以前愛猫が立て続けに亡くなって思いの丈をhasunohaにぶつけさせていただきました。 心救われるような回答もいただきましたが、心を抉るような回答もいただきました。 私が悼むという意味を知らないから、あの子達は化け猫の類になってしまうとか、 猫は畜生で知能が低いから事故に会いやすいのだとか。 私のせいで、あの子達は化け猫にまで堕ちてしまうのでしょうか。 あの子達の命は畜生だと軽んじられてしまうのでしょうか。 私のせいで、私のせいで、私のせいで。 私のせいであの子達は化け猫になってしまう。 猫に産まれたばかりに畜生だと軽んじられてしまう。 とても悲しいです。悔しいです。虚しいです。 釈尊は全ての生き物は幸せであれと説かれたのに。 仏様、優しかったあの子達を化け猫などにしないでください。どうかお救いください。私の全ての幸福と引き換えでも構いません。 全ては私が悪いのです。私が愚かなばかりに、あの子達を物の怪の類になどしないでください。 どうかお救いください。どうか。どうか。 仏様、どうかあの子達が畜生だからとお見捨てにならないでください。どうかあの子達を極楽にお導きください。それだけが私の願いです。どうかお導きください。お見捨てにならないでください。 しかしどれだけ祈っても私の耳には仏様のお声は聞こえません。 こんな事を考える時は涙が止まりません。
初めてこちらで質問させていただきます。よろしくお願いします。 私は現在、大学院で社会学を専攻しているのですが、同時に仏教に対しても強い関心を持っております。今後の人生は仏道を中心に据えて歩んでいきたいと思っております。 現代の日本の政情を私なりに研究した結果、日本の将来には期待できるものがほとんどないという結論に至りました。日本の政治・経済・文化における凋落は民主主義・資本主義体制が崩壊するまで続くだろうと予測しております。 この現状を踏まえて、私が歩むべき道は仏道以外に見出せないと思いました。しかし、日本仏教を信仰するにはいくつかの問題点があるとも感じております。 まず、第一に宗派があまりにも多くどの宗派を信仰して良いか分かりません。様々な宗派の本を読んでは見ましたが、どの教えにも深く納得することができず、悩み続けている状況です。(最近では、禅とテーラワーダ仏教の教えに惹かれております。) 第二に、日本仏教はもはやその求心力を失ってしまっているのではないかという問題です。鎌倉時代など、社会状況が大きく変化した時代には仏教は多大な求心力を持っていましたが、現代では賞味期限が切れた宗派もいくつか存在していると思うのです。(例えば、私の家の宗旨は浄土真宗ですが、個人的には信仰することに困難を覚えます。もちろん、歎異抄などの著作には深い感動を覚えます。)それが、さまざまな新興宗教を生み出す原因になっていると思うのです。 これらの点を踏まえて、私は禅かテーラワーダの教えを学んでいきたいと考えているのですが、同時に躊躇もあります。その教えに賭けて救われなかった時のことが怖いのです。ここに非常な葛藤があります。 結局、私がお尋ねしたいのは「私はどう生きるべきか?どの宗派を信仰すればよいか?」ということです。何かアドバイスがありましたら、どうかご回答下さい。よろしくお願いします。
私は過去に自傷をした事、友を馬鹿にした事などといった過ちをおかしてしまいました。今ではそのことについて反省し、何があっても自傷はしないようにしていますし、友に対して悪口を言ったりすることはありません。 しかし、別に現在でもある過ちをおかしてしまっています。虫の命を奪っていることです。 私は小さな虫でも恐ろしい、気持ち悪いと感じてしまい命を奪ってしまいます。 両親に頼んでできるだけ外に出してもらうようにしていますが、人間に害がある虫は簡単に殺してしまう。 そんな自分勝手な都合で虫の命を奪ってしまう私に腹が立ち、悲しくて涙がでます。虫たちだって、一生懸命に生きているから殺してはいけないとわかっているのに、気持ち悪いからなどといった理由で殺してしまう私が残酷だと感じています。 虫を殺してしまうたびに、心から泣いて謝ってはいます。 しかし謝るばかりで虫を殺さずにいるということはできません。 それだけではなく、私は過去に大変な過ちをおかしてしまいました。 正直にいいます。仏様を、裏切ってしまったのです。 9歳、10歳位の頃に家で犬を飼っていました。しかし理由があり犬を病院に手放すことになってしまいました。私は仏壇の、仏様の前で「私がしっかりお世話をしますからどうかあの子が戻ってきますように」と祈りました。 そして本当に戻ってきてくれたのです。しかし・・・、私はちっとも世話などしませんでした。 仏様に誓ったのに。裏切ってしまたのです。 結局犬は病院に引き取ってもらうことになりました。 悔やんでも悔やんでも悔やみきれず、仏様のお心を傷つけてしまったと、大変馬鹿なことをしてしまったと自分を責めています。 勝手な都合で命を奪い過ちを繰り返し、幼かっといえども仏様を裏切り・・・。 死後、私は地獄におちて苦しむべきですよね・・・、でも、それでも、地獄におちたくないです・・・。何億年も釜の中で苦しみ、針の山を歩かせられるのが怖いです・・・。 結局自分が可愛い私に腹が立ち、苦しいです。 教えてください、お坊様。 仏様は、こんな残酷で自分勝手で最低な私を許し、愛してくださいますか・・・? この先どのようにして生きていけばよいでしょうか?一生一人ぐらしでいるつもりですので、新しい命をこの世界に誕生させれこともなければ、虫を殺してしまうこともあるかもしれません・・・
