はじめまして。テレビでハスノハのことを知りご相談させていただきました。私は大阪在住の40歳です。大変お恥ずかしい話ですが、2年前に父が亡くなってから身内で二人も逮捕者が出ました。父の死と関係がないかもしれませんが、何か運気が変わったような感じもします。具体的に説明はできないてますが。父が天国で見ていて悪いことしたら罰を受けるよう教えてくれているのでしょうか?
私はまだ20歳の女子なのですがこの歳でもう死後の事を考えています 気にしたらキリがないのに 死後の世界が怖くて死にたくもありません。 その上虫や飲酒をするだけで 地獄行きという事も知り余計に怖くて仕方ないです。 どうすればこのような考えにならないかアドバイスが切実に欲しいです 両親にそのことを話したら考えすぎと言われました。 確かに神経質過ぎたなとは思っています ですが怖くて仕方ないのです どうにか考えなくなるようにしたいです お願いします
おととし9才で心臓突然死で亡くなった長男が夢に出てきました。 夢の中では次男と3人で遊園地で遊んでいて、わたしと長男が並んで乗り物に乗っていました。 たぶんミニSLのような乗り物です。 すぐに前の列に次男が1人で乗っていました。 夢の中のわたしは長男が亡くなって居ることを分かっていて 次男に「○○(長男)に抱きついておいた方がいいよ!」と言って まず、自分が長男に抱きつきました。 抱きしめた感覚がリアルでした。 でも抱きしめたら、それまで起きて楽しそうにしていた長男が眠ってしまったのか動かなくなってしまいました。 悲しい気持ちになり目が覚めると深夜2時でした。 長男が亡くなってから夢に出て来たのはこれが3回目です。 1度目は亡くなって2カ月くらいの時に遠くの建物の上の方から心配そうな顔でわたしを見つめていました。 2回目は1年くらい経った頃、大型遊具の中で楽しそうに遊んでいました。 でも、どう頑張っても近づくことは出来ず、かなり遠くから見守るだけでした。 今回は初めてすぐ近くに居てくれました。 でも正面の顔を見ることはできず、隣に座っている横顔と、眠ってしまった顔だけでした。 夢に出て来たのは何か意味があるのでしょうか? 教えてください。
こんにちは。よくある質問ですみません。 長いこと死にたいという気持ちがなくなりません。 長い間、死にたいと思っているせいか、死ぬことへのハードルが年々下がっています。 死ぬことはいつでもできるから、とりあえず現状維持しようと思っていても、死ぬことへの欲求に負けそうになります。 私の調べですが、気楽に自殺するのに必要な金額は3万円です。 「月3万は自分の好きなことに使う。生きるためにお金を使ったのだから今月は生きよう。」という消極的な生き方をしています。 大抵嫌なことがあるから、しんどいことがあるから、自分が恥ずかしいからなど、死にたい理由は私自身の中に、私自身の弱さによると思います。 今回は、バイト先からもう信用できませんと言われたからです。 もともとしたくない苦手な仕事です。断れない状況だったので仕方なく引き受けました。 正直、最初から信用してくれてない感じがあって辛かったけれども、やれるだけやりました。 でもダメでした。 バイトもうやめればいいじゃんと自分でも思います。 死ぬこと以外の解決方法はいつだってあります。 でも、死ぬことへのハードルの低さが、今後も色んな問題がでてくるんだから死ぬのもいいんじゃない?と囁いてきます。 自分自身が死にたいという気持ちを否定してしまいたいわけじゃありません。これはたぶんどうしようもないからです。 実際に死んでしまおうとするのをなんとか止めたいんです。 私自身、死にたいのと同じくらい本当は生きたいのだと思います。 どうしたら、苦しくても死ぬことへ逃げずに生きられますか。 教えてください。
先日、クラスメイトが亡くなりました。 たまに話す程度の仲でしたが、小学校からずっと同じ学校でした。 1ヶ月以上経った今でも、死について考えるのが怖いです。死についてどころか、生について考えるのも怖いです。ニュースの誰が亡くなったという情報にも、過剰反応してしまい、なかなか恐怖が収まりません。友達と人狼ゲーム(敵味方を見分け人を殺していくゲーム)をする時も過剰に怖がり、ゲームに水を差してしまいます。毎晩毎晩寝るのが怖いです。 祖母が認知症になり、死に近づいているのが嫌でも分かります。そうなると自分も死に近づいていると気づいてしまい、何故生きているのかが分からなくなります。 生きることに理由がなくても怖くはありません。始まりと終わりがあるのが怖いのです。 死んで魂がなくなるのも怖いのですが、死んで魂が残る(輪廻転生、霊になる、違う生き物として生まれる)のも怖いです。 動揺していて話にまとまりがなく、すみません。どうか助けてください。
