私はどこの宗派に属しているわけでもありませんが、色々な書物を読むことが好きで、高校大学がカトリック系列であったため、聖書やキリスト教関係のものも少し読みました。祖父母は浄土真宗なので、般若心経も小さい頃から暗記するくらい読んで唱えて、大学院では国文学としての密教も少し学びました。どの教えも尊く、かつ興味深いのですが、中でもキリスト教の教えに「思うだけでも罪である」というのがありました。ここでの「思う」は、悪いこと、憎しみを思うことを指します。 確かに、「思う」だけで心におさめられることもありますが、「思」へば、それを実行してやろう(例えば、機会があったら悪口を言ってやろうとか。)という気にもなります。仏教(宗派は忘れてしまいました)にも似たような教えがあって、「良いことも悪いことも、思えばエネルギーがそちらに動いて、そのとおりに物事が進むようになる」とも。 ですので、何かマイナスの考えが浮かぶと「あー、ダメダメ。そういうこと思うのやめよ」と、なるべく自分に言い聞かせますが、なかなか思考はコントロールできないですよね。やはり、悪く思ってしまうこともあります。お坊様方は、自身の心の在り方を、どのように受け止めていらっしゃるのか、修行などによって、我々凡人よりも少し克服できるものなのか、伺ってみたいと思いました。
カトリックのクリスチャンですが、神父さんに相談しても一向に解決しないので、こちらにお縋りしています。 数年前に偉人のヒルティと言う人の幸福論と言う著作を読んで心酔しました。何度も繰り返し読みました。確かに良い事も書いてあったのですが、書物や人との出会いは導き、と書いてあったりして、当時の私は私の知らない宗教の神秘かと思い、信じてしまいました。当時出会った女性が自分のタイプでは無かったにも関わらず、運命の人だと信じて結婚しました。直ぐに苦しくなって耐えられない位になり、やむ無く別れをお願いして離婚しました。彼女は号泣して私の胸も引き裂かれる様でした。 以来6年余りが経過しますが、未だ神に逆らって離婚したと言う気持ちが無くなりません。どうして神はこんな事をしたのだろうと答えの出ない問いを続けて苦しんでいます。でも神を信じているから、答えが欲しくて。神父さんにも相談してみましたが、キリスト教も誤った解釈があるとかとは、絶対に言われないので、一向に楽になりません。地獄を彷徨っています。神が何故不幸になる様な事に導いたのかなぁ。どうか宜しくお願い申し上げます。死にたい位辛くてなりません。涙
お忙しいところ、すみません。 自分の考えが行き詰まってしまい、他の方からの意見を仰ぎたく、質問します。 いつも、幸せそうにしてる人を見ると苦しくなったり、仲の良さそうな家族を見ると羨ましくなったりします。 自分の持ってないものを持ってる人を羨むのは泥棒だと、以前、どこかの掲示板で見ました。 その通りだと思うので、改善したいです。 でも、そのためにいろいろなことをするのですが、またおなじところに戻ってしまい、苦しみます。 よい改善方法を教えていただけないでしょうか?