こんにちは。僕は浄土真宗を学ばせてもらっている者ですが、今までは「派」について考えたこともなかったのですが、大まかに「本願寺派」と「大谷派」があるようですね。しかも、往生観が大きく異なるようです。本願寺派は死後(現世でもありますが)の救いを重視し、大谷派は「縁起」の救い?を重視しているようですね。こう見ると、僕はどちらかというと大谷派になるようです。 しかし、大谷派の場合の「往生観」がよく分かりません。浄土は、この世の「法」を空間的に現した方便なのですよね。「法」の世界は、無分別の世界だと思うのですが、人間の分別心は消えないのですよね。機の深信により分別心が明らかにされたのに、法の深信では浄土(無分別の世界)に往生させると言う。矛盾している内容だと思うのですが、僕が間違っているのですか? 二種深信は同時に起こるものだと理解していたのですが、今の僕は機の深信だけが実感できている状態です。 お詳しい方、回答していただけると有難いです。
わたしは23歳で結婚したり、当時はスタイルが良かったり、友達の中で一番早く一戸建て購入したりとしたせいか、まわりに妬まれている感じがずっとありました。 最近では38歳になっても結婚していない友達が数人いまして、他の独身女子とは遊ぶのにわたしが誘っても遊んでくれなくなりました。 メールを送っても、返事は適当な感じです。 独身女子の間で着物が流行っているのでわたしも買って仲間に入ろうとしてしるのですが、それも疎ましく思われている気がしてなりません。 既婚女子の友達は、子育てに忙しいとかと言って遊んでくれません。 これは仕方ないと思ってますが、わたしに物を売りつけておいてお金を払うから会おうと言ってるのに、お茶する時間もとってくれないのは嫌われているのだと感じました。 わたしは小学校のころから、仲良しになった友達は転校するといったように、友達に縁がありません。 よいご縁のある友達がほしいです。 わたしが変わらないといけないのは感じています。 ですが、幼少期の父親からの虐待で人間不信になり、今はうつ病なので、生きていたいけどリストカットしたいとか、精神安定剤を大量にのみたい衝動にかられます。 生きたくても生きられなかった方々に申し訳ないと思います。 どうしたら心が強くなるのでしょうか。
いつも大変お世話になっております。 表題の通りなのですが… お坊様になられたきっかけ、 なろうと思われたわけなどあったらぜひお聞かせ願いたいです。 私自身は、ハスノハをキッカケに仏教に非常に関心がありますが、 お恥ずかしいことに厳しいだろう修行を乗り越えられる自信が全くありません…。 そこでお坊様方のお話をお伺いしたく思いました。 お忙しい中恐縮ですが、お教えいただけたら幸いです。
仏教では、因果応報をとくといいます。 自殺は禁じられていないものの、その業は次の輪廻へと受け継がれるといいます。 今生を投げ出した業、身近な人を悲しませた業、遺体処理等で迷惑をかけた業。。。 それでも阿弥陀如来は極楽浄土に導いてくださるというのでしょうか? 絶命の瞬間、阿弥陀如来の後光に包まれて、浄土に導かれ、仏になるための修行をすることができるのでしょうか? 因果の道理を捻じ曲げてでも、救われるのなら、苦しみに満ちた今生を早々に去り、阿弥陀様のもとで修業をしたいと思います。 どうなんでしょうか? 多分、答えづらい質問だと思います。 でも、もう、疲れました。
是非、お坊さんにこの疑問を解決してもらいたくて書きます。 ズバリ、「あの世にも人間関係は有るのか?」です。 先日、渡哲也さんがこの世を去り、石原裕次郎さんとあの世で酒を酌み交わしてるなんていってましたが、あの世って沢山の人が行く訳だから、そこにも人間関係は存在するのではと思いました。 酒を酌み交わしてる時に邪魔者でも入らないかどうか…。 そもそもあの世の概念も分かってないので、その辺も解説して頂ければ幸いです。
最近ことあるごとに怒りや傲慢さ、プライドの高さを感じうんざりしております こういうことがあるとまず頭の中に親だったり知人だったり他人の顔をした人間が私のとこにきて「あーしろこーしろ」「こうしなさいよー」 「こんなことをするなんてなんてひどい奴だ」 とかなんとか言ってきます そこで僕は「お前の悩みはお前のとこに帰れ。俺にふるな」と一喝したり蹴り飛ばしたりしております。 こういう煩悩と付き合いかたは間違っていますか?