はじめまして 夢に関して少し気になることがあり、質問させていただきます。 祖父が亡くなって今年で13年が経つのですが、まだ10歳にも満たない幼い頃に見た祖父の夢を未だに忘れることができず、なんの意味があったのか気になっています。 その夢は祖父が亡くなった日の夜に見た夢だったのですが、休日になるたびに行っていたお気に入りの小規模ショッピングモールで手を繋いで歩いている夢でした。 買い物をしながら仲良く歩いていたのですが、しばらくすると祖父はこちらを見て私から手を離し、その後は振り返ることなく突き当たりの壁に向かって歩いて行きました。そしてそのまま姿を消しました。探しても見つからずそこで目が覚めました。 亡くなったその日の夜は空が綺麗で流れ星も見れました。タイミングもあったと思いますが、この流れ星は私しか見ていません。 家族に話した時は最後の挨拶じゃない?と言われたのですが、流れ星も含めやはり挨拶だったのでしょうか?それとも何か意味があったのでしょうか? 回答のほどお願い致します。
母方の祖父母が亡くなってから、相続の法的な問題、親族との人間関係の問題、死と向き合うための精神の問題、何もかも孫の私は何もできなくて疲れ果てました。 大人になれない自分の至らなさにも悔しさを感じます。 何もかも今時点はどうでも良くなってますが、今後生きる上でこの3つのことはとても大切なことだとだけ学ばされました。 本当は強くて優しく冷静な大人になりたいです。 仏教の智慧でそれは可能なのでしょうか? よろしくお願いいたします。
夫は突然死でした。 人は突然亡くなると自分が死んだことに気づかないと聞いたことがあります。 夫はきちんと死を理解して旅立つ準備が出来ているのでしょうか。 もし理解出来てないとすれば何をしてあげれば良いのでしょうか。
私自身精神疾患により、希死念慮に悩まされています。 ただ、幼少期に母親を病気で亡くしているので自傷、または自分から死へ向かうことは母に申し訳なくてできません。 (錯乱状態になったりした場合はわかりませんが。まずそうはならない疾患です) 長患いの中で、とても澄んだ心を持つ友達ができました。 彼女は自分だけを責めて、病気のせいなのに「こんなこともできない自分はダメだ」との思いを抱えて自ら旅立ちました。 私個人の考えでは彼女は自殺というより「病死」だと考えています。 身体的疾患での死は仕方ないととらえられますがやはり自死というのは公にするには憚れることもあるようで私が彼女の死を知ったのは旅立ってから3か月ほど後のことで、もちろんお葬式にもいっておりませんし、ご両親が特殊な宗教をなさっている関係からお墓参りもさせてもらえません。 「霊能者」というような人は「自殺した霊魂は救いがない」とか「ずっと真っ暗闇をさまようだけ」などと言う人が多いようです。 そんなのひどすぎる。あんなに苦しんだ挙句、誰も責めず自分だけを責めて、精神疾患による考え方の歪み・・あまりこの言葉使いたくありませんが・・もあっていってしまいました、あんなに苦しんだのにまだ苦しまねばならないなんて・・・ 自らいのちを絶つということをよしとしているわけではないのです。 ただ、精神疾患(心の病気≠精神疾患)によりこのような結果になった方々にも救いはないのでしょうか。 もう一度申し上げますが、彼女が生きていた頃を知っている私は 彼女のことは今でも「病死」ととらえています。
いつもお世話になっております。 以前から死の恐怖について相談させていただいておりました。 最近は仕事もプライベートもそれなりに忙しく充実しております。体力的にも時間的にも死の恐怖に囚われている時間は少なくなり、心安らかに過ごしていました。 ですがふと、 やっぱりこの世は諸行無常で、今の幸せや充実もいつか無になり、私は私を自覚できなくなり、死んだあとは未知でしかなく、「死」という未来が待っている以上この先の人生のエンディングは絶対的な絶望なのだ、と 以前と同じ恐怖が強くよみがえりました。 日々の幸せに夢中で死を考えなくなり、「まあでも、これが今の私なりの死への向き合い方なのだろう」と甘く捉えていましたが、 結局、恐怖は忘れていただけで、死ぬ事実も絶望感も変わらずに私の中に存在します。 たくさんのお坊さんにご回答をいただき積極的に「心安らかに死んでいける心持ち」を探し求めても、知識だけが増え頭でっかちなまま、結局は恐怖も絶望感も拭えぬまま、不安な心のままです。 