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hasunoha 問答検索結果 : 「私 死 死にたい」
検索結果: 3123件

生きたい

こんにちは。よくある質問ですみません。 長いこと死にたいという気持ちがなくなりません。 長い間、死にたいと思っているせいか、死ぬことへのハードルが年々下がっています。 死ぬことはいつでもできるから、とりあえず現状維持しようと思っていても、死ぬことへの欲求に負けそうになります。 私の調べですが、気楽に自殺するのに必要な金額は3万円です。 「月3万は自分の好きなことに使う。生きるためにお金を使ったのだから今月は生きよう。」という消極的な生き方をしています。 大抵嫌なことがあるから、しんどいことがあるから、自分が恥ずかしいからなど、死にたい理由は私自身の中に、私自身の弱さによると思います。 今回は、バイト先からもう信用できませんと言われたからです。 もともとしたくない苦手な仕事です。断れない状況だったので仕方なく引き受けました。 正直、最初から信用してくれてない感じがあって辛かったけれども、やれるだけやりました。 でもダメでした。 バイトもうやめればいいじゃんと自分でも思います。 死ぬこと以外の解決方法はいつだってあります。 でも、死ぬことへのハードルの低さが、今後も色んな問題がでてくるんだから死ぬのもいいんじゃない?と囁いてきます。 自分自身が死にたいという気持ちを否定してしまいたいわけじゃありません。これはたぶんどうしようもないからです。 実際に死んでしまおうとするのをなんとか止めたいんです。 私自身、死にたいのと同じくらい本当は生きたいのだと思います。 どうしたら、苦しくても死ぬことへ逃げずに生きられますか。 教えてください。

有り難し有り難し 9
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2023/09/22

今を生きる=悩む暇がないこと?

以前より、死の恐怖についてご相談させていただいております。いつもありがとうございます。 今年から仕事をはじめ、毎日必死に慣れない仕事をこなしています。以前と違って少なくなった休日は、友人との交友や趣味を詰め込んでいます。 そのような生活をしばらく続けていましたら、以前悩んでいた「死の恐怖」について悩む物理的な時間が殆どなくなっている事に気が付きました。 しかし、死の恐怖がなくなった訳ではなく、今でも偶に恐怖で叫び出してしまう事はありますし、将来のこと(今後のキャリアやライフプラン)について考える時にも、「死ぬ時、恐怖に震えながら死ぬのだろう」ととても悲しく、またとても恐ろしくなります。 これは、「今を生きている」のでしょうか?確かに、目の前のことに必死で、死について考える時間がないので精神は健全です。以前より充実していると思います。 ですが、人生の本質のようなものを蔑ろにしている気もします。今の生活はなんとなく、さまざまな問題から逃げている現実逃避のように感じます。人生は死からの逃避、という言葉をどこかでみました。私の人生は今、逃避なのでしょうか。 そこで、「今を生きること」と「現実逃避」の違い、「今を生きること」と「何かに夢中になり、悩む余裕がない」ことの違いが知りたいです。 また私の今の様な生活は、仏教やお坊さんのお考えからはどのように思われますか? 死に怯えるだけだった過去から、今の生活になったことは進歩でしょうか?これは、私の望む「死は悪くない、怖くないと安心して死ぬこと」に近付いていますでしょうか? お忙しいところ恐れ入りますが、知恵をお貸しいただけますと幸いです。よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

