私は以前から京都が大好きでお寺にたくさんお参りしてきました。 お寺にいると心が落ち着き、本来の自分になれる気がして写真など以外にその思い出を残せるものとして御朱印というものを知りました。 次から頂いていきたいと思うのですが以前の日付も一緒にいれて頂けますか、とお願いするのは失礼にあたるのでしょうか?(>_<) また、そのようなことはしていただけますか?? ご回答お願いします。
中学生の頃から生きている意味について考えていました。長く生きることは凄いことと多数の方が思っていると思いますが、最近そう思わなくなりました。年を重ねるごとに醜い人間になっていく人が沢山います、何故そうなってまで生きることに執着しているのかと思ってしまうのです。 生きることより死ぬことの方が楽なのではないか、私はなるべく世の中の汚れを知る前に自分が傷つく前に、上に挙げた人たちのようになる前に人生を終わらせたいです、そしてそれは寿命でもなく病気でもなく自分の手で死ぬことが一番素敵だと思っています。 自殺する人は精神力が弱いという人も多数いました、ですが他人の意思で生まれてきた生を自分で終わらせたいと思うのは当たり前だと思いませんか。 稚拙な文章で読みにくいかと思いますが、このような場でしか質問できないと思いました、ぜひ色々な考えを教えていただきたいです。
同じような悩みはたくさん寄せられていますし、わざわざ質問するのもどうかと思ったのですが、アカウント登録してしまいました。 自分はとにかく面倒くさがりです。 この世で起こっている出来事は絵物語のようです。 わざわざ苦労してまで生き続けるのはやはりナンセンスです。 断食や息止めも試しましたが長く続きません。 いっそ不食者になりたいです。 断食のコツも知りたいです。 片付けも遺書も中途半端になってしまいました。 人とかかわるのもやめれたらいいんですが、そこまで徹底できていません。 創作が好きではありますが、同じようなことがぐるぐると巻き起こっている世界でわざわざ物語やら何やらを創造するのもな……と虚無感が起こります。何か物凄い情熱でもあればよかったのかも、と考えましたが、あったらあったで気分が悪そうです。 前のめりだったときに出家しようかとお坊さんに問い合わせたことがありましたが、実際の差別だとかの話を聞いてやっぱり違うと思いました。 生かされているだとか感謝の気持ちが大事とはよく聞きますし、そんな心構えの方がまともなんでしょうが、私は自分の意思と関係なくなんかよくわからないままに生まれさせられたのだと思います。もし生まれる前の世界があるとすれば私は生まれたくないと言ってどこかに隠れるはずだからです。 どうにかして今生ですべてを断ち切れたらいいなと思います。 この世からきれいに消えれたら幸せです。 生きながら無の境地に達するとどうなるんですかね。 どんな仕事でももくもくとこなすのでしょうか。 はたまた大勢の人を救うような活動でもするんでしょうか。 心境を述べているだけですが、何かコメントをいただけると参考になります。
宗教とは何ですか? 宗教とは何を目指しているのでしょうか?宗教の目的がよくわかりません。 祖父母の法事等で、宗教行事に触れる機会はあるのですが、この私の人生にどういう意味があるのかが、わかりません。 宗教の目的はなんでしょうか? お坊様がたの信仰されている宗教について、その宗教とは何か?その宗教の目的とはなにか? を教えていただけたら幸いです。 宜しくお願い致します。
はじめまして 誰にも話せないのでこちらでお話しさせてください。 二年前に亡くなった犬の死を受け入れられません 本当は生きられた命を私が奪いました あのこの異変に気づけたはずなのに 仕事に行ってしまい一人寂しく逝かせてしまいました それから別れることが怖くて仕方ありません 別れのない場所へいきたいです 今のこもいつか私の前から消えてしまうと 考えただけでなんともいえない恐怖が襲ってきます もっと強くなりたいのにどうしたら依存せず強くなれますか
こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。
私は障碍者です。今はやりの「発達障害」なかでも「アスペルガー」という障害です。 これは先天性の障害で、治りません。薬などで抑えることもできません。 障害の内容としては、「言語障害のない自閉症」と説明するのが一番正確です。人間とコミュニケーションをとることができません。興味の対象も限定されており、予測のつかないことが苦手で、日常の行動などには一定のルールがあり、そこから外れたことが起きると極度に不安になります。 これは、先天的に脳の構造が健常者とは違うせいで、気の持ちようなどでどうにかなるものではありません。 ですが、このような障害をかかえているので、どんな仕事も健常者と比べてずっと低いレベルでしかすることができません。例えば、先の読めないことが苦手なので、電話の応対ができませんし、人との話ができませんので、営業職なども付けません。 