お坊さん方の視点から、私は今後、どのように死と向き合ってゆくのが良いと思われますか。 積極的に怖さに向き合い死を学ぶショック療法のような形か(ただ、もう死の恐怖に面と向かって辛い思いはしたくないという甘えも自分の中に今はあります)、 それとも自然の流れに身を任せて死を忘れたような日々を過ごすのか(そのうち死を自然と受け入れられると信じて)、 はたまた仏様に全てを任せ不安な心持ちのまま生きてゆくならば、まだ心の底から仏様を信じられない愚かな私の、実在する「不安な気持ち」をその都度「大丈夫」と躱していけばそのうち信心が得られるのか、など。 もちろん最終的に何を選択するのかは私が決めるべき問題と思っておりますが、 なんだかもう、自分でもどうしたら良いのか分からなくなってしまったため、アドバイスをいただけたらと思います。 お忙しいところ大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。
タイトルの通り、自分がいつか死ぬことを考えると恐ろしくて、パニック状態になってしまいます。朝起きた瞬間から寝るときまで、常に「死」の恐ろしさ、得体の知れなさが頭から離れず、最近は趣味も楽しいと思えません。 いつか死ぬからこそ今を一生懸命生きることが大切だとか、いまのわたしにはきれいごとにしか思えないのです。 べつに、近しい人の死がトラウマになってるとか、そういう事実もありません。ただ、死が途方もなく恐ろしいことに思えて仕方ないのです。 これほどまでに重度の死の恐怖を克服すること、あるいは克服せずとも上手く折り合いをつけて生きていくことは可能なのですか? また、仏教に帰依することは、死の恐怖を克服する手助けになりますか? お忙しいところ恐縮ですが、ほんとうに、どなたか助けてください。このままでは発狂しそうです。
いつも人間関係が上手いかず、隣組、お寺関係、学校関係に参加をしても、話せる話題が全く見当たらず返事だけです。なので、集団の中でぽつんと1人になり周りをみては居心地が悪いまますごします。集まりが終ると達成感はなく、自己嫌悪というか、なんとも言えない、重だるい気分になります。 昔の話ですが、離婚した時に引越しをして新しい環境となりましたが、結局一クラスしかないのに、子供のお母さん達と全く話せず6年間を過ごしました。仲間はずれをされた事もありますが。 逃げてばかりなっています。 どうしたら上手く話せるようになるでしょうか それと、人とのお付き合いを円滑にするコツや自分の心の持ち方など、ご教示いただけると有難いです。 ちなみに仕事関係では大丈夫ですが、話し下手なので上手く伝えられない事があります。
痛みを伴う難病とわかった後、希少ガン。リンパ転移宣告。高齢なので治療は出来ない。父には癌のことを知らさぬまま亡くなっていきました。亡くなって半年近くになりますが、初盆を終えて、日毎に闘病中にあった事が思い出され、あの時の選択はこれでよかったのかと思い出され精神的にしんどく、不眠と食欲不振。なかなか病院との話し合いがうまく出来ず、もやもやしていました。母弟夫婦、私夫婦で話し合いましたが、弟は母が決めるのが一番。母は痛い思いをしてほしくない。身内の者も、いまさら?など意見が分かれ、病気について、もっと向き合おうと思った矢先、急変し帰らぬ人となった辛かった経緯がありました。 過剰に病気を恐れてしまったのか、高齢の母をもっとサポートしてやれば良かったのか、母より父と性格があっていた私だけに、この気持ちがずっと四六時中頭から離れません。生前、父はいつも悔い無い日々を過ごしていましたので、病気になる寸前までは後悔が無い日々を送っていたと思います。私も一緒にゴルフをしたり旅行もしました。ただ、最期がこんな残念な事になり、この先、私だけ幸せに暮らしていいのかと思うと、胸が苦しくなります。家族も想いが違うので、話す事もできません。こんな私に何か教えをいただければと思います。