私は、常に一人ぼっちです。親友ができた、と思っても、他の人にとられてしまったり、離れてしまいます。周りは、心を許せる友達同士で、羨ましいな…と思ってしまいます。 これまで人間関係がゴタゴタしていくのを経験しているので、一人ぼっちでも、楽は楽ですが…。やはり寂しいです。 気にせず、過ごして行くためにどうすればいいですか? 教えて下さい。
今年の3月に三女が亡くなりました。2014年12月に病気がわかり即入院生活がはじまりました。1年3ヶ月の闘病の甲斐もなく天国へ旅立ってしまいました。 病気がわかる前体調不良の兆候がありその都度病院へは行っていたのですが、当時次女の素行が悪く次女にばかり構っていた為この大病に気づくのが遅れてしまったのではないか、もっと早く大きな病院へ連れついってあげれたらと後悔ばかり。 亡くなるまでの入院生活も後悔ばかり。 今は毎日涙ばかり何も手につかず、生きる意味をなくしてしまい、毎日ただ時間が過ぎている感じです。 なんでこんなことになってしまったのか。 生きていれば4月から高校生だった娘の制服姿を想うと涙しかでません。 この先どう過ごしたらいいのか。
こういう悩みの質問をすると、道はあるとか、足元を見てないだけとか、もっと考えれば良いとか。そういう事を言われる方が腐るほどいますがその程度のことで解決できるような悩みやトラブルしか抱えてないだけだと思いました。 私がいくら仏教を知り、色んな物事を調べて、どうにかしようと毎日365日、私の運命にあがなおうとしましたが人生変わりません。 私の過去の選択ミスが影響して今私がいくら頑張ろうがどうにもなりません。 1番大事なことは、選択だと思います。 どれだけ身体を気を使っても、交通事故に遭い半身不随になれば一生後悔します。 そして後から気を使っても、後から考えを取り入れて勉強しても半身不随前の生活の方が苦しみは少ないです。 全ては選択です。 私も半身不随のように選択ミスから死ぬほど苦しんでいます。 そして現在進行系で苦しみ、これからずーっと苦しむ事が容易に想像できます。 どんなに考えて、どんなに悟ろうと選択ミスをする前の人生、半身不随になる前の人生のほうが幸福だろうと思う。 だからもはや術はないのではないか、もう今苦悩を抱えている人は一生苦しむしかないのではないか。 半身不随になった後に仏教をいくらしても何も変わりません半身不随になるような事故に合わず仏教を勉強しない人生のほうがいいと思います。 どうすればいいの? 死ぬしかないんじゃねえか。 突発的に勢いで死ぬしかないんじゃないか。 だっていくら何をしても解決方法ないもん。 ただただ運が悪かった、どうしようもない。 半身不随になった人に生きてれば幸福とか言える? ※半身不随は比喩。
恋愛、結婚、妊娠、出産、子育、経験してみたかった。欠けてる。経験が足りないと人間として欠けてますか。私は周りの人の気持ちがわからないだめな人間です。死んだらいいと思います。 リストカット、首つり、薬、確実に死ねる方法はありますか。死んだら極楽浄土でおばあちゃんと遊びます。
両親の声が頭の中でします。 私の見てる景色が見えるようです。 実家を飛び出してきました。 殴られてる感覚、頭や腕、腰をつねられたり、背中を押されたり。 言うなりにコントロールされてきたようです。 12年前も一回、家を飛び出してきました。 神仏を感じます。 未来の夫の見えない声に導かれて、 今、避難しています。 自然、物の声も聞こえます。 いきなり、整理できてしまい、 防御できず辛いです。 勉強や修行が必要とも感じていますが、 どうしたらいいものやら、悩んでいます。