スターデイリーのようにキリストに愛の眼差しを受け生まれ変わった方がいる、天使に会い病気の治った人がいる。一方真逆の方もいる。個人個人差があるのはなぜか?お寺にはよくネコがいます。ネコは魔を追い払うのか?うちのニャーは可愛いくて追っ払らわないみたい。私はお化けをみるので。閉塞感閉塞感狭い閉塞感は社会に染みついてる。笑顔をむけて笑顔をむけてまず笑顔をむけてみて、一人から私から楽になろう。眠れない夜中はお坊さんはお経をあげますか?ほんとの朝は4時でしょうか?。私にとって母は天女父はお地蔵様です。幸せは素直に今の環境を受け入れて喜ぶことだと思います。振り返るとできてなかった。今もそんな私もまっいっかとそうしないと歩けない。自分の足下は見えにくい。ネコは膝に乗ってきて可愛い。自分にしてほしくないことを人にするな。戦争始めなくてよいです。習った事がないのがな。痛々しいのをニュース当たり前に流れている観点がズレてます。利益損得は度外視して痛みを分かち合いましょうよ。同じ人間でしょ。どうしたの?私もフラットにいれるときもあり、いれないときもありますね。フラットにいれないときに安心して任せることはなかなかないです。こないだコンビニに行って買い物をするときレジの方がぜんぶしてくれた。ブツブツ言われていたのに愛で支え受けてくれたと思いました。そんなこんなのまいにちです。いまの文章明るい。いまフラットになってる証拠。福祉仏教に助けられると思います。ネコちゃん犬たちもありがとうね(=^_^=)🐺。
両親は仲が悪かったのですが、母親は教育熱心で、私と姉の教育費のために離婚せず、私が生まれた後から、家庭内相手別居でした。理由は分かりませんが、父親は姉を可愛がり、私が生まれた時から私をいじめました。小学校に入った時に、私は姉ほどの学力が無いということも分かり、母親も姉の方を可愛がるようになりました。母親はキリスト教の信仰を持っていたので、姉をキリスト教の聖人に例えたりしていましたが、どこかで、私の事を「悪人」と信じるようになりました。思春期以降は父親からの激しい性虐待を受けるようになりました。現在、両親は仲直りし、反省はしてくれていますが、今でも私はフラッシュバックで苦しんでいます。看護学校の勉強に手がつかず、PTSDの症状もでてくるので、実家を出て看護学校の近くに引っ越しました。それでも、フラッシュバックが止まらず。母親を見捨てたのではないかという罪悪感もあり、勉強が出来なかったです。一昨日、観音様が夢に出てきて、「怠らず努力し続ければ、夢は叶います」とおっしゃりました。それから急に少し勉強が出来るようになりました。父親の顔が脳裏に浮かぶ時にそれを消せるように、勉強机の上に仏像の写真を飾って頑張っています。休みの日に母親から禁止されていたお寺にお参りしたりも始めました。中古ですが仏像を部屋に置きました。お寺浄土宗とか浄土真宗に入りたいし、今、仏教の本も読み始めてるのですが、仏教のお祈りの仕方やお教、大まかな考え方、仏様についての知識が知りたいです。
私は、20年ほどの実家での動労をしたものの、他で雇用されて3日もつづきません。それは、精神病によるもだと思われる、怪異で苦しめられており、現在もそうです。宗教家と話したこともありますが、キリスト教者であり、罪によるもの、サタンによるものとの簡単な話で、それから解放されるように祈られました。もっとも、いやなことは、怪異のことなのですが、幼いころより、ますますメディアの、観察保護下であり、取り巻く状況を取りざたされるという事です。端的にいうと、特に犯罪をしたわけでもないのに、条約規範的には、大いに破れましたが、怒鳴り声など。地獄でした。最近、般若信教の本を読むようになり、ご縁があった、お寺へ、地蔵様に家族で祈り、早朝、香をたき、勤行をしています。 ただ、家族のかかわりと世間の間の私、というものが、もう嫌になり、つまりマスメディアで取りざたされているオーバーな自らを、そのように受け止めるという家族が嫌になり、ずいぶん責めましたが、結局、出ていくにも、行くところがなく、生活保護を検討中です。またはじめて、入院を考えています。 私、事態経歴的には非常にはかなく、大学まで進学したものの、すべて中退です。 くだくだと失礼しました。せめて、怪異が離れ何とか生きれればなあ、と切に祈っております。アドバイスをいただければ幸いです。よろしくおねがいいたします。
