もう何十回、何百回と回答されているテーマだと思いますが、相談させてください。 ここ数ヶ月の間、死が怖いという気持ちが離れず、夜も眠れないくらいです。 私は恐れているのは、死んだら無になる可能性です。 私は科学を信じている(盲信していると言ってもいいです)ので、人間とはただの物体で、感情も脳の反応だと思っています。 だから人は死んだらただの物体になると考えていて、それがたまらなく恐ろしいのです。 私は両親と暮らしていて、日々の生活に幸せを感じています。 しかし死んだら無になるとしたら、この幸せはどうなってしまうのですか? 両親が亡くなり、私も死んでしまったら、全てなかったことになってしまうのでしょうか? いずれ死んで全てを感知できなくなるのなら、この日々も無駄ということになってしまいます。 「一度きりの人生なら楽しめばいい」と思われるかもしれませんが、死んでしまえば「楽しかったな」とすら思えないのです。 それはいっそ生まれてこなかったとしても、結局は同じということになってしまうのはではないでしょうか? 全てに虚無感を感じてしまって、幸せを感じることすら怖くなっている状態です。 しかも死への恐怖は杞憂ではなく、絶対に避けられないという事実があります。 全ての先人が経験していることですが、どうやってこの恐怖と向き合ったのかがわかりません。 科学を信じている私が、今回ここに相談したのは、宗教的なものを信じたい気持ちはあるからです。 かつてお釈迦様も生老病死に悩まれていたと知りました。 その悩みから抜け出せる知恵が、仏教にあるのではないかと思ったのです。 仏教では死についてどのように考えていますか? お坊様は死を恐れていますか? その理由は何ですか? またお坊様は当然ながら仏の世界を信じていると思いますが、信じるに至った根拠や理由はありますか? 尚、両親も私も健康状態に問題はなく、死が差し迫った状態ではありません。(人生、何が起こるかわかりませんが) それでも両親との別れはいずれやって来ます。 私は自分がただの物体になるのも恐ろしいですが、両親が物体になるのはもっと恐ろしいのです。
お世話になっております。いつも温かいご回答を頂き、大変感謝しております。ありがとうございます。 今回お聞きしたいのは、「恐怖を忘れて過ごすのは良い傾向なのか?」というものです。 以前より、死の恐怖を克服する方法についてご教示頂いております。怖くなったらお念仏を唱えたり、仏教に関する本を読んだりして、少しでも悟りに近付けるよう勉強しています。 その中で、以前よりも、恐怖を感じる時間が少なくなっていると感じます。しかし、決して死が怖くないわけではなく、ただ別のことに気を取られて恐怖を忘れているだけなのです。 日々が忙しくなるとそのような「忘れている時間」が増えていくのですが、隙間の時間に死の恐怖を思い出して、絶望感に苛まれます。 そこで、 ・死の恐怖を忘れている時間は、仏教の修行的にはあって良いのか?それは、克服へと繋がっているのか? ・それとも、何度も恐怖を思い出し、その度に勉強したり念仏したり…と繰り返す方が好ましいのか? の2点について、ご教示願いたいです。 どうしても、文献に触れたり念仏を唱えたりすると、死の恐怖を連想してしまうので、精神的に疲弊してしまいます。そのため、どうでもいい娯楽で恐怖を誤魔化してしまうこともあります。 一方で、死に対する絶望感から、「早く死の恐怖を全く感じないようになりたい」と思い、つらくても修行した方が良いのか、と思うこともあります。 また一方で、自分のしたいことは「死の恐怖の克服」だけではなく、ほかの勉強や趣味にも勤しみたいので、少なくとも現状では、やることを仏門修行だけに絞るのは避けたいと思っています。 長文かつ、わかりづらい文章になってしまい、申し訳ございません。お時間ある時で構いません。ご教示頂けますと幸いです。
縁があって相談できることをありがたく思います、結婚して18年です、子供は3人、結婚して、親になってわかる、親心、子供ができて、分かる、この心、わかっている、14年前に父方のお父さん、私にとってはおじいちゃんが亡くなりこの死が、私の心を大きな傷となり、今も思い出すとおえつが出るくらい悲しみが心を支配する、身内の死がこれほど悲しくて辛いのは十分わかる、 わかっていながら、自分の子供、主人には平気で死んでしまえとか、汚い言葉、毎日のように、放つ自分、 毎日寝る前手を合わせ毎日反省、わかっているのに、なんでか、自分がすごく汚い心だから、週末はなるべく、神社や、パワースポットと言われる所へ足を運び、感謝する、お線香の匂いに癒され、嫌なこと忘れる事ができる、父が病気になり、すぐは死なないけど、死と向き合う父をみていると、さらに死に恐怖、自分も死ぬんじゃないかの恐怖、不安、でも、築地本願寺に行ったとき、お線香の匂いでその恐怖や、不安が、一気に吹き飛んだ、だから、神社、パワースポットに足を運ぶのは、感謝の為、わかっている、 長女は16歳になり、日に日に反抗がすごい、薬やお酒に、興味持ち始めて、毎日怒鳴り、死んでしまえと思います、私自身反抗期、親に対する口の利き方、ちゃんとしていたから、長女が私に対する口の利き方や、態度が、ゆるせない、尊敬や、優しさが感じられない、毎日怒鳴り、汚い言葉をぶつける、誰一人私をいたわり、優しい言葉かけてくれない、有難う、あたりまえだけど、言われたい、心と、吐き出す言葉が正反対で苦しい
