遠方の家族が危篤状態です。会いにいった方がいいのかもしれませんが、死が目前の人と会うのが怖く、また帰省して沈んでいる他の家族と過ごすのも辛いと思ってしまいます。 自分の心を守るためには遠くから安らかに過ごせることを祈っていた方がいいと思います。こんなことを考える自分が最低だと思いながら、かなり気持ちが滅入っています。どうしたらいいのかわかりません。
お世話になります。 17歳の娘を自死で亡くした母親です。四九日も無事にすみ、仕事も見つけて外に出て働くようになりました。 誰かに会っても普通に娘の話ができるようになりました。 私には息子もいますし、これからは娘の供養をしながら寿命がくるまで生きて、 娘に会った時に「お母さん、あれからこんな人生を送ったよ」そう話せるように頑張ろうと思いました。 きっと私はこのまま立ち直れると自分でも思っていたんです。 先週末、学校に娘の私物を取りにいきました。教科書や、亡くなる前日に娘が書いた授業のノートや、最後に受けた模擬テストの結果。 模擬テストは今までで一番いい成績でした。娘が見たらさぞかし喜んだでしょう。 「どうよ、頑張ったやろ~」嬉しそうな顔で自慢したと思います。 せっかくだから見てから逝けばよかったのに・・・。 そうしたら急に、娘のところにいかないと、早くいってあげなければと。 そんな思いに取りつかれてしまいました。今までも、朝になったら死んでるといいのにって思うことはありましたが、自分で死ぬことは考えなかった。 息子でさえストッパーにならないような衝動が押し寄せてくる感じです。 娘のことで、「生きてることが幸せとはかぎらない、死んだほうが楽になる人もいるんだよ。」そんな言葉をかけられました。 なんだか今の私にあてはまります。死んだほうが楽でも生きなければいけない。 残された家族にこれ以上の苦しみをあたえてはいけない。 そのほかになにか理由はありますか。死にたくなった時のストッパーになるようなことがあれば教えてください。 もうひとつ、娘のノートに 「神様に手をあわせるのか? その教えに手をあわせるのか? どっちなんだかわからん」とありました。 それも教えてやってもらえませんか。どうぞお願いします。
お坊さんの皆さんは、人生を、日々を、どのようなモチベーションで生きていますか? 死ぬことは怖いですか? 私は、思います。世の中や人はとても儚いものだと。その儚さを、どう前向きにとらえればいいよいでしょうか。 命の終わり方は、いろいろあって、 自分もいつかはなくなるんだと。 時々不安になります。私は、リタイアせずにゴールまでいきることができるのか。 私は、シャボン玉くらい心が脆いです。 だから、生と死が隣り合わせのこの世界でこんな自分はこのままやっていけるのだうか。 私の周りの友達のように、生きることに関してあまり重度には考えず、無関心で無意識に生きて、勉強に集中したい。 考え過ぎだよ。 暇なんだね。 悩むことは悪いことじゃない。 みんなそうだよ。 その言葉に私は少なからず傷ついてきました。 私の考えてることは間違ってるのか。悪いことなのか。 事実から論理立てて考えて出した私の考えは、そう簡単には覆せないと心では思ってます。例えば、生まれてこなければよかったとか。(理由を話せば長くなるので)でも、誰か、私を覆す人がいないかなと探してます。めんどくさいですよね、こんな人。 そういう自分が嫌なんです。 このままではさらにエスカレートしていってしまいます。 いつか、悩んで泣いた時間が役に立つときが来ればいいなと思っていますが、それはまだ先の話で、とりあえず今、何かがずっと辛いんです。 生き方、道標を教えてください。
生来の体質ゆえに普通の人と同じような人生を送ってこなかった私ですが、十代の頃から長いあいだ「希死念慮」という死神に貼り付かれてきました。死ぬほうが楽なことは一杯ある。いままでそれに負けなかったのはひたすらに自分自身に負けたくない気持ちゆえにです。子供の頃からずっと「死」について考えてきました。 私は特定の信仰を持ちませんが、なんとなく「生かされている」という気がしています。 「お天道様が見ている」というのに近いかな? この「お天道さま」は誰も人が見ていなくても非道なことをすると罰を与えます。「天罰」というやつですね。 大事故で九死に一生を得て助かる人もいますし、大災害で亡くなる方もあれば、奇跡的に助かる方もおられます。特に東日本大震災のような災害で、本当にわずかな差で生死を分けた人の話を聞いたりすると、本当に不思議な気持ちになります。 なにが運命を分けたのかわかりませんが、私はこう考えてしまいます。「助かった人は生き延びてまだやるべきことがあったんだ」と。 