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hasunoha 問答検索結果 : 「 煩悩 」
検索結果: 3761件

信ずるものの矛盾について

前置きとして、私は仏教に深く関心し、このサイトでも別の質問をさせて頂き有難い回答も頂いております。 お気持ちを害するかもしれませんが純粋な質問として受け止めて頂ければ幸いです。 私の現状はご指摘もしてもらいましたが煩悩により、自らを囚え振り回されている状況です。 まず、仏への道として宗派は道程であり、すべからく目的は苦からの脱却、解脱であると勝手に認識しています。事実、それぞれの教えから自己満足の範囲でいろいろ学ばせてもらいました。 煩悩を拭いひたすらに。 しかし、人を救いたい、苦から解放されたいと願うことこそ人智を超えた最大の煩悩の気がしてきてしまいました。だからこその仏様でしょうか。 これが一つ目の問いになります。 心の有り様。全てはここに集約されているのかも知れませんし、因果や縁、前世、今世、来世の繋がりも頭では理解していますが、私個人として、苦がなければ生ではないと強く根底にあります。 苦しみこそが人を最大限に無意識のうちにでも足掻かせ、思考を巡らし、結果が悪かったとしてもその後も全力を尽くした経験値として忘れることがないものと思うのです。好きなことより回避したいことの方が望む望まないに関わらず人は本気を出せると思うのです。出さざるを得ないという方が多いですかね。 往々にして心が弱いですから。 それが成長の種になると。 纏めますと、私は己の弱さ故につまらない選択肢と隣り合わせな苦しい日々が続いていますが、この苦しみから解放され 楽しい、安楽なことだけになることも怖いのです。 弱い心が解放も囚われも恐れるのです。 一つだけ身を投げ打ってでも生きる意味として手に入れたいものがあります。 これは教えに反していますよね。 また、その対価としてというわけではないですが苦難を望んでいる自分がいるのはおかしいですかね。 宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 18
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浄土真宗の教えについて3

おはようございます。 今回も引き続き浄土真宗の教えについての質問です。 昨日文法様に教えて頂き、私というものがいかに自我という錯覚に踊らされ執着し、分別に苦しめられているのかという事がわかりました。仰る通り自分にとって都合の良い物は欲しいし悪い物は遠ざけたい。 そしてこの道理を知った所で「はい、そうですか。では自我の錯覚を見破りますね。」と簡単にはできそうもありません。 吉武文法様の御回答より引用 〉煩悩を煩悩と知るところに、煩悩の身のままでも煩悩を引き受け、煩悩を活かしていける道が開けれるという救いです。 1、この煩悩を活かしていける道というのは具体的にどういう事でしょうか? 「道理としては病む。でも病気になりたくない。これは煩悩だ。でも何とかしたい!病気になっても治せる様に医者になろう!」という様な事でしょうか? 病む事に変わりはないけれど、少し安心し救われる。安心して迷っている。という様な。 〉これは味わいが強い表現ですが「安心して迷っていける、悩み苦しみ切っていける」とも言われます。 2、ここも具体的に文法様の例えやすい物で構いませんので何かに例えて教えて頂けないでしょうか? 本当は正確には言葉にできない所の様な気がしますし、もしかするとすべきではない様な気もしますが「安心して迷う」という一見矛盾している様なこの表現や「悩み苦しみ切る」という一見普通に過ごす以上に辛そうに見えるこの表現に文法様が込められた真意に触れさせて頂きたいのです。 文字数の関係がありましたら、2の方の質問を優先して御回答下されば幸いです。どうぞよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 61
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幸せな中で、自分は何者なのかと漠然と考えてしまいます。

おかしな話ですが、幸せな分自分が何故生きてゆくのかわからなくなりました。 実親はアルコール依存症が原因で離婚し、もう10年以上会っていません。会いたいとも思いません。 私の方の事情を受け止め、結婚した夫と子供がいます。 幸せです。 過去に色々あったけど、今は幸せ。本当に実感しています。 壊れた家庭に育った分、今築いている家庭が一番大事です。 でも、ふと思うのです。 もし夫と子供がいなくても、私自身は生きて行く訳で、私自身はどんな生き方をする人間なのかな、と。 妻であり母である自分の一部を取り除いたら、棉ほこりやこびり付いて乾燥したヘドロのような、つまらない過去の記憶しかない、つまらない人間のような気がします。 自分の個性を失っているような、自分自身の輪郭がぼやけているような漠然とした疑問が付いて回っています。 夫と子供の為に生きているからいいじゃないか、というのは模範解答のような気もしますが、私自身を捉えなおしたいという気持ちがあります。自分は何者なのかと漠然と考えてしまいます。 これは煩悩なのでしょうか。幸せにうもれで没個性になっているような感じです。何かお言葉をいただけたらありがたいです。

有り難し有り難し 40
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差別とか叩きとか軽視とかそういうの、どうなんだ?

最近、特定の性別や人種、特徴などを否定する風潮が広まってきているような気がします。 人種に関するヘイトスピーチのデモやその類の出版物はもちろん、ネットでの”○○叩き”もひどいものです。テレビでも「これだから○○は〜」みたいなネタで溢れていて、疑問を感じます。 以下はあくまで私の意見なのですが…。 人には確かに、男とか女とか国籍とか、区別があり、生まれつきどこかの集団に属しています。でも結局は一個人であって、○○だからこうだ!というのは無いと思うのです。 性格などの違いから、あの人は嫌だ、と思うことはまだ納得ができます。でも、あの人が嫌だからあの人の属している集団もみんなそうなんだ、となり、それを叩く理由がわかりません。しかし、世の中にはこういうことを言っている人がたくさんいます。 そう言っている人にもその人なりの考え方があって、それ自体を否定したいわけではありません。 誰が加害者で誰が被害者か、なんてことがよく分からずもつれあい、表現や思想がより過激になってしまう事が恐ろしいのです。 意見を主張することは、素晴らしいことです。しかし、主観だけの暴力的な考え方が、結果的に多くの人を傷つけてしまうのを見るのは、私はもう嫌になってしまいます。 この世の中において、お互いを個人として受け入れ尊重する人が増え、冷静な主張や討論をしてほしいと思います。 わかりにくいことをずらずらと書いてしまい、申し訳ありませんでした。私の意見の中でそれは違うのではないか、という部分があれば遠慮なくおっしゃってください。 最後に質問です。 お坊さんは、最近のこういった風潮に関してどう思いますか? また、これから未来を背負って立つ私たち学生は、何をしていけば良いと思いますか? よろしければ、回答やアドバイスをお願い致します。

有り難し有り難し 36
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