今年で最後と思います。

はじめまして。質問というより悩みについてです。 私は普通に生きている人間です。 要領が悪く仕事でも迷惑をかけっぱなしで全く上手く行かずミスばかりで呆れられています。 プライベートの人間関係も上手く行かず迷惑をかけてしまい距離を取られてしまうことがあります。 不器用でそれでいて感情のコントロールが難しく 生きづらく自分を責めて生きています。 ふと今年の春頃、殆ど最近です。 「今年のうちに死ななくちゃな」と 思いました。 本当にふとご飯のメニューを決めるかのようにそんな考えが浮かんでその思考にとらわれる形になり今年のうちに死のうと考えています。 嬉しいことも楽しいこともあります。 ただ自分がこうして存在してることが何より辛いし、いけない事で、義務的に死ななくてはと思います。 正直な話、死ぬことは恐ろしいです。 死んで救われるとも思いません。 ただ死ななくてはならないと強く思うんです。 今年中できればもう少し早く。 今年に出来る予定はなるべく無理でも入れました。来年の話ははぐらかしています。 なんだかそうしなきゃならない気がするからです。 今までの人生トータル的にはとても辛い事が多かったです。でも楽しい事もありました。 ですがもう今年のうちに決めてしまわないとならないと思ってます。 あわよくば死ねたらと毎日過ごしています。 自分のこの思考は正しいとは思えないのに死を思いながら生きています。 死ななくてはならないという事は運命なのでしょうか。好転して生きたいと思った時それは私自身を裏切ってしまう気がして怖いのです。 この思考を、捻じ曲げてやる事は出来るのでしょうか。遠ざけてやる事は出来るでしょうか。 長くなりましてすいません。 質問をさせていただきありがとうございます。

有り難し有り難し 51
回答数回答 3
2022/12/01

自殺以外の選択肢が思い付きません

お世話になります。2年半ほど前にコロナ禍で生きがいを失い、悩み相談させて頂きました。その時に頂いたご助言のおかげもありなんとか生きながらえています。 しかしながら、タイトルにもある通り以下のようなことから希死念慮が絶えず付き纏っています。 まず仕事面については今年色々と行き詰まりがあり数ヶ月の休職をしてしまいました。今は復帰していますがリハビリと言うこともあり給料に見合わない(不当に高く払われすぎだろうと思われるような)単純作業をする日々です。周りの同世代や下の世代がどんどん仕事を覚えてキャリアを進める中で自分1人が無様な状況。転職しようにもこんな奴が箸にも棒にもかかるとは思えず。30になるので第二新卒もない。情けない状況です。 次にプライベート。当方男ですが、周りの同世代は上記の仕事面だけでなく恋人がいたり結婚したり子供を授かったりとプライベートにおいても充実させてます。それに比べて自分は未だ一人で仕事は上記のざまで、趣味も1人でライブやスポーツ観戦をするもコロナ規制や同じ場所にカップルで来てる人を指を咥えて眺め悶々とする日々。 そしてコロナ禍に対する不満。前回質問時もお話ししましたが、日本だけが一向にコロナ規制が終わらず、ライブやスポーツ観戦も思ったように楽しめない日々。まして今はカタールW杯でマスクなしの声出し応援をしてる風景を見て余計に悶々とします。「うちはうちよそはよそ」と言われても現状を正当化したいだけの屁理屈にしか聞こえません。 上記の通り仕事やプライベートで一向に思ったような改善や向上が見られない、そしてその原因は自分にある。 どんなに嘆いても社会や世の中は変わってはくれません。分かってます。どんなにコロナ規制の不満を嘆いても変わらない。だったら自分が良くなるように変わるしかない。でもそれも出来てない。なら自殺以外に選択肢がないですよね。弱者男性という言葉がネットで流行ってますがまさに私のことです。ネット曰く私のような人間は安楽死で淘汰されるべきだそうで是非そうしてもらいたいです(笑) ならさっさと死ねよに対して返す言葉もありません。慰めが欲しくて書いてるのでもないです。死にたいなら死ねも大歓迎です。最後は取り止めもなく気持ちを書かせて頂きました。 要は死ぬ勇気と生きる希望のどちらかが欲しいと言う悩みです。申し訳ありません。