不幸にして亡くなられて、遺族に大きな悲しみを残された無念の死を迎えた人も、その大きな犠牲によって、多くの人に訴えるものがあって、改善のきっかけになったこともあるし、遺族がその人の分も力強く生きていこうとする力の源になったのかもしれないなあ…とも…。 すべて私が勝手に思っているだけのことですが、だからこの世に「無駄な生命」はひとつもないのです。天命だか運命だか、寿命がある人はその時まで、生き延びる運命にあるかもしれないし、短く定められた寿命の人は普通なら大丈夫、くらいのわずかなことで命を落とされることもあります。 …だから、私も、生きているということは自分なりの役目があるから生きているんだと思っています。それがちゃんと出来てからじゃないと死ねないかもしれません。 黒柳徹子さんのエピソード。ユニセフの仕事で「寿命があるなら大丈夫だから」と地雷原にずんずん入っていかれるという話。単に無謀とは違って黒柳さんの中にも「生かされて生きている」感覚が強かったんじゃないでしょうか。 生きているうちはこの世での役目があって、それが完了するのが死ぬ時。自分勝手に途中で投げ出したら、それまでの苦労も無駄になりますよね。 相談ではなくてすみません。一度しかない人生、大切にしていただきたい切なる願いです。
私は母を自死で亡くして4年、離婚してからもうすぐ2年になります。 離婚した事に後悔はありませんが、母を一人で死なせてしまった事は4年経った今でも後悔して泣きそうになります。 母を亡くした事で私は天涯孤独な人生をあゆむのかと不安になっています。 次の伴侶になろう人とも全然出会えませんので...。 私は寿命が尽きるまで一人で生きていく宿命なんでしょうか?
おそらく一番古い記憶です。幼稚園に入園する前の話です。 近所の公園に巣から落ちた雀のヒナがいて、父が拾って手当をしてしばらく家の鳥籠で飼っていました。ヒナは元気になり、時々かごから出して家の中で飛ぶ練習をしていました。私もその鳥のことが好きでよく話しかけていたと思います。ある日、両親が見ていない隙に、籠から出してぬいぐるみを抱きしめるようにしたら、死んでしまいました。その時は寝てしまったのだと思いました。 小学校のころの実験で、メダカを顕微鏡で見るということがありました。先生の話を聞いていなかった私は水槽に戻すときに失敗しメダカを死なせてしまいました。ほかのメダカに共食いされる様子を今も思い出します。 他にもセミの虫かごを自転車に入れてあちこち走り回っていたら、気づいたら死んでいたこともあります。 私のせいで意味のない死を遂げた生き物たちに罪の意識を感じます。 それなのに私は看護師を目指しています。もし人の命を自分の無知や不注意で奪ってしまえば許されることではありません。 失敗したらと考えると怖いです。 看護師になりたいのは、死なせない方法を学びたいからです。おそらく生き物の殺してしまったことへの罪の意識からきていると思います。死に最も近いところで、自分の生き物を殺してしまいやすいという不注意な弱点を克服したい気持ちがあります。 能力がないならしてはいけないことは世の中にたくさんあります。もう運転をすることはできないと感じた高齢者が免許を返納するなどです。 私は、自分が生き物を殺してしまいやすいという性質を持っているのに看護師になろうとしています。克服したいと願ってしまいます。 のんびりした性格なので焦ったときが本当に危ないです。どうすれば、ヒューマンエラーを確実に起こさないで済むでしょうか。ミスが許されない現場で働く覚悟がもてません。 自分だったらこんな看護師に面倒を見てもらいたいとおもいません。信用できないからです。 不注意を直したいです。 家を出るときなど、戸締りをして3度確認しても、外出中に不安になります。 また自分の思っていないところでミスが起きることもあり、不安が増しています 最悪の状況を常に想像できるようになるために知識も身に着けていきたいですがそれでも足りない気がします 不安です
私は幼稚園の時からただ漠然と死にたいと願っています。今までは本当にただ漠然とした願いでしたが最近になり、うたた寝をするような穏やかな死を望むようになってきました。 ただこんな願いは家族には到底打ち明けることはできませんし、万が一打ち明けたとしても怒られるだけです。怒られないにしろ、まだろくに人生歩んでないからそんなことが言えるんだといわれて終わることでしょう。 私は死というもの事態避けようのない終着点であり、そこまで悲観するものではないと思っているため、余計にそう願っているのでしょうが、皆様方は死についてどのように思われていますか?
