川に飛び込んでしまおうと橋の上にいながらハスノハのサイトを見る私がいます。助けてほしくて、みつけてほしくて。そんな私が。みっともない私が。今ならわかります、自宅から近くのお坊さんに話を聞いていただいていた時、面倒くさいって言われた意味が分かる。ハスノハのお坊さんも内心は面倒くさいって思っているのかな。だったら回答僧なんてしません、っ言われそうですね。面倒くさいの一言を思い出すたび、自分を切り刻みたくなります。人が嫌い、大嫌い。
人は何か自分が理想とするものになるために修行することが多いと思います。 例えば、美容師になるため、寿司職人になるため、プロレスラーになるため、何年もの間、上の人について厳しい修行をすると思います。 大したことしてなくても結婚するための花嫁修行というものもあります。 現世、人間の世界が苦しいのは魂の修行の場だと聞いたことがあります。 しかもそれが輪廻転生で何回も続くなんて、魂は一体何になりたいのですか? しかも、何かになれたとしても人間として生きてる時にはそれを全く感じない。 ダイエットですらきつい思いをした後には自分の理想とする体型を手に入れた喜びがあるだろうに。 ある企業のCMで「目的を知らずにレンガを積むのと、橋を作る目的でレンガを積むのとでは出来栄えが違う」というセリフを言ってます。 目的がわからないのに現世で修行って無駄じゃないですか?
我が家は菩薩寺がない状態です。 昨今は宗派を問わない民間の祭儀場があり、近隣住民もそこを利用しています。 末代の私が宗派変えを言い出したため、総本山で近辺の菩提寺を探してもらったのですが、檀家を取っていないとのことで、菩提寺探しに難航しています。 急ぎで法要や葬儀があるわけではないのですが、私自身が素人信者なため、経験の深いご住職や僧侶様の教えを頂戴したいと考えているところです。 教えを乞う、というのはおこがましいのでしょうか。素人仏教徒にとって必要なものは一体なんでしょうか。
私は絵を趣味として活動しています 制作活動をネットのコミュニティで共有しています。ここには同じように絵を趣味や仕事にしている人が在籍し、私に心地良い場所でした ところが近年開発されたAI(人工知能)に画像を精製させる技術の普及によって、この場所は変わってしまいました。AIに高速で画像を生産させたユーザーが短時間に大量の投稿をし、人間が制作した作品を量で凌駕し、埋もれさせてしまいます。ちなみにAIに画像を精製させる方法は、自分の望む詳細を言葉に表しAIに送信するだけで、(例:水彩画、森の中、走るキツネ)投稿されるAI産画像には投稿者本人の筆が一切加わっていないことがほとんどです。皆似たり寄ったりのAI産画像が溢れ、以前からいる、人間の絵描き達は嫌気が差し去って行きました また、AIの悪用も目立ち、AIが作った画像を「自分が筆を持って描きました」と嘘をつき、(偽の)技術や努力に対する賞賛を得ようとするユーザーが多く見られます。中には、悪意を持って既存の絵描きの作品をAIにコピーさせ複製を作らせる嫌がらせもおり、これらを目にする度に嫌な感情が湧き私の好きだった場はストレスの溜まる所になってしまいました。悲しい思いをしています そもそも画像精製AI自体が、人間が制作した著作権のある画像を無許可で学習元データとして利用しているグレーゾーンな代物で、訴訟もされています 前置きが長くなってしまいましたが、全体的な疑問として、AIと共にある人間の未来は明るいのでしょうか? 既にニュースの原稿が自動音声AIによって行われているように、AIは人間の活動をコピーし、どんどん人間の代わりとして使われていきます。これは、人間の活躍する場所がAIに奪われていくとも言えます。例えば、アナウンサーに憧れていた子供が職業として目指そうとした時には既にAIが枠を永久的に占領しているので、夢が叶うことはないのです AIがあらゆる分野で高品質・高速・不老で活動し人間を凌駕するようになった時、人間が努力や勉強をして何かの技能を磨くことに意味はあるのでしょうか? 人間、自分が持って生まれた才能や、好き・得意なことで活躍し、生きがいを得たいものだと思います。将来、AIがほとんどの職業に成り代わった時、人間は努力する意義を無くし、ただAIによって全てをお世話される人形の様になってしまうのではないかと不安なんです
先日、両親から私が生まれる前の話を聞きました。 私が生まれる前、お坊さんに「この子は感受性が豊かな子だね。」と言われたそうです。そして、現に今の私に当てはまっています。 お坊さんは、生まれる前の子どもの性格を当てることができるのでしょうか? もしできるなら、なぜ分かるのでしょうか?