今は、公務員の障碍者採用に潜り込み、仕事自体は続けられていますが、やっている内容は掃除機をかけるだけ、一日八時間の労働時間のうち、私の仕事は十五分で終わってしまい、残りの七時間四十五分は何もすることがなく、ただ座っているだけです 私が健常者のようにきちんと働けないのが悪いので、人に文句を言いたいとは思いません。ただ、何をしても明らかに人より劣り、障碍者保護の法律のおかげで、お情けのような扱いを受けている、また、そのお情けを受けなくては生きていかれない自分が、ひたすら悔しく、情けなくてたまりません。 何をしても、人より劣り、健常者の蔑み交じりのお情けにすがらなくてはまともに生きてもいけない障碍者である私など、生きている価値はないのではないか、といつも思っています。特に、仕事に行った後では、毎回ひどく落ち込みます(ちなみに、うつ病ではありません)今は、高齢の父と、猫と一緒に暮らしていますが、二人がいなくなったら、私も一緒にこの世から脱出しようと思っています。 私はこれは一種の「尊厳死」だと思っています。キリスト教では、自殺はどんな理由でも絶対に許されない、と聞きましたが、仏教ではこのようなみじめな生を終わらせることをどう判断するのか、そこもうかがいたいと思いました
お世話になっております。毎回暖かいご回答を頂き、心から感謝しております。ありがとうございます。 私は日常生活の中で、「今ここに私が存在している」と実感すると、怖いと思うことが頻繁にあります。 どうして今、事実としてここに存在して、世界を五感で感じているのか?と思うと深みに嵌り、宇宙が何故存在するのかわからない事や死、消滅の恐怖と連動してより怖くなります。 今あるものは全ていつか無くなる。その時私はどうなるのでしょう。体も心もバラバラになって、生きていたことも忘れ、家族とも離れ離れになり、今後文字通り永遠に元(私)に戻る事なく、その後どうなるかもわからないなんて、これ以上に怖い事はありません。 それなら、今の私はなんなのでしょう。 私も宇宙も消えてしまうという強烈な事実を前に、恐怖に慄くことしかできません。 存在に関する根源的な疑問が、絶対に解決されない事が怖いです。結局、誰も本当のことは知らないまま、生まれたから生きて、死ななきゃいけないから死ぬ。絶対的な力に翻弄され、絶対に逃げられない。それが、凄く怖いです。 以前、縁起と空についてご教示頂き、大変勉強になりました。本当にありがとうございます。 頭では分かるのですが、どうしても「何故か今存在しそのうち消滅する恐怖」が理屈を上回ってしまいます。 私は、欲を言えば、このような恐怖や不安をなくす事が人生の目標です。勿論、それ以外のやりたい事をやりつつではありますが、死ぬまでに自分なりにこの疑問にケリをつけたいと考えています。 お坊さん方は、このような「生きてしまっている事実」「そのうち消滅する事実」にどんな心持ちで向き合い、どのように自分の気持ちと折り合いをつけているのでしょうか? 私は、具体的に何をすれば怖くなくなるのでしょうか。 また、もし解説として分かりやすい本などございましたら、教えて頂けると嬉しいです。 恐怖に襲われる毎日が、とても辛いです。 お時間ある時で大丈夫ですので、宜しければご回答頂けますと幸いです。よろしくお願い致します。
ここ4,5年で問題になった子宮頸がんワクチン副反応は、完治すると思いますか? 国が費用を負担して「入学お祝いワクチン」というキャッチフレーズで同年代の女の子はほとんどが打ったワクチンがあります。 ワクチンはもちろん薬ですので副作用があります。 そのワクチンのせいで、私は高校1年生から今日まで車椅子の生活を強いられています。 人によって症状は様々ですが、私は右半身の脱力痛みしびれが主で、右足の付け根から下が自力で動かせない状態です。 どうにか高校は新学期に変わる1日前に卒業することができましたが、今は進学もできず、就職もできず、無気力な日々を送っています。 元々は薬剤師になりたいという夢がありました。 でも薬のせいで車椅子になり、自分が処方した薬で誰かが同じことになったらと思うと怖くなり、夢ではなくなりました。 国はワクチンとの関連を認めておらず、お医者様には関係はあると思われるが科学的根拠がまだ見つかっていないといわれました。 誰を恨めばいいのか、今後どう生活したらいいのか、今後完治するのか。 悩みが尽きません。 お忙しい中で恐縮ですが、助言をお願い致します。
先日プライベートでたびたび心が乱れたことがきっかけで、ご縁があり禅宗(臨済宗)に関心を抱くようになりました。 説法を拝聴したり書籍を読んだりしていますが、そこで疑問を抱いたのは、お寺などでお願い事をしても良いのか、ということです。 仏教においては求不得苦という苦しみがありますが、何かを熱心に求めたり望んだりし、それが叶うように願うことは、お釈迦様の考えに反してはいないでしょうか? 以前、お寺でお願いごとをしたときに、疑問を抱きました。 回答よろしくお願い申し上げます。
お墓を買うお金がない場合、自宅にお骨を置いておいてはいけないのですか?