はじめて質問させていただきます。よろしくお願いいたします。 私は、何のために生きているのか分からないまま生きています。これと言った夢もなく、恋愛もできず、ただ時間だけを重ねて50歳になりました。 「せめて死ぬまでには」と思っていましたが、それまでの時間はあまり長くはないそうです。進行ガン。5年生存率は28%。 それを知らされてもショックはありませんでした。執着するモノがないからだと思います。 病気になったことより、自分の人生の虚しさが悲しいです。50年も生きてきて、執着するモノがないのです。残りの時間に何をしたいのか、何のために治療をするのか、この期に及んでも私には分かりません。 このまま時間を無駄にして終わることになりそうです。こんなの人生に、なんの意味があるのでしょうか。 自分自身で答えを見つけるべき問題なのでしょうが、あまり時間がなさそうなので、ご助言をいただきたく、よろしくお願いいたします。
夫は突然死でした。 人は突然亡くなると自分が死んだことに気づかないと聞いたことがあります。 夫はきちんと死を理解して旅立つ準備が出来ているのでしょうか。 もし理解出来てないとすれば何をしてあげれば良いのでしょうか。
プロフィールにもあります通り、自分は死んでも一向に構わない人間だと思っています。 周りに迷惑をかけずに自殺できるところがあれば教えてください もしくはなぜ自殺は許されないのかを 仏教にあまり詳しくなく自殺願望がある私にもわかりやすいように説明をお願いしたいです
私は自分が大ッ嫌いです。 他人に八つ当たりしかできない自分。 他人に迷惑しか与えられない自分。 死にたくて行動しても何一つ死に近づかない自分。 何もかもが嫌いなんです。 私は2年前に1度薬の過剰摂取で死を図ろうとしました。でも私だけが生きました。 他の人は死にました。 なんで私だけなんですか? 生きる意味がないと言われ、産まなければ良かったと言われ、同情で接される。 私に生きる意味はあるんですか? 何を信じたらいいんですか? どうしたら死ねるんですか? 教えてください。
以前よりお世話になっております。 私は死の恐怖と、それに伴う宇宙や自分の存在などといった説明のつかないものに対しての恐怖が異常に強く、困っています。 「今生きている幸せな世界(自分)はいつか終わる」「そして二度と戻らない」と思うことが頻繁にあり、その度に発狂したり、自分を殴ったりしてしまいます。 そのため、この強すぎる恐怖への対応策を探しており、hasunohaを利用させて頂きながら様々な角度から死について考えています。 しかし、死について考えるだけでも恐怖に襲われ、精神状態が極めて悪化してしまうのです。上記のような状態になってしまいます。 死について考えるのをやめると、日常の快適さは保たれます。ただ幸せで、よく食べてよく眠れます。 でも、それは問題を先送りにしているだけではないかとも思います。死ぬ間際になって、恐怖に溺れて発狂している自分を思うと、今のうちから解決へ努力すべきなのではないか、と思います。 これについて、どうやってバランスを取っていけば良いのでしょうか?お坊さん方のお考えをお聞かせ頂きたいです。 また、以前の質問で、仏教の教義を理解しても「受け入れる」事ができていないと教えて頂き、まさにその通りだと思いました。 死に限らず、「強い恐怖を伴う現実を、受け入れる」のは、どうしたらできるのでしょうか? 漠然とした質問で申し訳ございません。ご教示頂けますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。