死ぬ直前の悪い想念があの世で延々と続いて、ガキ道や地獄へ落ちてる場合、どういった供養をすべきでしょうか? 朝晩お食事お供えしたりは欠かしてません。 結局、あの世の本人の悟り諦めしかないのでしょうが、どうやって子孫としてサポート出来ますでしょうか? お経は一応毎日あげてます。 感謝の言葉も述べてます。 子孫が出家僧侶となり千日回峰業のようなこの世での荒行するなりで、全ての欲を絶つくらいしないとならないのかなと感じてます。 私は酒タバコギャンブルも一切しませんし、殺生にあたる肉食も止めました。 懺悔文を口語にして、御先祖様の愚かさや貪りから起こしてしまった過ちに詫びてます。 自分の苦しみは自分の業と理解してますが、御先祖様の苦しみ迷い悩みだけは、私の命があるうちに可能なら解消してあげたいと願ってます。 お知恵を拝借出来れば幸甚です。 まあ、今まで通り供養して、この世では明るく感謝の気持ちでがんばって下さいとしか言いようがない質問でしょうが。
私は保守系な思想の持ち主で、政治に関心があります。 これといった活動はしていませんが、朝一番に北朝鮮問題などや与野党のnewsに目を通します。 ですから、左よりなメディアや自分の相反する思想の方のデモなどに反感を持っていますし、 事実と違う事を報道していると思い腹が立つ事が多々あります。 (保守でも戦争は反対だし平和が一番です) しかし、最近はそれが執着の元になっていると思うので、なるべく関心を持たない様にしています。 そこで質問ですが、一般的なお坊さんは政治には関心がある方もいらっしゃるのでしょうか?また、お坊さんが政治活動をすることはどう思われますか?
ご閲覧頂きありがとうございます。 仏教から見た「学問を勉強すること」についてお聞きさせて頂きたいと思います。 中村さんのブッタのことばを読んでいるのですが、賢者を説明するのに「貪りを離れ~」「妄執も存せず~」といったような文が並ぶのですが、その中に「学識あり」というものがありました。 誰だったか忘れてしまったのですが、「生きているうちに全てを学ぶことはできないし、今まで学んできたことだって(歴史など)事実かわからないんだから、そんな不確かなものに縛られるくらいなら勉強なんてやめて、今ある物事の姿から真理を見いだし自分のあり方を決める能力をつけろ」といったような内容の言葉を聞いたことがあり、またその人が確か有名な宗教家?だったので私は「宗教は学問に肯定的でない」、という偏見をもっておりました。 ブッタのことばで「学識あること」を良い意味で書かれているのを見て、「では、仏教での勉学はどのようにとらえられているのだろう?」と気になったために今回は質問させて頂きます。 仏教では勉強はするべきことなのかどうか、またするべきなら何故なのか、など仏教から見た勉強についてを教えて頂きたいです。宜しくお願い致します。
生きていく指針を探しているうちに仏教が合うのではないかと思うようになりました。 大学がキリスト教という事もあり、キリスト教の宗派だけでなく、イスラム教や神道も調べてみましたが、自分の考え方とは異なる印象があります。 キリスト教の一宗派であるプロテスタントの勤勉さやキリスト教全体が持つ他者との共存や無償の奉仕には同意するのですが、自然に対して人間優位的な部分も見られるので、研究対象にはできるのですが、生きていく指針として合いません。 そういった経路もあり、仏教に重きを置くようになりました。そこで、仏教の宗派を調べています。私が持つそれぞれの宗派についてですが、法相宗の色々な修行がある事には同意するのですが、『この世の物は自分が作り出したものである』という暴力的な印象を受け、日蓮宗や密教、浄土真宗、浄土宗はただ念仏を唱えているだけ、そして禅系は座っているだけという印象を持っています。 私自身は、自分の心身を持って他者に貢献しながらも、修行をする事で悟りは開けるものだと考えています。また寺などのいわゆる(適切ではないですが)宗教施設にいるのではなく、浮世に属しながら伝えていくのが伝道だと考えており生き方にしたいです。 伝えられていないとは思いますが、教えを下さい。
ご質問させて頂きますハルソラと申します。 仏教大学に興味があります。 仏教の知識、智慧は広大無辺とはいえ4年間も何を学んでいるのでしょうか? お坊さんになられる方は皆、仏教大学に通われたのですか? お坊さんにとって仏教大学に通う事の重要性はどれほどのものなのでしょうか? 私は将来、お坊さんになるかも知れないので、お坊さまのご回答を参考にさせて頂きたいと思います。 よろしくお願い致します。