最近、家族の死について考えてしまいます。 祖父母と同居しているのですが、83歳と79歳です。毎日元気に挨拶してくれてとても嬉しいのですが、彼らが死ぬと考えると辛いです。お葬式なんて考えられません。 また、親の死と自分の死も怖いです。心配しているのは、死ぬのもそうですが、死に方です。殺されたり、溺れたり、災害で死にたくないです。死は苦しいというイメージがあって、嫌だと思います。 家族に先立たれて、この世に取り残されるのが怖いです。日に日に歳をとっていく家族を見ていると、怖いです。 生まれ変わりってあるのでしょうか?死ぬ時辛いでしょうか?あの世ってありますか? 本当に怖いです、心を落ち着かせる方法などがあったら、教えてください
いつも、お世話になっております。この度もよろしくお願い致します。 主人のお父様が寝たきりになり早半年。この半年間1度も動かず、口は大きく開け閉じる事も無く、目も見開いた状態のままです。もちろんこのまま一生口から食べ物を入れる事は無いです。 会う度、人間の命、生きる力、そしてお父様を見ていると生き仏のような寝たきりですが私達の心に響く何かを感じます。時には切なく、時には泣きたく、時には力強く感じます。 しかし、最近はお父様は、はたしてこの今のご自分の状況を願っているのか?もう嫌なのでは?とても疑問に思います。話せない、動けない、食べれない、口が閉じれない、この状況を理解し生きていたいのか?側にいる人間のエゴでは?と思ってきました。 人間は、寝たきりになると何を思い、感じ考えるのでしょうか?
お世話になります。 今すぐに死にたい、ということではないのですが、 私は、かねてから「自殺してはいけない理由」が分かりません。 遺族や他人に迷惑をかけるから、というのは理解できます。 しかし、生きているほうが周りに迷惑をかけてしまう者もあると思うのです。 私は同性愛者で、家族や伴侶はおらず、 将来、いわゆる無縁死や孤独死を迎えるのは、 ほぼ間違いないと考えています。 交通事故に遭うなどすれば別ですが、 そうそう都合よく、ぽっくりとは死ねないでしょうから、 体力が衰え、あるいは何かしら病を患うようになった頃からは、 例えば地域の民生委員や、市の高齢福祉課などに、 多少なりとお世話になってしまうでしょう。 そのような方々の手を煩わせ、 また、一般の方々が収めた税金を費やすべき価値が、 私の死にあろうはずが無いのです。 さらに、私は低所得者で、蓄えもございません。 つまり、死を迎える年齢の頃には、 金は無いわ身寄りは無いわ、 ただただ扱いづらいだけの年寄りになるのは、目に見えています。 これで認知症を患おうものなら、さらに厄介な存在となるでしょう。 だから、まだ体や頭が動くうちに、 無価値な自分自身に、落とし前をつけたいと考えてきました。 こちらの相談サイトで、 自殺を肯定するアドバイスなど頂けないのだろうと思います。 では、こんなクズでも生きていかねばならない理由を、 私に教えて頂けますでしょうか。 宜しくお願いします。
いつもお世話になっております。 私は昨年まで自分の価値を見出せずに、なんとなく適当な人生を歩み、幸せも感じていませんでした。 自分だけが良ければいい。陰で様々な人の悪口を言いふらすような暮らしでした。 昨年末より自分の運命を変えられるような本を読んだり、セミナーを見て学びました。 特に信じられると感じた先生に、自分の夢を実現するカウンセリングを受けました。 周りの方への感謝、陰口を言わないように心がけました。 しかしながら、願いは叶わないどころか、運が悪くなることばかり続きました。 希望や期待を大きく持ちすぎたせいで、現在の自分との乖離が大きく、時よりこんな人生なら死んで楽になったほうが良いと考えることが多くなりました。 叶わない夢ならば期待しないほうが良いと考えているものの、一度期待してしまったものは頭から離れません。 時間はかかるかもしれませんが、もう2度と期待せずに、前の生活のように適当に生き、自分だけが良ければいい生活に戻ったほうが良いか、一度死でリセットしたほうが良いのかアドバイスをいただければと思います。
死とは苦しみからの旅たちなのですよね? 死んだら無になるのですか? 残された人は苦しみが増しますよね。 それは亡くなる人にとっても苦しみなのではないのですか? ということはやはり死ぬことは苦しいことなのではないですか?