お世話になります。2年半ほど前にコロナ禍で生きがいを失い、悩み相談させて頂きました。その時に頂いたご助言のおかげもありなんとか生きながらえています。 しかしながら、タイトルにもある通り以下のようなことから希死念慮が絶えず付き纏っています。 まず仕事面については今年色々と行き詰まりがあり数ヶ月の休職をしてしまいました。今は復帰していますがリハビリと言うこともあり給料に見合わない(不当に高く払われすぎだろうと思われるような)単純作業をする日々です。周りの同世代や下の世代がどんどん仕事を覚えてキャリアを進める中で自分1人が無様な状況。転職しようにもこんな奴が箸にも棒にもかかるとは思えず。30になるので第二新卒もない。情けない状況です。 次にプライベート。当方男ですが、周りの同世代は上記の仕事面だけでなく恋人がいたり結婚したり子供を授かったりとプライベートにおいても充実させてます。それに比べて自分は未だ一人で仕事は上記のざまで、趣味も1人でライブやスポーツ観戦をするもコロナ規制や同じ場所にカップルで来てる人を指を咥えて眺め悶々とする日々。 そしてコロナ禍に対する不満。前回質問時もお話ししましたが、日本だけが一向にコロナ規制が終わらず、ライブやスポーツ観戦も思ったように楽しめない日々。まして今はカタールW杯でマスクなしの声出し応援をしてる風景を見て余計に悶々とします。「うちはうちよそはよそ」と言われても現状を正当化したいだけの屁理屈にしか聞こえません。 上記の通り仕事やプライベートで一向に思ったような改善や向上が見られない、そしてその原因は自分にある。 どんなに嘆いても社会や世の中は変わってはくれません。分かってます。どんなにコロナ規制の不満を嘆いても変わらない。だったら自分が良くなるように変わるしかない。でもそれも出来てない。なら自殺以外に選択肢がないですよね。弱者男性という言葉がネットで流行ってますがまさに私のことです。ネット曰く私のような人間は安楽死で淘汰されるべきだそうで是非そうしてもらいたいです(笑) ならさっさと死ねよに対して返す言葉もありません。慰めが欲しくて書いてるのでもないです。死にたいなら死ねも大歓迎です。最後は取り止めもなく気持ちを書かせて頂きました。 要は死ぬ勇気と生きる希望のどちらかが欲しいと言う悩みです。申し訳ありません。
以前よりお世話になっております。 私は死の恐怖と、それに伴う宇宙や自分の存在などといった説明のつかないものに対しての恐怖が異常に強く、困っています。 「今生きている幸せな世界(自分)はいつか終わる」「そして二度と戻らない」と思うことが頻繁にあり、その度に発狂したり、自分を殴ったりしてしまいます。 そのため、この強すぎる恐怖への対応策を探しており、hasunohaを利用させて頂きながら様々な角度から死について考えています。 しかし、死について考えるだけでも恐怖に襲われ、精神状態が極めて悪化してしまうのです。上記のような状態になってしまいます。 死について考えるのをやめると、日常の快適さは保たれます。ただ幸せで、よく食べてよく眠れます。 でも、それは問題を先送りにしているだけではないかとも思います。死ぬ間際になって、恐怖に溺れて発狂している自分を思うと、今のうちから解決へ努力すべきなのではないか、と思います。 これについて、どうやってバランスを取っていけば良いのでしょうか?お坊さん方のお考えをお聞かせ頂きたいです。 また、以前の質問で、仏教の教義を理解しても「受け入れる」事ができていないと教えて頂き、まさにその通りだと思いました。 死に限らず、「強い恐怖を伴う現実を、受け入れる」のは、どうしたらできるのでしょうか? 漠然とした質問で申し訳ございません。ご教示頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。
いつも、どちらかというと気分が沈み気味です。 けれど先日、ちょっと心が軽い日がありました。けれど、心が軽いのに、その時なぜかふと、今人生が終わったら一番いいんじゃないかと思うことがありました。 しんどいときは、死ぬことを考えるのもしんどい。 けれど、気分が高揚しているときは、死ぬことを考えるのもそんなに悪くないと思ったんです。 実際に死のうとはしていませんが、こういう時に、もしかして死を選ぶのかなぁと、漠然と思いました。 死にたいと思ったことはありますか? また、何故その時に死を選ばなかったのでしょうか? 私は、自分自身の最後は、もしかして自分が決める可能性もあるのかなと、その時以来思い始めています。
私は学生なのですが、小さい頃から、親が共働きで、祖父母の家で過ごす時間が多くなりました。しかし中学に入ってから、自分の家で過ごすようになり、祖父母と関わることは少なくなりました。祖父母は小さい頃から面倒を見てもらい、大好きな人たちです。ですが人間いつかは死にます。私は、もし祖父母が死んでしまったら立ち直れる自身もないし、どのような心境になるかもわかりません。最近そのようなことを、考えるようになりました。もし祖父母が死んでしまった場合、どのような立ち直りをしたら良いでしょうか?