父親のDVの中で生きてきて、4.5年前に別居しました。同居時代から心のバランスはギリギリでした。 もとから余裕のある暮らしではないのですが、いま私は奨学金を借りながら、アルバイトをかけもちしながら、年額102万の学費を払って、自分の必要経費や趣味に使うお金を捻出しています。 中学時代、人間関係に失敗し、親友だと思っていた子からずいぶんな言葉で(思い出すのも苦しいです)関係を絶たれてから、ギリギリだった心のバランスを崩しました。 誰にも相談できずに摂食障害になり(高校時代は拒食、いまは過食です)、大学受験も第一志望に数点足らずで落ち、気落ちしていたところに母からも「受験費用を返せ」「学費は自分で払え」と言われ、夜中に声を殺して泣く日々でした。 いまは、バイトで疲れて(母が同じ仕事先なので辞めるに辞められない)必修科目の単位を落とし続けていて、留年が決定しました。 母になんと伝えたら罵倒されずにすむかで悩んでいます。 母は性格がキツイ人で、手始めに人格否定から入ることもままある人です。 精神科にかかれば保険証で母にバレ、罵倒は逃れられません。 どなたかに話そうにも、大学のカウンセラーだと恐らく母に伝わります。そうなると罵倒は逃れられません。 友人には、関係を絶たれてからトラウマで話すことができません。 将来のゆめもあるので、勉強は続けたいのですが、もう心が限界の状態です。 やるべきことができず、やりたいことも少ししか出来なくて、自分がいやでたまらないのです。 希死念慮も強くて、死んでしまえればと考えない日のほうが少ないです。
タイトルの通り私はよく自分が生きる意味について考えています。 日々の生活が楽しくないわけではありませんが、学生の頃から漠然と長生きするつもりもないし、30代あたりで死ねたらいいなと考えていました。 それを友達に話すと「早すぎじゃない!?」と言われました。逆になぜそんなに長く生きたいのか私には不思議で仕方なかったです。 というのも自分は死に対しての恐怖が周りの人たちよりも比較的に少ないのかなと思います。自分の体を傷つけるのにもなんの抵抗もありません。 嫌なことがあったり苦しいことがあっても『まぁ、いいやもうすぐ死ぬし』と思うと楽になれます。 ですがもし自分の家族が死んでしまったらと考えるととてつもない恐怖心に襲われます。 自分に対しての死にだけ不思議と恐怖がわきませんし、むしろ早く死にたいとも思っています。 何か感情が欠如しているのかとおもいました。 生きる意味について何か納得ができる答えがないかネットで検索をしても皆似たような答ばかりで納得できませんでした。 どうして人は生きていかなければならないのか。なぜ長く生きていくことが美徳とされているのか。早く死にたいと思うのはおかしいことなのでしょうか。 分かりにくい文で申し訳ございませんが、お返事お待ちしています。
生きる事は人それぞれですよね、自分の夢のために結婚した相手と一緒に暮らして生きたいとか色々ありますよね。 私にはそれがありません、そもそも生きるってことはなんでしょうか。今の私にはそれが一番辛く苦しいことです。家族のために生きようとか大切な人と一緒にすごそうだとかそんな気にはなれません。なぜこうなったのか、そう考えるときっかけは就職をしたことでした。ですが上司からパワハラや会社の労働負担が大きいかったのかヘルニアを発症し鬱病も併用し結局仕事を辞めてしまいました。 そして日々死にたいと思いながら過ごすようになりました。死んだ後何も感じない何も考えない、そんなことを思うと死ぬって事は意外と素敵なことではないかと考えるようになりました。 私の考えは仏様や神様から与えられた命を粗末にしてることは重々承知しております。また残られた家族や大切な人を裏切ることになります。ですがそのことを考慮しても私は死にたいと考えてしまうようになってきました。 生きるってなんでしょうか?