表題の「死ぬとどうなるのか」わかった気がしてしまいます。 死んで戻ってきた人はいないのでどうなるのかわかりません。 というのが一般的な説だと思います。 しかし私は前年事故により脳に損傷をうけ、1日ごとに記憶がなくなり、さらには事故直後には赤ちゃんのようになり、1週間かけて今の年齢まで戻って行ったと聞きました。 もちろん覚えていません。 周りから聞いた話です。 この、覚えていないこと。 思い出さない。覚えない。何も無い。状態が死だと思ってしまいました。 だって科学的には死んだら脳が動かない。ということですよね。 いままでも知識や常識としては、そうである。ということを知っていましたが、今回の事故で実感を持ってそうなんだ!と信じるようになってしまいました。 何もなくなるということは底知れない闇の中に放り投げられるようで恐ろしいです。仏教のいうように、輪廻転生を信じられたらよいのに。と思います。 家族や友人には死んで無いからわかったことにはならないじゃん。 といわれます。 でも私は答えが欲しいです。 もしくは宗教を信じられたらよいのに。 と思います。
従兄弟の娘が亡くなりました。 もうすぐ2歳になる女の子でした。4歳のお兄ちゃんもいます。 明後日お葬式があるのですが、自分の息子たち(4歳男、3歳女)を参列させるべきか迷っています。 私の両親は無理に参列させなくてもいいのでは、と言っていますが、あまりに突然の死で、絶望の淵に立っているであろう当人達のことを考えると、子供達と一緒に悲しんであげたほうがいいのでは、と私は考えています。 これは私のエゴなのでしょうか?
昨年の秋頃に、NHKのドキュメンタリー『ありのままの最期 末期がんの“看取り医師”死までの450日』が放送されました。医師で僧侶の田中雅博さんが、末期がんとなり亡くなるまでを記録した番組です。 田中さんは「死ぬのは怖くない。看取った患者から死に方を学んだ。」と語っておられました。 とはいえ、現実には思い通りにはいかないこともあり、言葉を失うくらい壮絶な内容でした。 私にも一応、理想の最期のイメージはありました。誰でもいつかは死ぬのだからじたばたしても仕方ない、自分らしく生き、寿命が来たらそれはそれで受け入れるだけだなと。 でも、実際にそれを間近に感じた時には不安だらけ。じたばたしまくり。私はこんなに弱かったのかと愕然としました。 この時は単なる体調不良でしたが、現実は自分が死ぬなんてそんなに簡単に割りきれるものではないことを経験し、分からなくなりました。 「死に行く者の死に方から学べ」と田中さんはおっしゃったそうです。 “人の生き死には思い通りにはいかない。それでも、なるべく冷静に過ごすにはどうすればいいだろう” 今度は慌ててしまわないようにと、以来ずっと考えていますがまだ答えが出ていません。 お坊さんはたくさんの方の最期に向かい合っておられるので、ご自身に関しても既にイメージがあるのではないかと思います。 例えば病気で余命宣告されたとしたら、暫くの間は痛みや不安など心身の変化に耐えることになりますよね。 今回お尋ねしたいのは「最期の、耐えて待つ生き方」です。どのような心境で、どのように過ごしながらその時を迎えようと思いますか? お坊さんとして、でもいいですし、一個人としての思いがあれば教えていただきたいです。参考にします。 よろしくお願いします。