子どもを産んでからホルモンバランスのせいか死ぬことが考えることが増え、老病死がとても怖くなりました。 最近ようやく落ち着いてきたとおもっていたのですが、終末時計や北朝鮮のニュースを見るたびに戦争や地球の滅亡が恐ろしくてたまらなくなります。 地球が滅亡することになればこどもの未来もなく、来世もなく、浄土も地獄もないのでないかと思うと生きている意味もわからなくなることさえあります。 今目の前にある子どもの笑顔を大切にするべきだと思っても青空の向こうからミサイルが降ってくるのでは、地震が起きてしまうのではと恐怖に囚われています。 心の待ち方を教えてください
あれから数ヶ月が経ち、自動車免許も取得し、小遣いも派遣のバイトで稼ぎ、たまには友人と遊び、浪人生とは言えなんとか落ち着いて過ごしていた長男ですが、真面目に通っているはずの予備校にあまり行っていない事がわかり、叱りました。 本人曰く、今更周りの人間にとやかく言われても劇的にやる気もでないので言わないでほしい、受験の結果が出た時にいくらでも聞くからと開き直っています。 やる気が全然出ないらしく、現実逃避で毎日暮らしていると言っています。 現状をなかなか見れず、焦りに比例してよく遊んでいます。 だまって見守るべきか叱るべきか迷っています。
祖父が亡くなってから4ヶ月が経ちましたが、未だに祖父のことを考えるとつらくなります。 実家に行くたびに、そういえばあんなことあったな~とかよくこの椅子に座ってたな~とか思い出します。 祖父が亡くなってから、何回も夢の中にでてきます。元気だった頃の祖父です。 家族の中で祖父が夢に出てきたのは私だけみたいです。どうしてこんなに夢に出てきてくれるのでしょう。私が立ち直れていないからでしょうか。
浄土真宗の方におうかがいいたします。 私は浄土真宗某派の門徒で、すでに法名もいただいております。 代々の門徒の家に生まれ、お経と言えば正信偈でした。 しかしながら、阿弥陀如来の存在を確信することができません。 人間を超えた大いなる存在があり、それによって生かされているということはしばしば実感し、そうしたときは感謝の念が自ずとわいてきます。 しかし、それが阿弥陀如来だ、と言い切れるかというとそうは言えないのです。 必ずしも阿弥陀如来でなくてもいいのではないか、という気がします。 大いなる存在は感じることができても、「法蔵菩薩であられたとき・・・」「四十八願を立てられ・・・」「西方浄土におはします・・・」と物語が始まった途端に、あまりの非現実さに白けてしまうのです。 現在の文献学の認識では、浄土三部経はゴータマ・シッダッタ様が直接に語ったものではないというのが、定説だと思います。 キリスト教がキリスト教たり得るのは、預言者イエス・キリストに近侍し、その言動と奇瑞に直接に心を揺るがされた弟子たちの福音書があるからだ、と考えます。 阿弥陀如来は、誰が、どのようにして見出されたのでしょうか。 別の言い方をすれば、浄土三部経は、誰が、どのように阿弥陀如来の存在を感得して、編まれたのでしょうか。 誠に不躾な質問で恐縮ですが、私にとっては根源的な問題なのです。
座禅はどんなポーズでもできますか?
元々がなんでも欲しがる欲張りで、考え方も完璧主義のような、ところがありました。つねに理想ばかり求めているところもありました。 このままではなにか苦しいと思い。仏教の本を読むようになり、ひろさちやの本のなかで少欲知足という教えに出会いました。 その少欲知足について、欲しがるのをあれもこれもじゃなく、絞って、少なくして、充足感を得たほうが幸せを感じられるよというような説明が短い文章で簡単に読めるように書いてありました。 この教えを生活に取り入れたところ、はじめて幸せを感じられたような気がいたしました。 「もっと」この教えについて知りたくなりました。この「もっと」は仏教についてのもっとなので良いと思いました。 ぜひ生活に生かしたいので少欲知足についてもっと教えて下さいよろしくお願いいたします