先日、職場の、大して仲の良くない人から『帰りにお茶していこう』と誘われました。 そして行くと、『友達も一緒でいい?』と言われ、その人のお友達も現れ、暫く職場の話をしていましたが、急に話が変わり、某宗教団体の勧誘話になりました。 まさかそんな話になるとは思ってなかったので、本当に驚きました。 ここに質問しておいてなんですが、私は無神論者です。 仏教だろうと、キリスト教だろうと何だろうと、信じていません。 日本には宗教の自由があります。誰が何を信じていようと勝手ですが、関係ない私まで巻き込もうとしないで欲しいです。 その勧誘はきっぱりお断りしましたが、関係ない人まで巻き込んで、そういう人たちは恥ずかしくないのでしょうか? 思い出す度にムカムカと怒りがこみ上げてきます。 結局は、宗教は、お金が目的なんでしょう? そうやって人を騙して入信させて、いずれはお金をむしり取る。 それが目的ですよね。 私を勧誘してきた人たちは末端の信者で、その人たちも騙された哀れな人たちなんでしょうけど、同情はしません。 今後もそういう勧誘があった場合、一番ベストな断り方はないものでしょうか? ちなみに私が今回断った文句は『私は無神論者。2度と私に関わらないで、話しかけないで下さい』です。 これより良い断り方があったら教えて下さい。 宜しくお願い致します。
6年以上前にヒルティの幸福論という世界的名著の本を読んで感銘を受けました。只その中には、科学的でない事、非論理的な事も書いてありました。神を信ずる気持ちが高まった私はそれを信じてしまいました。書物や人との出会いは神の導き、といった様な事を。 当時出会って、神が遣わした結婚すべき人、と思った女性と結婚しましたが、私のタイプの方では無かったので、苦しくなり、1年で離婚。彼女が号泣するのを見て胸が張り裂けそうでした。私が自分の希望は無視して離婚を我慢していたら、彼女は悲しい思いをしなくて済んだかもしれない、苦しみに耐えきれず離婚した私は神に逆らったのかも知れない、と思うようになりました。神に逆らう様な離婚、という事をしたから、彼女は嘆き悲しんだし、自分も辛い思いをするのかと。 辛いので、神に祈ろうとするけど、祈れなくなりました。内心では、神よあんたのせいで、彼女を地獄に突き落として、私も苦しんでる、どうしてくれんの?と思っています。神を信じられなくなりました。教会も行くと辛いので全く行っていません。 でも神に救いを求めています、どうしたら良いのでしょうか?キリスト教の神父さんにも相談しましたが、解決出来ないので、質問しました。どうぞよろしくお願いします。
ハスノハで学んでおります、ありがとうございます。相談でございます実は私は3年前受洗したキリシタンです。こちらに相談したいと悩んでましたが思いきって書き込みします。プロフにも詳細書きましたが有難い事に仏縁に恵まれ仏教も勉強しており仏様、法、お坊様とても尊敬しています。またマザー・テレサが『異教徒たち。彼らを尊敬しなさい』との言葉があり勉強しています。 尼さんの著作を読み愛欲、渇愛・慈悲を学びました。私は結婚する約束をしていた恋人に捨てられ、その後違う男に連続でデートDVを2回受けたり、それ以外でも他人の色恋沙汰に巻き込まれいじめにあったりしました。それから働けないくらい治らない病気になり自殺未遂、これではよくないと『恋愛という愛欲や渇愛・性愛ではなく、慈悲深い、無償の愛を見返りを求めない愛を学びたい』と考え教会に通いだしました。 そこで年下の男性がいて最初はとても親切にキリスト教関連の聖品をくださりキリスト教系の本を貸してくださりました。最初は『熱心に指導してくださって、私もあんな風に新しく来た人に親切にしたいな』と感心しておりました。しかし時間が経つと妙なのです。