死に向かう病を患っています。あまり先は長くなさそうです。 子供達は20歳前後。親は高齢で自分が生活の面倒を見ています。 この先、病気が進行すれば子供達にも親にも悲しい思いをさせるばかり。ならば今まだ体の動くうちに死んでしまいたいという気持ちが、湧き上がってきます。その考えは逃げだということもわかっています。ただ、周りがつらい思いをするのを見るのが耐えられない気持ちなのです。また、病気が進行して苦しい思いをし、見苦しい姿を皆にさらすのも耐え難いです。 死への気持ちを止めて、前向きに死ぬまで生きるためのご助言をお願い致します。 ちなみに現状は心療内科に行っていますが、薬を処方されるだけで心のケアはしてもらえていません。主人は頼もしく励ましてくれますが、自死には大変反対しています。
はじめて質問させていただきます。 私は今年18歳になる、高校3年生の女です。 通信制高校に通っています。 ここ2、3ヶ月の悩みなのですが、私は自分や家族の死、老いに恐怖を感じています。 あるニュースを見てから、突然感じるようになりました。そのことで体調を崩し、今は心療内科に通院しています。 自分の老いへの恐怖。そして死ぬ時はどんな感じなのか、その後はどうなるのか。考えても考えても当然ですが答えは出ません。恐ろしいです。家族(特に母親)が老いていき、いつか…それを想像するだけで涙が出ます。 誰にでも来るもの。それは十分に理解しています。 だから、今を大事に生きていくしかない…ということも頭では分かっているのです。 ですが、どうしても怖くていられません。 不安でいっぱいで、ずっと体調を崩したままです。泣くことも多いです。 ずっとこの気持ちを抱えたまま生きていくのか…。 心も体も、とてもとても辛いです。 私はどうすれば良いのでしょうか?教えてください。 よろしくお願い致します。
10年前 私が20代半ばの頃です。約2年半程 交際していた方が自ら命を絶ちました。当時は 悲嘆に暮れ 絶望感と今までに経験したことのない喪失感でいっぱいでした。 私の言動や行動が 彼を追いつめたのではないかと思い自責の念にも苛まれました。 彼に対して 『何故、どうして?』という気持ちがいっぱいで溢れそうになり 時にはそれが『なぜ私をこんなに悲しませるの』と、怒りになることもありました。 彼がいなくなってからも 私の日常は変わらずにあり 泣いてばかりもいられませんでした。半年も経てば 彼がいない生活にも慣れてしまいました。亡くなってからの一年間は 周りに心配をかけまいと 必死に毎日を過ごしていたように思います。楽しいことがあれば普通に笑えたし、その一方では 死にたいと考えてしまう自分がいたり。今思えば、 常に両極端な緊張感の中にいるようでした。結果 糸がプッつり切れてしまい休職するに至りました。 『時間が経てば癒される』と よく言いますが、三回忌を過ぎた頃からは 彼がいないことに対して寂しくて泣くことは少なくなりました。あんなに毎日の様に彼のことを考えていたのに 自分のやるべきことに追われ忙しい日常にいると すっかり彼のことは忘れていましたし、それでいいのだとも思っていました。しかし そう簡単に割り切れる訳もなく、 少し疲れていたりすると 決まって彼のことを思い出しては悔やんでいる自分がいたのも確かです。 七回忌が終わった頃には 私自身も 歳を重ね 彼の自殺の原因を考えるより 彼が亡くなった意味に想いを巡らせる様になりました。 歳月が流れて 私の気持ちにも沢山の変化がありました。時間はかかってしまいましたが 私なりには彼の自死を消化してきたつもりです。しかし、10年が経とうという今でも あの当時の喪失感だけは拭えません。新しい誰かと未だに向き合えない自分がいます。 また、物にも あまり執着しないようになり、とにかく身軽でいたいと年々 思うようになりました。彼以外にも この数年に大切な家族を立て続けに亡くしたことも かなり堪えています。 すっかり 自分の進むべき道を見失ってしまいました。生きることに執着がない自分自身にも とても不安になります。何か新しく手に入れたり 出会いが生まれれば、そこから貪欲になれるのでしょうか?