はじめまして 供養に関して知識が乏しく、お坊さんの意見をお伺いしたいと思い登録いたしました。 私には長年お付き合いしている男性がいます。私はシングルマザー、彼もシングルファザーです。 先日、彼の息子さんが自死で亡くなってしまいました。遺書には学生の頃から生き辛さを感じていたと書かれていたそうです。 私は親族ではありませんが、お通夜お葬式と行かせていただくことができました。 お通夜お葬式といっても、お坊さんも呼ばず、戒名やお経なども一切ない家族がお線香をあげるだけのものでした。 私は田舎育ちということもあり、よくあるお通夜お葬式しか知らなかったので、少し不安なのです。 彼は冠婚葬祭に関して何も知識がなく、信心する宗教などもないので、なんのこだわりもないようなのですが、このようなお通夜お葬式でも故人は成仏できるのでしょうか? 彼とは神社仏閣巡りをしたり、西国三十三所巡りにも行ったりしているのですが、、、。 自分が供養する気持ちがあれば、形などにはこだわらなくてもよいのでしょうか? どうか、お導き下さい。
こんばんは。 どうしよう。涙が出そうです。 病気の事に関しては以前通院していたないかの先生は「もっと前からなってたんじゃないの?」と言われました。 病気でもたいしたことないんですが、今テレビでも話題になっている「バセド病」です。よーく考えてみると先生の言うとおり小学生の頃からだったと思います。よく「目が大きいね」といわれてました。 学生の時は、なんでも興味津々でした。夢もありました。でも今は、やりたいこともないです。前向きになれません。 どうせ死んだって、亡くなった友人に逢えるわけでもないし、将来の旦那様と同じ墓は入りたくないし。 やっぱり一人がいいです。 何故そんなに無縁仏がいけないんですか?
いつもお世話になりありがとうございます 私がずっと執着し依存しようとしていた心理カウンセラーのメルマガ配信を年明けに解除しました PCやスマホの”お気に入り”に入れていたブログやサイトも消去しました 心理カウンセラーの高額な「じぶん開発プログラム」なるモノは期限付きで特典を付けて、「自分が変わるのは今ですよ!」と購入を煽っていて、年末3日間は日に3度もメールが配信されてきました 特典付きの期限は、12月31日23時59分59秒… 前回質問した後よく考えて、このプログラムについては「受けない」と決めました 主人やhasunohaのお坊様方のお蔭です この案内については、期限が切れたら相手はどう出てくるのかなと思って解除せずいた処、購入を勧める文面の中に、 「迷っている人は連絡ください、私がどうにかします!(笑)」 という一文があり、とても違和感を持ちました hasunohaでたくさんのお坊様のお言葉を頂き、「あなたはあなたのままで良い」と言い切ってくださった方がお一人ではなかった事や、現実に目の前に居る主人や友人が客観的に「それはおかしいよ」と言い続けてくれた事により、なんとか抜け出せたのだと思います 混乱の真っ只中に居た9ヶ月間は、身体にも変調を来し頭の中は「潜在意識」という言葉でいっぱいになって、他の事は考えられないような状態になってしまっていました そこから引っ張り出してくださったお坊様方、主人、友人には心から感謝しております あとは、長期間ネガティブにどっぷり浸かっていたので、過去の”ネガ”も含めてこびり付いた”負の記憶”を「過去のモノ」として受け流すコツがあれば教えて頂きたいです 過去のQ&Aを拝見すると、「あるがままを受け入れる」事なんだろうと思いましたが、どのように心掛けると「あるがまま」を受け入れる事が出来るのでしょうか? 「善と悪」とか「100と0」というような偏った見方をしない事、というお言葉も頂きました 私は、「白か黒か」というタイプのようで、「こうだ!」と決め付け易く、更に「負の感情」が出易い性質だと思いますので、それを改めて心穏やかに過ごしたいと思っています 今の自分の性格ではとても疲れるので… 「あるがままを受け入れるコツ」「出来事や人物の見方のコツ」「俯瞰的に見るコツ」等を教えて頂けないでしょうか?
初めまして、榎戸と申します。 恥ずかしながら私は、1年半以上も引きこもりをしています。 最近、このままではダメだと思い、アルバイトを始めようと思っています。 両親は「若いうちはいろんな事をして、いろんな経験をしなさい。ダメだった時は辞めて、また何か挑戦すればいいから。」と言ってくれるので頑張ろうと思うのですが、対人恐怖症と呼吸が苦しく感じるほど不安が強いため、外に出るのが怖く、なかなか一歩が踏み出せません。なにか背中を押してくださるようなお言葉を頂けないでしょうか…。 また、私は虚弱体質で幼い頃からよく体調を崩していました。特に胃腸が弱いので、食生活には気をつけています。お坊様方は、健康を維持するため、丈夫な体でいるために何をされていますか?