急にちゃん付けで呼び敬語で話さず私の座る席に本を勝手に置き貸してあげると言ったりとにかく贈り物も過剰になり、以前霊の話をしたら彼はオカルト趣味だったらしくオカルト趣味まで押しつけられそうになり何か嫌な予感がし、避けていましたが3ヶ月前ミサ後に神父さまに呼び出され『彼から申し出が。結婚を前提に付き合ってくれと』と言われました。ショックでした。前述どおり私が一番触って欲しくない地雷だったので。仏教の本で読みましたが愛と愛欲は違うと。『自分が好きになったから、あなたも自分を好きになって頂戴』と言われた気分になり愛欲だと思いました。よりによって無償の愛を説く教会でそんな事があり、お釈迦様は愛欲に関してかなり厳しくおっしゃられていたと聞き、イエスも性愛と無償の愛は違うと聖書の中よく説教していただけに『あなた今まで何学んでいたの』と憤ってしまいました。あれからショック悲しみ憤りと気まずさで教会に3か月行ってません。私は病気で中々外出するのが難しく体に無理をして教会に通っていましたが今は家か通院、福祉センター以外は引きこもり。体調面で家にいるしかないので悩みが渦巻いて困っています。お坊様ヒントをください。お願いします。
友人の祖母が認知症になりました。 小さい頃、何度もお会いしたことがありますが、とても快活な気持ちの良いお婆ちゃんでした。 なのに、今は友人を財布の金を盗む泥棒と呼び、暴れるのだそうです。 お婆ちゃんっ子だった友人から笑顔が消え、愚痴が増えました。 その愚痴を聞くたびに私は「お婆ちゃんが早く死んだらいいのに」と考えてしまいます。 お婆ちゃんに恨みは全くありません。 しかし、友人の中の大好きなお婆ちゃん像が崩れていくの事にやるせない思いでいっぱいです。 この様な考えが頭をよぎる私は心がねじ曲がっているのでしょうか? 自分は認知症になる前にどんな方法でもいいから死を選びたいと本気で考えています。 家族に迷惑をかけたくないという気持ちと自分の尊厳を守りたいという気持ちからです。 (死ぬ事で家族に迷惑がかかるという意見がありますが、それを承知の上での考えです。) 自分が老人になる頃には安楽死制度が充実していて楽に死ねたら良いのにと考えているのですが、この様に考える事は人の道に反している思想なのかもしれません。 キリスト教においては自殺はとにかくNGですが、生が延びきっている現代においてその理由がどうしても理解ができません。 仏教に従事する皆様は自殺や安楽死についてどの様にお考えなのでしょうか?
私は虫が生理的にどうしても苦手です。しかし、人間の技術では蟻一匹も造れないという事を考えると、自然の驚異を感じます。そして、虫さんもすごいよね、尊い命だね、と自分に言い聞かせて、何とか恐怖心を和らげるようにしたりもします。それでも虫恐怖症は克服できませんが^^;、、、。 45億年前にはこの世が太陽と塵だけだった、というような話を聞いた事があります。私には科学的な知識が無く、創造論や進化論についてもよく分かりませんが、とにかく何かしらの大きな力の導きが無ければ、たとえ45億年たったとしても、今のような地球や植物、動物、人間は生まれていなかっただろう、と思いました。私のような考えを持つ人は多いような気がします。 このような考えを持ったのはカトリック系の大学に通っていた頃、神父様のお話に影響を受けたというのもあります。私はクリスチャンでもないし、キリスト教でいうような唯一の創造主=神が存在するだろう、と考えているわけではありません。しかし、唯一ではなく複数だとしても、この世にはなにかしらの人知を超える大きな意志が存在して自然をつかさどり、その大きな意志が地球やそこに住む生物を作り上げたのではないだろうか、と漠然と思っています。だから八百万の神というのもなんとなくしっくりきます。 仏教では創造主の存在は説いていないと聞いたことがあります。しかし、宇宙と地球、そしてそこに息づくあらゆる生物が生まれるように導いた存在について、仏教でも何らかの解釈がされているのかどうか、知りたいです。もしくは、皆様はどのようにお考えでしょうか?