父親のDVの中で生きてきて、4.5年前に別居しました。同居時代から心のバランスはギリギリでした。 もとから余裕のある暮らしではないのですが、いま私は奨学金を借りながら、アルバイトをかけもちしながら、年額102万の学費を払って、自分の必要経費や趣味に使うお金を捻出しています。 中学時代、人間関係に失敗し、親友だと思っていた子からずいぶんな言葉で(思い出すのも苦しいです)関係を絶たれてから、ギリギリだった心のバランスを崩しました。 誰にも相談できずに摂食障害になり(高校時代は拒食、いまは過食です)、大学受験も第一志望に数点足らずで落ち、気落ちしていたところに母からも「受験費用を返せ」「学費は自分で払え」と言われ、夜中に声を殺して泣く日々でした。 いまは、バイトで疲れて(母が同じ仕事先なので辞めるに辞められない)必修科目の単位を落とし続けていて、留年が決定しました。 母になんと伝えたら罵倒されずにすむかで悩んでいます。 母は性格がキツイ人で、手始めに人格否定から入ることもままある人です。 精神科にかかれば保険証で母にバレ、罵倒は逃れられません。 どなたかに話そうにも、大学のカウンセラーだと恐らく母に伝わります。そうなると罵倒は逃れられません。 友人には、関係を絶たれてからトラウマで話すことができません。 将来のゆめもあるので、勉強は続けたいのですが、もう心が限界の状態です。 やるべきことができず、やりたいことも少ししか出来なくて、自分がいやでたまらないのです。 希死念慮も強くて、死んでしまえればと考えない日のほうが少ないです。
5月に父親を亡くしました。 普通の生活に戻った今頃になって 自分が死んでしまう事に恐怖を感じるようになってきました。 結局死んでしまうのになぜ人は生まれ、生きなくてはならないんだろうと毎晩考え、いつか訪れる自分自身の死に対して怖くてたまらなくなります。 死にたいと言う訳ではなく死ぬ事が怖いです。
49という数字がやたらと目につきます。 ふと見た電子時計の数時、TVの時計の数時、 広告の値段や、色々ありますが49といあ数時ばかり目につきます。 ネットで調べるとエンジェルナンバーでは49という数時は良いいみらしいのですのが、エンジェルナンバーは海外の考えなので日本人の私にはあまり関係しないような気がします。 どうしても49>死を意識してしまいます。 考えによって49>良くと考える人もいますが、 私にはどうしても死と考えてしまいます。 49数時ばかりめにしてから2年くらいたちました。何か悪いとこが起きる前触れとか誰か死ぬとかの虫のしらせなのでしょうか?気にしないほうがいいのですが、気にしてしまいます。
度々いろんなお坊様のいろんなご意見を読んでは参考にさせていただいています。 一つ最初に私はあまり信心深くなく、こんな時だけお坊様や仏様の慈悲にすがる浅ましさをお許しください。 かれこれ15年、「死ぬのが怖い」発作に苦しんでいます。 きっかけは祖母の死でした。 当時中学生になりたての絶賛反抗期で、親ともうまくいかず、勉強もうまくできず、何をやってもむなしい、いいことも何もないし死にたいと思っている最中の出来事でした。 自分がいかに死を簡単に考えていたかを身に沁みて理解しました。 悲しみよりもずっと大きく、死んだらどうなるのかという恐怖と、自分が自分でなくなり消えていく恐怖が襲いました。 悲しみよりも我が身の可愛さが先に来た自分が情けなく思いましたが、その恐怖は今もなお私を苦しめます。 必死にその恐怖を押し込めて、忘れ去ろうとすることしかできません。 親には相談できませんでした。 当時の憔悴しきった様子から、自分が何か心配をかけるような真似はできないと思いました。反抗する回数も少し減ったと思います。 その時に適切に恐怖心を処理しなかった代償か、今もふとした瞬間に目の前が真っ暗になり、足元からさーっと冷気が這い上がるような恐怖で吐き気がすることがあります。 お風呂に入っているときが一番その発作が起こりやすく、全くお風呂が安らげる場ではなくなってしまいました。 