有り難し有り難し 15
回答数回答 1

亡くなった犬への後悔

正直な所、私が殺してしまったようなものです。 幼い頃から犬が欲しくて、小学生の頃にようやく飼うことができました。 犬がシニアになった頃から大きな病気をいくつも患うようになり、この子の為になるように勉強し、動物病院に勤めました。 犬の体調が悪い時は同伴出勤し、入院した時も長く一緒にいられるように8時に出勤・22時過ぎに帰宅したり、特別に医療機器を持ち帰り自宅でも治療をしておりました。 ですが、勤務先でなくかかりつけ病院で大手術を受け見た目が大きく変わった為、職場の方に根掘り葉掘り聞かれるのが嫌で、その後同伴出勤することはなくなりました。 1番苦しいのはこの子なのに、向き合うのが嫌で家に帰るのが辛くなり、夜遅くまで帰らなかった時期もありました。 ある日の朝、犬の食欲が無く体調が悪そうだったのですが、仕事から帰宅後の様子次第でかかりつけ病院へ行こう考えておりました。 深刻さは理解しておりましたが、今までも何度かあったしきっと大丈夫だと思い出勤しました。 この時に職場の人の目を気にせず同伴出勤するべきだったと後悔しています。 まもなく定時になるという頃に、家から職場に連絡が入り、犬が亡くなっていたと知らされました。 家族は仕事や学校でしたので、犬は最後の瞬間もひとりでした。 家には粗相の跡があり、体も汚れ食餌もできていない状態。 孤独で苦痛に耐えていたのかと思うと苦しい気持ちになります。 家族が帰宅し犬を見つけた時、最後の力を振り絞ったのか、一声だけ鳴いたとのことです。 私は連絡を受けた後直ぐに帰宅しましたが、最後の瞬間に立ち会うことはできませんでした。 死後硬直しかけている少し温かい感触を覚えています。 やりたいことを全て楽しんでから後を追おうと考えていましたが、来年も花火を見たいなど欲が出てしまい、後を追うことをやめ数年が経ちました。 ここまて長々と書き連ねましたが、結局は「私はこれだけ頑張った」とアピールしたいだけ。 誰かに「あなたのせいじゃない」と言って欲しいだけなのかと思います。 最愛の愛犬を殺しておいて、自分だけ救われたいだけです。 犬の死にどう向き合い、自分の気持ちにどう折り合いをつけるのが正解なのでしょうか。 いつか、また犬を飼うことは許されるのでしょうか。 貴重な時間を割き、最後までお読み下さいましてありがとうございました。

有り難し有り難し 34
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2022/03/14

命に対するジレンマ、疑問

看護師をしています。 私は病院で働く中で多くの患者様を見てきました。軽症から重症まで。若い人から超高齢者まで。 その中で、看護師として働くことを諦めるような悩みを抱えました。 ご高齢の方や終末期の方は、死への恐怖というより現在ある痛みや苦しみ、排泄など恥ずかしい部分を他人に見られる羞恥心などから、もう楽にしてくれという方が多くいました。殺してくれとも。 命を救う側の私たちは、目の前の命を救うという責任があります。見捨てることはできません。 しかし、それでも何度も何度も楽になりたい、あちらの世界に生きたい、今自分の意思で生きているのではなく他者に生かされてるだけだと、涙ながらに、そして時には怒りながら訴えられました。 そんな方々を多くみる中で、私は看護師として生きることを諦めないようにお話をする機会もありました。 その中で私は、ここが生き地獄だと思っている人たちを救うことが本当に人のためになるのだろうかと疑問を持ちました。 本人の意思ではないのに、多くの管で繋がれ、ベッドに縛り付けられてまで命を守ることが本当に正しいのだろうかと疑問に思いはじめました。 私はこの疑問に対する自分の中での答えが出ず、看護師を一度完全に辞めました。このような疑問を持つことは、命を救う立場の者としてあってはならないと思ったからです。 世の中には尊厳死や安楽死などの言葉が存在します。尊厳死は、延命治療を無理にせず苦痛を取り除きながら、自然に死を迎えられるようにというものですが、日本の医療の現状としてなかなか行われていないのも事実です。苦痛は痛みだけではありませんし。安楽死などもっての外です。 以上の過程があった上で相談したいことは以下の通りです。 ・生命は大切にしようとよく言われるが、そもそもその考え方はどこから生まれたのでしょうか?生き地獄だったとしても必ず守らなければならないのでしょうか? ・安楽死などの考え方について、仏教の視点からはどのような考えがあるのでしょうか? ・命の大切さという根本的なところが分からなくなっている私は医療従事者として失格でしょうか? 長文で申し訳ありません。 お時間のある際にご回答いただけると幸いです。

有り難し有り難し 30
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