私は最近、死んでしまったら今している努力や 今までの努力が無駄になってしまうのではないかと考えてしまいます。 また、死後の世界を想像してしまい恐怖心を覚え、考えた日は何にも集中できなくなってしま います。 そして、私の生きている意味がわからなくなってしまいました。 死への恐怖心におしつぶされてしまいそうです。 この苦しさを取り除いていただけないでしょうか。 回答よろしくお願いします。
私は人生を終わりにしたい 私は今年で34歳になります 多分生まれた時にもっとちゃんと計画を立てていれば、 こんなことにはならなかったと思ってます。 でもそれを言えばきりがありません。 でも明確な失敗は、 私は31歳の11月にその会社の上司と揉め 仕事を辞めました。 今思えば、あれが私の人生が転落していったのだと思います。 あそこで我慢して辞めなければこんなことにはならなかったと それから仕事以外のことでも色々あり、就職活動もうまくいかず 親が協力してくれた。仕事に投げやり出入り 今年9月に内定をもらい入りました。 母親は泣いて喜んでくれました。 でも明らかに職場と自分が会いませんでした 4日でストレスで吐血、下痢を発症 今日早退をし病院にいきましたが、 胃と大腸が炎症を起こしていると言われました。 なんで炎症を起こしているか原因はわからないと言われましたが、私には、原因がわかっています。仕事のストレスです。 今の会社を続けながら転職活動するしかないんですが、今はそんな気力と体力がないです。 私が小さい時に進路をもっと考えていれば選択肢もあったのに いやそもそも31歳の時に会社を辞めなければこんなことにはならなかったと深く後悔しています。 未来に絶望しています。 睡眠薬を飲んでも眠れず、たまに癇癪をおこすぐらいイラつくようになってしまいました。 私は、過去を永遠に振り返って蛇足で進んでいます。 母の姉が自殺して母親が一生もののトラウマを背負ったので、私は自殺しないと思っていましたが、 私もそろそろ生きるのが限界に近いです。 『毎日寝る前に誰か私を殺してください』なんでもないなにかに祈り続けています 多分ここが外国で拳銃があったらもう死んでると思います。 通勤では、事故ってしなないかなと思いながら運転をし 眠る前は祈りながら死を願い無理やり寝 仕事中では、『〇〇』さん死んだ目をしていますよ。と言われました 入社して4日目でもう吐血して早退して病院で書いています。 私はもう終わりなんです。 今の合わない仕事をしたまた 転職してもうまくいかず 親にどうにかこれ以上きづかれないように後悔しながら死ぬのを願って生きていくんです。 それがとても辛いです。なんでこんなことになったのかこれが試練だというならもう私を殺して欲しい終わりにして欲しい こんなのはただの拷問
カテゴリがわからなかったのでカテゴリ違いでしたらすみません。 人は必ず老いて死ぬというのが仏教の基本にあると思うのですが、そしたら、子供を産むということは、子供を殺すということですか? 人は生まれた瞬間から死を背負うことになると思います。死を背負わせるということは、殺すというのと同じことですか? 純粋な疑問です。誰かを不快にさせてしまったらすみません。
私は死ぬべき人間ではないかと考えてしまいます。 常に罪悪感に駆られ、私の精神を蝕む。 他人と接するときは別の自分に偽り、恰も他人を騙しているような感覚を覚える。 出来損ないの自分に腹が立つ。 このままならいっそ綺麗に消え去りたい。 こんな精神状態では駄目だ、なにか見つかるかもしれないと自分では理解・模索しているつもりですが、どこか蓋をしている自分がいる。 私は一体何処に向かってしまうのか。 私は死ぬことが出来たら白紙に戻るのか。 また私は黒く塗りつぶされてしまうのか。 私は生きるに値する価値があるのか分からなくなってきました。 こんな愚鈍な私ではございますが、なにかご助言を頂きたいと存じます。 宜しくお願いします。
はじめまして。 私は40代独身女性です。 去年乳がんが分かりました。 まだ初期のため手術をすればほぼ完治と言われています。 ですが、子供の頃から早く死にたいと思って生きてきたため手術をして生きる意味が分からず1年経ち徐々にですが進行してきましたが、未だに手術を決断できずにいます。 結婚しておらず子供もいないため、誰かのために生きると言うのもなく、 日本経済を圧迫している社会保険を使ってまで自分が生きたところで何の恩も社会に返せないので、自然の摂理に抗わずこのまま人生を終わりにしたいと思いますが、会社の人や友人には手術を勧められています。 せっかく生まれてきたので1度くらいは生きたいと思ってみたい!もし、そう思う事が出来たら手術をしようと思うのに進行しても一向に自分の気持ちが手術して生きたいと思えずにいます。 今のパートナーはとても優しくて私にはもったいないくらいの出来た人ですが、子供の頃から人に期待をしたり楽しみにしているとダメになることが多く今回病気になった事で、またか…と最後はいつもダメになるんだ…と思ってしまい余計凹みます。 生きたくても生きられない人もいて、手術をすれば治る可能性があるのに贅沢なのは百も承知です。 1度でいいので生きたいと思ってみたい。手術したいと心から思ってみたい。こんな私ですがいい知恵を授けて頂けないでしょうか?