(こちらの質問は利用規約にもとづき一部編集しています) 僕が昔瞑想してた時に雑念を払い無になろうと心がけ瞑想してました でも雑念を払い無になろうとする意識自体が雑念であることに気づき 無になろうと意識することも意識しないいことも野放しにしました そしたら目の前で色んな色をした小さな粒が不規則な動きをしてる光景が見えました その小さな粒の不規則な動きを目で追ってるときはまだ自分の中に意識がある状態で その小さな粒の不規則な動きを目で追ってないときは自分の中に意識が無いような状態でした そしてその小さな粒の不規則な動きを目で追ってない意識が無い状態になると 神妙な気持ちでボーっとしてるんです 色即是空のような無であると同時に無でないような そしてずっとその状態でいると白昼夢みたいなのを見るんです 白昼夢を見てるときは意識がないのでそれを見てるという意識がなく見てるんです でも後で意識がある状態にもどると自分がさっき変な夢を見てたなと気がつくんです 白昼夢には良いものもありましたが悪いものもありました 一番悪いものは白昼夢の夢の中でもう一人の自分が無差別に人を殺してました でも僕はそれをボーっと見てるんです 意識があるのかないのかもわからず 善悪の価値観があるのかないのかもわからず 自分であるのかないのかもわからず ただただボーっと見てるんです 凄く怖い夢だったのでそのことを親に話しました そしたら親は「え!おまえ上の階で瞑想してたのか?おまえ下の階でテレビ見てたじゃん・・・」って言われました それを聞いて僕は瞑想して意識が有るのか無いのかわからない状態になると悪霊に憑依されるんじゃないかと思いました そして瞑想やヨガのルーツを探ると ヒンドゥー教の破壊神シェバからで人間の切り落とした頭部を持って踊ってる神様からだというのを知りました インド人はカニバリズムや麻薬や変態的性癖を儀式的に行いこのシェバを崇めてることも知りました 瞑想やヨガのルーツって危ないんじゃないんですか? 瞑想やヨガの危険性は全く無く健康に良いだけなんですか? 瞑想のしすぎて悪霊に取り付かれることとかないんですか? 僕が見たのは単なる幻想で何も考えず瞑想し続けて悟りを開いた方がいいですかね? というか瞑想し続けた結果として自殺大国日本や僕のこの悪夢すら救える悟りの力は得られるのですか?
何度も同じ質問をし申し訳ありません。今までご回答いただいた方々ありがとうございます。 しかし、生地獄のようで、また質問いたしました。数ヶ月前に事故で左目の容姿を醜くくし、一生、絆創膏で隠して生きていくことにしました。絆創膏を貼ると外見からは当該部はわかりません。しかし、容姿を褒められることが以前以後も多く、前の目に執着しています。元には戻らないため絆創膏の自分で日常生活をしたいのですが、以前の外見への執着から絶望感、無気力が続いています。この執着を頭からなくすには悟りしかないのでしょうか...?この事故が起きた意味も見出したいです...。
きっかけ 私は仏教のおしえにひかれているのと、お坊さんという職業に 漠然とあこがれを抱いています。 皆さんはどのような縁でおぼうさんになられたのでしょうか? 参考までに教えていただけると幸いです。
先日、台湾の友人にこのような質問をされました。 「台湾の僧侶は肉は食べない、酒も飲まない、女性との関係も持たない、そうやって厳しい修行をしているから尊敬されている。 日本の僧侶は肉も食べ酒も飲み女性との関係も持つ、どうしてそれで尊敬されるのか?一般人と同じじゃないか?」 わたしは仏教に詳しくなく、戸惑ってしまい、彼の質問にうまく答えることができませんでした。 「日本のお坊さんも修行はしていると思うし……それにお酒と肉と女性をやってなければ偉いっていうのも違うと思うし……うーん……」 というような曖昧な返答になってしまいました。 もし、お坊さん自身がこのような質問をされた場合、どのようにお答えになるでしょうか。 ご不快な思いをさせてしまっているかもしれませんが、どうかお答えいただければ幸いです。
私の質問はお坊さんアンチのように思われるかもしれませんが、これからもお坊さんにはお世話になっていきたいと思っておりますので、不安を解消したく質問をさせていただきます お坊さんはお施主様の法事で何を思って、お経を読んでいるのですか? ただお経を読んで、法話をする作業になっているだけのような気がしてしまっています。 さらには「供養します」「供養してください」供養供養言いますけど、結局の所「供養」ってなんなのですか? 宗派問いません、この質問を見て逃げるような和尚様の言葉はいりません なんなら丁寧なお言葉で書かなくても大丈夫です!! お坊さんであっても一人の人間です、私も過度な期待はしておりません、実際に思っているお言葉をください!! ハスノハにいる和尚様方を信じております 誠に我儘で勝手ですがよろしくお願いいたします。