今までの質問や他の方との問答で、個人的な悩みについて色々助けていただきました。ありがとうございます。 社会的に気になることについても、ここでお尋ねできるでしょうか。 貯金のおぼつかない生活をする中で、もし仕事が途切れて家賃も通信費も払えず情報も頼れる先も見つからなくなったような時、役所でも「まだ働ける可能性がある」「血縁者が存命」などで生活保護が受けられず追い払われてしまった時、行き当たったお寺で助けを求めることはできるのだろうかと疑問を持ちました。考えてみれば、ホームレスのような方をお寺で見かけたことはないように思います。 キリスト教の団体では募金や炊き出しをしているのを知っていますが、仏教ではあまり目につきません。 一部、セーフティネットとなるべく取り組んでおられるところもあるようですが、ネットで名前があがるのは一部の意識の高いお寺の個別の取り組みのように見えます。 歳末ですが、越年、越冬が難しいような方にいま頼られたら、お寺の皆さんはどのように対応なさいますか。 個々のお寺でなくても、困窮した人を現実的に助けているような場所、団体を紹介なさったりすることはあるのでしょうか。 せっかく公開の質問ですから、私だけでなく、今ネットは見られるにしてもいつ厳しい状況になるかわからないような人みんなのためと思ってお答えをいただければと思います。 これは厄介な質問と思われるかもしれませんが、よろしくお願いします。
生まれた家のまわりに、警察官、消防士、自衛官等の公安職の方々の家が多い街で生まれ育ちました。私の父と母は今は反省してくれていますが。昔は優しくなかったです。子供の頃、公安職の方々は、自分を守ってくれる唯一の存在でした。それが原因で、子供時代は公安職の方々に自分を我が子のように守ってくもらいたかったです。公安職の方々のご家族がら、そこのご主人やお父さんの職業をお聞きする事が、物心つく頃から、非常に多く、本当に悲しかっです。子供の頃ですので、公安職の方々は、ウルトラマンや仮面ライダーみたいに、何処かから来て自分を守ってくれるヒーローであると思い込みたかったです。本当に辛かったです。母の影響で、キリスト教の教会に通っていましたが、牧師さんが「神様は私達を、平等に愛している。守ってくれる。」と言われるのが辛かったです。お葬式の時に、来られたお坊さんが「仏様が見守ってくれる。」とおっしゃっるのですが、なんとも言いようがないくらい辛かったです。お坊さんは優しそうだったので、私をかわいそうだと思って、慰めてくれてるだけだと思いました。大人になったら、今度は自分が自分のような子供を守るんだと言い聞かせて、どんな時も耐えて、大人になりましたが、夢は叶いませんでした。仏教を信じたいですが、「でもな。」と信じきれないです。どうしたら、仏教を信じられますか?私の今の夢は新天地として東京で暮らすことです。
よろしければ皆様の意見をお聞かせください。 仏教は向上心を否定するか。 向上心とは現状に満足せず、さらに高い目標を目指す心の有り様を表す言葉です。 向上心は現代社会で広く受け入れられ、むしろ向上心が無いことは悪い事という風潮すらあります。 私は向上心の動機として、欲と執着は不可欠だと感じます。 小欲知足を基本とする仏教において、向上心は否定されるでしょうか。 否定される、と言うのが私の考えです。 現代社会は、キリスト教等の禁欲思想を否定し、 欲望を肯定し、それを達成する事で発展してきたように感じます。 ゆえに、欲望を受け入れ自らを切磋琢磨する向上心は、社会の発展に有意義なために広く受け入れられていると考えます。 人の無限の欲望をエネルギー源としている現代社会は、仏教思想と相容れない部分があると思います。 よって、仏教は向上心を否定すると考えます。 皆様はどのようにお考えでしょうか。また、お弟子さんやお子さん等、身の回りの方に向上心が見られない場合、どのように指導する(あるいは指導しない)か教えていただけると助かります。
むやみに命あるものを殺すことは良くないというのはわかっているつもりですが、ゴキブリや蟻などの虫に関しては、もし家の中に巣があれば、巣ごと無くなってほしいので、薬などを撒いてしまいます。 ただ、子供に、人間たちが不快だという理由で虫を殺してしまっている現実と、その一方で人や動物を殺してはいけないことを教えるのにはどのように伝えればよいのかなと考えました。
突然の質問申し訳ありません。 最近、私は失敗ばかりをしてしまい、なんて自分は惨めなんだ、出来の悪いやつなのだと思います。 昔から、そのような事を他人に打ち明けたいと思っても、こんな陰気臭い話、誰が聞いてて心地がいいだろうか、相手が嫌な思いをするだけだと思い、出来ません。 そして、そんな感情たちが心の中に積もりに積もって、もう消えて無くなってしまいたいと思うようになりました。 しかし、自殺をするとなると周りの方に多大なるご迷惑がかかってしまうと思い出来ません。家族、友人、サークルの先輩方、他にもアパートの隣の人なども私が死ぬ事によって良い印象は与えず、嫌な思いをしてしまうでしょう。 しかしもう、気持ちが明日へ向けなくなってきているのです。何を楽しみにしたらいいのか、何を希望にしたらいいのか、私にはもう分かりません。 キリスト教では、自殺はダメなことでが、仏教ではどうでしょうか。自殺しても天国へ行けるでしょうか。 ですが、こんな質問をしても明日は変わらないし、状況が良くなることはないとわかっているのです。本当に自分は弱いと思います。他人に縋ることしか出来ないのです。 最後にこんな質問をしてしまい申し訳ありません。また、文章も拙いので読みにくいと思います。本当に申し訳ありません。
仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?