上の子の発達障害のサポート、下の子の入園、同居での義父母との関係性、職探し、季節の変わり目と一気に色んな変化があり、精神面での調子を悪くしてしまい精神科に通っております。 はじめの頃はお薬を毎日決まった分飲んでいればとても調子が良かったのですが、日常とイレギュラーな事があった時(学校行事など)、前もって分かっていたはずなのに自分にとっては大きなストレスとなっていたようで、その出来事の前後に悪夢を見たり眠れなかったり、気晴らしのつもりで出掛けた先でパニック発作を起こしてしまいました。 その都度お医者さまに相談をしてお薬を追加してもらってはいるのですが、パニック発作や強い不安感を持っている時間はとても辛く、耐え難いものでいっそこのまま死んでしまいたいと思い、死に場所を探し回ったり、とにかく手首を切りたいと思ってしまいます。 発作が落ち着きなんとか日常生活に戻ると死にたい気持ちは消えるのですが、少し油断するとまたあの恐ろしい時間がやってくるのではないかと思ってしまったり、耐えきれず突発的に自殺行為を起こしてしまうのではと思います。 自殺は、後に遺された人たちをどれだけ苦しめ悲しませる事なのかということは分かっています。 だけれど今の自分の精神状態が正常ではないので死にたいと思うときに何かしでかしてしまうのではないかと不安でたまりません。 仏様は何と仰るのか分からないのですが、神様は乗り越えられない人にはそういった難しい試練は与えないと聞きます。それが本当だとしたら、私は自分のこういう体質を試練として乗り越えて自殺という形で投げ出すことはせず、生涯を全うすることができるということなのでしょうか?
先月、母を亡くしました。 大きな喪失感があるような身近な大切な人の死はこれが初めてで、とにかく戸惑っています。 大切な人が亡くなったら、ドラマのように遺影に話しかけたり、霊がそばにいてくれるような気がしたり、見守ってくれているなと感じたり、そんなふうになるのだと思っていました。 しかし、今、「人は死んだらただいなくなるのだな」という感覚です。 どこにも母を感じられません。 遺影に話しかけるのもどこか空々しく感じ、写真すら飾れていません。 たまにスマホの中の写真を見返して泣くことはありますが、それもなんだかおかしな気分です。 いなくなったことがまだ信じられないからなのか、でももう連絡できない事実はひしひしと感じていて辛く、どう気持ちを落ち着けたらいいのか混乱の日々です。 亡くなった人の存在をどうしたら感じることができるのでしょうか。 心穏やかに故人を思うにはどうしたら良いのでしょうか。
はじめまして。 ある日、何があったわけでもないのに突然、生き物はいつか死ぬ!じゃあ今何のために生きてる?って考えが頭から離れず、一生懸命に勉強しても仕事でお金を儲けても死んだらすべて無になると考えてしまいました。そう思う前日に強烈な眠気がありました。うつ病のような何か生きる意味が分からなくなってしまいました。臨死体験や色々な事まで気になりだして答えの出ないトンネルに入ってしまった感じです。 高齢出産で40で出産して小学生の息子がいます。母も私を40代で産み90代ですが元気です。 これから先もこんな事ばかり考えても仕方ないのですがどうぞ心のお力をよろしくお願いいたします。