かといって人間皆いずれは死ぬのに、怖がっていることが恥ずかしく、心療内科の先生(以前適応障害を患い通っていました)にもカウンセリングの先生にもうまく伝えることができませんでした。 とにかく自分が自分でなくなり、何もわからない世界に行ってしまうことが怖くてたまりません。 そして私がいなくなった後も永遠に時間が続き、地球が滅び、宇宙が滅んでいくと考えると、手足の先が氷のように冷たくなって正気を保てなくなります。 お坊様達のご意見が聞きたいです。 お坊様達の世界の捉え方、仏様の世界を知れば、この恐怖から解放され、無事に死んでいけるのでしょうか。 親(二人とも60前後でまだ元気ですが、)が死ぬことも最近は毎日のように頭をよぎり、人間が物言わぬモノになっていくことが悲しく苦しくてたまりません。 身勝手な相談で申し訳ありませんが、どうか少しでも死ぬまでに心やすらかに人生を送れるようなヒントを頂けますと幸いです。
現在大学生四年生です。ふとした瞬間に人は死んだらどうなるのかなと考え込んでしまいます。 死んでしまったら、今のわたしの意識は消えてしまいますよね。だとしたら今頑張っていることも、それを感じる意識がないのですから無駄なことになるのではないでしょうか。 わたしは、わたしが消えてしまうことがとてもこわいです。最近こんなことを考えてばかりで、がんばろう!と思っても、すぐ「頑張っても死んだら関係ないよなあ」と思ってしまい、怖くなって何もできなくなってしまいます。 恥ずかしいことに現在就活がうまくいっておらず、本当ならもっと努力をしなければならないのに、無意識にそこから逃避しようとしてこんなことを考えてしまうのかもしれません。 今考えなくていいことを考えてしまい頑張れない自分が情けないです。この悩みに区切りをつけて、また頑張れるようになりたいです。 破茶滅茶な文になってしまいすみません。
正直な所、私が殺してしまったようなものです。 幼い頃から犬が欲しくて、小学生の頃にようやく飼うことができました。 犬がシニアになった頃から大きな病気をいくつも患うようになり、この子の為になるように勉強し、動物病院に勤めました。 犬の体調が悪い時は同伴出勤し、入院した時も長く一緒にいられるように8時に出勤・22時過ぎに帰宅したり、特別に医療機器を持ち帰り自宅でも治療をしておりました。 ですが、勤務先でなくかかりつけ病院で大手術を受け見た目が大きく変わった為、職場の方に根掘り葉掘り聞かれるのが嫌で、その後同伴出勤することはなくなりました。 1番苦しいのはこの子なのに、向き合うのが嫌で家に帰るのが辛くなり、夜遅くまで帰らなかった時期もありました。 ある日の朝、犬の食欲が無く体調が悪そうだったのですが、仕事から帰宅後の様子次第でかかりつけ病院へ行こう考えておりました。 深刻さは理解しておりましたが、今までも何度かあったしきっと大丈夫だと思い出勤しました。 この時に職場の人の目を気にせず同伴出勤するべきだったと後悔しています。 まもなく定時になるという頃に、家から職場に連絡が入り、犬が亡くなっていたと知らされました。 家族は仕事や学校でしたので、犬は最後の瞬間もひとりでした。 家には粗相の跡があり、体も汚れ食餌もできていない状態。 孤独で苦痛に耐えていたのかと思うと苦しい気持ちになります。 家族が帰宅し犬を見つけた時、最後の力を振り絞ったのか、一声だけ鳴いたとのことです。 私は連絡を受けた後直ぐに帰宅しましたが、最後の瞬間に立ち会うことはできませんでした。 死後硬直しかけている少し温かい感触を覚えています。 やりたいことを全て楽しんでから後を追おうと考えていましたが、来年も花火を見たいなど欲が出てしまい、後を追うことをやめ数年が経ちました。 ここまて長々と書き連ねましたが、結局は「私はこれだけ頑張った」とアピールしたいだけ。 誰かに「あなたのせいじゃない」と言って欲しいだけなのかと思います。 最愛の愛犬を殺しておいて、自分だけ救われたいだけです。 犬の死にどう向き合い、自分の気持ちにどう折り合いをつけるのが正解なのでしょうか。 いつか、また犬を飼うことは許されるのでしょうか。 貴重な時間を割き、最後までお読み下さいましてありがとうございました。