職場の先輩が過去の自分の感情や経験を対人において説教し、悪者に仕立て上げ、高みにいこうとします。 相手のほうが知識も対人関係も良い形で積み上げていても全否定です。 横取りして蹴落とそうとします。 みんな前の人との続きだから入れ替えられてめんどくさいし リセットして始めるのに必要なのが祈りや題目や念仏や真言になるのかなって思いました。 話せる場所があって受けいれてくれる場所があって自己受容があると思いました。 介護施設で働いていますが、お年寄りは介護職員を観察されて自己再生されている。介護職員との人間関係の構築を自己再生の方法とされている。 私は心理学や真理を学び 日蓮聖人や念仏やキリストを考えることで自分や相手の不浄をリセットして正しい方法で自分との関係をつくろうとして、嫌な相手も自分の一部に入り込んでいることに気付く。 闘いモードで食ってかかってくる奴ら 信仰が癒されるものとして求めてみたけど 信仰ある人は、大変だけど永遠の成長ある人なのだと思いました。 慈悲を感じ、自己受容できて真理に気付き、また正しく自己受容するときに葛藤があり成長がある と 書いてる間に気付けました。 職場の先輩のことも成長過程なのだと思って理解して私の成長としたいと思いました。 ありがとうございました
先日、NHKで『戦禍のなかの僧侶たち〜浄土真宗本願寺派と戦争〜』という番組が放映されていました。 日中戦争、太平洋戦争の戦時下の動員に仏教自らも(当番組では対象を同派としていましたが、国民総動員法の元ですので宗派に関係はないと思います)戦争に加担してしまった、その実態を取材した内容でした。 77年前のはいえ、生々しい出来事の記憶です。 一方、日本史という仏教が伝来し、今日に至るまでの長い目で見たとき、お坊さんはある時、僧「兵」でもありました。また、信仰のため、民衆のため、中々アグレッシブな姿になる事もあったと思います。 私は、仏教については高校の教科書程度の知識しか持っていませんが、印象としては「穏やかな宗教」といったものです。 例えば、キリスト教やイスラームには「聖戦」という教義がありますよね。 では、仏教ないし仏教徒が「戦う」とき、戦いを「是」とする考え方はあるのでしょうか? もちろん、それぞれの事象の背景には「そうなる経緯」があります。ですので、一概には言えないと思いますが、こんな考え方、こんな教義があるというものがあれば、宗派関係なくご教示願いたいです。 あと、これは愚痴?ですが、いつも戦時下の鉄の供出にはがっかりします…お寺さんの鐘もさぞかし由緒があったろうに…。 お忙しい中とは思いますが、ご回答をよろしくお願い致します。
こんにちは。バイオリンを習っている高校2年生の者です。私は親に呆れられるほどのクラシック音楽オタクで、いつもクラシックのことしか考えていないと言っても過言ではないくらいクラシックが大好きです。 しかし、私にはどうしても分からないことがあります。音楽に命はあるのでしょうか?人の奏でる音、楽譜、楽器、それら全てに魂が篭っているのでしょうか? ご回答お待ちしております。