1年前、高校3年生のとき友達が亡くなりました。原因は、わかりません。それが関係して、1年経っても苦しくて、どのくらいこの状況が続くのか、どうすべきか教えていただきたいです。 友達の死を聞いたときに私よりも仲が良かった人がすごく辛そうにして、私に色々相談をしてくるので、全力で彼女の欲しい言葉を探して答えていました。 彼女を見てるとどうしても私よりも苦しんでいると思って、彼女の為にできることをしようと思いました。 ただ、通学路で亡くなった友達の家を通る度に、その友達からの手紙やプレゼント、写真を見る度にどうしようもなく悲しくなって、学校の先生に相談しました。 そのとき、先生は一緒に泣いてくれました。 しかし、「あなたは教師になりたいんだよね?教え子を亡くさずに教師人生を終えることはとても幸せなことで、教師は感情労働だから我慢しなきゃいけないことが沢山ある」と言われました。 冷たい気がしましたが、私の中では確かにそうだと思いました。 自分の中で完結したと思ってましたが、夜になると亡くなったと聞いたときの場面や楽しかった場面を思い出して寝られなくなったりもしています。 何度も誰かに相談したいと思っても、実際相談して何か変わるのか、もし相談したとして、相手に重荷を背負わせてしまうのではないか、これを話したとして今後、その相手との関係が変わってしまうのではと、様々に考えて自分の中で解決することが最善だという結論に至りました。 その友達が亡くなってから1年が経ちました。 それでも悲しくなったり、寝れなくなったり、死について敏感になってたりと、1年前から自分の中では何も変わってないと感じています。 他の友達といるときは心から楽しいと思えるし、笑うこともできます。ただ、暗いところに1人でいると考え込んでしまいます。 一年経っても変わらないことから、これからずっと悩んでいくのか、死がまとわりついているのか、不安になって、相談させていただきました。 長文失礼いたしました。よろしくお願いします。
般若心経をの訳を読んでもモヤッと書かれていてよくわかりませんでした。 苦しいことは永遠に続かないよ、としたら幸せも永遠に続かないよ、と解釈したのですが幸せを維持するために頑張るのは当たり前だけどそれが壊れるのを恐れちゃいけないよって考えてOKでしょうか? てことはどうしても湧いてくる恐れはどうしたらなくなるの?とかぐるぐる考えてしまいます。 般若心経を分かりやすく教えて頂きたいです。もしくは分かりやすい訳が載っている本を教えて頂きたいです。 よろしくお願いいたします。
私は、神仏の存在が信じられません。 遺伝性の疾患も抱えており、仕事をすることもままならず、結婚・出産と言ったこともすっかり諦めています。 人生のターニングポイントでの決断はことごとく失敗。 ついてないとしか考えられません。 ですので、人生に対して幸せや感謝と言った感情も抱くことができません。 先祖に対しても、素直に受け入れることができないばかりか、ある種の憎しみに近い感情を抱いてしまっています。 親子の仲も良好とは言えない状況です。 本当に神仏が存在しているのであれば、もっと他人と平等な生活を送れるようにしてくれても良いのではないかと思ってしまい、 どうしても受け入れることができません。 他人からは、神仏を信じない、先祖を大切にしないから、不運が続くのだと言われます。 どのように神仏と向き合うべきなのでしょうか。 ご教授いただけましたら、幸いです。 よろしくお願いいたします。
きっかけ 私は仏教のおしえにひかれているのと、お坊さんという職業に 漠然とあこがれを抱いています。 皆さんはどのような縁でおぼうさんになられたのでしょうか? 参考までに教えていただけると幸いです。
お世話になっております。14年前に親を病気で亡くしたのですが、生前親は善人で悪い事は何ひとつしませんでした。しかし人生は不幸の連続で60代後半から突然難病にかかり、最後まで苦しみながら亡くなりました。不幸な人生だったから死ぬ時くらいは安らかに死ぬのではないかという私の甘い死生観はここで砕けました。この件についてはいずれ質問させていただきますが、問題はそれから私自身、死ぬという事を激しく意識するようなり死ぬ間際の苦痛がどんな恐ろしい苦痛が来るのかと思い、恐ろしくなりました。50代になり2回倒れましたがその時もかなりの苦痛だったのに、本格的に死ぬ時になると耐えきれない苦痛が来ると思うと怖いです。何かご意見を聞かせてください。