「いいね!」を「有り難し」にしてみたり、FacebookやTwitterへの誘導を「この問答を娑婆にも伝える」にしてみたり。 言い方は悪いですが、イメプレ臭がします。 質問の大半についても、「何もお坊さんに訊く必要はないのでは…」と思います。 お坊さんが答えても良いでしょうが、質問者と近い経験をしている人の方が、もっとためになる回答ができるのでは?と思えるものばかり。 大した回答でもないのに、質問者の大半が、「お坊さん」という仕事に対する過剰な期待と幻想にごまかされて、必要以上に有り難がっていることが多い気がします。 とくに熱血系の回答を見ていると、何だかなー…って気分になります。 こういうサイトこそ、人々を宗教の本質から離れさせていくのではないでしょうか? 利得が絡んでいそうなので、回答はないかもしれませんが、僧侶のみなさまの本心をお聞きしてみたかったので、質問させていただきます。
業 というものについて、疑問があるので質問させていただきたいです。 よく業という言葉が使われる場面は、「あの人はあんな事をしたんだから、自業自得だ」といったものかと思います。 ある事をするとある事が返ってくる、というざっくりとした理解をしているのですが、これが倫理観と絡むと難しいと感じます。 先日、以下のような記事を読みました。 「浮気や不倫は人を傷つけることになる。これは業だから、やがて浮気や不倫をした本人達を苦しめる結果になる」 現代の倫理観に照らせば、確かに浮気や不倫などは傷つく人を生みますし、社会的にも良くないとされています。私個人も不誠実で嫌な行為だ、と感じます。 しかし、例えば妾が社会的に許されていた時代には、今よりはるかに愛人さんや不倫があったと思うのです。それが甲斐性だと思われていたこともあったと聞き、では当時であったなら浮気や不倫は今のような業ではないのだろうかと感じました。或いは、業だらけということになってしまうのではないかと感じました。社会的に苦しい立場の人々を保護した一面もあったのでしょうが、慈悲の心だけという訳でもないケースもあったでしょうし、当時でも悲しむ人もいたのではないかと思ってしまうからです。 業とは、時代の変化に合わせて、(人が傷つくものに合わせて?)変化するものなのでしょうか。 それとも、普遍のポイントとなるものがあるのでしょうか。 業というものについての難しさを理解してみたいと思い、質問させていただきました。 理解が大幅にずれていたらすみません。 回答のご検討をよろしくお願いいたします。
私自身では知識も知恵も足りないので この場をお借りして質問させて頂きたく思います。 私は現在23歳の男で 精神障害者でASDと双極性障害Ⅱ型という 病気を抱えています。 精神疾患なので見た目では判断できませんが 障害者年金というものを受給しており 皆様の税金により生かされている立場の人間です。 私には今、生きる目標がありません。 躁鬱は気分の並を繰り返す病気で 人生の半分が鬱と言われる為 真面に仕事に就けず、障害者の支援施設の方で 下請けの作業をしています。 時給なんてものは無いくらいに低く 誰にでも出来る業務の単純作業で やり甲斐なんてものはありません。 何の意義も感じず 最近では通所することすら辛いです。 かといって、プライベートで 熱中出来るものも無ければ SNSなどで活躍するような人たち アーティストのような才能や 創造力のない人間のため 生きている価値がなく、縋るものもありません なのに福祉に頼って生かしてもらってる存在です。 自立すら出来ない人間は 一体なんのために生きればいいのか? 私は女手1つで育ててくれた母と 弟、祖母と大切な家族がいます。 しかし、家族の為に生きるという誠意もなく 開き直って自身の生を謳歌するほど根性もなく 誰かの為に生きるという利他的で慈愛に満ちた人間ではありません。 定期的にくる気分の波が私の思考を苦しめるなら いっそのこと死んでしまえばいいのではないのか?と思ってしまいます。 お坊さんに失礼な言い方になりますが 私は仏教に縋り、善行を行い徳を積めば 生きていいと救われるのかとも思います。 しかし、仏教は一朝一夕で得られる 知識でも知恵ではないと思います。 見様見真似でお今日を唱えたり 仏様を拝むこともまた違うと思います。 私のような一般人で悩める人間は どのようにして生きれば良いでしょうか? 正解などないと思いますが どうかお坊さんの知識、知恵で 私を啓発していただけないでしょうか? そして私のような窮地に追いやられた時に 仏教に頼ろうとする人間をお坊さんは どのようにみえるのでしょうか? やはり罪深いものですか? 稚拙な乱文で読みにくいかと思いますが どうかお力添えの程よろしくお願いします。
いつもお話し聞いていただきありがとうございます。 明るく前向きな考え方を身につけるために「功徳をつむ」という言葉を目にしました。大変興味を持ち、ぜひ具体的なお話しを伺いたくこちらへ相談いたします。 仕事もひと区切りとなり退職し今は義母の世話をしております。ボランティアや趣味の「己書」を用いての人や街との繋がりなど考えています。 また、介護も「功徳」となりますでしょうか? 新しい年、よいスタートとなりますようお言葉いただきたいと思います。宜しくお願いします。
お坊さんは幸せですか?