺経営の大規模霊園にうつされました(息子さんの家はそちらが近い)。 先日亡くなった叔父は先祖代々真宗大谷派でしたが、奥様は創価学会の学会員です。 葬儀は学会形式(?)でした。 それぞれ個人が生前にどのような希望をされていたのか存じません。 けれど、亡くなった方の葬儀なのに、当人とは違う宗派での葬儀に疑問と不安があります。 葬儀というのは喪主の都合に合わせて行われるものなのでしょうか? 特に仏教徒だった大叔母がキリスト教のお墓に入っているの見ると、果たして無事に成仏できているのだろうかと不安になります。 祖母のように大変慕っていた方だけに、ずっともやもやしています。 大叔母はちゃんと成仏できているのでしょうか?